プロローグ
凶悪な事件のニュースを聞くと、どこか遠い異国の物語のように感じてしまう。身近にあるのは、平和と平穏と平凡。そんなごく当たり前の毎日を過ごしていた。
最近の物騒なニュースと言えば、連続婦女暴行事件。
毎朝、リビングのテレビから流れてくるニュースで、ちらりと耳にはさんだ程度の話。いつもなら右から左に通り抜けていくニュースも、訪れたことのある地名が出てくると、ほんの少しだけ身近に感じる。
被害者は七名。亡くなった人はいないらしいが、病院に運ばれるほどの怪我をした人がいたそうだ。住民に注意を呼びかけるようなニュースが連日続き、事件はまだ続くものかと思われていた。
どうやら、その事件に終止符が打たれたらしい。それが今朝のトップニュースだった。
「はー、お母さん安心したわ」
テレビに視線を奪われていた母が、胸をなでおろすように言った。
その隣に座る父は朝食そっちのけで、新聞にかじりついてる。ということは、必然的に母の話し相手は私しかいない。口にかきこんだ朝食を飲み込んで「何が?」と尋ねる。母はテレビから離した視線を私に向けると「何が? ってことはないでしょう」と眉を寄せた。
「お母さん、これでも心配してるんだからね?」
食卓に身を乗り出して、怖いくらいの顔を近づける母。
「だ、大丈夫だって」
私は思わず上体をそらして肩をすくめていた。
ニュースを不安に思う気持ちはわからないでもない。が、生まれてこの方一度も、事件らしい事件に巻き込まれたことなどないのだ。心配されても困ってしまう。
「ニュースの通り魔事件だって、犯人もう捕まったんでしょ? 普通に過ごしてれば、危ない事件に巻き込まれることなんてないって。ねえ、お父さん?」
新聞を広げて、どこ吹く風といった様子の父を会話に巻き込む。父は顔を上げて「ん?」なんてすっとぼけた声を上げ、「まあな」と当たり障りなくうなづいた。
「闇雲に心配する必要はないが、何かあったらすぐに電話くらいしなさい。お父さん行ってやるから」
「その前に交番に駆け込むよ」
「あんたってば、いつもそうなんだから」
母はため息でもつきたい様子で、そう言った。
まるで何も考えていないように言われるのは心外だ。もし通り魔事件に遭遇して父に助けを求めたとして、その父が通り魔に刺されてしまったら嫌だな。くらいには考えているつもりなのだが、その考えは母のお気に召すものではないらしい。いつの間にか、心配性すぎる母の一面が表に出ていた。
「今日、お母さんも一緒に行こうか? 保護者が同伴してもいいんでしょう? というか、普通は保護者が一緒に行くものだと思うんだけど?」
「いいよ。もう中学生なんだし、一人でできるって。それに、お父さんの時は一人で行ったんでしょう?」
「お父さんは、まあ、勝手がわかってたからなあ。女の子とはまた違うと思うよ」
父は母をちらりと見て、母の言葉をフォローするように言う。こういう時、いつだって父はどっちつかずなのだ。
ずるいぞ、父。もともとは、「お父さんの時には、一人で行ったもんだけどなあ」という発言が発端になっているというのに。
「女の子だって変わらないよ。何でもかんでも親に頼ってるって思われたら恥ずかしいもん。明日だけで十分だって」
「恥ずかしいと思われたくないなら、もうちょっとしっかりしなさい」
私が子供っぽいプライドを振りかざして口をとがらせると、母は笑ってそう言った。その笑みを見ていると、余計に気恥ずかしくなってくる。その子供っぽいプライドがとても小さなものだということは、なんとなくわかっているのだ。
気まずさから残りのご飯をかきこんで、「ごちそうさまー」と席を立つ。部屋に鞄を取りに行くと、「あら、もう行くの?」という母親の声が後を追った。
「散歩したいから、早めに行く」
「そう。忘れ物はないわね?」
「荷造り一緒に見てたでしょ」
「だって、あんた、危なっかしいんだもの。遅刻しないようにね」
「わかってるって」
そんなやり取りをしながら靴を履いて、玄関まで見送りに出てきてくれた両親を振り返る。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
笑顔を浮かべる母に、家の中のどこにいても新聞を手放さない父。そんな二人に見送られながら家を出る。
その日も、そんな朝から始まった。