月の失踪
『北上直紀』。その名前が綾希の頭の中でぐるぐると回る。とんでもない人と出会ってしまった。
まさか父親ともこんなところで出くわすとは思わなかった。直紀は梓のことが好き。ということはこれから直紀が猛アタックするのだろうか。それとも梓が一目惚れでもするのか。綾希は二人の姿を思い浮かべ、あれやこれやと考える。
「あの、どうしたの?」
直紀の声で綾希は現実に戻された。
「あぁ、ちょっと考え事してた。」
直紀の将来のことを考えていたなんて言えない。
「君は名前なんていうの?名前がわからないと伝言もできないし。」
そういえば言うのを忘れていた。
「北沢あや。」
「北沢さんか。わかった。じゃあ、気をつけてね。」
バイバイ、と直紀は優しく笑って綾希を見送る。
「ありがと。あんたも寝不足にならないようにね。」
むず痒い気持ちになった綾希はそれを隠すように
顔を少し下に向けて応えた。
「気をつけるよ。」
その言葉の後、二人はお互いに背を向けて歩き出した。
「あ。」
そのとき何かを思い出したように直紀が声を出した。綾希はフイ、と振り返る。
「駅はそっちじゃなくであっちね。バスの停留所もそこにあるから。」
今度こそバイバイ、と直紀が手を振った。
「……ありがと。」
綾希はそれを見届けた後、小走りで直紀の言った方へ向かった。父親が理想の人、そう言う人の気持ちが少し理解できた気がした。同時にもし父親じゃなければ、という考えが浮かびその気持ちを掻き消そうと綾希はさらに走る速度を速めた。その顔は少し赤かった。
走り出してから少し経ったところで綾希は立ち止まった。顔は真っ赤になっていたがさきほどの理由とは違う。息は切れ切れになり、足も疲れていた。勢いで走ってはきたものの、この時代に帰る家などは当然なく、息も続かず立ち尽くしていた。ゼーゼーとせわしなく呼吸を繰り返しながらどこへ向かうか必死に考えるが脳も疲れ果て思考を放棄してしまっている。そんなとき、一組の夫婦が目に入った。こんな時間に一体何を、と思ったがよく見ると二人とも黒い服を着ている。きっと通夜の帰りだろう。かなり遅くまでいたところを見ると日野の父親と親しい人だったのかもしれない。
「……よねえ。」
二人の会話が聞こえてきた。綾希は注意しながら聞いてみる。
「日野の子がいなくなってしまったなんて……こんな夜遅くに心配よねえ。」
「たまに父親の帰りが遅いとき、沢野さんと迎えに行っていたそうだからもしかしたら……。」
「でも皆が探しているみたいだけど 、見つからないらしいわよ?」
「何があったかはわからんが、無事だといいな。」
会話の一部始終を聞いた綾希は耳を疑った。少し前に桜の口から父を待っていることを聞いた。有り得ない話ではない。桜の顔を想像すると何故か胸騒ぎがした。特別な感情があるわけではない。だが何かを考える前に綾希の足は動いていた。
行き先は日野の家だ。