第二話:兄貴も、たまには俺を頼れ
あれから、三年が過ぎた。今年は、二〇一一年。
三月の春の陽気、この日は晴れていてとても温かい。
スーツ姿の俺は、隣の金髪少女ナンシーと、おそろいの白衣を着て山道を歩いていた。
測定の検査のために、ナンシーがスマートフォンで画面を指で書いていた。
俺は、三脚カメラを担いで歩いていた。
「ナンシー、ここの地層は写真に撮るか」
「そうね、そこにおいてくれる。あの崖が、画面の中に入るように」
ナンシーの指示で、俺は三脚カメラを岩肌の水平なところに置いていた。
ナンシーは、スマートフォンで数週間前の地表の断面を見ていた。
「この前の地震で、随分ずれたわね、断層」
この前の地震とは、二日前の地震。
千花市の郊外にある山間のそり立った崖は、スマートフォンの画面を覗き込み、地層を照合していた。
カメラをセットし終えた俺は、スイッチを持ってカメラから覗き込んだ。
「カメラ、撮りますよ」
そのあと、スイッチを押してパシャッと撮った。地震研究は、割と地味な作業だ。
地震が起きるたびに、地域内の断層の確認。どれぐらいズレたのかを、調査している。
だが、最近は震度三の地震が結構頻発していて、外回りの俺とナンシー班は忙しい。
そのあと、カメラからSDカードを引き抜いて、三脚を担いでいた。
「だいぶ、撮れたんじゃないですか?」
「そうね、時間は四時半だし、そろそろ終りだし、帰りましょうか」
年下だが先輩のナンシーさんが言うと、俺は了承して車の止めている場所に向かう。
ちなみにこのカメラは、断層を撮ると断層の地質まで分析できる市販されないカメラ。
一台数百万するらしい高性能カメラ、しかも国の機関からの貸し出し品。
『国家地理局』の刻印がされて、そんなえらいところが外人ばかりのプレハブ研究所に手を貸していた。
俺の給料のウン十年分ほどの高額カメラを、俺は首にぶら下げた。
「ねえ、亮さん」
すると、スマートフォンを首にぶら下げたナンシーが、俺のそばを歩いていた。
顔を向けて白衣の中、胸のあたりがバックリ開いた黒いブラウスのナンシー。
巨乳の類の、金髪ポニーテールの女はアメリカ人とは思えないほど、きれいな日本語を使う。
「な、なんだよ」
「あなたは、信じていますか?アースグエイグの仮説」
ナンシーの顔に、俺はドキッとした。
香水だろうかバラのいい匂いがするナンシーは、俺のことを魅了するつもりかと思えるほど、ドキドキさせた。
ちなみにアースグエイグとは、俺たちの研究所の所長だ。
「ああ、あいつ言っていたな、『ナマズちゃん』とか」
それは、あの『地震研究所』所長のアースグエイグが言っていた、とんでもない仮説。
茶色の帽子とコートという不思議な白人の、不思議な言葉、不思議な考え。
「日本には、雨男、雨女がいるように、地震にも、地震男、地震女がいるはずデ~ス。
それは、日本人っぽく言うなら『ナマズちゃん』です。
そう、『ナマズちゃん』がいて、きっと日本で地震を起こしているデ~ス」
などと詭弁をいつも言うアースグエイグ。
どう考えても、地震のメカニズム的にありえないよな。
地震の一般論は、プレートとプレートの面がすれた摩擦が原因。
それぐらいは、そこら辺の小学生でも分かる真理だ。
てか、俺も教員時代に授業でそんなことを教えた気がする。
「あなたは、いると思いますか?」
立ち止まったナンシーは、真顔で俺を見ていた。
三脚担いで少し前を歩く俺は、振り返ってナンシーの顔を見ていた。
「さあな、なんでも人って責任をなすりつけあう生き物だから、そういうのを敵にするっていう考えも、あるんじゃないかな?」
ぼんやりと思っていることを、俺が言うと、ナンシーは同意の顔を見せていた。
「そうですね、人はどこにでも敵を作りながら、生きていくのかもしれませんね」
と、ナンシーが小走りで俺の方に駆け寄ってきた。
その顔には、どこか安心した顔が見えていた。
それから、車で三十分。
俺は運転をして、ナンシーと一緒にあのプレハブに戻ってきた。
枕木小学校の敷地内にある、怪しげなあのプレハブに。
プレハブのそばにある、研究所専用の倉庫(同じ大きさのプレハブ)に数百万円のカメラと三脚をしまって、研究所のプレハブに入っていく。
「戻りました」
俺が、プレハブのドアを開けると、茶色のコートと茶色の帽子の男が目の前にいた。
背の高いその男は、いきなり俺の方に飛び込んできた。
「お~、かえりなさ~い。マイヒーロー」
かたことの日本語が話せる、所長アースグエイグが俺を出迎えて早速ハグした。
アメリカ式のあいさつらしいが、どうも慣れないな。
ちなみに、この研究所で日本語を話せる人間は、俺を入れてたったの三人。
全部で六人いるから、したがって残りの三人は、英語で会話していた。
じゃあ、なぜ日本で研究しているの、って前に聞いたら、「地震が日本は多いからデ~ス」とアースグエイグが教えてくれた。だから、アメリカ人ばっかりの『地震研究所』が、日本で千花市という首都圏にあったりする。
生活、不便じゃないのか、これって。
「マイヒーロー、ご苦労様デ~ス」
いつも変なセリフでねぎらいの言葉をかけてくるアースグエイグは、俺とのハグをそこそこに切り上げて、そのまま奥のホワイトボードに向かう。
「ちゅうも~く!アンド、Attention」と日本語と英語で声を出しながら。
このプレハブの狭い八畳で、そこに一人一台のパソコンが割り当てられていた。
つまり、このプレハブは相当狭いことになる。足の踏み場さえない。
来客用のソファーが、アースグエイグのそばにあって、ちゃんとテレビも完備していた。
アナログじゃなくて、ちゃんと地デジ対応しているし。
まあ、俺みたいな助手にもパソコンデスク一式が、割り当てられているのがいいんだけどね。
でも三十にもなってこの研究は、なんか親戚に話せないな。
パソコンデスクに座った俺は、注目させたアースグエイグの方を向いた。
「さて、明日から第六次、『ナマズちゃん』捜索作戦を展開しマ~ス」
そして、アースグエイグがお得意の『ナマズちゃん』談義が始まった。
英語で、ほかの研究員が質問するけど、俺は分からない。
自慢じゃないが、英語ができないから俺は、小学生の教員になったぐらいだ。
洋画さながらに英語の問答を眺めていると、俺のパソコン画面にはある一人の名前が表示されていた。
一応ローマ字なので、名前を読んでみると「Shion Okajima」と読めた。
「シオン オカジマ?」
「アースグエイグ、この名前は?」
俺は、英語のやり取りが一段落した後に挙手をした。
「オー、マイヒーロー。それはですね、『ナマズちゃん』の候補です。
地震の内陸震源から、地震が起きやすい人をピックアップしました。
各人のパソコンで出ている人物が、明日から三日間の予定で『ナマズちゃん』の身辺調査をしてもらいマ~ス。クリックすると、場所と詳細がデマ~ス」
すると、名前のところにマウスを持っていくと、確かに指のアイコンに変わってクリックできるな。
「出てきた地図の場所に、研究員の皆さんには行ってもらいマ~ス」
アースグエイグの説明が続くが、俺はちょっと驚いた。
「その名前は、岡島 紫音。年齢は十歳、双海町の小学四年生、女。
それから町内は、海沿いのあの地区か。ああ、なんか懐かしいな」
双海町と言えば、俺の出身地だ。兄貴夫婦や姪っ子のことを、すぐに思い出した。
あれ、姪っ子の地尋は、確か今年は小四だよな。
あと双海町は、大きな町じゃないから確か小学校が、一校だけだったし聞いてみるか。
って、地尋の携帯の番号、知らないか。
ついでに、兄貴は携帯を……持っていないな。
「それじゃあ、明日から金、土、日の三日でお願いしマ~ス。
『ナマズちゃん』の報告書を、全員、上げてくださいね」
にこやかな顔で、日本語で言ってきた。しかも、なぜか俺にウィンクをして。
アースグレイグの仮説、地震が起きなきゃ立証もできないが、とりあえず調べてみるか。
そんなときだった、突然プレハブの後ろがガラガラッと開いた。
それと同時に、俺は地震以上に悪寒が走った。
夕方五時の時計をちらりと見て、あの男がくることが判断できたから。
「ああ、アースグエイグ」
そこに出てきたのが、灰色のスーツとネクタイと、少し筋肉質の四十代男性。
その顔を見た途端に、俺は気配を消そうと思った。
そう、俺の平常の世界を乱す、悪魔が乱入してきたから。
地震の訓練のように、素早く机の下に潜り込んだ。
「オー、ミスター積野水。シャッチョーさ~ん」
アースグエイグが、軽快に出迎えたのが積野水 大和。
住宅会社『積和ハウス』の若社長、三代目。
四十五歳で、家族形成は妻と、子供二人、高三の男と、中二の女がいる。
七三分けのいわばおっさん。それまでに俺が、詳しい男。
だが、俺はこの男が最も苦手だった。そして、積野水の目的は、分かっていた。
「えー、長谷部君はいるか?」
しかし、俺は隠れている。ヤツは、どうしても避けなければいけない人物。
「は~い、来ていますよ~。机の下に……」
裏切ったな、アースグエイグ。などと思って、机の下に隠れてやり過ごそうとしたが、積野水は俺の右足を、いきなりぐいっと引っ張ってきた。
「ああ、長谷部君。元気か、そうか、そうか」
誠実な積野水、安堵の顔を見せていた。
「おー、よかったですね。コングレッチュレイショ~ン」
そのまま積野水に見つかった俺は、観念して机の中から出てきた。
アースグエイグは、ぱちぱちと拍手をしている。
あとで覚えていろよ、などと恨み節を見せつつも、積野水は俺の方を見ていた。
「今日、接待を頼まれてくれないか?」
そう、この積野水社長は、この研究所のスポンサー。
いわば怪しげな研究所の、研究資金を支援してもらっている間柄。
あまり逃げてばっかりでは、さすがにはまずい。それは分かるんだが。
「ああっ、ううん。たまには、アースグエイグの方がいいんじゃないか?
アイツの方が所長だし、俺は所詮助手だからな、パート感覚でやっているし」
「大丈夫、アースよりも長谷部君の方がいい。日本人同士だからな」
それはなんだか、正論だ。
てか、アースグエイグ所長は、なぜか白いハンカチを振っているし。
おい、俺はそんな扱いじゃねえぞ。
「は~い、じゃあ今日もスポンサー様に、接待お願いしマ~ス。
マイヒーロー、この研究所の運命は、あなたの双肩にかかっていマ~ス」
へいへいと、くたびれた顔の俺は、積野水に手を引っ張られてプレハブを出ていくことにした。
「あと、明日からの『ナマズちゃん』作戦もお願いしマ~ス」
とアースグエイグが言うと、くたびれた背中を見せて、俺は手だけを上げて所長の言葉に応えた。
その後、俺は積野水と一緒に夜の街へと消えて行った。
千花市は、歓楽街が充実していた。
首都圏にある千花市の夜は、ネオンが輝く歓楽街に変わる。
色とりどりの明かりと、客引きのお兄さん、飲食店も充実して、電車が走る。
駅の近くで、そこは人と店から聞こえる音楽でにぎわっていた。
俺は黒っぽいスーツ姿で、積野水社長と一緒に歓楽街を歩く。
もうすでに積野水の顔は、少し赤かった。
「俺、明日から出張なんで、今日は早めに……」
「大丈夫だろ、ここだ、ここ。それに今日は重大発表がある」
俺の話をあまり聞かずに、積野水は高級なクラブに入った。
中に入ると、さらにきらびやかなクラブ店内。
青と赤と黄色、白のシャンデリアが俺たちを出迎えて俺は圧倒された。
「すごい」と感嘆している間もなく、積野水が入ると出迎えたのが男のウエイター。
俺と積野水は豪華なソファーに案内されていた、そのまま高そうなシャンパンが運ばれた。
「まあ、飲んでくれ」
積野水は、俺にさも高そうなシャンパンをふるまってきた。
銘柄は、確認できないので値段が分からないけど、俺は積野水のグラスに注いでいた。
「社長さんこそ、どうぞ」
積野水は、それでも『研究所』のスポンサー。俺は、真面目に接待に徹することにした。
積野水のグラスにシャンパンで満たされると、そこに四人の男が入って来た。
「お待ちどう~さま」
本来男二人で飲んでいると、女が来るんだけど、これは完全に積野水の趣味だ。
男の中に、男というなんとも奇妙な光景に、両手を広げて完全にくつろぎモードの積野水。
俺は、いつもながらに苦笑いをするしかなかった。
そんな時だった、
「長谷部 亮!」
いきなり俺の名を呼んできた積野水、そのまま俺の手をつかんできた。
ホストの茶髪男と金髪男に挟まれた俺は、困った顔を見せていた。
「あの、なんですか?」
「いい体をしているな、重大発表だけど、いいか」
妙な口調で言ってくる積野水、俺は逆にかしこまってしまう。
さっき言っていたな、重大発表。
あまりいいことは予測できないので、さっさと済ませてしまおう。
「なんですか?重大発表って」
「俺と、その、ホテルに来てくれ!」
次の瞬間、俺は明らかに驚きの顔を見せた。
てか、積野水の顔は初恋する少女のような顔を見せているんだけど。
しかし、俺の手は全く離れない。
この積野水の握力は、かなりすごい。手を抜こうとするが、絶対抜けない。
ぎりぎりと、強い力で握る手に、涼しい顔の積野水。
「せ、積野水さん……」
「もう、抑えられない。頼む、今ここで一晩の夜を共にしてほしい」
「何を望むんですか?積野水さん……」
「俺は、家も家族も捨てる覚悟ある。だから一晩だけでも……」
積野水は、本気だ。これだから俺は、積野水が苦手なんだ。
彼は、完全なゲイでなんと俺が大好きだ。
そう思っていると、隣の男二人が俺のわきをしっかり押さえてきた。
(は、ハメられたっ!)
俺は、慌ててその場を逃げようとした。
「うらやましいな」と隣のイケメンホストにささやかれつつも、俺はそのあと地獄の時間を過ごしていった。
それはそれは、長く苦しい地獄のような時間。
翌日のお昼、俺はボロボロの車の中にいた。
十年もの、八万キロも乗った超のつく中古車を、乗って俺は仕事に向かった。
昔の車は、慰謝料に露と消えていたから。
慰謝料は払ったがまだ借金があるので、豪勢な生活はできない。
兄から借りたお金は、いつか返す必要があるからな。
向かう先は、双海町。
その町は俺の生まれ故郷、ちっとは兄貴の方にも顔を出しておくか、などと思いながら向かう。
一応、研究所から交通費とガソリン代は出ていた。
でも、あまりお金のない俺は、なるべく出費を抑えるべく国道で向かっていた。
今日は、三月十一日の金曜日。平日なら、まだ国道の方がすいている。
急ぎでもないし、兄貴のところで最悪泊まれば宿泊費も安くつく。
まあ、ものすごく兄貴にはにらまれるけどな。
少し曇った、今にも雨が降り出しそうで、肌寒い日。
すいている国道を、快適なペースで進んでいく。
つけているFMラジオを聞き流して、運転をしていた。
首都圏から北に向かうたびに、田んぼや畑の登場時間が長くなり、田舎へと、双海町へと近づく。
ボロボロの車は、時折止まりそうになるが、それでも国道を進んでいく。
曇っていたお昼下がり、あの接待さえなければ、朝には向こうに行っているはずなんだと思っていても、接待の酒を抜かないと、捕まってしまうのでやむなしだ。
そんな昼下がり、普通に国道を運転していると、俺は不思議にグラグラと揺れを感じた。
「車か、この車もポンコツだからな」
そう、思っていたけど、周りの雰囲気が横に流れているような気がした。
そして、次の瞬間、ラジオからも聞こえた。
「じ、地震です。ものすごい……ザーッ」
次の瞬間、ラジオの音が、砂嵐のような音へと変わっていた。
地震かと思ってみていると、俺のそばにある電柱や、標識がはっきり揺れていた。
「な、なんだ」
周りの風景が、グラグラ揺れた。電線が、波を打っていた。
倒れそうな電柱も見えて車の中で、俺は少し怖かった。
そして、俺の左側の道路の電柱が、次の瞬間、
「た、助けて!」
誰かの叫び声とともに、倒れた電柱。
車内の砂音と、車外の叫び声、そしてズシンという音がすると、事の重要さをはっきりと感じ取れた。
一瞬にして、不安な気持ちへと感じた。
双海町途中の道半ば、俺の前の車が急に止まった。
あっという間にこの国道に、渋滞が発生した。
「止まったようだな」
そして見えたのが、奥の信号機の電気がはっきりと消えていた。
「停電しているよっ!」
「電柱が、倒れて来た!」
などといった叫び声が、あちこちから聞こえてきた。
ザーザーのラジオは、少し時間がたって復旧していた。
「誠にすいません、電波の中継局が停電してしまい、自家発電に切り替えてお伝えしております。
只今この周辺に震度六強の強い揺れを感じました、これにより津波注意報が……」
ラジオ局は、ざらざら音をしながら地震を伝えていた。
渋滞に巻き込まれ、動けない交通をよそに携帯電話を取り出した。だが、つながらない。
「携帯も、やられたか」
不安はあった、特に離婚した妻や娘。家族の顔が頭に浮かんでくる。
普段つながっているものが、繋がらないとそれは不安でたまらない。
自分以外の人間が巻き込まれることが、気になって仕方がない。
(大丈夫か?幸いにも双海町に今から向かう。兄貴が、心配だ)
俺は、渋滞の中をそれでも双海町に急いでいた。
だが、道路ではクラクションが次々とならされていた。
千花市から双海町までは、国道だけでも五時間あればつく。
でも、この日はたどり着けなかった。
信号は全く機能しないし、警察の方も夜になってようやく信号代わりに立つ。
あちこちで渋滞と事故が合い重なって、車の動きは極めて遅い。
二車線の国道も、地震の影響は何度も受けていた。
車で数時間寝た後、朝早く向かった双海町。だが、国道の途中は止まっていた。
双海町まであと四キロほど、その境の橋には新たな壁があった。
「はい、ここから立ち入り禁止ですよ」
そこには、警察官がバリゲードを張って、完全に道をふさいでいた。
窓を開けて、俺に話しかけた警察官。
二十代前半ほどの、若い警察官二人が難しい顔を見せていた。
「双海町に行きたいんですけど、入れないんですか?」
「ここから先は立ち入り禁止です、原発からの周辺は危険区域内ですから」
「水蒸気爆発、なんだよ!危険だ」
不意に、後ろからの警察官風の男性が叫んでいた。
その言葉に、俺はあることを思い出した。
三年前に寺の藪から見えた海のそばにあった四つの建物、原発。
そこでここの警察官は、回り道をするようにあたっていた。
「原発から放射能が、漏れました。だから、立ち入り禁止です。
さあ、行ってください。ここに、絶対入らないでください」
その事故は、想像できないものではなかった。
そして、最悪の出来事だった。
言葉と同時に、俺は嫌な予感がよぎった。
兄貴一家の安否が、さらに不安がつなる。
原発だろ、放射能だろ、なんか、やばいよな。
放射能について、詳しく知らないけれど、やばいことだけは知っている。
ここから見える危険区域の中は、残骸の山が見えた。
戦争が起きた後みたいな光景が、警察官の後ろに広がっていた。
「あれはなんですか?」
「大丈夫です。双海町の人は、隣の市の避難所に移りましたよ」
警察官が言うものの、安心する答えになっていない。
ここに来るまでに、地震の影響を多く見てきた。
倒れた電柱、道路が浮き上がったり、デコボコになったり、信号は止まるし、地震の被害をいくつも目の当たりにしてきた。
でも、危険区域の先は、あるはずの家がなかった。
遥か彼方に見えたのが、海らしきもの。
見えたのが、がれきの山と、海にあるはずの船、横倒しの車。
ありえない光景に、俺は言葉を失った。
俺と話していた警察官は、それでも俺に指で動くように言ってきた。
呆然としている暇はない、そういわんばかりに俺に指示する。
俺は、急いで警察官が教える避難所へと向かっていた。
ボロボロの車で走る俺は、さらに渋滞に捕まっていた。
そして、山の上にある避難所にたどり着いたときは、すでに昨日に地震が起きた時刻三時ぐらいになっていた。
避難場所は、双海町の隣の市にある大きな市民体育館。俺は車から降りたら、走って向かった。
そこは、ダンボールで敷き詰められた家みたいなのが広がっていた。
でも、叫び声と嗚咽が聞こえ、まさに地獄絵図が広がっていた。
臭い匂いは、今まで嗅いだこともない、生ごみとカビのようなにおい。
大きな叫び声は、子供の泣き声で、少し体育館の中は薄暗かった。
足の踏み場もない、避難所で俺は周りを見回しながら兄貴を探していた。
(いない、もしかして……)
最悪のことがよぎった。方角的には、震源が双海町の方だと研究所の知識で分かっていた。
国道付近の瓦礫の山は、恐怖そのもの。
焦りながら、避難所を見回すと、俺のそばに一人の女の子が来ていた。
それは、少しボロボロのワンピースを着た、ロングヘアーの女の子。
始め見たときは、ちょっとわからなかったけど、その子は、俺のズボンの裾をつかんでにっこりと微笑んでいた。まるで、落盤事故から助け出されたかのように。
「あっ、亮叔父さん」
「お前は、地尋か?」
そこには、小学校四年生になった姪っ子の、地尋がいた。
体は相変わらず小さな女の子の地尋だけど、無邪気に笑っていた。
だけど、目にはうっすら涙を見せているようにも見えた。
「地尋、お母さんは?お父さんは?」
と、俺が声をかけると、地尋のお母さん、虎子がやってきた。
やはり少し泥だらけの割烹着姿で、三十代後半の女性。小さく丸い顔は、やつれていた。
虎子義姉さんは、なんだか浮かない顔を見せていた。
「あ、姉貴。無事だったんですね、兄貴は?」
「来てくれたんだ、亮さん」
義姉は嬉しそうな顔と、困った表情を、交互に見せていた。
「ああ、こっちで大きな地震があったから。ずいぶん大きかったみたいですね、地震」
「そうなんだけど、亮さん。お願い、聞いてくれますか?」
神妙な顔に、俺はただならないことが起きていることを知った。
地尋は、すぐに虎子さんの後ろに隠れて奥の段ボールの座布団に、お行儀よく座る。
「なんですか、俺でよければ、相談乗りますよ」
「それはね……」
そのあと、虎子義姉さんは、恐る恐る話し始めた。
俺は、怒りに満ちていた。手をぐっと握って、向かっていたのは実家。
日は夕日が沈みそうで、暗くなった道。
明かりも灯らない道を、険しい顔でたどり着いた実家。
俺は、こんな感情で実家にたどり着いたことはなかった。
大きな実家の門をくぐり、迷うことなく俺は牛舎に向かった。
そして、俺の目的の人物が、そこには作業着姿でいた。
年季の入った牛舎に、俺は怒りに満ち溢れてその男の後ろに立った。
「兄貴、ここにいたのか?」
そこは、頑固者でいつも頑張っている兄貴がいた。
水色のつなぎを着た兄貴は、淡々とした表情で牛舎の牛に藁を食べさせていた。
「出来損ないの亮か、ここに帰ってくるなと言っただろう」
老け顔の兄貴は俺の顔を見ないで、牛に食事を与えていた。
俺は、怒りに震えて兄貴のそばに駆け寄った。そのまま首元を俺は、つかむ。
「兄貴、なんでここにいるんだよ!
早く逃げろよ!原発が津波でやられたの、分かっているんだろう!」
つなぎの襟を捕まえて、俺は怒りをぶつけた。
「だから、どうした?ここの牛たちは、俺たちの家族だ。
お前だって、手伝ったことがあるから分かるだろう」
だが、兄貴の顔を、俺は初めて殴り飛ばした。
殴られた兄貴は、そのまま藁の上に飛ばされて頬を抑えた。
「じゃあ、なにか、虎子義姉さんも、地尋も家族じゃないのかよ!
二人とも、ものすごく心配しているんだぞ!」
激昂させた俺は、避難所からの想いを吐き捨てるように、兄に言い放った。
俺には、守る家族はない。でも、兄貴にはある。
兄貴には、奥さんも、かわいい娘もいたから。
そんな義姉は俺に、兄貴を連れ帰るように頼んできた。
義姉も、地尋も兄貴を説得したけど、兄貴は最後まで動かなかった。
牛の鳴き声が、モーッと聞こえるが、俺の怒号が牛舎に響く。
「ガキのくせに、いまだに自立もできないお前が、何を言う」
「俺は、放射能はよくわからないけど、やばいものだ。
原発が、津波で流されて爆発したんだろ。
だったら、少しぐらい自分を大切にしてもいいんじゃねえのか?
ずっと親父の代わりに働いて、頑張って来たんだから、すごい兄貴だよ。
俺の自慢の兄貴だよ。だから……」
俺は兄貴の顔を見て、兄貴を失いたくない思いを伝えた。
俺の顔を見れない兄貴は、俺の手を払いのけて、顔を下に向けていた。
そのまま兄貴に対して、一歩退いた俺はひざまずく。
そんな兄貴に、俺は考えることもなく、土下座をした。
「頼む、これ以上義姉を、虎子姉さんや、地尋を悲しませないでくれよ!」
兄貴に、ようやく俺の言葉が届いた。
土下座した俺の前に、兄貴も俺の前に正座したまま俺に対して、土下座をやり返してきた。
「まさか、お前に教えられるとはな、亮。一ついいか?」
「兄貴、なんだよ?」
頭を下げた俺は、兄貴の言葉に耳だけを傾けていた。
「俺と、虎子はこの双海町にまだ残らなければならない。
だがな、地尋の学校は、津波で流されてしまった」
「ああ」
「だから、だから俺が避難所に行く代わりに、地尋を預かってくれないか?」
その一言は兄貴が、初めて俺に頼った瞬間だった。
ずっと兄貴は父親代わりで、高校も中退して酪農業を我慢して継いだ。
何も、考えずに、家のために、俺のために継ぐことを決めた俺の兄貴。
亡くなった母親と一緒に、俺を大学まで行かせてくれた。
俺も、兄貴には一生生きても返せないぐらいの恩があった。
いまだに、兄貴には借金は残っていた。
でもそんな兄貴が、自分より大事な娘を俺に預けてきた。
「分かった、約束する。地尋のことは、俺に任せろ」
「ああ、すまないな」
そして、土下座をやめた俺は、土下座をしている兄貴に、手を差し伸べた。
兄貴は、俺の左手をじっと見ていた。
「兄貴も、たまには俺を頼れ」
「生意気を言う」
兄貴は、それでも俺の手をしっかりと握ってくれた。