「君は平凡な顔だから」と離縁されました、辺境で幸せになるのでもう構わないでください
「離婚しよう。理由は君が平凡な顔だからだ」
夫であるアルベルト子爵の言葉を、マリアンヌはすぐには理解できなかった。
「平凡⋯⋯、ですか?」
平凡——。
マリアンヌが物心ついてからずっと聞かされてきた言葉だ。
——あなたは平凡な顔だからこっちの地味なドレスにしなさい。
——妹は華やかなのに姉は平凡な顔なのね。
——目立たないように振る舞いなさい、平凡なおまえが前に出たら惨めなだけだ。
母に、父に、そして世間に⋯⋯。
マリアンヌはいつも『平凡』と言われてきた。
たしかに妹のほうが可愛いし華があった。 事実なので妹の引き立て役と言われても腹は立たなかった。
幼い頃からずっとそうで、だからマリアンヌは自分から目立つことをいっさいやめたし、それでもいいとずっと思っていた。
妹より一段くすんだ色のドレスを選び、舞踏会では一歩後ろに立ち、褒めそやされる妹の隣で、完璧な「引き立て役の姉」として振る舞ってきた。
それが男爵家の長女としての役割であり、家族のためになると信じていたからだ。
けれどまさか『平凡』が離婚の理由になるなんて⋯⋯。
「おいおい、おまえが泣いても可愛くないぞ。もう一度はっきり言うが、今日限りで離婚だ。出て行け」
葉巻を燻らせてそう言ったアルベルト子爵は、少しの罪悪感も感じていないようだった。
ただ事務的な事実を淡々と告げる役人のように冷ややかだ。
「でも、あの⋯⋯、私は領地の経営を支えてきました」
「帳簿仕事なんて誰にでもできる。おまえがいなくて困るとでも思っているのか?」
「⋯⋯」
(⋯⋯結婚して三年、私はずっと子爵家の領地経営を支えてきたわ。寝る間も惜しんで面倒な帳簿づけや事務作業を完璧にこなして無駄を省いてきた。私が嫁いでから、赤字だった荘園が黒字になったのに⋯⋯)
言いたいことはたくさんあったが、マリアンヌはその全てを飲み込んだ。
ただ、絞り出すような声で、こう聞いた。
「私が美人ではないから捨てられる……、ということでしょうか?」
「ああ、まったく——」
アルベルト子爵が鬱陶しそうに首を振る。
「そういう言い方はやめてくれないか。俺は今では金持ちだ。おまえと結婚した頃の俺とは違う。社交界にも頻繁に出入りしなくてはいけない立場だ。これは貴族としての義務だ。華やかな社交界で僕の隣に立つ妻として、君はあまりにも地味すぎるんだ」
アルベルト子爵は扉に視線を向けると、急に口調を甘ったるく変えた。
「遠慮しないでいいから入っておいでオリビア。マリアンヌ、このオリビアを見てごらん。オリビアは僕に似つかわしい美女だ」
アルベルト子爵が手招くと、華やかな金髪をなびかせ、眩しいほどの笑顔を振りまく、とても若い令嬢が入ってきた。
「もうお話は終わりました?」
微笑んだ彼女の顔にも罪悪感はまったくなかった。
(次の妻まで決まっているのね)
大きく息を吐いて自分を落ち着かせる。
「わかりました。⋯⋯離婚をお受けいたします」
泣き叫ぶこともなく、マリアンヌは静かに屋敷を去った。
◇◇
実家に戻ると、マリアンヌの母は娘を責めた。
「ああ、まったく。こんなことになるんじゃないかと思っていたわ! あなたも地味なら地味なりに努力しないからこういうことになるのよ!」
「……ごめんなさい、お母様」
「やっと結婚できたのにどうしてなの? しかもタイミングが最悪よ! カトリーヌが公爵家のご嫡男と素晴らしいお話し合いを進めている最中なのよ」
カトリーヌはマリアンヌの妹だ。
「カトリーヌの婚約者の家に知られたら困るわ。出戻りの姉がいるなんて知られたらカトリーヌの価値に傷がつくじゃないの。……あなたはしばらく人目につかないようにしなさい!」
「お母様、でも⋯⋯」
マリアンヌがすがるように手を伸ばすと、母は汚れものでも見つめるように身を引いた。
「地下室を用意したわ、さっさとお行き!」
「……はい、お母様」
マリアンヌは地下へ降りて行った。
第2話
マリアンヌに用意されたのは地下の狭い部屋だった。
天井の近くの高い場所に小さな窓が一つだけあって薄暗い。
秋の終わりで外は涼しい風が吹いているのに、ここはジメジメと暑苦しい。
家具は質素な机と小さな寝台だけで、ずっと使われていなかったので埃の臭いが充満していた。
小さな鏡が壁にあり、そこに銀色の長い髪と冬空のような澄んだ青い瞳、そばかすが浮かんだ青白い顔の女が、正気のない表情で映っている⋯⋯。
マリアンヌの顔だ——。
マリアンヌは鏡の中の自分の顔からサッと目をそらした。
「こんな部屋でも仕方ないわ⋯⋯。私は出戻りなんですもの、我慢しなくっちゃ」
ため息をついたとき、母が戸口に現れた。
「念を押すけど、カトリーヌの縁談の邪魔だけは、絶対にしないで」
「……お母様。私は夫に理不尽な理由で捨てられたのです」
抱きしめて慰めてほしいとは思っていなかった。そんなことをしてもらったことがないからだ。
だけどせめて、ほんの少しだけでも優しい言葉をもらえたら⋯⋯。
「あなたが原因の離婚でしょう? カトリーヌなら離縁なんてされなかったわ」
「お母様⋯⋯、また、カトリーヌですか。私もお母様の娘です」
「だから何? 当たり前のことを言わないで。今はカトリーヌは公爵家のご嫡男との素晴らしいお話し合いを進めている最中なのよ。あなたは姉じゃないの。妹のことが心配じゃないの? 冷たい子ね!」
「⋯⋯」
マリアンヌはもう母に言い返す元気もなかった。
「声が大きいぞ、お前たち。使用人たちが噂するじゃないか」
父親のフルール男爵が機嫌の悪い顔で入ってくる。
「お父様⋯⋯」
わずかな望みをかけてマリアンヌは父親の顔を見つめた。だけどそこに優しさや同情のかけらは微塵もなかった。
マリアンヌと目を合わせることもなく履き捨てるように言う。
「お前は今日から一切この部屋から出るな、カトリーヌの人生に傷をつけることは許さん」
「お父様、私はカトリーヌの邪魔をしようなんて思っていませんわ」
「ふん——」
マリアンヌの言葉など耳に入らないという態度で、父親は出て行った。
「わかったわね、マリアンヌ」
氷のような視線で睨むと、母親も出ていく。
すると扉の外で——。
「このままカトリーヌの婚約式が終わるまで、あの部屋から出さなければ大丈夫でしょう」
母の安堵したような声に、父が深く頷く気配がした。
「人の目に触れなければいい。無事に婚約が決まったら遠くの修道院にでも入れればいいだろう」
「ええ。それが一番平和だわ。一生出てこれない場所にやりましょう。それが我が家のためですし、地味なあの子のためにもなりますわ」
(修道院? 一生出てこれない場所⋯⋯?)
家族が平和に生きていくために、自分はそこまでしなくてはいけないのか——。
(嫌⋯⋯)
マリアンヌの心の奥底から沸々と湧き上がる感情があった。
(こんなのは、嫌!)
親に逆らったことは一度もない慎ましく礼儀正しい淑女としての人生⋯⋯。
だけどもう、限界だ——。
「嫌よ、嫌——!」
マリアンヌは離婚した時に持ってきたわずかな荷物をごそごそと探り、数枚の証書を取り出した。
「おばあさまの遺言書と、土地の権利書⋯⋯。私の唯一の財産だわ」
亡くなった祖母は、北の辺境の土地をマリアンヌに残すと言い残したのだ。
子供の頃によく遊びに行ったそこは、祖母亡き後は荒れ果ててなんの価値もないらしい⋯⋯。
それでも今のマリアンヌが持っているただ一つの財産だった。
「私の土地⋯⋯」
マリアンヌは証書をぎゅっと抱きしめて、懐かしい祖母の言葉を思い出す。
『マリアンヌ、この土地を好きでしょう? あなたが好きになれば、この場所もあなたを好きになってくれるわ』
『ええ、おばあさま。私、ここが大好きよ』
祖母の優しい笑顔を思い浮かべると、勇気が出るような気がした。
何をできるのか、何をすればいいのか、まったくわからないけれど、それでもマリアンヌは決めた。
「ここを出て、おばあさまが残してくれた土地へ行こう——」
夜が更け、屋敷が静まり返るのを待ってマリアンヌは行動に移した。
小さなカバン一つを持って、砂利道を歩き門を出ると、一度も振り返らずに歩き続けた。
第3話
王都を離れ、ガタガタと馬車に揺られ、数日後——。
マリアンヌは祖母が残してくれた土地——北の大地・ダラスクリムにたどり着いた。
「こんなに荒れ果てているなんて⋯⋯」
想像していた以上のひどい状況だ。
子供の頃に遊んだポーチは屋根が崩れ、屋敷のレンガには大きなヒビが入っている。
そして見渡す限りの広大な農園⋯⋯。
「羊が少しいるのね。それから麦畑も⋯⋯。あっちはきっとワイン用の葡萄畑ね。でも、昔とはずいぶん違うわ。これじゃあほとんど利益はないはず」
呆然と立ち尽くしていると、使用人たちが慌てて走ってくる。
「まあ、⋯⋯マリアンヌお嬢様ですか? なんて立派になられて」
涙ぐんで迎えてくれたのは年老いた使用人たちだ。
マリアンヌが10代半ばの少女の頃に会ったのが最後だ。
「さあ、屋敷の中にどうぞ。すぐに紅茶を淹れますね」
マリアンヌを歓迎して熱い紅茶と素朴なスコーンを用意してくれる。
明るい日差しが入るキッチンで、しばらくは子供時代の懐かしい話をしていたが、しだいにみんなの顔が暗くなった。
「マリアンヌ様、⋯⋯ここはもう、大奥様のいらっしゃった頃のような領地ではございません。男爵様がお見捨てになられたので、屋敷も畑も荒れ放題でございます⋯⋯」
「お父様が? ごめんなさい。あの、⋯⋯みなさんはお給金はもらっているの?」
「赤字同然なので、払えないとおっしゃって⋯⋯」
使用人たちが顔を伏せる。
父が給料も満足に払っていないと知って、マリアンヌは身が縮むような思いだった。
「ほんとうにごめんなさい」
青白い頬をますます青くして謝った。
それを見た老侍女のジャンヌが、にっこりと笑っていちごジャムをたっぷりとスコーンに塗ってくれた。ジャンヌは祖母ととても親しかった侍女だ。
「大丈夫でございますよ、マリアンヌ様。私たちはここに住まわせてもらうだけでじゅうぶんな年寄りですから。言うなれば自給自足で、食べていくことはできています。さあ、お茶を召し上がったら、お部屋にご案内いたしますね。マリアンヌお嬢様がいらしてくださって、私たちはすごく嬉しいんです」
「⋯⋯ありがとう、みなさん」
着てくれて嬉しい——その言葉に思わず涙が出そうになった。
◇◇
用意してくれた部屋は、祖母が使っていた屋敷の2階の大きな部屋だ。
もう祖母はいないのに、生前と同じようにきれいに掃除をして整えてある。
日当たりが良くて、年代物ではあるが洗濯したてのいい香りがするカーテンが、風に揺れている。
(おばあさまはみんなに愛されていたのね)
祖母が大事にしていた屋敷を今もみんなが大事にしてくれていることがすごく嬉しい。
「シーツを変えますね、マリアンヌ様」
「ありがとう、ジャンヌ。ここは本当に気持ちいい風が吹くのね」
銀色の髪を秋風になびかせて、大きく開けた窓から外を見ていると——。
「あら?」
馬に乗った男性が門を入ってきた。
黒いフロックコートを着たたくましい男性だ。
艶やかな黒髪に黒い瞳。遠目にもとてもハンサムだとわかる。男らしく端正な顔つきをしている。
「どなたかしら?」
「誰か来ましたか? ⋯⋯あら、ルーク卿ですね」
「ルーク卿?」
「ええ、マリアンヌ様は覚えていらっしゃいませんか? 幼い頃にはマリアンヌ様と一緒に遊んだこともあったはずでございますよ」
「⋯⋯覚えていないわ」
マリアンヌは急いで階段を降りて、玄関でルーク卿を迎えた。
ルーク卿は挨拶もそこそこに低い声で淡々と要件を切り出す。
「男爵家の人間が来たと聞いたので来た。——それで、この領地をどうするつもりだ?」
「え?」
どうすると聞かれても、マリアンヌには具体的な計画はまだない。
口ごもりながら答えた。
「あの⋯⋯、私が祖母から受け継いだ土地ですから、私が管理していこうと思っています」
「管理? ——無理だな」
ルーク卿の声は冷ややかだ。
「無理とはどういう意味ですか?」
「ご令嬢が管理できるほど甘い場所ではないという意味だ」
「⋯⋯」
それは荒れた畑を見た時にわかっていた。
マリアンヌは返す言葉もなく黙って下を向く。
そんなマリアンヌをじっと見下ろして、ルーク卿が大きなため息をついた。
「手放す気があるなら、俺が適正価格で買い取ろう。そちらもまとまった金が得られて悪くないはずだ」
「買い取る⋯⋯ですか?」
(おばあさまが愛した土地を私に残してくださったのに⋯⋯。売るなんて⋯⋯)
マリアンヌは顔を上げた。
青い目に今までにない強い光が浮かんでいる。
「――お断りいたします」
亡き祖母がすぐそばで応援してくれているような気がして、自分でも驚くほどきっぱりとした声が出る。
「断るだと——」
ルーク卿が驚いたように眉をひそめた。
「ええ、お断りいたします。ここは私にとって大事な場所なんです。簡単に売るなんてできません」
「ほお——。もしや、俺と交渉するつもりか? 値を釣り上げようという卑怯な考えか?」
「卑怯? 違いますわ! 失礼ですわ!」
思わず大きな声で言うと、ルーク卿はクスッと笑った。
(からかったんだわ⋯⋯)
マリアンヌの青白い頬がほのかに赤らむ。
「⋯⋯とにかく、私にとってここは祖母の思い出がある大切な場所です。金銭の多い少ないは手放す理由になりません」
「感情だけでは領地は守れないぞ。計画はあるのか?」
「ええ、もちろん」
そう返したが、計画があるわけじゃない。
それでもマリアンヌはしっかり顔を上げて、ルーク卿の面白がっているような黒い瞳を見返した。
「計画はありますわ!」
「——好きにするといい。だがあとで助けを求めて泣きついてきても知らないぞ」
苦笑しながらそう言うと、馬に飛び乗ってあっという間に去っていった。
「ものすごく無礼な人だわ」
マリアンヌは大きく息を吐く。緊張で身体中がカチカチだ。
「ルーク卿はとってもお優しい紳士でいらっしゃいますよ」
老侍女のジャンヌがふふふと笑った。
◇◇
その夜——。
祖母の寝台にぺたりと座り込んで、マリアンヌは熱心に帳簿を見ていた。
「おばあさまがいらしたときはきちんと記帳してあるけれど、そのあとは正確じゃないみたいね⋯⋯」
マリアンヌは帳簿に詳しかった。
アルベルト子爵の妻として荘園の管理仕事をひとりでこなしていたからだ。
「うーん、ここが気になるわ」
気になったのは小麦の収穫量だ。
荒れた畑だがわずかに小麦は取れる。その小麦の量と売り上げた金額が、どうしてもぴたりと合わなかった。
「収穫したのが87袋なのに、売り上げた金額は83袋分しかないわ⋯⋯。変ね? ネズミにでも食べられたのかしら? それとも——」
こういう細かい部分を見ていくことが利益を増やすことにつながると、マリアンヌは知っている。
「明日、調べてみましょう!」
と決めて、さらに帳簿を調べ出した⋯⋯。
◇◇
その頃、元夫のアルベルト子爵の屋敷では——。
「おい! これは一体どういうことだ!」
アルベルトの怒鳴り声が響くと、執事はビクッと体を震わせた。
「それが……、これまでは奥様がすべてお一人でやられていたので」
「あの女をもう奥様と呼ぶな! だったら誰か帳簿がわかる人間を雇ったらいいだろう」
「は、はい⋯⋯。もう税理士を手配しております。これが税理士に払う給料でございます」
「見せろ。こんなに高いのか!?」
「はい、専門家ですので」
「ああ、まったく頭が痛くなってきた。こんなに高い金は払えないぞ。しばらくはおまえが帳簿をつけろ」
「私がですか!?」
「ああ、そうだ。荘園の売り上げを紙に書くだけだ。マリアンヌがやっていたぐらいの簡単な仕事だ、おまえにもできるさ」
アルベルト子爵は自信満々にそう言った。
第四話
次の日の朝——。
マリアンヌは目が覚めるとすぐに、朝ごはんも食べないで急いで小麦倉庫に向かった。
「おはようございます、マリアンヌ様」
「おはようございます、みなさん。あの⋯⋯、ちょっとお聞きしてもいいですか? もしかして、ネズミの被害がありますか?」
収穫した小麦の量と売り上げが合わないことを言うと、使用人たちは首を傾げた。
「ネズミはいないはずですが⋯⋯、変ですね」
「倉庫を見てもいいですか?」
「もちろんです、さあ、どうぞ」
マリアンヌは倉庫の中に入った。
きちんと掃除はされているが、この倉庫もかなり古い。
あちこちに隙間ができていた。
「やっぱりネズミかしら⋯⋯」
梯子階段を登って、屋根裏へ上がる。
「ネズミはいないわね」
降りようとした時、いきなり下から声がした。
「都会のお嬢様だと思ったら、ずいぶんおてんばだな」
「え? きゃあっ!」
足を踏み外して、そのまま後ろへ——!!
真っ逆さまに落ちると覚悟した時に、たくましい腕の中にすっぽりと⋯⋯。
「危ないな」
「⋯⋯」
マリアンヌは声も出せずに口をパクパクと動かした。
「礼ぐらい言ったらどうだ?」
ルーク卿が苦笑している。
その顔を見た瞬間、マリアンヌはルーク卿が誰かを思い出した。
子供の頃にここに来た時、何度か一緒に遊んだことのあるロバート少年だ。
「あなた、ロバートね?」
「⋯⋯そういう君は、マリィだな」
ルーク卿は最初から気づいていたのだろう、ニヤリと笑う。
「気がつかなかったわ。だって、あなた、昔はメガネをしていたでしょう?」
「ああ、そうだったな。面倒臭いから外しているんだが、今でも俺は目が悪い」
「じゃあ、見えないの?」
「ぼんやりとしか見えないな」
「そう⋯⋯ですか⋯⋯」
敬語に戻って呟いて、ハッとした。
ずっとルーク卿に抱き抱えられたままではないか。
「あの、お⋯⋯おろしてください」
慌ててルーク卿の腕の中から逃れた。
(気まずいわ⋯⋯)
マリアンヌはスカートの埃を払うふりをして、パタパタと無意味に手を動かす。
「ところで、2階で何をしていたんだ?」
ルーク卿が二階を見上げる。
「ネズミがいないかと思って探していたんです」
「ネズミ? このあたりにはいないはずだ」
「そうなんですね⋯⋯。だったら、どうしてかしら⋯⋯」
「何がだ?」
「⋯⋯」
マリアンヌは戸惑いながらも、帳簿から見つけた疑問を話してみた。
「なるほど、収穫と売り上げの量が合わないわけか」
「ええ⋯⋯。あなたの農場でもそういうことはありますか?」
「ないな。俺の農場の倉庫は最新だ。ここは古すぎる」
「そうですわね」
マリアンヌは倉庫を見回す。本当に古くて、あちこちの隙間から秋風ががビュービューと入ってくる。
「もしかして⋯⋯? ええ、そうよ、そうだわ! 乾燥しているんだわ」
「何を興奮しているんだ?」
「小麦が減った理由です。この隙間風が小麦を乾燥させて、量を減らしているんです。だから市場で売るときに重さが減って、収入も減っているんです!」
急いで使用人たちを呼んで積んでいる小麦を調べさせる。
すると、マリアンヌが思ったとおり小麦は乾燥しすぎて量が減っていることがわかった。
「隙間を塞ぐには煉瓦を買わないといけないわね」
お金がかかるなと考えていると、ルーク卿がそっけない口調で言った。
「隣人のよしみで余っている煉瓦を貸してやろう」
「ほんとうですか、ルーク卿? ありがとうございます!」
(無愛想な人だと思ったけど、いい人かもしれないわ⋯⋯。子供の頃はもっと可愛くて、子犬みたいだったけれど)
子供の頃のルーク卿を思い出して、マリアンヌはクスッと笑った。
◇◇
屋敷に戻ると、老侍女のジャンヌがパンケーキを焼いていた。
甘い香りがキッチンに広がっている。
「⋯⋯ということがあったのよ、ジャンヌ。隙間を塞いだから少しは売り上げが上がると思うの」
ほかほかのパンケーキを頬張りながら話すと、ジャンヌは微笑みながら熱心に聞いてくれる。「それはようございましたね、マリアンヌ様。昨日の今日で売り上げを増やすなんて、さすがマリアンヌ様でございます」
「そんな⋯⋯。大したことじゃないの。ちょっとだけ、複式簿記を知っているのよ」
「複式簿記でございますか? そういえば、大奥様はそういうことにお詳しくていらっしゃいました。大奥様が亡くなられてからは、帳簿はただ記入するだけになっております」
「記入するのも大事だけれど、複式簿記のいいところは、変なところがパッとわかることなの」「パッと? それはすごいですね」
「ええ、すごいでしょう。⋯⋯あ、それからルーク卿だけど、やっぱり私たち、子供の頃に会ったことがあるみたい」
「思い出されたのですね」
「ええ⋯⋯」
まだ祖母が元気だった頃、マリアンヌは毎年のようにこの土地に遊びに来ていた。
その時、隣の領地の少年とよく遊んだのだ。
「私が木に登って落ちそうになった時、下で受け止めてくれたのよ。さっき、同じようなことがあって、それで思い出したの」
(でも子供の時はルーク卿はメガネをかけた痩せっぽちの少年で、私を受け止めきれなくて一緒に地面に倒れたのよね⋯⋯)
そうだわ——。
と、マリアンヌは三枚目のパンケーキに黄金色の蜂蜜をとろりとかけながら、子供の頃のことを次々に思い出す。
(ルーク卿——ロバートはすごく目が悪くて、私はそれがとても居心地が良かったんだわ。だって、『平凡な顔』を見られないですむんですもの⋯⋯)
「ねえ、ジャンヌ。ルーク卿は今も目が悪いんですって」
それもなんだか安心できるではないか⋯⋯。
パンケーキを食べ終わったマリアンヌは、最後に急いでミルクティーを飲み干し、張り切ってキッチンを飛び出した。
「帳簿と照らし合わせながら農園の状況を見てくるわ!」
あまりにも急いでいたので、
「あら変ですね、ルーク卿はとても視力がいいはずですが⋯⋯」
というジャンヌの呟きは聞こえなかった——。
◇◇
その頃、元夫の子爵家では——。
出かける準備をしているアルベルト子爵の元に、おずおずと執事がやってきた。
「旦那様、あの⋯⋯。帳簿付けをしているのですが⋯⋯」
「なんだ、はっきり言え。俺は忙しいんだぞ。今日は王弟陛下の従兄弟の義理の妹のお茶会に呼ばれているんだ。これはすごく名誉なことなんだぞ」
「は、はい、わかっておりますが、あの⋯⋯。貸方とか借方とかの言葉が難しすぎて私にはやはり帳簿付けは無理のようでございます」
「⋯⋯」
「このままでは税の支払いで大変なことになるような気がいたします。今まではすべてを奥様⋯⋯、いえ、マリアンヌ様がやってくださっていたので」
「ああ、うるさいやつだな! 税理士を雇え!!」
ふーっと大きなため息をついて、アルベルト子爵はシルクハット帽を被ろうとして、帽子が汚れていることに気がついた。
「⋯⋯おーい、マリアンヌ、俺の帽子が」
思わずそう口に出してからハッとする。
マリアンヌがいなくなってから生活のあちこちが不便になっていた。
「まったく⋯⋯、なんだというんだ」
舌打ちをすると、埃だらけの帽子を頭に乗せた。
第五話
黒い帳簿を胸に抱えて、マリアンヌは秋の澄んだ空の下、あちこちを歩き回った。
青白い肌に日光があたり、ほんのりと赤くなっている。
「きっと日焼けしちゃうわね」
王都にいる時には令嬢にとって日焼けは敵だった。
でもここではそんなことはもうどうでもいいような気がしてくる。
パラソルも白い手袋もいらない——こうして太陽の下を歩くのはとても気持ちがいいとマリアンヌは思った。
「あら? またここも壊れているわ」
農園を歩いていると、あちこちで壊れた物を見かけた。
「羊小屋も冬が来る前に修理しなくっちゃだめね。それにこの柵、グラグラだわ」
マリアンヌが触っただけで倒れそうなほど傾いている。
「えっと⋯⋯、修理代は⋯⋯」
帳簿をペラペラとめくって毎年の修理代が書かれた場所を探した。
「あら?」
マリアンヌは眉をひそめた。
「変だわ、これはどういうこと?」
祖母が亡くなってからは毎年ほぼ決まった時期に『設備修繕費』が支払われている。まったく同じ金額が毎年だ。
「修繕費って、壊れた箇所や規模によって毎回金額が変わるのものなのに。毎年ぴったり同じ金額だなんて、ありえないわ。うーん、変ね」
帳簿から目を上げて、マリアンヌはまた農園を歩き出した。
「⋯⋯いったい、この荒れた農園のどこを修理したというの?」
倉庫の扉は建付けが悪く歪んだままだ。
押しても引いてもびくともしないほどだ。
農具小屋の屋根には大きな穴が開き、きっと雨の日は大変だろう。
収穫に使う大鋏や鋤もずいぶん古くなっている。これでは作業をするのも大変だ。
毎年、修繕費が出ているのに、何一つ修理されていない⋯⋯。
「まさか——!」
マリアンヌは急いで帳簿をめくって、業者名を探した。
「やっぱりだわ。修繕費はお父様に支払われているわ⋯⋯」
つまり父親は修繕費の名目でこの哀れな農園からお金を吸い上げているのだ。
「ひどいわ⋯⋯。みんなあんなに必死に働いてくれているのに」
マリアンヌは両足から力が抜けていくような気がした。ふらふらと木の切り株まで行くと、そこにぺたりと座り込む。
切り株の横には白くて小さなキノコが生えていた。
(本当にごめんなさい、おばあさま。本当にごめんなさい、みなさん⋯⋯)
年老いた使用人たちは今日も額に汗して働いてくれている。その姿を遠くに見つめて、マリアンヌは目に涙を浮かべた。
すると、その時——。
「そのキノコは食べるなよ」
声がして、振り向くといつの間にかルーク卿がいた。
今日はフロックコートは脱いで白いシャツ一枚の姿だ。鍛えられた分厚い胸元がチラリと見えている。
急いで涙を拭いてマリアンヌは立ち上がった。
「ルーク卿はいつも私の土地に無断で入っていらっしゃいますのね」
「皮肉を言えるなら大丈夫だな。泣いているのかと思ったが」
「泣いていません⋯⋯。それにこんなキノコは食べたりしませんわ」
「子供の頃は食べようとしただろう?」
「え? ⋯⋯そうでした?」
「ああ、そうだ。焼けば食べられると言い張って⋯⋯」
思い出したように、ルーク卿が笑い出す。
「子供だったからですわ」
「ああ、そうだな。あの頃俺たちは子供だった。それで? なんで泣いていたんだ?」
「だから泣いては⋯⋯」
いません、と言いかけて、隠してもしょうがないと思ったので、マリアンヌは父親が修繕費の名目で農園から金を吸い上げていたことを話した。
「なるほど——。あの男爵ならやりかねないな。失礼、君の父親だったな」
「いいえ、いいんです。私も腹を立てていますから。でも、これからは勝手なことはさせませんわ。ここは私とあの人たちの農園ですから」
マリアンヌは熱心に働く老使用人たちを見つめた。
ルーク卿は少し考えて、こんな提案をしてくれた。
「腕のいい大工と鍛冶屋を知っている。俺の知り合いだ。明日にもこの農園に寄るよう手配してやろう。適正な価格で、確実に仕事をこなす連中だ」
「それは助かりますわ。ありがとうございます、ルーク卿!」
マリアンヌはにっこりと笑った。
こんなふうに自分が笑えるのが不思議だった。
いつもは顔を伏せて、そっと笑っていたのに⋯⋯。
(ルーク卿は目が悪いから、きっと私の平凡な顔もあまり良くは見えていないわよね)
容姿のことを気にするのはやめよう。気にしても無駄だとわかっていても、幼い頃から妹と比較された記憶はどうしても消えないのだ。
(なんだか、ルーク卿と話す時だけは緊張しないでいられるわ。そういえば、子供の頃もそうだったのよね⋯⋯。眼鏡をかけた男の子は、妹と私を比較しなかった。それがすごく心地よかったわ。私、どうして忘れていたのかしら⋯⋯?)
◇◇
屋敷に戻ると、マリアンヌはジャンヌにまた色々と報告する。
こんなふうに熱心に話を聞いてくれる相手は、亡くなった祖母を除いて、今までいなかったから嬉しくてつい話してしまうのだ。
「まあ、そんなことがあったのですか? それは大変でございましたね⋯⋯。ええ、ええ、男爵様は昔から欲の皮が分厚くて——あら、すいません、マリアンヌ様」
「いいのよ、私もそう思っているから」
マリアンヌは肩をすくめた。
「ジャガイモの皮を剥くの? 私も手伝うわ」
並んでじゃがいもの皮を剥きながら、話題はルーク卿に移る。
「とても親切な方だわ。昨日会った時には何て傲慢なんだろうって思ったけれど」
「ええ、ご親切な方ですよ。嵐の夜は、心配して見に来てくださったこともあります」
「まあ、そうなの? この屋敷って、嵐に吹き飛びそうですものね」
「ええ、ほんとうに」
顔を見合わせてふたりで笑った。
だけど冗談ではなく、屋敷はかなり古くて、なるべく早いうちに修理をしなくてはいけないことは間違いない。
(大きなお金がかかるわね⋯⋯)
ジャガイモを剥く手を止めてぼんやりと考え込んでしまった。
「マリアンヌ様?」
「え? あ、ごめんなさい。手が止まっていたわ。お昼のメニューは何かしら?」
「ポテトスープと、豚肉のソテーでございます。お好きですか?」
「ええ、大好きよ!」
数日前には泣いていた自分が信じられないほど、今のマリアンヌは前向きな気持ちになっている。
(大丈夫よ、きっと。この農園をおばあさまがいらした頃の豊かな農園にきっと変えていけるわ)
そう思えるほどに⋯⋯。
◇◇
その頃、王都のアルベルト子爵家では——。
屋敷中に聞こえるような大声が聞こえていた。
「な……なんだこの請求書は!? 桁が間違っているんじゃないのか!?」
執務室で書類を叩きつけたアルベルトの顔は、どす黒くなり、怒りで歪んでいた。
目の前に立つ老執事は、困り果てた様子で大きな溜息をつく。
「間違いではございません、旦那様。新しくお雇いになられた高級税理士先生からの報酬請求書でございます」
「たかがちょっと税金の計算をさせただけだろう? それでこんなに高額な請求書が来るのか? ああ、なんということだ⋯⋯。しかもこっちには支払いの期日が過ぎた商人から、遅延損害金まで請求されているじゃないか!」
「はい、さようでございます。奥様⋯⋯いえ、マリアンヌ様ならば簡単に対処できていたことなのですが、オリビア様⋯⋯いいえ間違えました奥様は、あまりお得意ではないご様子で⋯⋯。それで色々と事務的な仕事が滞っております。奥様のサインがなくては、私も何もできませんので」
「うーむ⋯⋯」
アルベルト子爵は髪をくしゃくしゃにかきむしった。
マリアンヌがいた頃は請求書がアルベルト子爵の元まで来ることはなかったのだ。
税理士に金を払う必要もなく、すべて無料で、完璧に処理されていたのだ。
「またマリアンヌか——。くそ!」
華やかで美しい新妻のオリビアは、今日もサロンで高級なドレスのカタログを広げ、「次はこれが欲しいわ」と甘い声を上げていることだろう。
オリビアの笑顔は美しいが、子爵家の金庫から金がどんどん減っているのは間違いない。
「どうしてあの平凡で地味で面白みのない女がいないだけで、こんなに大変なことになるんだ!」
アルベルト子爵はまた髪をくしゃくしゃにかきむしった。
◇◇
ダラスクリムの秋の夜は長い——。
太陽が沈むのが早いからだ。
遠くから聞こえてくる虫の音を聞きながら、マリアンヌは机に向かっていた。
帳簿の次のページを開き、そこにペンを走らせていく。
「今日からは私が記帳していくわね、おばあさま」
窓から入ってくる秋風が、ランプの炎を柔らかく揺らしている。
ペンにインクを浸して丁寧な文字で日付を書き込む。
不正な修繕費はすべてカット。
明日やってくる職人たちに支払う費用と、それによって蘇る新しい倉庫の価値を、これからちゃんと記入していくのだ。
それがきっと、この農園を甦らせる第一歩になるだろう。
「おばあさま、ルーク卿って怖い人かと思ったら、お優しいのよ。私たちね、子供の頃に一緒に遊んだの」
マリアンヌはそっと胸に手を当てて、亡き祖母に話し続けた。
「おばあさまが愛したこの土地を守るわ。誰も誤魔化さず、無駄を削り、みんなが笑って暮らせるような……そんな農園にするわ。だから天国で見守っていてね」
帳簿に刻まれるペンの音が、静かな部屋に心地よく響く。
マリアンヌはこの音が好きだった。
(今日はいっぱい笑ったわ⋯⋯)
そう思って、またにっこりと微笑んだ時——。
「マリアンヌお嬢様、お迎えにあがりました!」
実家の執事の荒々しい声が聞こえた⋯⋯。
第六話
マリアンヌが階段を降りていくとドイル執事が玄関ホールに立っていた。
「おお、マリアンヌお嬢様! お元気そうで安心いたしました。心配していたんですよ」
まったく心配していない顔でそう言った。
「ドイル⋯⋯、どうしてここへ?」
マリアンヌはゆっくりと階段を降りていく。足が震えて今にも階段から落ちそうだ。手すりをぎゅっと強く握った。
「もちろんお嬢様をお迎えにあがったのでございます。この屋敷の使用人たちに誘拐されたお嬢様を助けにきたのでございます」
「誘拐ですって? それは違うわ!」
突拍子もない言葉に驚いていると、老使用人たちが不安そうに集まってきた。
「誘拐とはどういうことだ?」
老侍女のジャンヌがさっとマリアンヌのそばにくる。
「大丈夫でございますよ、マリアンヌ様。私たちがそばについておりますから」
「ありがとう、ジャンヌ」
マリアンヌはジャンヌの言葉が嬉しかった。子供の頃からずっと孤独で、一人で悩み一人で解決してきたのだ。今まで味方になってくれた人は誰もいない⋯⋯。
「とにかく、これをお読みください」
ドイルが二通の手紙を差し出した。
◇◇
「汚い屋敷でございますねえ!」
ソファにどすんと座ったドイルが客間を見渡す。
「汚くはありませんわ⋯⋯」
マリアンヌはドイルの向かいに座って手紙を開いた。
父からの手紙は娘への手紙というよりも脅迫文だった。乱暴な文字でこう書いてあった。
『マリアンヌ! ああ、まったくおまえという奴は!! すぐに戻ってこい。もしも戻ってこなければ、愚かで年老いた使用人たちをいますぐに屋敷から追い出して路頭に迷わせるぞ! 親を馬鹿にする愚かな娘よ、今すぐに戻れ!!』
「路頭に迷わす⋯⋯。なんということを」
あまりにひどい文面に目の前が暗くなっていく。
(お父様は本気かしら。⋯⋯残酷な方だからやりかねないわ)
マリアンヌは震える手で二通目を開いた。妹のカトリーヌからの手紙だった。甘ったるい香水が吹きかけてある。
『私が大好きなお姉様へ。お姉様、お願いです! すぐに帰ってきてください! お姉様が辺境に行って、淑女らしくない生活を送っているという噂が立っています。お父様とお母様がお姉さまに優しくないんじゃないかと、私の大切な婚約者様のご家族が疑っています。『品位がない家族』と言われてしまいました! ああ、私が大好きなお姉様!! 婚約を破棄されたら私はもう生きていられませんわ!! どうぞ哀れな妹を助けてください』
(婚約破棄をされそうなの⋯⋯?)
「⋯⋯ドイル。カトリーヌの婚約は本当に壊れそうなの?」
「はい。助けられるのはマリアンヌお嬢様だけです、だから一緒に帰りましょう」
「私が帰れば、大丈夫なの?」
「ええ、そうでございます!」
「そう⋯⋯」
(じゃあ帰るしかないわ⋯⋯)
マリアンヌは妹のカトリーヌと仲がいいわけではない。
子供の頃の思い出といえばひどい意地悪をされたことだけだ。
それでも、妹の結婚を邪魔したいと思ってはいない⋯⋯。
「⋯⋯」
深く考え込んだ時——。
「失礼致します!」
紅茶のトレイを持ったジャンヌが怒りに顔を真っ赤にして入ってきた。
どすんと乱暴にトレイをテーブルに置く。
ドイルが驚いて小さな目を見開いた。
「⋯⋯な、なんだ、その態度は」
「なんだじゃありませんよ! さっさとこの屋敷から出て行ってください。カトリーヌ様の婚約はカトリーヌ様の問題です、マリアンヌ様には関係ありません! それにもしも本当の愛があるなら婚約を解消したりしないはずです!! マリアンヌ様はこの土地の女領主様です。どこにも行きません!!」
「ジャンヌ⋯⋯」
この土地の女領主——その言葉が、マリアンヌの胸の奥に染みていく。
「ありがとうジャンヌ⋯⋯」
「私たちがついておりますから大丈夫ですよ、マリアンヌ様」
「ええ、そうね⋯⋯。本当にありがとう。でも、私、⋯⋯一度戻るわ。お父様と話してくるわ」
「マリアンヌ様、いけません!」
「大丈夫よ。⋯⋯必ず戻ってくるから待っていて。逃げ出すように家を出てきた私が悪いの。きちんと説明をしてくるわ。きっとお父様もわかってくださるわ」
◇◇
「馬車の中でお食べになってくださいね。マリアンヌ様がお好きな蜂蜜入りのクッキーです」
ジャンヌがクッキーがたくさん入った袋を渡してくれる。
「マリアンヌ様、倉庫の修理はしっかりと致しますから、安心して行ってきてください。お戻りをお待ちしています」
深夜だというのに老使用人たちは全員集まってマリアンヌを見送ってくれた。
「ありがとうみなさん、すぐに帰ってくるわ」
マリアンヌはみんなの姿が闇に消えて見えなくなるまで馬車の中から手を振った。
北の大地が——マリアンヌを癒してくれたダラスクリムが、少しずつ遠ざかっていく⋯⋯。
(ルーク卿にもご挨拶をしたかったわ)
遠くに見えるルーク卿の屋敷を見つめていると、頬に一筋の涙が流れた。
「仕方ないわ。お父様は本気で使用人を追い出す人だわ。今は帰るしかないんだわ⋯⋯」
馬車の窓をパタリと閉めた。
そして——、
「きっとすぐに帰ってこれるわ⋯⋯、きっと⋯⋯」
両手で顔を覆い、馬車の御者と御者の隣に座っている執事に気づかれないように、声を押し殺して泣いた——。
◇
馬車は一晩中走り続け、次の日の夕刻に男爵邸についた。
「まあ、マリアンヌ、やっと帰ってきたのね! 待っていたのよ!」
「お母様⋯⋯」
マリアンヌが思わず後ろに下がるほど母親は興奮していた。
「さあ、早く着替えてちょうだい。今夜は公爵家の舞踏会があるのよ。あなたを蔑ろにしていないと証明しないといけないの。私たちの『品位』が疑われるの!」
「あの、お母様⋯⋯?」
あっけに取られていると、衣装部屋に連れて行かれる。
「さあ、あなたのドレスよ!」
「⋯⋯」
そこには、マリアンヌには絶対に似合わない——派手な装飾がいっぱいついた真っ赤なドレスが用意されていた⋯⋯。
第七話
「これを……、私が着るんですか?」
「もちろんそうに決まっているじゃないの。最新流行のスタイルのドレスなのよ。この高級ドレスを着たあなたを見れば、誰も私たちがあなたを大事にしていないなどとは思わないわ!」
母は自慢げにドレスを見つめたが、マリアンヌは血の気が引いていくような気がした。
真紅のドレスは胸が大きく開いたデザインだった。襟元や手首に大きなレースが付いていて、まるで羽を広げたような豪華さだ。
「これが流行なのですか⋯⋯」
力無い声で聞くと、母はイライラと舌打ちをした。
「まあ、文句を言うつもりなの? この生地は海外から取り寄せたのよ。本当はカトリーヌのために買ったものを、あなたに着せてあげるんだから」
「あの⋯⋯、カトリーヌならば着こなせると思いますが、でも、私は⋯⋯」
(せっかっくお母様が用意してくださったのだから、気を悪くなさらないように、断らないと⋯⋯)
母が熱心にマリアンヌのドレスを選ぶことなど今までに一度もなかった。
だからマリアンヌはいつも以上に気を遣って話した。
「ああ、もう——。不満があるの? はっきり言いなさい。あなたは本当に気難しいわね。カトリーヌなら大喜びをして『お母様、大好きよ』って可愛く言ってくれるのに」
母が大きなため息をつく。
マリアンヌは俯いて黙り込んだ。
するとそこに軽やかな足音が聞こえて、カトリーヌが衣装部屋に飛び込んできた。
「お姉様! ああ、やっぱり、戻ってきてくださったのね!」
声すら可憐だ。
金色の髪が肩でくるりとカールしている。まるで愛らしい人形のような姿だ。
瞳の色だけはマリアンヌと同じで、冬空のような澄んだブルーをしている。
「お姉様が戻ってきてくれて本当に良かったわ! 今夜の舞踏会では私の婚約者の公爵家の皆様に『品のある幸せなご家族』だと思っていただけるわね! だって私たち、とっても幸せな家族ですものね!」
「幸せな⋯⋯家族?」
離婚して傷ついた娘を慰めもせず、自分たちの都合で地下室に閉じ込め、さらに修道院へ追いやろうとした家族が⋯⋯幸せ?
「マリアンヌ、いいわね、よく聞いてちょうだい。あなたのことが社交界で噂になったの。田舎で野蛮な生活をしているとか、私たちが離婚したあなたを追いやったとか——そんな噂よ。それを公爵家の皆さんがお聞きになって、我が家の品位を疑いになられたの。だから今夜、あなたをどんなに私たちが愛しているかを、舞踏会で見せなきゃいけないのよ。わかったわね!」
母にまくしたてられて、マリアンヌは黙って頷く。
そんなマリアンヌにカトリーヌは赤いドレスを手渡した。
「ねえ、お姉様、着てみてちょうだい!」
「そうね。ウエストを少し詰めなきゃいけないかもしれないわ。マリアンヌ、着なさい」
「でも、お母様⋯⋯」
「時間がないのよ。早く着て!」
「⋯⋯」
マリアンヌはのろのろと服を脱いだ。侍女に手伝ってもらって赤いドレスを着る。
「あら、サイズはちょうどいいわね」
「まあ、お姉様、す・て・き!!」
ふたりの声はマリアンヌの耳に入らなかった。
鏡に映る自分の姿を見つめて、ほとんど恐怖に近い気持ちになった。
(これってまるで⋯⋯、ピエロだわ⋯⋯)
◇◇
舞踏会が始まるのはすっかり日が暮れた遅い時間だ。それまでまだ時間があった。
マリアンヌは、悪夢のような赤いドレスを急いで脱ぐと、父親の書斎に向かった。
父に確かめなければいけないことがあるからだ。
扉の前で何回も深呼吸をしてからノックをする。
「お父様、マリアンヌです⋯⋯」
「うむ——。入りなさい」
父のフルール男爵は机に向かって何かを書いていて、マリアンヌが部屋に入っても顔をあげなかった。
「お父様、戻ってまいりました」
「ああ、そうだな」
「戻りましたから、ダラスクリムの屋敷から使用人を追い出さないと約束してください」
「なんだと?」
父はゆっくりと顔を上げてじろりと睨んだ。
マリアンヌの細い体が強張る。
「ああ、わかった。約束しよう。だがそのためには、おまえも家族のために心して行動するんだ。カトリーヌの婚約者の公爵家は『品位』にうるさい。我が家が長女をないがしろにしているという噂を聞いてとても心配なさっている。だから我々が仲のいい家族だということをわかってもらえるように努力するんだ。理解したな?」
「⋯⋯はい」
(よかった。お父様が約束してくださったわ)
マリアンヌはホッとした。
年老いた使用人たちが追い出されたら大変なことになる。帰ってきてよかったとマリアンヌは思った。
「では、お父様。公爵家が納得してくれたら、私はダラスクリムの屋敷に戻ってもいいのですね?」
「⋯⋯まあ、それはこれから考えよう。そんなことよりも今夜は舞踏会だろう? 少しは化粧をしたらどうだ? まさかその顔で行くつもりではないだろうな?」
「化粧⋯⋯ですか?」
マリアンヌは化粧をするのが苦手だ。
男爵家の令嬢として最低限の化粧——おしろいと頬べに、それに口紅を薄くつけるぐらいだ。
父はマリアンヌの顔をじっとみてわざとらしいため息をつく。
「おーい、誰かいないか? マリアンヌを少しはみられるように変えてやれ!」
すぐに母が飛んでくる。
「もちろんこれから化粧をしますわ。さあ、こっちへいらっしゃい。マリアンヌ」
「はい、お母様⋯⋯」
(舞踏会があっという間に終わりますように⋯⋯)
まだ始まってもいないのに、マリアンヌは強く願った。
◇◇
ガタゴトと馬車が揺れる⋯⋯。
「ねえ、お母様、この首飾りは少し地味じゃないかしら?」
カトリーヌは大きなルビーの首飾りをしていた。
「そうねえ⋯⋯。結婚して公爵夫人になったら、もっと大きいのを買ってもらいなさい。その時は私にも貸してちょうだいね」
「まあ、お母様ったら!」
母と娘はまるで親友のように仲がいい。ずっと会話を続けてケラケラと笑っている。
父親は黙って書類を見ていた。
(王都の夜は明るいわね⋯⋯)
マリアンヌは馬車の窓から夜の街並みを見てそう思った。
辺境のダラスクリムの夜は真っ暗で、月と星だけが美しく輝いていた。
(いつになったら帰ってもいいのかしら? お父様の言葉は曖昧だったわ)
一週間だろうか? それとも一ヶ月⋯⋯? それとも⋯⋯。
マリアンヌはため息を飲み込んで、ショールを首元にギュッと強く巻きつけた。
あまりにドレスの胸元が開いているので、反対する母をなんとか説得してショールを巻いてきたのだ。
(こんなに大きく胸元が開いているドレスを地味な私が着たら、みなさんになんて思われるか⋯⋯)
舞踏会の会場に着くのができるだけ遅くなりますようにと思う。
けれども道は空いていて、しばらくすると馬車は公爵邸についた。
「ここが公爵邸よ。大きなお屋敷でしょう、お姉様?」
「ええ、ほんとうに⋯⋯」
「私、ここの奥様になるのよ!」
カトリーヌの婚約相手はガススタイン公爵家だった。
爵位だけでなく大きな荘園も持っている富豪だ。
屋敷の周りにはたくさんのランプが灯されている。招待客の馬車が次々に入っていく。
(どうしよう⋯⋯)
マリアンヌの心臓はドキドキと速くなっていった。
(こんなドレスを着て、人前に出れないわ)
できれば逃げ出してしまいたかったがそんなことができるはずがない。
父と母と妹の後ろをのろのろとついていくと、案内係が声を張り上げた。
「フルール男爵様、同夫人、マリアンヌ男爵令嬢、カトリーヌ男爵令嬢、お着きでございます――!」
朗々とした声が響き渡る中を、煌びやかな光に満ちた会場へ入っていく。
「お姉様、ショールは取らないといけませんわ。マナー違反ですわ!」
「カトリーヌ、やめて!」
止めようとしたが、カトリーヌの方が素早かった。
マリアンヌの肩からショールが滑り落ちる。
胸の谷間まではっきり見えるほど大きく首元が開いたデザイン、しかも血のような赤いドレスで、レース飾りがふんだんについている——。
顔には分厚い化粧——。
(ああ、どうしたらいいの!)
マリアンヌは気を失いそうになった。
第八話
マリアンヌの両足はガクガクと震えた。
招待客の視線がマリアンヌに集まる。
ざわざわとしていた大広間が一瞬だけ静かになって、それからすぐにまたざわざわと会話が始まった。
「まあ……あのドレス……」
「最新流行の形ですわね」
「ええ。でも……着る人を選びますわ」
「フルール男爵家のお嬢様ね。以前はもっと、地味な方だったでしょう?」
「離婚されたと聞きましたわ。……やはり、何か問題がおありだったのかしら」
そんな会話をマリアンヌは聞こえないふりをした。
まっすぐ前を見て表情を変えないように頑張る。
(ドレスが変なんじゃないんだわ⋯⋯)
きっとこの赤いドレスもカトリーヌならば見事に着こなしてみせたことだろう。
(私だから笑われているんだわ)
このまま消えてしまいたくなった。
「マリアンヌ——」
「お父様⋯⋯?」
父がそばに来たのでマリアンヌは少しホッとした。
けれども父はマリアンヌの顔を見もせずに鋭い声で命じる。
「笑え」
「え?」
「笑うんだ。おまえをここに連れてきた理由はわかっているはずだ。笑え、マリアンヌ」
「お父様⋯⋯」
どんどん胸が苦しくなっていく。
(息が⋯⋯苦しい⋯⋯)
けれどもマリアンヌは、父に言われたとおり、笑った⋯⋯。
◇◇
(ここなら誰もいないわ⋯⋯)
マリアンヌは人々の視線から隠れる場所を探して部屋の隅に行くと、大きく息を吸った。
(やっと少し落ち着けそう)
父と母は招待客と次々に挨拶を交わすのに忙しい。
母の横にはカトリーヌがピッタリとくっついていて、楽しそうに談笑している。
(公爵家にご挨拶したら、先に帰らせてもらおう)
そう思った時、ガススタイン公爵家の人々が父と母に近づいてきた。
「マリアンヌ、こっちへいらっしゃい!」
「はい、お母様⋯⋯」
マリアンヌは急いで挨拶に向かう。
「初めまして」
礼儀正しく挨拶をすると、公爵夫人——カトリーヌの婚約者の母親がにっこりと笑った。
「あなたが噂のマリアンヌね?」
(噂ってどういう意味かしら?)
マリアンヌは心の中で首を傾げる。
母が慌てて口を開いた。
「私たちの大事な娘ですのよ」
まるで自慢の娘であるかのような口調だ。
公爵夫人はマリアンヌの母を無視して会話を続けた。
「辺境のダラスクリムに行っていたと聞いたけれど、ほんとうなの?」
「はい、ほんとうです、公爵夫人」
「何もないところでしょう? 狼がたくさん住んでいるって聞いたわ。危険なことはなかった?」
「狼はいませんでした。危険なこともありませんでした。とても素敵な場所です」
話しながら頭に浮かぶのは、秋の景色のダラスクリムだ。心地よい風が顔に当たった時、どんなに気持ちがいいか、公爵夫人に話してあげたいと思った。
「あの⋯⋯、ダラスクリムの秋は⋯⋯」
「オホホホホ! さあ、もうあんな田舎の話はやめなさい、マリアンヌ」
「あなたは少し黙っていてくださいな、男爵夫人」
「え? あ、はい、公爵夫人」
母を黙らせると公爵夫人はまたマリアンヌに話しかけた。
「それであなたは、田舎が好きなの?」
「ええ、とても好きです」
「まあ、そうなの⋯⋯。確かに田舎の方が似合っているわね」
「え?」
「そんな格好がダラスクリムで流行っているのでしょう? とても素敵な赤いドレスね」
公爵夫人はマリアンヌの頭の先からつま先までをじろりと見た。
(これって、⋯⋯皮肉なんだわ)
奇妙な格好をしていると遠回しに言われているのだ。
(似合わない服を着ているから仕方がないわね)
涙が出そうになったので、泣かないために必死でダラスクリムの秋の風景を思い浮かべた。
(晴れた日には麦畑が金色に輝くの。⋯⋯それから羊たちが柵を抜け出すと、犬たちが追いかけて大騒ぎになるの。夜にはフクロウが鳴くわ。そして朝になったら⋯⋯)
マリアンヌは——、
「帰りたい」
と、思わず小さく呟いた。
◇◇
公爵家への挨拶が終わると、マリアンヌは母に頼んだ。
「お母様、先に帰ってもいいでしょうか?」
母はじろりとマリアンヌを睨む。
「何を言っているの? そんなことをしていいわけがないでしょう? お願いだから、カトリーヌのことを考えて。あなたに足りないのは華やかさだけじゃないわ、思いやりも足らないのよ」
「⋯⋯」
マリアンヌは唇を噛んで「はい」と頷いた。
(目立たない場所はどこかしら?)
薔薇の花が飾られた部屋の隅を見つけると、そこに立つ。
マリアンヌに話しかけてくる人間はいなかったがその方が気楽だ。
(あと一時間ぐらいで終わるわね)
ようやく屋敷に帰れるとホッとした時、笑顔のカトリーヌが近づいてきた。
「お姉様、どうしてダンスをなさらないの?」
「どうしてって⋯⋯」
それは誰も誘ってくれないからだ。
悪目立ちをする真っ赤なドレスを着た厚化粧の離婚したての女を、誰が誘うだろうか?
「私がお姉様のお相手を探してくるわね」
カトリーヌが男性たちの方へ行こうとする。
グラスを片手に談笑する若いグループはさっきからマリアンヌをチラチラと見ては意地の悪い笑い声を立てていた。
マリアンヌは必死で止めた。
「やめてちょうだい、カトリーヌ。私、少し気分が悪いから、外の風に当たってくるわ」
慌ててバルコニーへ向かう。
すると、その時——。
「マリアンヌ、ちょっと頼みがある」
背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。
(まさか⋯⋯?)
ハッとして振り向くと、マリアンヌを『平凡な顔だから』と離縁した夫が、ニヤニヤと笑いながら尊大に言った。
「この帳簿を調べてくれ」
第九話
「え?」
「だから、この帳簿をちょっと調べてくれと言っているんだ。あいかわらず、ぼんやりした女だかな。それになんだそのドレスは? 俺の新しい妻に対する対抗心か?」
「⋯⋯」
思いがけない元夫の登場にマリアンヌは言葉を失った。
けれども考えてみれば、社交界が大好きな元夫が公爵家の舞踏会に来るのはなんの不思議もないことだ。
アルベルト子爵は高価な仕立ての服に身を包み、葉巻を片手にニヤニヤと尊大な笑みを浮かべている。
かつてマリアンヌに向けていたものと全く同じ、馬鹿にするような視線だ。
「なんだそんなに驚いた顔をして——。今や俺は名実ともに裕福な子爵だぞ。公爵家からも招待状が届く。だからこそおまえと離婚して相応しい妻を得た」
夫は大広間を指差した。そこには着飾ったオリビアの姿があった。
「おまえとは大違いだ」
アルベルトは鼻で笑うと、脇に抱えていた分厚い帳簿をぞんざいにマリアンヌの胸元へ突きつける。
「おまえが来るという噂を聞いて、これを持ってきたんだ。——ちょっと目を通してくれ」
「……え? 私があなたの帳簿を調べるんですか? 離婚したんですよ」
あまりの言い草にマリアンヌは耳を疑った。
「ああ、離婚したさ。だが少しぐらい助けてくれてもいいだろう? 帳簿の数字がどうしても合わんのだ。新しい税理士は高いくせに役に立たんし、執事にやらせたら目も当てられない惨状だ。おまえがサッサと間違いを見つけてくれたら俺は助かる。……言っておくがおまえに払える金などないぞ。元夫への最後の奉仕だと思って、感謝して働くんだな」
威張り散らす口調には罪悪感も恥じらいも微塵もなかった。
マリアンヌは大きなため息をついた。
「⋯⋯そんなことできませんわ」
「なんだと?」
「私はもうあなたの妻ではありませんわ。子爵家の帳簿をつける義務もなければ、あなたにを助ける理由もございません」
「な……っ! 俺が頼ってやってるんだ、それを——!!」
アルベルトは顔を真っ赤にすると、強引に帳簿をマリアンヌの腕の中に押し付けた。
「いいからとにかく見てくれ! 」
逃げるように去っていく。
マリアンヌの腕の中にずっしりと重い黒い帳簿が残った。
「信じられない⋯⋯」
大きなため息をついて帳簿を見つめる。
アルベルトの頼みを聞くつもりはもちろんなかったが、3年の間一所懸命に経営してきた荘園の状態は気になった。
「まったく、どうして私がこんなことを⋯⋯」
呟きながら帳簿を捲る。
数ページを見ていくとすぐにめちゃくちゃな記帳だということがわかった。
帳簿を見つめるマリアンヌの顔は、さっきまでのオドオドとした今にも泣きそうな顔ではなく、自信に満ちた女領主の顔だ。
「……ここが違うわ。貸方と借方の記入が逆になっている。それに……ああ、全く! ここも違うじゃないの。前期の繰越金と当期の開始残高が、まったく一致していない!」
あまりにも稚拙な計算だった。雑な記帳だ。
パラパラとページをめくるたびに、おかしな点が次々と出てくる。
(でも、……不思議ね)
帳簿から顔を上げてマリアンヌはふと思う。
似合わないドレスを無理矢理に着せられて、隅っこで小さくなっていた時と、今はずいぶん気持ちが違う。
帳簿がまるで剣や盾でもあるかのように、自信が湧いて出てくる。
「私、数字が好きだわ——」
自分自身に話しかけた。
「私にはできることがちゃんとあるわ。誰よりも完璧にできることがある⋯⋯」
目の前に浮かんでくるのは辺境の地——ダラスクリム。
「私が自分の力で立てる場所があるわ。こんな風に惨めな思いをして、他人の顔色を窺って生きる必要なんてないのよ⋯⋯」
胸の中に強い何かが湧き上がってきた。
そして、はっきりとわかった。
「帰ろう——。私の居場所はここじゃないわ。あの気持ちのいい風が吹くダラスクリムへ帰ろう」
マリアンヌは帳簿をバタンと閉じた。
カツカツと足音を立ててアルベルトの元へ行く。
「マリアンヌ⋯⋯? もう間違いが見つかったのか? さっさと教えて⋯⋯」
「私の仕事ではありません」
アルベルトに帳簿を渡す。
「な、なんだと……!? 俺の言ったことが理解できないのか!?」
「理解しております。ですが、お断りいたします。私はあなたの奴隷でも使用人でもありません。ご自分で税理士を雇うか、一から勉強なさってください」
「き、貴様……! 後悔しても知らんぞ! 俺とやり直したいと言っても絶対に許さんからな!」
青筋を立てて脅すアルベルトの言葉をもうマリアンヌは聞いていなかった。
(あのままじゃ、きっとあの人は破産ね。⋯⋯さあ、次はカトリーヌだわ)
アルベルトに背中を向けると、父と母とカトリーヌを探す。
三人は大広間の真ん中で公爵家の人々と楽しそうに話していた。
マリアンヌは背中をピンと伸ばして広間を横切った。自信たっぷりの姿はもう赤いドレスを恥じてはいない。
「お話があります」
キッパリとした口調で話しかけるとカトリーヌがギョッとする。
「お⋯⋯お姉様……? どうなさったの?」
「私、ダラスクリムへ帰るわ」
「え?」
驚いたのはカトリーヌだけではなかった。父と母は青くなり、公爵家の面々は目を見開いた。「公爵夫人、私はダラスクリムに帰ります。素晴らしいところですから、機会があったらぜひ遊びにいらしてください」
「なんですって!?」
侯爵夫人はパチンと扇子を閉じた。
「あんな田舎に行くつもりなの? ご両親が許さなくても行くというの? まあ、なんて家族でしょう⋯⋯。娘の教育もできないような家と、我が公爵家は親戚になりたくありませんわ」
それを聞いたカトリーヌが泣き出した。
「お姉様、早く侯爵夫人に謝ってちょうだい!」
「カトリーヌ⋯⋯」
マリアンヌの決心は妹の涙を見て揺らぎそうになった。
(どうしよう⋯⋯。やっぱり間違っていたのかしら?)
「ご⋯⋯、ごめんなさい」
いつもの癖で謝罪の言葉がつい口に出た時——。
「謝る必要はない」
低くてよく通る声が聞こえた。
「え?」
男爵家と公爵家の話に聞き耳を立てていた招待客も、そしてマリアンヌたちも、声がした方角にぱっと視線を向けた。
するとそこには、背が高くとても逞しい男性が、黒いフロックコートを着て立っている。
ルーク卿だった——。
◇◇
「ルーク卿? どうしてここに?」
マリアンヌは驚いたが、もっと驚いたことに両親もそして侯爵家の面々も、ルーク卿を知っているようだった。
「まあ、ルーク侯爵。いつ王都に戻られたのですか?」
(ルーク侯爵?)
ルーク卿が爵位を持っているだろうとは思っていたが、まさか侯爵とは⋯⋯。
マリアンヌが信じられない思いでいると、ルーク卿はマリアンヌの隣に寄り添って、丁寧だが口答えは許さないといった強い口調で侯爵夫人に話しかける。
「マリアンヌ嬢が辺境の女領主になるのが、婚約を破棄する理由になるとは思いませんね。もしも婚約破棄をするならば、それは本人が理由でしょう。」
公爵夫人は、さっきまでの高飛車な表情からすっかりおとなしくなっていた。
「ええ⋯⋯。まあ、確かにそうですわね。マリアンヌさん、私が悪かったわ。あなたのせいではないわ。カトリーヌ、あなたの家族の態度はよく見せてもらったわ。やっぱり我が家にはふさわしくない家族のようね」
「そ、そんな⋯⋯」
「お待ちください、公爵夫人!」
「ああ、なんてことだ——」
父と母、カトリーヌは呆然と立ち尽くした。
カトリーヌと公爵家の縁談は水に流れたのである——。
◇◇
それから一刻後——。
マリアンヌはダラスクリムに向かう馬車の中にいた。
隣にはルーク卿が座っている。
もちろん真っ赤なドレスは脱いで、シンプルなマリアンヌによく似合う紺色のドレスに着替えている。
「侯爵でいらしたとは知りませんでしたわ⋯⋯」
「知っていると思っていた。まだ俺が子供の頃に、君とカトリーヌがダラスクリムによく遊びにきたのはどうしてか気づいていなかったのか?」
「え? どうしてですか?」
「君の両親が、俺と君の妹を結婚させようと計画したからさ。俺はそれが嫌で、眼鏡をかけていた。君の妹が『眼鏡をした子は嫌』って言ったからね」
「まあ、そうだったのですね。⋯⋯ん? あの、だったらもしかして、本当は目が悪くないんですか?」
「ああ、視力はいい」
「まあ⋯⋯」
マリアンヌはいつもの癖で俯いて顔を隠した。
(どうしよう⋯⋯。ルーク卿が目が悪いと思っていたから、緊張しないで話せていたのに⋯⋯)
「言っておくが——」
ルーク卿は、マリアンヌが思わず顔を上げたほど、口調を変えた。
「え?」
マリアンヌはドキッとした。
じっとマリアンヌを見つめる顔がなんとハンサムで男らしいのだろう⋯⋯。
「俺には、君は妖精のように可憐で美しく見える。あまりにもはかなげで、消えてしまわないかと心配になるほどだ」
そう言って、照れたようにフッと笑った。
「⋯⋯冗談ですか?」
「冗談に聞こえたか?」
「いいえ」
ルーク卿の声はとても真剣で、まるで神に誓っているかのように厳かな響きだと、マリアンヌは思った。
「いいえ、冗談には聞こえませんでした。⋯⋯ありがとうございます」
深夜の道を馬車は直走り——。
夜明け近くに、広大な畑が見え始める⋯⋯。
「おかえり、マリアンヌ」
ルーク卿はマリアンヌの手を取ると、白い手の甲に優しく口付けをする。
マリアンヌは真っ赤になって、
「はい、戻ってきました」
にっこりと笑った。
終わり




