ルーニア(ルゥナ)~2
男はしっかり立ち上がると、あたしに向かって歩いてくる。
「許さない。アーニャ様を」
どうやら声は出るらしかった。
「あなたが巫女になるべきだ。だから」
男は呟きながらあたしに近づいてくる。ここまでだ。すぐに誰かが駆け込んで来る筈。
「だれが来ると?ここには誰も来ない」
あたしの考えている事がわかってしまうのか。
「さて、この力を与えましょう」
男があたしの前に立った。あたしより少し背が高い男があたしの懐に手を入れてきた。どうする気だ。
あたしの手からゆっくり短剣を取り上げ、鞘を投げ捨てる。
え?男が自分の指を傷つけた。そしてあたしの目の前に血が流れ落ちそうな指を差し出す。
あたしは大きく口を開けた。自分がどうしてそんな行動をとったのかわからない。
ただ、あたしからアーニャ様を奪ったこの男が憎い。出来る事ならこの男の血を飲み干して敵を討ちたいと思っていたのかもしれない。
一滴、二滴、口の中に深紅の液体が滴る。
どろっとした感触が舌を通る。でも味も香りも無い。これって血じゃないのか?
男の指先から流れ込んでくる液体と共に不思議な感覚があたしの中に入ってくる最初は意味が分からない古い記憶、多くの記憶と共に最後にはアーニャ様の記憶もあたしの中に入ってくる。どんどん流れ込んでくる記憶と幸福感、そして何か特別な力が体の中に満ちてくる。
自分の体の中が満たされていく。いいや、心も。
どんどん流れ込んでくる。記憶と優しい想い。それと、特別な力。全部アーニャ様のものだ。
「っう!」
男が苦しそうな声をあげた。驚いた。あたしはいつの間に目を閉じたのか。慌てて男を見ると、さっきより弱っている。男があたしの上に倒れこんできた。重たい。あたしも床に倒れる。
男は必死に体を起こして何か言ったようだったが、言葉じゃないみたいだった。
だんだん色が薄くなり透明になった液体が喉を通る。
長い時間が経っている。
あたしは…気が遠くなりながら、男の体が老人へと変化していくのを見た。
目を開くと、大理石の床に跪く人々がいた。私を見ている。
見回す必要が無かった。ここは奥の神殿。後ろに大地の女神像がある。
私が座っている椅子は以前アーニャ様が座っていた。
「私の名はルーニア、これからはあなたがたを守り、神の意思を伝えましょう」
室内の全員が頭を下げた。
立ち上がり自分の部屋へと向かう。以前寝泊まりしていたルゥナの部屋じゃない。これからは私の部屋はアーニャ様が使っていらっしゃった部屋だ。
後ろから女官達が付いてくる。
「今日は1人にしてください」
扉が閉まる音が後ろからした。やっと1人になった。一つ溜息をつく。寝室へ足を進めた。
何が起こったのかは上手く説明出来ない。ただアーニャ様は亡くなり、私がその知識も力も受け継いだということだ。
木々の美しい緑の中。小さな滝壺の水につま先を浸す。冷たい水が肌を引き締める。
私の膝まである緑色の髪が水の流れに遊ぶ。以前は赤かった髪の色は、アーニャ様の力を継いでから緑色に変化していた。
私がルゥナだった頃は肩までしかない髪を束ねていた。雑用に追われていたしアーニャ様の側を離れないでいるのには動きやすい方がよかった。
もうすぐ王都へ行く日。
禊を済ませ冷水から上がろうと岸に向かって歩くと、馬の蹄の音が聞こえてきた。
馬の蹄の音が近づいてくる。此処は巫女専用の禊ぎの場だから女の護衛が山への出入り口を塞いでいるはず。此処へ馬で入ってくるのはあの男ぐらいだ。
馬が止まり涼しげな麻の上着を着た男が馬から降りる。
私は白い浴衣を急いで羽織った。
男は私には近づかず、離れた所から話す。老人だった筈の男は今は若く、黒い髪を後ろへ束ねていた。
「あら、何の用かしら」
「ご機嫌を伺いに参りました」
「あなたが?」
「はい」
「らしくない事をするのね」
「お出かけになられるまであと数日なので、あなた様の変化後の体調を気にしていました」
細い体つき、憂いのある整った横顔。アーニャ様のような長い黒髪。若い普通の女の子なら、すぐに彼の外見に惹かれるだろう。
しかし、今の私の目には、彼が人外の者であり、普通では考えられない程の長命で有ること。そして神に仕える私とは異なる、血生臭い日々を送ってきたで有ろう事も彼のオーラから推し量れた。
「私が思う通りだとしたら、…リシュエル」
「はい」
「やはり、そうだったの」
私が一歩踏み出すと彼は跪いた。
「どうか、お許しを」
「怒ってはいません。でも、なぜ私が巫女に選ばれたのか、それだけは話して頂戴」
「わたしには、神の意思など解りかねます」
「だったら、なぜ、あなたがアーニャ様の力を私に与えたのです」
「わたしの一存で」
「なんという不遜な」
「巫女が弱くては困まります。民が望んでいるから、これから暫くは、体が丈夫で心に穢れのない、あなたに」
「一戦士がそこまで考えるのには、理由があるのですね」
「はい。この国も10年後には変わっていると思います」
「わかりました。そろそろ人が迎えに来ます。下がりなさい」
「失礼いたしました」
ヒラリと跨った馬を駆りリシュエルの姿が遠ざかっていった。
もっと聞きたい事はあった。でも、彼が答えてくれるのかどうか、多分それもないのだろうと思う。私は彼という存在に私とは全く異なる魔力を感じた。互い変に影響しても困るので最低限の会話で帰って貰った。彼もそう考えたから私に近づこうとしなかったのだろう。
私はあの日、リシュエルによって、アーニャ様の特別な力を与えられてしまった。
アーニャ様は静かに埋葬された。でも、誰もその事で困らなかった。巫女の体というのはただの器。人々は次の巫女が誰なのかという事には関心がある。力を失った者には生死を問わず、見向きもしない。それがこの世界だ。
私と一部の者を除いてはほとんどの人が新しい巫女の私を向かえるために動き回っていた。
私は10人ほどの聖職者と共にアーニャ様を奉った。
アーニャ様にもう心はない。全て私が受け継いだ。アーニャ様は私と共にある。
代々の巫女が今までどうやってその力や知識を伝えてきたのか知らなかったが、私の受け継ぎ方は最近では珍しかった。
普通は代々そういう血筋の者を幼いうちに巫女候補として選んでくる。より霊力の高い巫女を望み親戚同士の結婚による女の子が選ばれることが多い。だから体が丈夫でなかったのだ。
リシュエルが言ったように、人々を安心させる為に心身共に強い巫女が必要なのかもしれない。強くならなくては。いつか、戦争が終わった時、多くの人を幸福へ導けるようになるまで。