番外章 もう少し。あと、少し……
プロローグ
私には初恋がある。
初めてその人と出会ったのは7歳の時。お姉ちゃんに誘われて行ったショッピングモールのイベントホール。
そこに置かれていたグランドピアノで。
まだピアノを習ってすぐだった私は、そのピアノで演奏をしていた。
「上手だったよ、さっきのピアノ」
その人はそう声をかけてきた。誰も私のピアノなんて聞いていないと思っていたのに。
笑顔で拍手をくれた。
そして、まだ最後まで弾けなかった私と、最後まで弾けるように連弾をしてくれた。
私はその横顔に恋に落ちた。
その人の隣には女の人がいた。彼女さんだったのだろう。
小学生ながらその女性に嫉妬してしまった。
その人の名前は「かなた」。
一緒にいた女の人がその人の事をそう呼んでいた。
1 岡惚れ少女は春を見る
私、明石琴音は女子高生になった。
女子高生というネームバリューはとてもいい。
中学生の時は出来なかった化粧も、街遊びも心の底から楽しめる。
きっと恋愛も。
部活は入るつもりはない。ピアノ部なんてものがあれば即入部するんだけどなぁ。
でも一応、4月の体験入部期間中に吹奏楽部の活動している音楽室へ行ってみた。
ドアの外まで練習している音が聞こえてきている。
「あ、あの体験入部に来ました」
音楽室には女子生徒が9割。これはどこの学校も大体同じだろう。
今は何かの曲の練習をしており、私が扉を開けても演奏を止めなかった。
けど、問題はそこじゃない。
「おー、新入生か。いらっしゃい」
「え…?」
私に一番最初に声をかけてきたのは男の人だった。
扉のすぐ傍のピアノの椅子に座っていた。
「あー、申し訳ないけど僕が吹部の顧問なんだ」
何が申し訳ないのか分からないが、顧問の男は随分と低姿勢で私に言った。
そう言えばまだ入学してから音楽の授業を受けていなかった。
「あ、いえ。こちらこそすいません。男の人が顧問だとは思わなかったものですから……」
「気にすんな。僕は冴羽、一応この学校で唯一の音楽教師だ」
「えっと、1年2組の明石琴音です」
「よろしく、明石。ところで君は何かの経験者?」
冴羽先生は立ちあがりながら言った。
そして黒板にマグネットで固定されたクリアファイルを取った。
「小学校の時からピアノをずっとやっていました」
「どこかの教室に行ってる?」
「すぐそこの舞風ピアノ教室に行ってます」
「まじで? 僕も高一まではそこに通ってたんだ」
「そうなんですか」
「舞風先生は元気?」
「まだまだ現役だと言ってますね」
「それは良かった」
その時の冴羽先生の笑顔はどこか懐かしかった。
私、この人に会ったことあるっけ?
記憶を辿って冴羽という名前の人を探るが、思い当たる節はない。
この人があの「かなた」さんだったりするのかな?
いや、そんなことないか。
「あの、先生」
「んー?」
「吹部の演奏ってピアノありますか?」
「残念ながらない」
「ですよね……」
「まぁ、そうガッカリとしなくてもいい。僕も顧問をやってるけどピアノ以外は弾けない。だからピアノをやりたい生徒は大歓迎だ。コンクールへの手続きとかもやるよ」
「そうなんですか」
ピアノしか弾けないと聞いた時には大丈夫か?と思ったが、最後の言葉を聞いてピアノが好きな先生なのだろうと感じた。
悪い人ではないんだろうなぁ。
「私、入部したいです」
「体験?」
「いえ、正式入部です」
「そんな即決しなくてもいいんだけど……」
「他に興味のある部活もないですから」
本当は中学時代からの親友の酒匂鈴音に誘われていた庭園部に入るつもりだったが、この先生は面白そうなので入部することに決めた。
「そうか。じゃあこの紙に名前と連絡先を書いといて。ピアノだけだから特に部費はかからないから」
「分かりました」
私が紙を受け取る時には部員の演奏は終わり、各々が休憩に入っていた。
「そう言えばあっちの指導は誰がしてるんですか?」
「あっち? あぁ、あの辺は全部部長がやってる。彼女はオールラウンダーだからな」
あっちというのは吹奏楽の事。
そして、そっちの方は部長と呼ばれる人が指揮っているらしい。
試しにどの人がそうなのか辺りを見渡してみた。
雰囲気的にはサックスの眼鏡の人がそれっぽい。
「先生、書き終わりました」
「うん。部長、ハンコ押してくれるか?」
入部届けには教員と部長のハンコが必要なようだ。
冴羽先生に呼ばれて近くに寄って来たのは、やはり眼鏡のサックスの人。
当たった。
やりぃっ。
「新入部員ですか?」
「そうだ。嬉しいことにピアニストだぞ」
「いい加減に先生もピアノ以外を弾けるようになってくださいよ」
「アコーディオンなら弾けるぞ」
「その返答は聞き飽きました」
二人の様子を端から見た感じの感想は、仲が良いということ。
吹部の顧問が男性だったら女子部員は嫌がりそうなものだが、少なくとも部長はそうは思っていなさそうだった。
「明石さん?」
「あ、はい!」
突然部長に話しかけられた私は、思わず大きな声で返事をしてしまった。
部屋中の視線が集まる。
「あら、元気がいいのね」
「すいません……大きな声出して」
「ここは音楽室だからいいのいいの。先生みたいにぼそぼそ喋られるより良いわ」
「失礼な奴だな。誰がぼそぼそ喋ってんだよ」
「冴羽先生以外いないでしょ。ねぇみんな?」
投げかけられた部員は一斉に大きく頷いた。
「お前ら……」
「冴羽先生は人気者ですね」
意図せず嫌味な言い方になってしまったが、本心だ。
「明石さんはこの男みたいに捻くれないでね」
部長は微笑みながら私の頭を撫でた。
私の事を小動物か何かと勘違いしているのではなかろうか。
確かに背は低いが、胸は部長より大きい自信がある。
いや、間違いなくデカい。
あぁ! 私は何とアンバランスな体になってしまったのだろうか。
神様のアホんたら。
「はぁ……善処します」
返事しないのも失礼だと思ったので、心の声を封印し、苦笑いで答えた。
「そうだ明石。せっかくだし何か弾いたらどうだ? 丁度今はみんな休憩中だし」
「それは名案ですね、先生」
「もちろん明石が嫌でなければだけど」
先生はそう言うが、部長を筆頭に部員たちは期待の眼差しを向けてくる。
これはまずい。
断りずらい空気だ。
空気なんてクソくらえと思っているが、人間関係において空気を読むことは重要だったりする。
空気と読む力は人間関係を円滑にするための潤滑油なのだ。
「私は構いませんけど……何を弾きましょうか」
部長に聞くのはなんか嫌だったので、冴羽先生の方を見ながら言った。
先生は「え、おれ?」的な顔をしたが、私があまりにも目線を向けていたので堪忍したようで、手を口元に当てて考え始めた。
「最近の流行歌とかでいいんじゃないか?」
「最近の流行歌ってなんですか?」
「え、いや。知らんけど」
「え?」
「いや、だって僕が知ってる流行歌は10年前の曲とかだし……」
「レモンとかですか?」
「そうだな。あとは青二乗とか、メリーゴールドとか」
「あー小学生の頃聞いてました……」
思わず懐かしいと思えるような曲ばかりが出てきた。
「小学生……僕が高校生の時に聞いてたやつだぞ……」
ということは先生は27歳くらいという事か。私の初恋の人と同じくらいだ。
「先生、もう5時ですけど大丈夫ですか?」
部長が突然時計を見て行った。
5時に何かあるのだろうか?
「あ、やべ」
冴羽先生も腕時計を見て顔を青ざめた。そんなに大事な用事だったのだろうか。
丁度その時、音楽室の扉がコンコンとノックされた。
「失礼します」
中に入って来たのはこの学校の女性教師だ。私も既に受けた社会化の先生である梓弥生。
「あら、こんな所にいたの。冴羽先生」
梓先生の顔は笑ってるが、目が笑っていない。
冴羽先生はよっぽど大事な用事をすっぽかしたのだろうか。
「まーたはじまったぞ」
奥の方で男子部員が冷やかすように言った。
また?
という事は冴羽先生はいつも用事を忘れているのだろうか。
それは何とも、意外におっちょこちょいだ。
「わるい、今から行こうかと……」
「そう? その割にはまだ支度が出来てないようだけど?」
「あは、あはは……悪い、忘れてた」
「もう、早くしてよね」
冴羽先生は梓先生に尻に敷かれているように見える。
しかしなんだか嬉しそうだ。
ドMなんだろうか?
「部長、じゃあ僕はこれで」
「はい。後は私がやっておきます」
「助かるよ」
冴羽先生は部長に鍵を渡して帰るようだ。
部員たちはいつも通りといった雰囲気でいる。
「じゃあ、みんな。先に失礼するよ」
「せんせーさよーならー」
部員の中の誰かが言った。それに呼応するようにみんなが続く。
これだけで冴羽先生がこの部内で好かれていることが分かる。
きっといい先生なのだろう。
「ほら、梓。行くぞ」
「先生借りてくわね」
「もう返さなくてもいいですよ」
部長はツンデレだ、うん。
2人が去った後、私は部長に疑問を投げかけてみた。
「あの二人っていつもあんな感じなんですか?」
「んー、そうね。一緒に住んでるって聞いたことあるから、付き合ってるんじゃないかしら」
さしたる興味もないという感じで素っ気なく答える部長。
すると何かに気が付いたように私に言った。
「やばっ、これ冴羽先生に渡してくれる? まだその辺にいると思うからさ」
「分かりました」
部長が差し出した紙は私の入部届け。
私は当事者なので断ることも出来ないので、受取って先生を追いかけた。
階段を2つ降りた先で先生は梓先生と並んで歩いているのが見えた。
何を思ったか、私は2人に気付かれない様に近づき、会話を聞くことにした。
「今日のご飯なにするの?」
「焼き鮭、焼き鳥、ハンバーグ。この中からなら作れるぞ」
「じゃあ焼き鳥ー。帰りにお酒買ってこ!」
「いいけど、明日も仕事なんだから程ほどにしとけよ」
「分かってるって。どうせ奏多は飲まないんでしょ?」
かなた…?
私は盗み聞きしたことを後悔した。
冴羽先生は私の初恋の人「かなた」。
心の片隅でもしかしてとは思っていけど、まさかと思って捨てていた。
私は高鳴る鼓動を抑え、先生の前に出た。
「先生、忘れ物ですよ」
先生の顔を見れず、俯いて紙を差し出した。
「あ、悪いな。ありがとう」
「いえ。では、さようなら」
「おう、気を付けてな」
先生に一礼して私は走ってその場所から立ち去った。
やっと会えた。
やっと会えたのに………。
けどそんなことは分かっていたよ。どうせ叶わぬ恋だって。
相手は10歳以上年上だし、私の事なんか覚えてもいないだろう。
まぁ、こればっかりは仕方ない。
開き直ろう。
せめて私の事を思い出すまでは。
廊下の窓から校庭を見ると、春風に乗って桜吹雪が舞っていた。
2 夏の某日、横恋慕
私、明石琴音は高校2年生になった。
けれど、何も変わってはいない。
相変わらず吹奏楽部に所属し、先生の下でピアノを弾いている。
距離感は近くなっている気がしなくもない。
しかし、先生は私の事を思い出してはいない。
少しだけ、苛ついている。
「せんせー? どしたのぼっーとして」
「いや、なんでもない。そこのテンポ間違えてるぞ」
「え? あ、ほんとだ」
私は楽譜製作のバイトを始めた。
バイトと言ってもお金は貰えず、楽譜がない新曲の楽譜を制作するだけだ。
やったことの無かった私は先生に教わりながらやっている。
「明石、あと10分で僕は帰るから」
「えー、ちょっと早くないですかぁ? まだ4時半だよ?」
「17時からタイムセールがあるんだよ」
そう言えば先生は料理が得意だと言っていた。
だとしたらどんな買い物の仕方をするのか少しだけ興味がある。
「じゃあ、私もついていこっかな」
「ついて来るのは構わんが、楽譜製作はいいのか?」
「提出期限はまだあるから大丈夫。それよりも先生とのコミュニケーションの方が大事なのであります」
「……通報されるのは僕なんだけどな」
「もしもの時はちゃんとそういうのじゃないって言ってあげるよ」
「本当に頼むぞ」
もちろん先生に迷惑をかけるつもりはない。
私は書きかけの楽譜を折れない様にクリアファイルに挟んで鞄につっこんだ。
「よしっ! 行こっ!」
「最初に言っておくが、奢らんからな」
「……ちぇ」
心の中でバナナスムージーを奢って貰おうと思っていました、はい。
「逆に何故奢ってもらえると思ってたんだ…‥」
「そこは大人の優しさでしょ」
「じゃあ僕は優しくなくてもいい。むしろ優しくないと思え」
「はいはい。分かったから行くよ」
「何故お前が先導する……副部長、音楽室の施錠は任せた」
窓際でフルートの練習をしていた副部長は先生の言葉に手を止めて頷いた。
私と先生は並んで音楽室を出た。
階段は夏日に照らされて暑い。
その光に照らされた先生の横顔はめっちゃくちゃカッコいい。
「あ、せんせー。もうあの駄菓子屋さんにかき氷あるよ。もう夏だね」
「そうだな。もう7月だしな」
「そろそろ蝉がうるさくなるね」
「夏は嫌いか?」
「んーどうだろ。好きでもないし、嫌いでもないって感じかな。季節の好き嫌いなんて考えたことないや。暑いのも嫌いだし、寒いのも嫌いだよ。せんせーは?」
「僕?」
「うん。夏、好き?」
「そうだな……好きだったな」
「なんで過去形? 今も好きなんじゃないの?」
「さぁ、どうだろうな」
言葉を濁した先生の目は夏の太陽を見上げた。その瞳は憂いと嗟嘆が宿っている。
あぁ、そうか。先生は夏が好きなんだ。
多分、あの人の事を想っている。
「ううん。せんせーは夏が好きだよ」
「どうして断言できる」
「そういう目、してるから」
「………そか」
「うん、そうだよ」
先生は納得したような顔で呟いた。
2人で歩く夕方の街はどこか居心地が悪い。
そうだ、先生が何にも喋らないからだ。
「なんで黙ってるの?」
何でもいいから今は話をしていたかった。
「何か話題あるか?」
「せんせーのこと聞きたいなぁ」
1年半経っても私は何も先生の事を知らないのだ。
「僕の事?」
「うん。誕生日とか血液型とか」
「そんなの知ってどうするんだ」
「別にどうもしないけどさぁ。コミュニケーションだよ」
「コミュニケーション、ねぇ……」
「いい?」
「構わんよ」
絶対断られると思っていたのに、意外に返事はイエスだった。
「えっとね。じゃあ誕生日は?」
「1月27日」
よし、覚えた。
今年は何かお祝いしよう。
「あ、冬なんだ。春だと思ってた。好きな食べ物は?」
「甘い物だな」
バレンタインは絶対あげなきゃ。
あんまり得意じゃないけどチョコ作ってみよう。
そうだ、お姉ちゃんに教わろう。
「じゃあ嫌いな食べ物は?」
「……ないな」
確かになさそう。なんでも食べてるイメージ。
「趣味は?」
「読書だな……って婚活パーティーかよ。そんなの聞いてどうすんだよ」
「えー 面白いし良いじゃん」
私的には物凄く得をした。
好きな人の色な事を聞くのは普段では恥ずかしくて出来ないからね。
「よくない。それにもう着いたからいいだろう」
もうちょっと話していたかったけど、着いてしまったものは仕方がない。
あとは何とかバナナスムージーを奢って貰わなければ。
「どこからまわるの?」
「肉だな。肉が食べたくて仕方がない」
この時の私は「先生に肉食キャラは合わないな」と思った。
先生は私に構うことなく店の奥に入って行く。この男はモテないタイプだと思う。
「300グラムでイチキュッパか……破格だな」
そう言った先生の顔はどこか嬉しそうだった。一体どれだけの倹約家なのだろうか。
「何考えてるの?」
「今日の晩御飯のメニュー」
「この鶏肉を使うの?」
「そうだな。焼くか茹でるか煮るか……うん、照り焼きだな」
「せんせーって結構料理上手なんだね。高校生の時も自分で弁当作ってたんでしょ?」
「あぁ、そうだな」
実は少しだけお姉ちゃんから先生の事を聞いた。
高校の時の同級生だったらしい。
「お前どこで——」
先生は私が知っているわけのない情報のソースを尋ねようとするが、それを遮って私は思い切って言った。
「私も食べに行っていい?」
当然、先生は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。
「は?」
「いいでしょ?」
私は全力であざとい女子高生を演じるべく、精一杯の可愛い上目遣いで迫る。
「いいわけないだろ。お前は馬鹿か」
流石に先生も甘くはない。これくらいで折れるとは思っていない。
「なんでのダメなのよ」
「生徒を家に上げる教師がどこの世界にいるんだ」
「こーこ」
自分でも反吐が出るくらい可愛い声で言ってやった。
これ後から死にたくなるやつだ。
多分今夜は枕にヘドバン地獄。
「はぁ……仕方ないか」
やーりぃ。
思ったより簡単に折れた。これで先生の手料理が食べられる。
ま、バナナスムージーは諦めるかな。
「あら、冴羽先生。放課後に生徒とデートですか? 何やら晩御飯をご馳走するとか」
と、喜んだのも束の間。後ろからのその声の主は梓先生。
確証はないが、多分先生の恋人。私的には恋敵。
「あ、梓……」
先生は浮気現場を目撃されたような感じで後ずさり。
「梓先生どうしてここに?」
私はムッとしながら疑問を投げつける。
「私も晩御飯の買い物ですけど、何か?」
顔は物凄く美人な笑顔。目は鬼の様な笑笑顔。
あ、これ下手すると殺されるやつだ。
「い、いえ何も……でもその割にはカゴもって無いんですね……」
だからと言ってここで引き下がれるほど私は素直じゃない。
梓先生の上げ足を一先ず取ってみる。
「これは……と、取り忘れただけよ」
梓先生は耳を赤くして言うが、本心はバレバレだ。
多分、先生と一緒に買い物したかったんだろうなぁ。
もしかしたら約束してたのかも。
「その割には動揺してるみたいですけど……」
「そんなことはいいの! 明石さんはこんな男と一緒にいないで早く帰りなさい」
もちろん帰りますとも。
「えーでもー」
何度も言うが私は素直じゃない。
「でもじゃありません。早く帰りなさい」
「はいはい、分かりましたよ。じゃね、せんせー」
これ以上ここにいても利益はなさそうだ。
ならば安全なうちに退散するとしよう。
私は手を振ってその場を去った。
「お、おう……気を付けて帰れよ」
先生は小さく手を振り返した。
私の頬を温かい涙が伝った。
「あーあ。ミスったな。手料理食べられないならバナナスムージー奢って貰えばよかった」
溢れる涙の言い訳を買ってくれなかったからという事にした。
そうだ、全部悪いのは先生だ。
梓先生しか見ていない先生が悪いんだ。
女子高生を泣かせるなんて先生はひどい男だ。
まったく……。
「しょっぱいなぁ」
オレンジ色の空を眺めながら呟いた。
3 冬に終恋、さよなら彼方
私、明石琴音は高校3年生になった。
そして、その1年間も隼のように過ぎゆき、もうすぐ私は卒業する。
3月、ほとんど雪が降らなくなり少しだけ温かくなった。
「もうすぐ卒業だね、鈴音ちゃん」
「そうね」
教室でお弁当を食べながら親友と会話をするのもあと数えるばかり。
教室の空気はどこか排他的だ。みんな別れを現実として受け入れたくないのだ。
「あんたはいいの? 先生に伝えなくて」
「へ⁈ な、なんのことかなぁ……」
私の初恋の人「かなた」の存在を鈴音ちゃんは知っているが、それが冴羽先生と同一人物だとは伝えていない。
もっとも、ピアノの先生で名前が同じなので、気付かないわけがないと言えばそりゃそうなのだけども。
「どうなの?」
鈴音ちゃんは確信を持って私に問うてくる。
「そんなの、出来ないよ。向こうは私のこと何か覚えてないもん。それにあの人には恋人がいるんだよ?」
これは言い訳だ。本当は3年間ほぼ毎日放課後を一緒に過ごしたのに、思い出してくれないことに苛立ちを覚えていた。
「それは本音じゃないね」
金平ごぼうを口に放り込みながら鈴音ちゃんは言った。
そうだよ、本音なわけないよ。
「私は恋愛とかしたことないけどさ。多分あんたの恋は素敵なんだと思うよ。十年もたった1人を想ってきたんだもの。それを捨てるのも終わらせるのもあんた次第」
鈴音ちゃんは頬杖をつきながら白米を食べた。
行儀が悪いよ、とは言えなかった。
真剣な目でそう言ったから。
「……うん」
「ちゃんと伝えなよ」
「そう、だよね……でも私怖いんだ。もしあの時の子どもですって伝えても思い出してくれなかったら……」
「大丈夫よ。あの男は愛想はないし、コミュ力も優しさも皆無だけどね。あんたを傷つけるような事だけはしないわ。きっとね」
多分、この言葉は嘘だったのだろう。私を応援してくれているんだろうと思う。
それでも、親友の言葉は嬉しかった。
「うん、ありがとう。鈴音ちゃん」
だから、私は今日の放課後に勝負を仕掛けることにした。
◆◇◆
放課後、私は先生よりも早く音楽室に来た。
ピアノを準備し、椅子に座って先生を待った。
15分後、いつも通りの様子で先生が音楽室に訪れた。
「よう、明石」
「こんにちは、先生」
部屋に入るなり先生は大きな欠伸をした。
「眠たそうですね」
「まぁ、ちょっとな。お前は元気そうだな。早くもピアノの準備して」
「ちょっと私のピアノを聞いてほしくて」
「そりゃ構わんが。どうした?」
「とりあえず、どこかに座ってて下さい」
きっと真面目な口調の私に先生は違和感を覚えているだろう。
それでいい。
今日の私は真面目な女の子で行くのだ。
先生が席についたのを見て、鍵盤に指を添えた。これから弾く曲は私にとっての想い出の曲。
先生にとっては記憶の片隅の曲だろう。
白い鍵盤が沈む。
曲が始まる。
まずは右手片方で演奏する。
セピアなイントロを寸分の狂いなく弾き終える。短音で紡ぐ思い出のバラード。
AメロとBメロを弾き終える。
全休符と二分休符の静寂。
音色が小雨から大雨に変わったように激しくなる。
あの日の私が弾けなかった旋律。
お兄さんが弾いてくれた旋律。
それを私は先生の目の前で奏でる。
そして最後の一音が響いた。
余韻が音楽室を包み込む。
涙が溢れた。
「明石、お前……」
先生の言葉に返事をすることが出来なかった。
「お前は……あの時の女の子……?」
心臓が高鳴った。
良かった、覚えてくれたんだ。
「はい、私があの時連弾してもらった女の子です、お兄さん」
やっと私は先生の顔を見た。
「え、ちょっと先生なんで泣いてるんですか」
「あ、いや……ちょっと色々思い出して」
その涙の訳を私はお姉ちゃんから聞いている。
初恋の人との別れだと。
あの日隣にいた女の人がそうだったのだろう。
私はその場から早く立ち去りたかった。
先生を一人にしておきたいから。
「先生、私はあの日から先生の事が好きです。今日の日までずっと」
私はずっと自分の上靴を見つめながら言った。
「でも、それも今日で終わりです。先生は梓先生と幸せになって下さい。今までのご指導ありがとうございました」
深々とお辞儀をする。
これで私の初恋は終わり。
「ありがとう、明石」
音楽室から出て行く私の背中に先生は言った。
「ありがとう、お兄さん」
私は泣きながら走った。
どこでもいい。
一人でいられる場所を探した。
気付いた時には屋上でいた。
扉の横の屋根の下の段差に腰を下ろす。両膝を抱き抱えた。
全て綺麗に終わった。
「明石さん」
屋上の扉が開いたかと思うと、誰かが私を呼んだ。
顔を上げてその人物を見る。
「梓先生……」
「その様子じゃ振られた?」
「なんですか、笑いにきたんですか?」
「まさか」
梓先生は私の横に座った。
「どうして私の横に座るんですか?」
「あのね、1メートル横は隣って言わないの」
そう言って私の頭をポンポンと叩いた。
「あなたがよく頑張ったわ。気持ちを伝えるのは難しいものよ」
「先生に言われても嬉しくないですし、煽りにしか聞こえませんよ」
「大丈夫よ、あなたも私も奏多の1番にはなれなかった者同士だから」
「あの人が1番なんですよね。宇垣橘花さんが」
「えぇ、あなたも知ってるのね」
「お姉ちゃんから聞きました」
「そっか。委員長の妹だったね」
梓先生は空を見上げた。
それにつられて私も空を眺める。
「奏多は高校生ころよく屋上でいたの。それで空を見上げてた」
「空、ですか」
「えぇ。でも今はあまり見なくなった。きっと上ばかり見上げるとあの娘に怒られると思ってるんでしょうね。奏多はそういう人だから」
「梓先生」
「なに?」
「先生をちゃんと幸せにしてあげて下さいね」
一瞬面食らった顔をした。けれどすぐに笑顔で頷いた。
「勿論よ、任せない」
そう言って私を抱きしめた。
梓先生は先生と同じ匂いがして少しだけ羨ましかった。
エピローグ
「振られちゃった」
あの後の夜、私は鈴音ちゃんの家に泊まった。
今は同じ布団で添い寝している。
「そっか。でもあんまり悲しそうじゃないね」
「分かってたからね」
「あんた、強いね」
「また新しい恋を探さなきゃなぁ……」
すると鈴音ちゃんは私の手を握った。
「どうしたの?」
「その新しい恋って私じゃ駄目、かな?」
「へ?」
「私じゃだめ?」
「ちょっと待って……私女の子だよ?」
「分かってるよ。それでも私はあんたのことが好きなの」
「えぇ⁉」
頭の中が真っ白になり、フリーズした。
でも、それも悪くないと思う自分も確かにいた。




