最終章 I still remember you.
1
桜が咲き、蝉が鳴く。
紅葉が萌えて、雪が降る。それを10回繰り返した。
ここは京都府舞鶴市。
かつては海軍鎮守府として栄えた海の街。
一度は離れた故郷に再び住み着いてから早5年。
夢も目標もなかった僕は、気付けば母校で教師をやっていた。
「せんせー? どうしたのぼっーとして」
ピアノの音色が止んだ夏の日の午後。
「いや、なんでもない。そこのテンポ間違えてるぞ」
女子生徒が弾いた音色は明らかに間違っていた。耳障りとまではいかないが、名曲にはなりえない音楽に成り下がっている。
「え? あ、ほんとだ」
女子生徒は鉛筆で書かれた楽譜を修正し始める。
「やれやれ……それでバイトが務まるのかねぇ」
音楽教師となった僕は吹奏楽部の顧問として放課後に指導をしている。
とは言ってもピアノしか弾けないので、ほぼ専属教師のようになっているのだが。
「明石、あと10分で僕は帰るから」
時計を見てそう決めた。普段ならもう少し学校に残っている。
「えー、ちょっと早くないですかぁ? まだ5時半だよ?」
敬語とタメ語が入り混じるこの女子生徒の名は、明石琴音。
何故か僕に付きまとう高校2年生。
「18時からタイムセールがあるんだよ。久々に良い肉が食べたい」
家計を救うのは買い物の仕方だ。
安く食材を手に入れ、余すことなく使い切る。
これが食費を浮かせる一番の方法だ。
「せんせー働いてるんだから良い物食べればいいのに」
女子高生は呑気なもんだ。
働くってことは確かに学生時代よりもお金が手に入る。
けれど、全てを自分の稼いだ金で賄わなければならない。それに結構な額が税金として徴収されていく。
あぁひもじい。
「そういう嗜好品はたまに食べるからいいんだ」
そういうわけで菓子とかジュースとかはたまにしか嗜まない。
将来を見据えて貯金は大事だ。
「ふーん、そういうものなのかなぁ」
「いずれお前にも分かるだろう」
僕だって高校生の頃は大人になったら、もうちょっとお金がもらえると思っていた。
世の高校生の将来感なんてそんなものだ。
「私もついていこっかな」
「ついて来るのは構わんが、楽譜製作はいいのか?」
明石はどこかの出版社の楽譜制作のアルバイトをしているらしい。
そこそこ自信があって応募したらしいが、いざ任されると不安で音楽教師たる僕に相談してきた。
締め切りは厳守で、遅れると出版に遅延が生じる。
そうなればバイト代が入らないだけでなく、賠償金的な物が発生するらしい。
「提出期限はまだあるから大丈夫。それよりも先生とのコミュニケーションの方が大事なのであります」
やっぱり呑気なものだ。ついさっきも間違えたばかりだろうに。
「……通報されるのは僕なんだけどな」
ついこの間も明石と教材を買う為に本屋に行った際に、自称ポリスメンに声を掛けられたばかりだ。
「もしもの時はちゃんとそういうのじゃないって言ってあげるよ」
当たり前だ。僕はもう2度と年下に好意なんか抱かない。
「本当に頼むぞ」
明石は広げていた楽譜をクリアファイルに挟んで片づけた。
そしてピアノの鍵盤をウエスで軽くふき、布をかけて蓋を閉める。
「よしっ! いこっ!」
妙に元気な明石。不気味だ。こういう時は何か魂胆がある。
「最初に言っておくが、奢らんからな」
「……ちぇ」
やはりそれが狙いか。女子高生とは実に分かりやすい。
「逆に何故奢ってもらえると思ってたんだ……」
自分のバイトのことで頼っている教師に対して、もう少し謙虚になれないものだろうか。
「そこは大人の優しさでしょ」
大人を何だと思っているんだ。大人と子どもの明確な違いは優しさなんかじゃない。
心の冷たさだぞ。どんなに暖かい心を持った子どもも社会の荒波に飲まれて冷たくなっていく。
今はそういう時代なのだ。
「じゃあ僕は優しくなくてもいい。むしろ優しくないと思え」
特定の人物にならまだしも、誰それ構わず優しい人間になんかなりたくない。
ましてや教え子に必要以上に優しい教師になんかなりたくない。
「はいはい。分かったから行くよ」
僕の話なんかまるで聞いてない。
流石に僕のことをなめ過ぎじゃないか?
「何故お前が先導する……副部長、音楽室の施錠は任せた」
窓際でフルートの練習をしていた副部長は手を止めて頷いた。
返事を確認した僕は、明石に手を引かれながら音楽室を後にする。
「あ、せんせー。もうあの駄菓子屋さんにかき氷あるよ。もう夏だね」
校門を出ると生徒の姿はもう少ない。
帰宅部の連中は既に帰宅しているし、部活に勤しむ生徒はまだまだ帰ろうとはしない。
「そうだな。もう7月だしな」
今年の夏もきっと熱くなる。去年よりも、一昨年よりも。
きっと、十年前よりも。
「そろそろ蝉がうるさくなるね」
明石は嫌そうな顔をしながら言った。
「夏は嫌いか?」
だからそう思った。
「んーどうだろ。好きでもないし、嫌いでもないって感じかな。季節の好き嫌いなんて考えたことないや。暑いのも嫌いだし、寒いのも嫌いだよ」
女子高生なんてこんなもんだろう。何かを色々と抱えているくせに、意外と何も考えていない。
だからこそ、箸が転がっただけで腹がよじれるほどに笑えるんだ。
少しだけそれが羨ましかったりする。
もう僕も歳をとってしまったんだな。
「せんせーは?」
明石は僕の方を見ながら聞いてきた。
「夏、好き?」
どうして明石が笑っているのか分からないが、普段からムスッとしていた誰かより幾分かましだろう。
明石には笑顔が良く似合う。
「そうだな……好きだったな」
明石の質問には考えなくても答えられる。
いつも考えていることだから。
「なんで過去形? 今も好きなんじゃないの?」
今度は首を傾げながら明石は笑う。
「さぁ、どうだろうな」
夏は好きだった。
耳を裂くほどの煩い蝉の音、触れる事の出来ない遠くに揺れる陽炎、フラッシュの様に光る水平線、眠りを妨げる夜の生温い風、アステリズムの様に光る夜空の星々。
例を挙げればきりがない程に。
夏が好きだった。
けれど、それを自覚した時にはもう、夏が好きという感情はなかった。
ひと昔前の夏の夜を最後に、夏は好きな季節からどうでもいい季節になった。
夏の想い出は彼女の記憶と隣合わせだから。
「ううん。せんせーは夏が好きだよ」
明石は表情は豊かな女の子だった。
今は寂しそうな顔をしている。
たぶん嘘とか苦手だろう。
「どうして断言できる」
これは僕の負け惜しみだ。的確に心を突かれたことへの。
「そういう目、してるから」
「………そか」
相変わらず寂しそうな顔をしていたが、さっきまでとは少し違う表情だった。
今は想いを馳せるような寂しい顔をしている。
「うん、そうだよ」
それから僕たちは無言で歩いた。
まだ帰宅ラッシュ前だからか、人通りは少ない。すれ違う人は制服姿の学生か、老夫婦ばかり。
スーツ姿の僕とブレザーの明石はこの中ではやや目立つ。
つまり、ああいう事や、そういう事を疑われるわけだ。
しかも明石は僕のことを「せんせー」と呼ぶ。怪しさが加速している。
「なんで黙ってるの?」
明石が俯きながら歩く僕の顔を覗き込みながら言った。
「何か話題あるか?」
意地悪を言おうと思ったわけじゃなくて、本当にそう思った。
「せんせーのこと聞きたいなぁ」
そう言った視線は真っ直ぐに空を見ていた。
その視線の先は、あの入道雲だろうか。
「そうだなぁ。誕生日とか血液型とか教えてよ」
「そんなの知ってどうするんだ」
僕も明石が見ているであろう入道雲を見つめた。
遥か上空で夕日に照らされオレンジに染まる雲。それは寂しさと美しさを兼ね備えている。
「別にどうもしないけどさぁ。コミュニケーションだよ」
「コミュニケーション、ねぇ……」
なんとも裏がある響きだ。あまりの怪しさに疑わずにはいられない。
「聞いてもいい?」
一歩先を行って振り返りながら明石は言った。
「構わん」
ただのプロフィールなら隠すようなことでもない。
「えっとね。じゃあ誕生日は?」
まずは無難なところから攻めてきたな。
「1月27日」
必要な情報だけを載せて答えた。
「あ、冬なんだ。春だと思ってた。好きな食べ物は?」
僕に春のイメージがあるのはよく分からない。
「甘い物だな」
最近はあんまり食べてないけど、甘い物なら全般的に好きだ。
「じゃあ嫌いな食べ物は?」
そう聞かれて考えてみるが、思いつかない。野菜は好きだし、魚だって好きだ。
酢の物だって食べるし、苦い物も嫌いじゃない。
しいて言えば辛い物か。
でもそれを言うと子どもだと冷やかされそうだから言わない。昔冷やかされた記憶がある。
「ないな」
辛い物も厳密に言えば苦手なだけ。嫌いなわけじゃないから、嘘は言っていない。
「趣味は?」
段々と明石から反応が消えていった。
コミュニケーションが作業になりつつあるようで、どうも気に食わない。
「読書だな……って婚活パーティーかよ。そんなの聞いてどうすんだよ」
だから流れを断ち切った。このまま続けても良いことは無い。
「えー 面白いしい良いじゃん」
さっきまで薄い反応をしていたのに、今は残念そうにしている。
感情が顔に出るタイプだと思っていたから、あれは本心だと思っていた。
つくづく女子高生という生き物は、いくつもの顔を持ち合わせていると思う。
教師をしていながら、生徒の本当の姿って物を掴めないでいる。
「よくない。それにもう着いたからいいだろう」
店舗の自動ドアを超え、冷房の効いた空間へ入る。
すると一気に汗が冷え、少し肌寒い。
「どこからまわるの?」
「肉だな。肉が食いたくて仕方がない」
普段は外国産のお徳用肉を買い込み、冷凍してちょっとずつ使っている。
まずいことはないが、どうしたって味は落ちる。
「豚?」
「鶏に決まってるだろう」
豚肉や牛肉は脂が多くて胸焼けしてしまう。
さっぱり塩で味付けした鶏肉が一番良い。
「筋トレでもしてるの?」
確かに筋トレしている人はサラダチキンを食べているイメージある。
「鶏が一番ヘルシーなんだ」
お生憎様、筋トレは僕には遠すぎる存在だ。
お近づきになることは一生ないだろう。
「ふーん。牛の方が美味しいと思うけどなぁ」
「否定はせんが、好みだからな」
買い物かごを取って店の奥、生鮮食品売り場に向かった。
「京地鶏3百グラムがイチキュッパか……破格だな」
ブロック状に切られた鶏肉を手に取り、頭の中でメニューを考える。
普通に焼いて檸檬、大根と茹でる、照り焼き。鶏肉を使ったメニューはかなりある。
なんならカレーやシチューに入れてもいい。
「何考えてるの?」
真剣に悩む僕の顔を覗き込みながら明石が言った。
「今日の晩御飯のメニューだ」
「この鶏肉を使うの?」
京地鶏を指差す明石。ブランド名とか知っているのだろうか。
「そうだな。焼くか茹でるか煮るか……うん、照り焼きだな」
腹の虫が鳴ったような気がする。
昼ごはんの量が少なかったから、もうお腹が空いている。
「せんせーって結構料理上手なんだね。高校生のときも自分で弁当作ってたんでしょ?」
「あぁ、そうだな」
ん? 高校生のときも?
僕はこいつに高校生のときの話なんかしたか?
「お前どこで——」
「私も食べに行っていい?」
僕の言葉を遮って明石は言った。
「は?」
明石の訳の分からない発言に、僕の疑問は吹き飛んで消えていった。
「いいでしょ?」
お得意の麗らかな笑顔を浮かべてくる。
「いいわけないだろ。お前は馬鹿か」
こちらには社会的立場という物が存在する。
「なんでのダメなのよ」
頬を膨らまして不満さを体現する明石。そんな攻撃は僕には効かない。
「生徒を家に上げる教師がどこの世界にいるんだ」
「こーこ」
明石は僕を指さして言った。
「はぁ……仕方ないか」
流されてしまうのも致しかた……
「あら、冴羽先生。放課後に生徒とデートですか? 何やら晩御飯をご馳走するとか」
突然の後ろからの声に驚き買い物かごを落としそうになった。
しかし何とか耐え、恐る恐る後ろを振り向く。
そこに立っていたのはスーツ姿の長い髪の女性。
「あ、梓……」
僕は声と、声にもならない息を漏らす。
「梓先生どうしてここに?」
さっきよりも明石の声が低い。
敵意を剥き出しにしている犬みたいだ。
「私も晩御飯の買い物ですけど、何か?」
こっちもこっちで牙を剥く猟犬のよう。
「い、いえ何も……でもその割にはカゴもって無いんですね……」
やめろ明石、ツッコむな。
「あ、これは……と、取り忘れただけよ」
一瞬で耳まで真っ赤になる梓。相当恥ずかしいだろうな。
「その割には動揺してるみたいですけど……」
やめてくれ明石。
火に油を注ぐような真似をするんじゃない。
それで燃え上がった火に炙られるのは僕なんだぞ。
「そんなことはいいの! 明石さんはこんな男と一緒にいないで早く帰りなさい」
梓は勢いで誤魔化すことにしたようだ。
「えーでもー」
当然そんな強引な方法で身を引く明石ではない。
「でもじゃありません。早く帰りなさい」
それでも勢いを緩めず攻める梓。大人の悪い所が出ている。
「はいはい、分かりましたよ。じゃね、せんせー」
不満そうながらも大人しく帰ってくれた。梓は明石にとっての天敵みたいだ。
今度から利用させてもらおう。
「お、おう……気を付けて帰れよ」
明石は僕にだけ手を振って店の外へと消えて行った。
「はぁ……」
どっと疲れが出た。そして、これからの災難を考えると胃が痛い。
「なんでここにいるんだよ、梓」
とりあえず聞いてみた。
「なにさ、浮気現場がバレて焦ってるの?」
声に棘がある。鼓膜に刺さりそうだ。
「いや、浮気って。あいつは生徒だろうが。僕は生徒に手を出す程落ちぶれちゃいない」
犯罪者にはなりたくないからな。
「どうせ男は若い子の方がいいんでしょ」
そっぽを向いていても、唇を尖らせているのが分かった。
「おばさんになってもみたいなことを言うな。否定はしないが否定させてもらおうか」
「いや、別に聞きたくない。それよりお腹すいた」
タイミング良く腹が鳴るのだから、梓の体は便利だ。
「はいはい、手早く買い物済ませようか」
梓も食欲には勝てないだろう。このまま話を有耶無耶にしてやろう。
「お酒も買って良い?」
相変わらず僕と目線を合わせないが、さっきよりも声が明るい。
「いいけど、僕は飲まないからな」
酒は好きじゃない。
「なんでよ、一緒に飲みたいのに」
そういう言い方は実にずる賢い。
可愛らしさを全面に押し出すのはやめていただきたい。
「飲めないんだよ」
飲めない奴に飲ませてはいけない。それは梓も分かってくれるはず。
アルハラ、ダメ絶対。
「飲まず嫌いは良くないぞ」
やっと目を合わせてきたかと思えば、僕に向かって度数の低い酒を差し出してきた。
「飲んだ上だ」
そのお酒を棚に戻しながら答えた。
「そ、ざんねん」
梓はカゴの中に適当なお酒を入れ、ついでにつまみを放り込んだ。
「おい、そんなに飲むのか?」
ビールやチューハイやらが続々とカゴに投入されている。
「ダメ?」
梓は意外にも酒飲みになってしまった。
大学時代に瑠璃が飲ませまくったのが原因だな。
「ダメじゃないけど、大丈夫か?」
主に二日酔いについて。
「金曜だし大丈夫よ。明日は休みで一日中寝てられるし」
「2日酔い前提で飲むのか……」
梓は「むっふふ」と不気味に笑ってレジの方へと消えて行った。
2
「ねー、ご飯まだー?」
炬燵(夏なので布団はのけている)で既にチューハイを開けた梓が、台所の僕に叫ぶ。
「もうできたから待ってろ。米は?」
「んー、いらなーい」
机の真ん中に鍋敷きを置き、その上にフライパンを乗せた。
「照り焼き?」
「うん」
箸と小皿、自分用の米をついだお茶碗を持って机の前に座った。
「いただきます」
「いただきまーす」
梓は箸を取るや否やフライパンから肉を挟んで口に運ぶ。
「ん~おいしいー!」
アルコールが回っているせいか、普段の梓からは考えられないような笑顔で食べている。
酒が入ると人が変わるタイプの人種なのだと最近になって知った。
大学時代の飲み会は瑠璃がいたからなのか、そんなに人格が変わることは無かった。
「ぷっはぁ~やっぱり週末の酒は最高だわぁ」
頬を赤くしてチューハイで喉を潤す。実におっさん的飲酒。
しかし、幸せそうで何よりである。
———1時間後
「かーなーたぁー」
「あぁ! もうなんだ鬱陶しいっ!」
アルコールが周り、完全に我を失った梓が洗い物をする僕の背中に飛びつき、襟元を引っ張る。
「ねぇーかなたー」
酒臭い。
「だから洗い物やってんだって言ってんだろうが!」
「そんなのいいからさぁー早く布団いこぉーよぉー」
酔うと異常なまでに甘えたれになる。可愛らしいけど、今はウザさが勝っている。
「もういいから先に寝てろ!」
あまりにも鬱陶しかったので、思わず叫んでしまった。しまった、と思った時にはもう遅い。
梓は目尻に涙を浮かべ、泣き出した。
「うわぁぁぁ、奏多のばかー!」
急に大泣きしだしてしまった。酔っぱらいの対応は実に難しい。
「ご、ごめん」
けど泣かせたのは僕に変わりないので、謝罪はちゃんとする。
「どーせあの私なんかより、あのおっぱいの大きいJKがいいんでしょ! この変態ロリコン教師‼」
誰のことだ……?
「……もしかして明石のことか?」
少し思案し、思い浮かんだ人物は明石しかいなかった。
「どーせ私は貧乳のアラサーですよーだ」
なんで教え子と比較して不貞腐れているんだ。
「よく分からん怒り方をすんなよ……」
女子高生なんかと比べたって、そもそもの土俵が違うんだから比較にならないだろ。
「出てく……」
「は?」
突拍子もなく梓は呟いた。実に酔っぱらいらしい。
「今までありがと。じゃあね」
「ちょっとおい!」
梓はフラつきながらスマホと財布を持って玄関へと出て行ってしまった。
「ちょっと待てって」
梓のか細く色白な右手を掴んで、引き留めようとするが。
「離してよ……」
この通り頑固な奴だった。
「嫌だ」
でも、頑固さでは僕だって負けてはやらない。
「何で」
「酔っぱらった状態で外に行かせるわけないだろ」
嘘じゃない。本当だ。
「私のことなんて放っといてよ」
でも逆効果だったみたいだ。
「断る」
本心はまだ言いたくない。
だから取り留めない言葉でここは乗り切らなければならない。
「どうしてよ! あの子の方が可愛いし、おっぱいもおっきい……それに奏多に懐いてるよ」
「だからなんだってんだ。あいつは僕の生徒だ。それ以上でもなければそれ以下でもない」
梓が一番不安に思っていることを取り除いてやらなければ、梓は納得してくれないだろう。
「ほんと?」
涙を浮かべながらも、しっかりと僕を見つめる梓。
「本当だよ」
だから僕も梓を見つめ返しながら答えた。
「でも……」
そんな目を逸らしながら、梓は何かを言いたそうだった。
「ん……?」
梓は迷うような素振りを見せ、俯いた。
「どうした?」
僕はしゃがんで、梓と目線を合わせて言った。
「私……まだ奏多に好きだって言われてない……よ」
そう言った梓の目が痛い。その瞳には涙が浮かぶ。
この2年間で梓に対してかけた言葉にその2文字はなかったかと、自分に問いかける。
しかし、そんなことをするまでも無く、自分自身は知っていた。
「……それは、ごめん」
何故、その言葉を出さなかったのか。きっと梓も分かっている。
分かっていながら、今まで何も言わなかったのだ。
けれど、それももう終わり。
この場所で結論を出さなければ、僕は大切な物を2つ失う事になる。
「奏多の中にあの娘がいるのは分かってる。その娘が一番なのも分かってる。けど、それじゃあ私が可哀想だよ………奏多にとって私は……なんなのさ……」
梓は目尻の涙を拭って言った。
荒くなる呼吸と、詰まった喉で苦しかった。
それでも、目の前の女性に気持ちを伝えなければならないのだという責任が、重い口を開かせた。
「ホントはもっと準備してから言うつもりだったんだけど……」
こんな梓が酔っているときに言いたくなんかなかったけど。
「なんだよ……言ってみろよ……」
梓は堪え切れなくなって、また大粒の涙を溢している。
「僕はまだ彼女のことを忘れられない。けどそれは忘れたくない事なんだ。それを分かった上で聞いてほしい」
顔が熱くなるのを感じた。手の中に汗が滲む。
ゆっくりと口を開きながら、考え抜いた言葉を震わせる。
「梓。いや…弥生。僕と結婚してください」
涙ぐんでいた弥生の顔が固まり、やがて新鮮なトマトのように真っ赤になった。
「へぇ? あ、あぁああんた今、弥生って……え⁉」
困惑している弥生は可愛らしい生き物だ。
「いや、だって結婚したら名字で呼べないし……」
僕だって恥ずかしいさ。
けど、弥生は奏多って呼んでくるんだから、僕が呼び捨てしたことに対しては何も言われたくはない。
「え? ほんとに……? 私てっきり振られるものだと思って」
弥生は真っ赤になった顔を両手で隠して壁にうなだれた。
「ずるぃ……私が酔って弱ってるときに言うなんて卑怯……こんなの断れないじゃん……」
「ごめん」
確かにそうだと思い、自責の念に駆られた。
「でも……嬉しい。ありがとう、奏多」
そう呟いた弥生の顔は見えないが、声を聞けばどんな顔をしているのかは分かった。
僕としてはもう少ししっかりとした返事が欲しかったところだが、その声を聞くとどうでも良くなる。
「じゃあ、もう出て行くなんて言わずに早く布団いくぞ」
当の目的は弥生の家出を阻止することだった。
「えっ⁉ふ、ふとん? はやく……ない?」
「なんでだよ。もう寝るって話だっただろ?」
弥生は自分が勘違いをしていたことに気が付き、さらに顔を紅潮させた。
このくらいの仕返しは許してほしい
3
弥生が眠りについたのを確認してから、こっそりと布団から抜け出した。
時刻が午前零時。
そろそろ週末の宴も終わりを告げる頃だ。
昼間と同じシャツに、外していたネクタイを巻いて外に出た。
夏夜の風はどこか生ぬるく、ジメジメとして気持ちが悪い。
まだ賑わいが衰えない飲み屋街を曲がり、商店街へと入る。アーケードの中腹に目的の場所はあった。
〔Le Mars〕
あまり僕には馴染のないバーだ。
暗めのブラウン調の扉を開けると、ドアベルが鳴り、店内に流れるクラシックが耳に届く。
ほんのりと香る煙草の苦みと、アルコールの香り。
「いっらしゃいませ」
カウンターに立つバーテンが目も合わさずに静かに言う。
そのバーテンの前に腰を下ろした。
「あれ? 奏多くん?」
「よう。久しぶりだな」
「一人で来るなんて珍しいね。お酒飲む気になったの?」
グラスを拭いている瑠璃と会話を投げ合う。
「いや、今日はお前に話があって来たんだ」
「話? 大事なこと?」
瑠璃は吹き終わったコップを仕舞うと、カウンターから出てきた。
「そうだな。大事だと思う」
少なくとも僕と瑠璃にとってはとても大事な話だろう。
「分かった。じゃあ、店の前にcloseの看板出してくるからちょっと待ってて」
「いいのか?」
まだ閉店時間になっていない。
「うん。今はお客さんいないし、あと一時間もすれば閉店時間だし」
「悪いな」
貸し切り代とか払った方がいいだろうか。
「古い親友の為だからね」
微笑みを残して瑠璃はカウンターを後にした。
数分後、腰元の黒いエプロンを外した瑠璃が隣に座った。
「今日はどうしたの?」
さて、なんと言おうか。
「僕、結婚することにした」
結局考えても仕方がないと思い、素直に事実をストレートに告げることにした。
「あ……そうなんだ」
少し驚いたような瑠璃。それでも、取り乱したりはしなかった。
「誰と、って聞かないんだな」
「弥生でしょ?」
僕は頷いた。
笑って答える瑠璃の横顔が、僕にはひどく痛々しく見えた。
「2年も一緒に住んでるんだよ? 弥生以外はあり得ないでしょ」
「それもそうか」
それで察しない方が無理がある。
「で、なんで結婚報告を奏多くんが一人で来るのさ」
瑠璃は前髪を右手でくるくると回した。落ち着かなさそうだ。
「弥生とは日を改めてくるよ。けど、先に僕から謝っておきたくて」
「何をさ」
髪を触る瑠璃の手が止まった。
「瑠璃から弥生を取ってしまったから」
そう、奪った。大切な親友から、大事な恋を。
「なんだい、それ。もともとボクの物じゃなかったよ。中学のときからあの子は奏多くんのことだけを見てた。そこにボクの入る隙なんてなかったんだ」
瑠璃はカウンターの奥に並べられた酒のラベルを眺めながら呟いた。
僕には酒の名前はよく分からない。
例えその酒の名に瑠璃が特別な感情を抱いていたとしても。
その横顔を見ることが出来なかった。
だから僕も酒のラベルを見つめた。
そのラベルには「弥生」と書かれていた。
前に来た時に、瑠璃がこの酒は奄美大島の黒糖焼酎だと言っていた。
その隣には「瑠璃」というラベルの青い瓶が置いてある。
「ねぇ、奏多くん。教えてよ」
強い意志と、弱い心が見え隠れしている。恐れているんだろう。
「何を?」
だから、僕は分からないフリをした。
「ボクは男の子? それとも女の子?」
その声は震えているように感じたのは気のせいだろうか。
「お前は南川瑠璃という人間だ。女か男かなんてつまらない現実囚われる必要はない。僕は君がどちらでも友人だと思っているし、弥生だって君がどちらでも親友だと言うさ」
そうさ。僕の親友は南川瑠璃という人間だ。
それが女だろうが男だろうがどっちだっていい。そんなのは些事な事だ。
「優しいんだね。奏多君は。弥生が惚れるのも分かる気がする」
それから、しばらく沈黙が続いた。
「喉、乾いたね。結婚祝いに何か奢るよ。ここは酒場だからね」
沈黙を破りたかったんだろう。
心地よい沈黙もあれば、息苦しい沈黙もある。
今の瑠璃にとって、この沈黙は後者以外の何物でもなかったんだろう。
「ありがとう。でも、僕は……」
こんな状況でも、僕の体は酒を拒む。
「こんな時くらい遠慮しないでよ」
それは瑠璃も分かってくれるはずだが、それでも自分の意見を曲げることはしなかった。
「……うん。分かった」
だから僕も今日だけは否定しない。
受け入れる。ある意味これも罰だから。
瑠璃の苦しみは、僕が酒を飲むことと比べられるようなもんじゃないだろう。
「ちょっと待っててね」
瑠璃は立ち上がってカウンターの中に立った。
そしてシェイカーの中に、手際よく液体を注ぎ、蓋を閉めてそれを振る。
その姿は様になっていて美しい。
瑠璃の容姿の端麗さと合いまって実に絵になる。
一通り混ぜ終えると3角のグラスに液体を注いだ。
「お待たせ。こちらロングランド・アイスティーです」
差し出されたグラスには、紅茶の様な淡く透明な飲料が注がれている。
「頂きます」
酒は飲めないが、友人の好意は無下には出来ない。
カクテルは一気に飲み干すものと何かの記事で呼んだので、それに倣い一気に飲み干した。
紅茶と言うよりはコーラの様な甘みが舌に広がる。けれど、アルコールの熱はない。
「おいしい……」
お世辞じゃない。素直にそう思った。
「うふふ、それただの紅茶だよ。この前弥生がくれたやつ。それにシェイカーでシロップと混ぜてみたの。アルコールがダメな人にお酒は出せないからね」
瑠璃は大人になっても優しいままだった。冷たさを感じない。
「何かすまんな。これ、美味しかったよ」
瑠璃を取り巻く環境が冷たかったから、優しさを失わずに済んだんだろう。そう思った方が人生は豊かになる。
「それは良かった」
瑠璃は棚から瓶を一つと、氷を入れたグラスを持って僕の横に座った。
「ボクもお酒飲みたくなっちゃったよ」
「じゃあ、それは僕の奢りだ」
高いお酒だったらどうしようと一瞬悩んだのは内緒だ。
「えへへ、ごちになります」
瑠璃はウォッカをコップに注いで、薄めることなく一気に飲み干した。
瑠璃は弥生と違って酒に強い。そんじょそこらの酒では悪酔いしない。
だと言うのに、そんな瑠璃も今日は既に頬の辺りが紅潮している。
「ねぇ、奏多くん。一つだけ、お願いがあるんだ」
酒艶な瑠璃がどんなお願いをするのか分からない。
「僕にできることなら」
でも、僕にできることならなんだってしてやるさ。
「僕を抱きしめてほしい。もちろん、男の子の僕をだよ。女の子の僕を抱きしめちゃったら弥生に怒られちゃう」
瑠璃は酔ってるんだ。だからこんな発言ができる。
「……それでどうするんだ」
そんな瑠璃に一抹の不安を覚えた。瑠璃が瑠璃ではなくなってしまうような不安。
「ボクは女の子になるよ。これからの人生はその方が幸せだろうから」
グラスの中を見つめる瑠璃。その水面には自分が顔が写っているのだろうか。
自分と向き合ってしまっているのだろうか。
「……そんなこと、しなくてもいいだろう」
君は君のままでいてほしい。
そう思い、願い、告げるのは簡単だ。
だけど、その先の責任を僕はとることができない。
僕には弥生を抱えるだけで精一杯なのだから。
「ボクはボクにけじめをつけたいんだよ。弥生のことを好きだったボクに」
ならそれは僕にしかできない役目なんだろう。きっと。
「分かった」
大役は僕が預かった。
「ありがとう」
瑠璃は目を閉じて両手を僕の方に広げた。
そと閉じられた瞼は少しだけうるんでいるように見えた。
そんな瑠璃の体を抱きしめた。瑠璃は抱き返すことはしない。
あくまでもこれは慰めであるから。
その刻は数十秒で終わりを告げる。
「じゃあ、僕はそろそろ帰るよ」
卒業式の後のような名残惜しさはない。
夏休みの終わりのような寂しさもない。
あるのは二日酔いの朝のような頭痛だけ。
「うん。あ、そうだ。これ持ってってよ。結婚祝い」
瑠璃は棚から「弥生」と書かれた酒を僕に手渡した。
「いいのか?」
それは瑠璃が楽しみにしていたお酒なんじゃないのか?
そう思った。
「いいよ。2人に飲んで欲しいから」
瑠璃の作り笑いは、僕には通じない。
仮に弥生を騙せたとしても、僕を騙すことはできない。逆も同じだろうから。
「ありがとう。また来るよ」
ここを気付かないフリをする。それが最適解だと信じている。
「今度は夫婦で来てね」
「あぁ。それから。また遊びに来いよ。これっきり来ないなんてのはなしだ。それは弥生が悲しむからな」
言っておかなければ、瑠璃は僕らと距離を置いてしまう。
それが残酷なことだとしても、僕らが友達であったという事実は消えない。
「分かってるよ。近いうちにまた遊びに行くよ」
その顔に嘘はない。
どれくらい時間がかかるか分からないが、瑠璃とはまだこれからも友達でいられるだろう。
「それじゃあ」
「うん、またね」
酒の瓶を持って扉を開けた。それとほぼ同時だった。
「もしも僕が女の子の心を持っていたら、奏多君のこと放っておかなかったのになぁ……」
南川瑠璃という少年の最後の言葉が聞こえたのは。
僕は聞こえないフリをして帰路についた。
「ぅぅ……っ…………ぅぅ………」
耳の奥に哀しい泣き声が届いた気がした。
4
帰宅した僕を待っていたのは唇を尖らせた弥生だった。
どうやら目を覚ました時に、僕がいなかったことに怒っているらしい。
「どこ……行ってたの」
虚ろな目で僕を見てくる。
「えっと……」
「えいっ」
弥生は僕の胸に飛び込み、シャツの匂いを嗅いだ。
「瑠璃の匂いがする………」
こいつは犬か。
「あ、まぁ。ちょっと会いに行ってた」
「なんで」
怒った弥生も可愛らしい。
「結婚報告だな」
嘘は言っていない。
「なんで一人で行くの?」
確かにそう言われたら、言い返す術がない。
「ちょっと酒が飲みたくなって。ほら、これ」
機嫌を直してもらおうと弥生に『弥生』に手渡した。
「これ……」
不思議そうに眺める弥生。
「お土産だ」
瓶を手に取りしばらく見つめていた
「一緒に飲んでくれる?」
瓶を抱きかかえながら弥生は懇願する。
「うん、いいよ」
即答に決まっている。炭酸で百倍くらいに薄めて飲もう。
「ほんと?」
何度も聞いてくる。普段から酒を拒み過ぎたな。
「うん」
やっぱり50倍くらいにしようか。たまには酔ってみるのもいいかもしれない。
「やった。じゃ、リビング行こ」
弥生は鼻歌を歌いながら奏多の手を引いた。
はぁ、流石に薬指は気付いてほしかったなぁ。
サプライズで眠っている間に弥生の薬指に結婚指輪をはめておいたのだが、どうやら気付いていないらしい。
「あ、そーだ。これ、ありがとね。でも私的には起きてるときに欲しかったなぁ」
起きたら指輪がついてるサプライズは良いと思ったんだけどなぁ。
「気付いてたのか……」
反応は少し予想外だったが、気付いてくたのは素直に嬉しい。
「奏多が私にサプライズなんて百年早いわよ。うふふ」
その笑顔にドキッとし、思わず顔を背けた。
「なーに奏多、照れてるの?」
「うるせい」
心臓がうるさい。目も泳ぎまくっている。
「あはは、顔真っ赤じゃん」
頬を上げながら笑う弥生は、本当に可愛らしい。
「あーもう。いいだろう!」
そんな顔を向けられたら、僕の心がもたない。
「あははは。ねぇ、今私に指輪はめてよ」
弥生は薬指から指輪を外し、僕の右手に預けた。
そして左手をこちらに差し出す。
「ちゃーんと好きって言いながらはめてよ?」
弥生の無茶ぶりを受け止め、指輪を持つ。
「弥生」
さっきよりも心臓がバクバクとうるさい。
「うん」
弥生の笑顔が眩しくてつらい。可愛すぎて命が削られそうだ。
「大好きだ」
考えなくとも、言葉は自然と溢れた。
「うん、私も大好きよ。かなた」
薬指に指輪がはまった時、僕たちは初めての口づけを交わした。
そして、夏をもう一回。
君がない夏を笑って迎える。
その心に彼女の記憶を残して。
完




