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Summer Evidence  作者: 米八矢


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第6章 突然の微風に吹かれて


 目が覚めた。

なぜか頭がスッキリしている。何か大事なものが欠けているような感じだ。

例えるなら、片方しかない靴下。ケチャップのかかっていないオムライス。

そんな感じ。いや、炭酸の抜けたコーラの方が適切か。


 一先ず布団から這い出る。

肌寒い。エアコンが効きすぎているんだ。

何故か体中が痛くて、ボキボキと骨が鳴った。


「ぁ……ぇ」


 声を出そうとすると、何かが詰まっているような感覚になり、うまく息を吐けない。

冷たい炭酸とか飲みたいな。アイスとかも食べたい。


辺りを見渡すと知らない天井に、知らないカーテン。

鼻につくアルコールの匂いがやけに懐かしく思えた。


「冴羽、調子はどう……」


部屋のドアが開いたかと思うと、何かを落とす音がした。

グレーのロングコートをまとった、薄紫色のセミロングヘアーの女性だ。

落としたのはケーキ屋の箱だろうか。


「……ぁ」


 大丈夫か、そう問いかけたいのに。

やはり声はうまく音にならない。

女性は箱を拾おうともせず、まっすぐに俺に駆け寄り、勢いよく抱きしめた。


「ばか……」


 その言葉の意味は理解できた。

けれど、意図するところが分からない。


この人は誰だ? どうして俺を見て驚いた? なんで今こんなにも泣いているんだ?


「ごめんなさい。取り乱してしまって……すぐに先生を呼んでくるから」


 女性は俺を放すと、走って病室を出て行った。


「……」


 状況がよく分からない。あの人は誰だ?

 思考が堂々巡りしていると、先ほどの女性は白衣を着た背の高い女の人を連れて戻ってきた。


「……ぁぁ、よかった」


 医者は小さく呟くと、俺に近づいた。


「今はうまく喋れないだろう。それは当然のことだ。無理に喋らなくてかわない。今から検査だけさせてくれ」


 俺は頷き返す。

入院をしていることだけは分かった。


「梓君、悪いが外で待っていてくれるか?」

「……分かりました。冴羽のこと、よろしくお願いします」


 2人きりになると検査が始まった。

血圧とか脈拍とかを測られている。

原因は分からないが、ひどく喉が渇くくらいは眠っていたらしい。

腕を足にギブスとか包帯は巻かれていない。

頭に巻かれている感覚もない。あるのは両腕に刺された点滴のみ。


小一時間ほど検査を受けると、やっと息苦しい空気から解放された。

文字通り、声も少し出せるようになった。


 病室には俺と女性の医者だけ。

だから、ずっと思っていたことを口に出す。


「おれは……だれです、か」


 自分の年齢も、名前も何も分からない。


「……そうか」


 女性がカーテンを開けた。


「少年。この景色に違和感はあるか?」


 窓の外を見る。

白い雪を纏った木が見えた。

やけに寒そうな景色に身体は違和感を覚えているようだ。背筋に嫌な汗が流れた。


「あります」

「では次だ。これはどうだ?」


 女性が見せてきたのはスマホの画面だ。2024年12月14日。時間はお昼過ぎ。


「あ、あれ……」


 なんだろう。

なにかが変だ。何かがおかしい。なんだ、何がおかしいんだ。

雪……。雪……? 冷房が効きすぎで寒いと思ってはず……。

それにさっき、冷たい炭酸が飲みたくて、アイスが食べたいと思った。


冬。

それが違和感なんだ。


「いまは……冬?」

「あぁ、今は冬だ」

「うそだ……」

「では、少年は今の季節をなんだと思っている?」

「そ、それは……」


 何故か分からないけど、耳の奥にうるさいほどのセミの鳴き声が響いている。

夜空に咲く花火が瞼に浮かぶんだ。


「なつ……俺の季節は夏だ」


 どうしてか目から涙が溢れた。自分の状態を察してしまったから。


「俺は記憶喪失なんですか……」

「そういうことになる」


 下手に誤魔化されるより、はっきり言われるほうが清々しい。


「どうして、俺は何をして……」


 分からないから頭を抱えた。

一気に恐ろしくなった。

俺はいま何歳で、今まで何をして生きてきたんだ?

誰に何を教わって、誰かに何かを伝えて。

そんな風に生きていたはずなんだ。

思い出せない。欠片も浮かんでこない。


「少年、それ以上考える必要はない。私にとっては今の君が全てだ」


 俺の心を読んだかのように、女性は優しく告げる。

だけど、今はその言葉すら疑わしく思えるんだ。

なぜなら、この人も医者という立場故に僕に寄り添おうとしていると思ってしまうから。


「あなたは何者なんですか。俺の何を知っているんですか?」

「そうだな。知っているか知らないのか、その2つで言い表すならば……」


 女性は俺頬を両手で包み上げ、視線を自分に向けた。

不思議と嫌な感覚ではないが、恐怖は拭えない。


「私は少年を知っている。君という人間を構成するのに必要な情報の全てを持ち合わせていなくとも、私は少年を知っているんだ」


 不覚にも、心臓が高鳴った。

俺の目の奥を覗こうとするその赤い瞳に吸い込まれそうだ。

透き通るような肌が、心地よい温もりが、俺を絆そうとする。


「だから安心するといい。私は少年の味方だ」


 仮にその言葉が嘘だったとしても、もう俺には関係ない。どうだって構わない。


「……教えて下さい。あなたの名前を……」


 顔から手を離し、頭を撫でる。


「私の名前は日向誘だ。そして、少年の名前は冴羽奏多。他は忘れても構わないが、これらだけは忘れるなよ」

「ひむかい、いざな……」


 変わった名前だ。なのに、耳に覚えがある。


「そうか……誘さんの言うことは間違いじゃないんだ」


 本当にこの人は俺のことを知っているんだ。


「君のご家族や友人にも連絡を入れてある。もうすぐ来るだろうから私はこの辺りで失礼するよ」


 白衣をひるがえして病室を後にしようとする誘さんを、俺は呼び止めた。

何も言わずに振り返ってくれると、言葉の続きを待つかのように黙って見つめる。


「また、来てくれますか?」


 数秒の沈黙で何を考えていたのかは不明だ。


「私の患者は少年だけではないが、少年が呼べば少年のもとに出向くとしよう」


 それだけを言い残し、誘さんは病室から消えて行った。


「はぁ……」


 ベッドに身体を預ける。キャビネットには花や、果物が置いてあった。

たぶん誰かの見舞いの品だろう。


気になったのはA4の茶封筒と、その上に置かれていた古い音楽プレイヤー。

音楽プレイヤーを手に取ると、それはカセット式だった。

最近じゃ滅多に見かけない代物だろうと思う。誰かの忘れ物だろうか。


「……あれ?」


 なんでだろう、使い方が分かる。蓋を開けて中を確認すると、透明なカセットのタイトル欄に『Summer Evidence』と書かれていた。


「夏の証?」


 カセットを戻し、再生しようとしたその時、ドアをノックする音がした。

慌ててプレイヤーを封筒の上に戻す。


「ど、どうぞ」

「入るわよ」


 ガラガラと音を立てて引き戸が開くと、さっきの薄紫色の髪の女性が入ってきた。

手にはグレーのロングコートを右手に掛け、左手にはコンビニ袋が握られている。


「えっと……」


 何も言わずに俺の方を睨んでいる。正直言ってめちゃくちゃ怖い顔だ。思わず目を逸らしてしまう。

「はぁ……。ほんとに忘れてるのね、あなた」


 ため息を吐くと、丸椅子をベッドに近づけて腰掛けた。


「はい、これ」


 差し出されたビニール袋にはシュークリームやミルクティーやら甘そうなものばかりが入っている。

「……?」


「見舞い品。日向先生に聞いたら、本人に食べる意思があるなら食べてもいいそうよ」


 俺、甘い物が好きだったんだろうか。


「ありがとう、ございます」


 今は食べたい気分にはならないが、お礼は言っておかなければならない。


「あの……」


 不機嫌そうに頬杖をつく彼女に、恐る恐る聞いてみる。


「あなたは、どちらさまでしょうか?」


 眉一つい動かさないまま、彼女から出た言葉はとても棘のあるものだった。


「それ、本当に言ってるわけ?」


「す、すいません……」


 謝ることしかできなくて笑えてしまう。


「……弥生。梓弥生」

「え?」

「それが私の名前」


 冷たい態度はとりつつも、名乗ってくれるあたり、実は優しい人なんだろうか。

もしかして、これはいわゆるツンデレというやつか。

結局俺とどういう関係だったのかは分からないままだが。


「変わった苗字の人が多いんですね、この辺って」


 日向も梓もあまりメジャーな苗字というイメージがない。


「どうして変わった苗字だと思うの? 記憶、無いんじゃないの?」

「……そう言われるとよく分かりません」


 怪訝そうな顔をした梓さんだったが、ため息を吐くと気を取り直したように口を開いた。


「じゃあさ、日本の初代内閣総理大臣は分かる?」

「えっと、伊藤博文?」


 小学生の時の社会科で習った気がする。あれ、小学生の時って何をしてたんだっけ?


「じゃあ初代征夷大将軍は?」

「あの、あれですよね。蝦夷を討伐した……坂上田村麻呂でしたっけ?」

「……」


 梓さんは口元に手を当てて何かを考えている。

一体これらの質問にはどういった意図があるのだろうか。


「己巳の変で討たれた大和朝廷の大臣は?」

「蘇我入鹿ですね。あれ、これって歴史の授業で出てきましたっけ?」

「……」


 その悲しい目は唐突に表れた。


「どうかしました?」

「私が教えたのよ、昼休みに屋上であなたに」


 俯いた梓さんの方は震えていた。


「どうして……どうして、覚えていないの……?」

「あ、梓さん?」

「あなたにとっては些細な昼下がりに過ぎなかったかもしれないけれど……私にとって、あの時間は……」


 膝の上で握られた梓さんの手の甲に、ぽつぽつと涙が滴り落ちている。

それを見るとなおさら分からなくなった。

俺とどういう関係だったんだろう。


「あなたは過ごす昼休みだけが……あなたと2人きりになれたあの瞬間だけが、私にとって生きるのを止めない理由だった」


 激しい雨に打たれている気分だった。

頭痛と寒気が全身に襲い掛かる。


「あなたと毎日会えるから、苦痛な日々も少しは楽しく生きられた……」

「梓さん……」


 分からない。何も思い出せない。


「忘れないでよッ‼」


 病院服の襟を掴んで、叫びをぶつけられた。


「私は……あなたのことを忘れられていないのに…………」


 崩れ落ちる梓さんの身体を抱き止めることは、今の俺にはできない。

この慟哭の意味を知ることのできない人間には無責任なことに思えたから。


でも、涙を流し震えている少女に手を差し伸べないということも、してはならないと心が叫んでいる。


「ごめんなさい、梓さん」


 謝罪も梓さんを傷つけてしまうかもしれない。


「俺はあなたを覚えていません。ですが、あなたがどんなに俺を大切に思ってくれていたかは、きっと前以上に今の俺が感じています」


 恥ずかしいことを口走っている自覚はある。

梓さんは目を丸くして口をポカンと開けたままだ。

それが余計に恥ずかしさを加速させてきた。


「っぷ……あははは」

「な、なんで笑うんですか……」

「だって、あなたがあんまり真剣な目して似合わないこと言うんだもの。あはは、これを笑わずしてどうしろっていうの?」

「だって、どんな風に言うのが俺らしいのか、俺には分からないから……」


 似合わないなんて言われたって、分かんないだから仕方がないじゃないか。


「そんなにムスッとしないで。悪かったわ。あなたのなりに慰めてくれたんでしょ? そういう優しさは何も変わっていないわ」


 なぜだろうか。

梓さんのその笑顔に胸高鳴る自分がいるのに、それ以上に針刺すような痛みが心臓に走るのは。

失った記憶を取り戻せたなら、その理由も知ることができるのだろうか。


「………」

「私、もう一度あなたに会いたいと思っていた」


 あなたという言葉は、今の俺のことじゃない。

記憶を失う前の冴羽奏多という人間。


「……努力しますから」


 今の俺は17歳の人間の身体を持った零才児と変わりない。

だから俺という存在はあってはならない。

俺という存在は周囲の人間を苦しめ、涙を流させる。


「話は最後まで聞きなさい」

「……」

「でも、それはあなたを否定することだって今分かった。望んであなたがここにいるわけじゃない。彼を奪ったわけじゃない」


 その通りだ。俺は望んでこんな風になったわけじゃない。

誰かの記憶を上書き消去して俺がここに居るのは、俺のせいじゃない。


「だから、私はあなたを否定しない。あなたとだって友達になりたいわ」


 梓さんは手を差し出した。

太陽のように眩しくて、暖かい。思わず手を伸ばしてしまう。


「謹んでお受けします」


 上手な返しが見つからないから、できる限り丁寧な言葉を使ってからその手を握った。


「なによ、それ」


 くすっと笑うとき、梓さんの目が少し細くなる。その表情に拍動が大きくなる。


「あ、でも一人称は変えてほしいわね。俺って言うヒト嫌いなの」

「すいませ……えっと、わたくし?」

「いや、そこまでかしこまられても……」

「じゃあ(やつがれ)?」

「なんで遜るのよ」

「すいません、冗談です。漢字が一緒だからいいかなって」

「はぁ……あなたって本当にもう」


  笑ってくれた。

だけど、あの眩しい笑顔ではない。またあの笑顔に会いたいのに。


「私、そろそろ帰るわね」

「明日も……僕に会いに来てくれますか?」


 梓さんがまた固まった。何か変なことを言っただろうか。


「あなたにそう言われるの、悪い気はしないわね」


 さっきとは違う笑い方だった。

だけど、また拍動が大きくなるのを感じだ。


「ちゃんと大人しくしてたら明日も来てあげるわ」

「はい、待ってますね」

「じゃあね」


 小さく手を振った梓さんは病室の扉を優しく閉めた。

一人になった病室で、思いっきり枕に顔を埋めた。


僕が目覚めたのは12月中旬。

自分が誰かも分からない。

それでも落ち着いていられるのは、きっと梓さんの存在に安心感を抱いたから。

不安はあるけど、ネガティブに考えすぎる必要はないじゃないかと思う。過去は何もないし、記憶も思い出も何もない。

だけど、僕には友達がいたんだ。例え僕が忘れても忘れないでいてくれた友達が。


 今、僕の心は晴れていると思う。なのに、この陰りはなんだ?

空っぽの僕の心が何かを訴えかけてきている。

忘れるはずのなかったこと。思い出す必要なんかなかったはずのこと。

生きるために呼吸が必要なことを人間が忘れないのと同じように。

僕の細胞一つ一つが告げているんだ。

思い出せ、 忘れるな卑怯者、と。

それは怯えにも近い。右手の震えが証明していること。気のせいなんかじゃない。


梓さんを見て、ドキッとした。

でも、この感覚じゃない。もっと風の無い湖の水面のような静けさと、満月の夜みたいな澄んだ感覚を求めている。

それが分からないから。

僕の知らない僕を知っている梓さんにこんな感情を抱いてしまうのかもしれない。

好きという、身勝手極まりない感情を。


 それでも、梓さんが僕を拒まないでいてくれるのならば。

僕はこの気持ちを抱えて生きてもいいんだって、そう思ってもいいのではないだろうか。

そう思っていたいと思うのは、わがままだろうか。


 凍えそうな冬の風が、窓の外の木々を揺らす

今にも雪が降りそうだ。

白くて、冷たい、落ちては消える短命の華。

雪化粧を纏った舞鶴の町は、きっと梓さんによく似合うだろう。

もし見ることができたなら、きっと僕の心臓は死んでしまうに違いない。

元よりその予定だったんだから別に問題はないのだけど。


 あれ? 元よりその予定だった……?


僕は何でそんな風に思ったんだろうか。

頭痛が眩暈まで連れてきた。

あぁ、もうだめだ。今日は眠ってしまおう。


次に目覚めるのが明日であることを願って、僕は瞼を閉じた。





 病室を出ると、私は深く息を吸った。

これが夢ではなく、紛うことなき現実であることを噛みしめるために。


「いいの? あんなこと言って」


 冴羽奏多の病室の扉の横の壁にもたれていた瑠璃が、嫌味のように言い放つ。

耳が痛い。


「どういう意味よ」


 あの夏の日以来、私は瑠璃のことが何も分からなくなっていた。

相変わらず仲良くはしているものの、それ以前の関係性とは明らかに変わっている。


「なんであんなに薄っぺらい言葉を言ったのかってこと」


 瑠璃は私の右腕を抱きしめた。こんな感じのスキンシップも明らかに増えた気がする。


「どうせ今の冴羽奏多は弥生が好きだった人じゃないんだよ。遺伝子的な話をすれば同じ人かもしれないけれど、人間を構成する重要なものを遺伝子ではなく、記憶なんだよ。それが無くなった彼はもう同一人物なんかじゃない。それが分からない弥生じゃないはずだよね?」

「……」


 私が言われて不快なことを遠慮なく言ってくるようになった。

だからそんな言葉を無視して、私は足早に病室から遠ざかる。


「……ボクがいるのに。なんで目覚めるかな………」


 私に引っ張られながらついてくる瑠璃が、耳元で囁いた。

思わず、ビクッと震えてしまう。それでも、私は立ち止まらずに歩く。


「あんたには分かんないよ。私の心の中なんて」


 いやそんなことない。きっと瑠璃は全部見透かしてる。

嫌に決まっている。

私のことを覚えていない冴羽奏多なんて、見たくもない、話したくもない会いたくもない。


「馬鹿ばっかだね……あんなやつ、忘れちゃえばいいのに。せっかく………」


 変わらず瑠璃は私の右腕を抱きしめて離さない。

少し抱きしめる力が弱くなった気がするのは何でだろう。


 正面玄関を出ると、雪が降り始めていた。待合室のテレビで、今日の夜から明け方にかけて雪が降ると言っていたのを思い出す。


「瑠璃、ちょっと手を離してくれる?」

「どうして?」

「傘を出すから」

「嫌だって言ったら?」

「離れてくれたら頭を撫でてあげるわ」

「早く傘出して」


 ものすごい反応速度で私から離れた。

んー、ある意味扱いやすくはなったんだけどなぁ……。


 そわそわして頭を撫でられるのを待っている瑠璃。撫でやすいように少し屈んでいる。

エサをまってる犬にしか見えないのは問題よね、きっと。


鞄から折り畳み傘を出してから、約束通り瑠璃の頭を3回撫でた。


「……もっと」


 瑠璃の頭から手を離した途端、両手で私の手を自分の頭の上に戻した。


「はいはい」


 とりあえず満足するくらいまで撫でてやる。

剥げてもしらんからな。

不覚にも可愛いと思ってしまう私はたぶん不健全なんだ。


「やよい」

「うん?」


 瑠璃は上目遣いで私の目をのぞき込む。


「すきだよ」

「っ……」


 凄いなぁ、頬を赤らめるだけでそんなことが言えちゃうんだもんね。

私はこんなに風にストレートに想いを伝えられない。


 あの夏の日以来、いったいどれだけ瑠璃に好きと言われたのか分からない。

本当の瑠璃を開放してしまったというか、ありのままにさせ過ぎたというか。

何にせよ、私がこうさせたのは違いない。もちろん、あのまま冴羽との関係を続かせた方が良かったなんて思わない。

私の精神衛生的にも、瑠璃や冴羽的にも。


「家まで送ってくから帰るわよ」


 頭を撫でるのを切り上げて瑠璃の手を握って歩き出す。

私は普通に握っただけだったが、瑠璃は指を絡めてきた。

こんなことは初めてだ。


「えへへ、弥生の初めてはボクがどんどん埋めていくからね」

「あっそ。勝手にすれば? どうせ上書きしてもらうから」


 どうやら顔に出さないだけで瑠璃も焦っているみたいだ。

冴羽が目覚めたから。瑠璃の猛攻がエスカレートするのは避けられないかもしれない。


冷たく突き放せない私も、よくないのは分かってるんだけどな……。


やっぱり、親友だと思っているから。友として傍にいたいと思う。

話をしたいとも思う。

だけど、私は瑠璃に対して冴羽に抱いているような感情を持つことができない。きっと、永遠に。


 雪が傘に落ちては水となって滴り落ちる。

ふと右を見ると、瑠璃の肩に雪がのっていた。

少し傘を右に傾ける。瑠璃に風邪を引いてほしくはない。

そんな私の行動に気付いたのか、手を握られる力が強くなった。


「ねぇ、弥生」

「なに?」

「明日からも毎日一緒にいてくれる?」


 言葉だけを聞けばいつも通りだ。ストレートに想いをぶつけてくる瑠璃だ。

だけど、声色に自信が無さげで弱弱しい。


「どうしてそんなことを聞くの?」

「だって、これからも毎日冴羽奏多に会いに行くんでしょ?」

「今までと何も変わらないじゃない」

「……今までは一方通行だと思ってたから安心してたんだ」


 あぁ、そういうことか。

今までは私が冴羽の病室を訪ねて、一方的に近況を話していただけだ。

その間、瑠璃は病室の外で待っていた。冴羽とは会いたくないらしい。

分からないでもないが、仮にも友人だったんなら会ってあげるべきだと私は思う。


まぁ、そんなことはどうでもいいか。


「要するに、私が奏多と会話するのが嫌ってわけね」


 今までよりも病室でいる時間が長くなるのは避けられないものね。


「良い気なんかするわけないじゃんか」


 商店街もアーケードに入り、傘を畳む。

瑠璃は手を離してはくれない。私は折り畳み傘を中途半端に閉じたまま、アーケードを歩いた。

別に瑠璃と手を繋いでいるところを見られても何も恥ずかしくはないけど、シャッター街で助かったと思う自分がいた。


「……」


 私はどうすればいいだろう。

瑠璃とは親友以上の関係にはなれない。

仮に奏多ことを諦めたとしても。でも瑠璃はそれで納得してくれない。

私との関係に停滞を望んでいないから。もっと踏み込んでこようとしてくる。


「ボクは弥生のことが好き。ボク以外の誰かのことを考えてほしくないと思っているし、ボク以外とも話してほしくない」

「ずいぶんとオープンな人間になっちゃったのね」


 足を止めないのは、止めると瑠璃に引っ張られそうになるから。

やっぱり私は、瑠璃から離れないといけないのかな……。

このまま親友として、ちょっと距離感が近すぎるけど、

このままずっと友達として過ごすことはできないのかな……。


「ボクは弥生がいてくれたから、生きていたいって思えるようになった」

「え……?」

「弥生にとっての冴羽奏多が、ボクにとっての弥生なんだよ。苦しい日々を生きている理由だったんだ」

「瑠璃……やっぱり中学の時のこと」

「……そうじゃないよ、弥生。ぜんぶ些細なことなんだ。課題やりたくないなーとか、学校行きたくないなーとか、テスト無くなんないかなーとか。そんなありきたりな悩みがボクを蝕んでいっただけなんだ」


 そうかもしれない。

私だって勉強は嫌いだけど、奏多に少しでも好かれたいと思ったら勉強もそこまで嫌じゃなくなった。

たぶん勉強ができない女は嫌いだろう、彼は頭が良いから。

そんなバカみたいな理由。


「どうして私なの? 私のどこがいいの? 自分で言う事じゃないけど、私より可愛い子はいっぱいいるし、スタイルの良い子だっていっぱいいる」

「それは愚問だよ。ボクが好きだと思ったから、ボクは弥生のことが好きなんだ」


 笑い方が違う。今の笑い方はいつもより下手くそだ。

普段も何かわざとらしさがあるけど、今のよりはまだ上手に笑えている。

それに理由だってもと筋の通ったのを言うはず。やっぱり何かあるんだ。


「ここまででいいよ」


 瑠璃が私の手を離したのは散髪屋のある十字路。

ここを右折すれば瑠璃のアパートまですぐだ。


「いいの?」

「今の弥生は一人になりたそうだったからね。じゃあ、また明日」

「……また明日」


 小走りで路地を通り抜ける瑠璃の背中を見送る。

やっぱり何か変だ。いつもなら家に引っ張り込もうとするのに、今日は雑な理由をつけて逃げて行った。今の私は一人になりたいと思っていない。

むしろ瑠璃のことを知らなくてはいけないと思っている。


「……有耶無耶にするのは良くないよね、奏多」


 私の心だって整理ができているわけじゃない。

奏多は私のことを忘れていて、私との過去は全て無かったことになっている。

それだけで胸が張り裂けそうだ。


でも、あいつの中の優しさは失われていなかった。

記憶を失くしても奏多は奏多のままだと感じたから、それ程落ち込まずに済んでいる。

たぶん、あの子のことを忘れているからラッキーとかそんな風に思ってる。

それが良くない考えなのは一旦置いておいて、瑠璃との関係を早急に何とかしよう。

私は瑠璃のことを知らなさすぎると思うから。


 瑠璃との出会いは何となく覚えている。

あんな出来事のあった直後だったから。

でも、それについて詳しくは知らない。誰も話そうとはしなかったから。

知っていそうな人物に心当たりがある。明日の昼休みにでも聞いてみよう。

瑠璃に邪魔されない様に。


 あ、そうだ。

記憶が戻る手掛かりになるかもしれないから、中学の時の卒業アルバムを明日は持って行こう。

たぶん奏多はちゃんと大人しくしているだろうから、会いに行ってあげないと。

拗ねられたら困るからね。

それはそれで見てみたい気がしなくもないけど。





「委員長、今日の昼休みに話したいことがあるんだけど」

「私に?」


 委員長の明石さんは眼鏡を直して、冷たく聞き返す。

不機嫌そうに見えるけど、これがいつも通りの委員長。


「うん」

「教室でいいの?」

「できれば誰もいないところがいい」


 瑠璃から逃げる必要があるから。

今だって遠くからこちらを睨みつけている。意外と嫉妬深いんだよな。


「じゃあ生徒会室を使うわ。あそこなら鍵もかかるし、今日の昼に使う予定は入っていないから」


 そういえば委員長は生徒会役員でもあった。


「ありがとう。先に行っててくれると助かる」

「いいけど、大丈夫なの?」


 何がかは口に出さないが、視線は瑠璃の方を向いていた。


「大丈夫じゃないから委員長と話がしたいの」

「……冴羽の周りって厄介事を持ってくる人しかいないから困るのよね」


 どういう意味かを尋ねようとしたのと同時に予鈴が鳴り響く。

仕方ない。

その言葉の意味は昼休みに聞くとしよう。


 昼休みを告げるチャイムが鳴ると同時に、お弁当の巾着を持って教室を出た。

委員長と話していたことを休み時間の度に瑠璃に問い詰められたけど、何とか誤魔化している状態だ。

完全に怪しまれている。


 捕まる前に教室を出ることに成功はしたが、どこに隠れているべきか。

生徒会室の鍵が開いているとは思えないし。


「梓、こっち」


 普段は絶対に校則を破らない委員長が、廊下を走ってきた。

しかも私の手を握った走っている。

生徒会室に飛び込むや否や、委員長はガチャッと鍵を閉めた。


「ありがとう、助かっったわ」

「あなたも迂闊ね。南川を上手くかわしなさいよ」


 息を切らしながらも委員長は相変わらず口がキツイ。


「返す言葉もありません……」

「とにかく座って。悪いけどお昼を食べながらでもいい?」

「うん。私もここで食べさせてもらうから」

「お茶を淹れるから先に食べてて」


 よく見ると水道設備と電気ポッド、電子レンジが備え付けられていた。

おぉ、これが生徒会特権ってやつなのか。


 とりあえず真ん中に並べられた長机に弁当を置いて、青いパイプ椅子に腰かける。

知らない部屋にそわそわを隠せなくて、辺りをきょろきょろと見渡してしまう。

大きなパソコンとか、冷蔵庫とか、ソファーとかがあって快適な空間。

学校に自分が自由に使えるこんな場所があったら、めっちゃ良いと思う。

壁に掛けられている賞状はだいぶ日に焼けていて、黄色くなっていた。


「お待たせ。先に食べてて良かったのに」


 2つの湯呑と急須を載せたお盆を机に置いた。

丁寧にお茶を注ぎ、私に差し出した。

委員長が出したお弁当は私のよりも少し大きく、温かいご飯が食べられるやつだった。

しかもみそ汁まで別の容器で用意している。


「結構いっぱい食べるのね、委員長って」

「その代わりに夜はあんまり食べないわ」


 委員長のスタイルは良い方だと思う。背丈は私と変わらないけど、胸は確実に私よりも大きい。

足もスラッと長いし、髪も綺麗だ。私も伸ばしてみようかな……。


「私をジッと見つめるのは止めてくれるかしら。昼休みは長くないし、早く本題に入ってほしいのだけど」

「ごめんなさい。端折って話すんだけど、中学の時の騒ぎを覚えてる?」


 騒ぎという言い方が正しいか分からないけど、事件って言い方はしたくない。

乱でも変でも一揆でもないし、たぶん騒ぎが一番近い。


「さぁ? 小火でもあったかしら」


 はぐらかしているわけではなくて、本当に思い当たるところがないような言い方だ。

「瑠璃に関係する騒ぎよ」


 私の言葉に委員長は箸をとめて、目を細めた。


「……あったわね。南川の自殺未遂事件」


 事件。やっぱりみんなはそう呼んじゃうのか。


「それがどうかした?」

「そのことについて詳しく教えてほしいの」

「知らないの?」

「みんなが知っていること程度しか知らないから」


 瑠璃と仲良くなったのはその出来事以降のことだから。

私はその時の当事者ではない。


「そういえば、冴羽が目覚めたそうね。もう会った?」

「えぇ。毎日お見舞いに行ってたから」


 どこからの情報かは分からないけど、委員長も何回かお見舞いに来ていたし、日向先生からでも聞いたんだろう。


「そう。そのうち私も会いに行くわ」

「え、なんで?」

「心配しなくても梓から奪いに行こうってわけじゃないよ。休んでる間の話をしに行くだけだから」


 思わず俊足で聞き返してしまったけど、あの委員長が奏多に興味があるわけないよね。

しかし困った。委員長に奏多の記憶喪失についてどう説明したらいいものか。


「それで? 南川の自殺未遂について何を知りたいの?」


 そうだった。今はこっちが優先だ。


「漠然として申し訳ないけど、原因というか、理由というか、背景というか……全体像的なのを知りたいの」

「どうして私に聞くのよ」

「そりゃあの時の学級委員だし……」


 きっと先生とかに色々聞かれているはずだ。


「納得いかない理由だけど、確かに梓よりも詳細を知っているわね。でもどうして今になって知りたいの? 友達の暗い過去とか知りたいタイプ?」

「そういうわけじゃないのよ。ただ、私は私が親友だと思っている人のことを何も知らなかった」

「あぁ、南川が冴羽のこと好きだったってことね」


 さも当然のことのように委員長は言った。


「どうしてそうなるの?」

「違うの?」

「分かんない」


 委員長が嘘はつかないし、憶測で話したりもしない人なのは分かってる。


「そもそも梓は何で南川が自殺未遂を起こしたか知ってる?」

「派手な女子たちにいじめられてたって」


 いわゆるスクールカーストをぶっちぎっていたギャルに目を付けられたってやつだ。

特段、何か悪いことをしたわけではないと思う。


「まぁそうね。そこは間違っていない」

「そのいじめに耐えかねて、屋上から飛び降りようとしたって」

「そこがもう間違ってるわ」


 委員長は箸を置いて、眼鏡を外した。

その眼は窓外の遠い空を見つめている。


「少し話は逸れるけど。私はね、冴羽のことが嫌いじゃないの。勘違いしないで、恋愛的な意味じゃないから」


 だよね。良かった。委員長を敵に回したくはないから。


「私は冴羽のことを変人だと思ってたわ。いつも一人で本を読んでるし、音楽室で一心不乱にピアノを弾いているキモイやつ」

「何も間違ってないのが恐ろしい……」

「だからこそなのかもね。案外優しいやつだって知ったときに嫌いじゃなくなったのは」


 懐かしむような委員長の目が私の心を不安にする。


「あ、雰囲気を醸しながら喋っているけど、本当に冴羽のこと好きじゃないから。あいつとは本の趣味が合わないのよね」


 今一つ釈然としないが、そこは委員長を信じよう。


「冴羽と南川の関係はよく知らないけど、確か小学校も同じなのよね。だからなのか分からないけど、南川がいじめを受けているのを知った冴羽から頼まれたのよ。南川を助けるのを手伝ってくれって」

「冴羽がそんなことを……」

「まぁ、起こした行動は最低なんだけど」


 委員長が思い出し笑いをした。

笑っている委員長なんて激レアだ。


「盗撮とか盗聴して教師に渡したとか?」


 首を横に振る委員長。口角が上がっていて笑いが隠しきれていない。


「冴羽の奴、南川に自殺してみないかって言ったの」


 我慢できなかったようで、委員長は声を出して笑い始めた。


「そ、それって笑える……?」

「もちろん本当に自殺を促したわけじゃなくて、いじめてるやつを社会的に排除する理由にしようとしたのよ」

「あぁ、なるほど」


 何も本当に自殺しなくても、しようとした事実さえあればPTAとか教育委員会とかを動かせるってわけか。奏多らしい考え方な気がしてきた。


「具体的にはどうしたの?」

「そりゃもうカッターナイフで手首をグサッとね」

「え?」

「長袖の下に冴羽特製トマトジュースを仕込んだのよ。果肉入りで結構リアルなやつをね」

 絵具とかでいいじゃんと思ったけど、トマトジュースの方が洗濯しやすいのかな。

「ギャルたちの目の前で?」

「えぇ。屋上への階段によく呼び出されてたのよ。そこで何をされていたのかは私も知らない。冴羽は知ってたらしいけど、教えてくれなかったから」

「そう、なんだ……」


 何かしらの闇を抱えていたとしても不思議じゃないな……。

それが今の瑠璃に大きな影響を及ぼしているのも想像に難くない。


「解決はしたの?」

「えぇ。南川が手首を切った瞬間に私がそこに駆け付けたのよ。もちろん偶然を装ってね。他でもない私が目撃してるから、ギャルたちもさぞ焦ったでしょうね」

「口止め的なのされなかったの?」

「されたわよ。黙ってないと次はお前がこうなるぞーとか言ってたわ」

「うわ、小者すぎる……」


 それで動じるほど委員長って簡単じゃなさそうだな。


「ま、当然そんな言葉は無視するわけだけど。馬鹿な奴らよね。「したけりゃどうぞ」ってあしらって南川に駆け寄ろうとしたら、髪を引っ張りやがったのよ」

「まさか委員長……その怒りでギャルたちを亡き者に……?」

「そうできたら良かったのだけれど、そうなる前に冴羽が来てね。そのギャルから私を守ってくれたわけよ」


 あらやだ、カッコいい。思わずキュンとしそうだわ。


「そしたら次は冴羽を突き飛ばして逃げたのよ。冴羽は壁に背中を強打して病院行き」

「あいつもやしだから仕方ない」


 委員長が憐れむように鼻で笑った。


「哀れなギャルたちよね。冴羽の作戦で余罪を増やされたんだから」

「……あぁ、わざと煽ったのか」

「冴羽に言われたのよ。いざという時は身を挺してでも守ってやるから、できるだけギャルを不利にする材料を作ってくれって」

「……」


 何それめちゃくちゃ言われてみたいのだが。べ、別に守られたいとかはないのだけど。


「後はなんとなく分かるでしょ?」

「えぇ。委員長と冴羽の口添えがあったのなら先生が動かないわけがない」


 学年一位の奏多と、先生から厚い信頼を寄せられている委員長。

嘘だと疑う余地もないし、その2人が結託してギャルを陥れようとしているなんて思わないだろう。

混ぜるな危険、鬼に金棒。そんな2人なのかも。


「そういうこと。ついでに生徒会長も巻き込んでやったわ。私生徒会役員だったし」

「無敵じゃないのそれ。ギャルに同情するわー」


 因果応報とはまさにこのことだ。悪いことはするもんじゃないな。


「それきり私は関与してないから、南川がどうやって立ち直ったのかは知らないけど。冴羽のことだからなんとかやってるんでしょ。それ以降も普通に登校してたし」

「そっか」


 話を聞いて分かった。もし委員長の言うように、瑠璃が奏多のことを好きなのだとしたら。

それはさも当然のことだろう。恩人と言っても差し支えないのだから。


 だけど瑠璃は言った。彼のことは好きではないと。

どちらが本当なのか分からない。分からないけど、瑠璃が奏多を嫌いになる理由もないわけで。

でも明らかに昨日の瑠璃の態度は、奏多を嫌っている人間のそれだ。

考えても考えても答えは出ないか……。


「ほんと、冴羽を含めてだけど、私に面倒事を持ってくる人いないのは何故かしらね」


 委員長が食べ終えた弁当を片付けながら呟く。

そういえば、私は自分の弁当をあんまり食べれていない。


「ん? 他にもあるの?」

「何が?」

「委員長への頼み事」

「えぇ。どこで知ったのか知らないけど、最近ピアノを始めた妹にらぷーるで演奏してほしいって頼んできた1年の女子生徒がいたわ」

「1年生……その子、巨乳だった?」

「なんて質問をするのよ」

「どうだった?」

「かなり発育はよかったと思うけれど」


 あの子だ……。

巨乳だけで判断するのはよくないけど。間違いはない。


「でもなんでその子が冴羽の関係者だって分かったの?」

「中学のときに一緒に帰ってるのを見かけたことがあるから。冴羽の彼女なのかと思ってたんだけど」

「……なんでそんなこと頼んだんだろ……?」

「よく分からないけど、冴羽にもう一度ピアノを弾いてもらうためって言ってたわ」

「弾いたの?」

「えぇ。妹が途中で弾けなくなって演奏を止めたときに話しかけてきたわ」


 しくった。聞くんじゃなかった。悔しくなってきたな。

奏多はロリにも優しいのか。


「ねぇ梓」

「なに?」

「そろそろ食べ終わってくれない? もうすぐ予鈴だから」


 時計を見ると、もうすぐ40分だ。

予鈴まで1分もないのに、私の弁当箱にはおかずもお米も半分以上残ったままだった。

「ごめんなさい。完食は諦めるわ」


 手早く弁当箱を片付けて、席を立つ。


「ありがとう委員長。貴重な昼休みを潰してごめんなさい」

「気にしなくていいよ。冴羽によろしく伝えといて」

「分かった」


 なんて伝えればいいんだかな。

委員長に湯呑みを片付けるから先に行くように言われた。

お礼だけ言って生徒会室を出る。


瑠璃の過去が分かったところで、今の瑠璃が奏多を嫌っている理由も私を激愛する理由も分かりはしなかった。

やっぱり当人に聞くしかないか……。

憂鬱だ。どうせ瑠璃は素直に答えてくれないんだから。


 あと4時間。それを乗り切れば、また奏多会える。

頑張っていきましょ、私。





 病院っていうのはすることがない。

とりあえずリハビリというのは始めてみるけど、楽しいものではない。

今はまだまともに歩くこともできやしないから、基本的に病室で過ごすしかすることがないのだ。

看護師さんもそんなに暇じゃないから、つきっきりで何かしてもらうわけにもいかない。

両親だって仕事があるし、無理は言えない。

それに、僕からしてみれば両親すら初対面の人にしか思えないのだ。

甘える気など起きやしない。


だから今日の大半はテレビを見て過ごした。

ワイドショーで話題にされてた事件は聞いたこともないものだったし、再放送ドラマは4話だったから話が全く分からない。

スマホとかあればまだすることはあったんだろうけど、

僕のスマホは病室には見当たらなかった。


かわりに、古いカセットテーププレイヤーがあるだけ。

その下にあった封筒の中身はただの楽譜だった。『Summer Evidence』という曲名だ。

知らない曲だったけど、カセットに書かれていたタイトルと同じだった。

僕はこの曲が好きだったのだろうか。いや、いくら好きな曲でも楽譜まで持ってるものか?


 暇を持て余していた僕がすることなど、ただ一つ。

カセットテープを聞いてみることだけだ。TCM‐57という機種らしいが、当然知るわけもない。メーカーは誰でも知っている超有名企業だった。


カパッと蓋を開いて、中にカセットテープをセットする。

A面とB面、どちらに入っているのか分からないから、とりあえずA面をセットする。

回転方向はとりあえずFWDにしておいた。

しばらくテープの回る音だけが響いた後、ピアノの音が流れ始めた。

そしてそれを追いかけるように、ギターの音色が鳴り響く。

その2つの音とは違い、明らかにシンセで作った単調なドラムと、強調し過ぎなベース。プロが作ったような曲ではない。まさか、これは僕自身が作った曲なのか?


 そんなことを考えていると、女性ボーカルの歌声が聞こえた。

透き通った空のような青い声。

メロディーとは比にならないくらいに完成度が高い。

イントロを聞いた限りでは、なんて稚拙なメロディーかと思ったが、歌が始まるとそうとも言ってられなくなった。

出来の悪いメロディーも気にならないくらいに、ボーカルの声に聞き惚れていく。

歌詞もなかなかに悪くない。

痛々しさはあるが、心の叫びと思えば悲しいラブソングとして成立している。

無意識に頭の中に5線譜を描き、指が勝手に鍵盤を撫でる。


 気付けば何度も何度も巻き戻してリピートしていた。

他にすることがなかったからというのもあるが、純粋に曲にハマっていた。

特にボーカルの声は気に入ったし、ピアノの弾き方も好みだ。

歌詞に合わせて演奏の仕方を変えている。歌詞に込められた感情を的確に読み取っているんのだろう。


 ふと窓の外を見ると夕方になっているくらいには、この曲のことが気に入ってしまっていた。

流石にプレイヤーの電池が持たなかったようで、うんともすんとも言わなくなった。


そんな時、コンコンとドアをノックする音。慌てて音楽プレイヤーを棚に戻した。


「どうぞ」


 ノックをした人物は僕が心待ちにしていた人物だった。


「こんにちは、梓さん」

「大人しくしてた?」

「大人しくしすぎて暇を持て余してましたよ」


 梓さんは制服を着ていたから、たぶん学校帰りに直行してくれたんだと思う。

それだけでなんだか嬉しい気がした。


「じゃあ退屈しのぎにこれどうぞ」


 手渡されたのはアルバムだ。それも中学の卒業アルバム。


「見たくなければ見なくたっていいのよ。私はあなたが前のあなたでなくても一向に構わないもの。冴羽奏多という人間そのものは変わってないんだから」


 恐怖でたじろいでしまう。僕という人間が生きていた証がここにある。

僕が僕でなかったという確証を見つけてしまう。


「でも、私は知ってほしいと思う。どんな経緯で私はあなたが出会ったのか。目が覚めて一番最初に目に映った人間が私だったっていう出会いは、悲劇的なほどにロマンチックだけれど……」


 梓さんがベッドに腰掛け、僕の右手に左手を重ねる。その手はとても暖かかった。


「私の中にあるあなたとの出会いだって、負けないくらいにロマンチックだったのよ?」


 悲しい目をしたまま梓さんは笑っていた。

そんな顔をされたら、僕の些細な恐怖なんて吹っ飛んでしまう。

だって、あまりにもその顔が可愛いらしいと思ったから。


「じゃあ……聞かせてもらえますか。ロマンチックな出会いとやらを」


 僕は梓さんの左手をぎゅっと握った。

梓さんは少し驚いたような顔をしていたけど、すぐに微笑んだ。


「生意気」


 そして梓さんは茜色の表紙をめくる。見覚えない校舎の空撮写真が広がった。


「私があなたと初めて会った場所。それはここ」


 梓さんが指さしたのは3階の角の教室だ。

外観の写真では何の教室か判別ができない。


「ここは、なんの教室なんですか?」

「音楽室よ」

「音楽室……?」


 何だってそんな場所で……。


「あなたはここでピアノを弾いていた。苦痛に歪んだ顔で、今にも壊れそうな指で、聞くに堪えない音を奏でいた」


 梓さんが語る僕を僕は実感できない。

それは赤の他人の話のようで、僕が一生出会うことのない誰かのようで。

だけど、胸の奥のどこか。深海よりも更に深い海の底から聞こえてきたのだ。

怒り、嘆き、悲しみ、その全てが震えているような音色が。


「思えば私は、その音に引き寄せられたのね、きっと」


 僕は返す言葉を探した。


「毎日が退屈だった。毎日が嫌悪の日々だった」


 そうだ。僕に返す言葉などあるはずもないのだ。

だって、僕は梓さんのことを何も知らないのだから。


「朝が来るのが嫌だった。でも、夜が来るのはもっと嫌だった。具体的に何が嫌だったのか、今はもう分からない。たぶん意味なんてなかったんだと思うわ」


 分からない……。

僕にはその感情が理解できない。

冴羽奏多という人間。つまり僕には共感するための過去がないから。


「中学という多感な時期の悩みに意味なんてないのよ。大人になれない悔しさと、子どもになりきれないもどかしさ。それから生まれる憤りが自分を蝕んでいただけのこと」


 ふいに梓さんは体重に僕に預けた。右肩には梓さんの頭が寄りかかっている。

僕にできることは動くの止めること。

爆音を上げる心臓を悟られぬように、言葉を発する。


「僕はどうしてそんな風にピアノを弾いていたんでしょうか」

「さぁ? それは分からないけど、私はあの時の演奏が一番好き。綺麗な音じゃなくても、あなたの心が一番こもっていたように思うから」


 梓さんの言う好きにそれ以上の意味なんてないんだ。

あくまで演奏の仕方に対して言っただけのこと。

梓さんの言葉にも行動にも、僕にとって都合の良い意味はない。


 だけど、梓さんの言葉にそれ以上の意味がないのだとしたら。

僕がひとりで勘違いするのくらいなら、許されるのではないだろうか。


「自分でも理解できないけど、あなたが弾くピアノを毎日聞きに行ったの。音楽なんてこれっぽっちも好きじゃなかったのにね」


 梓さんの声は自虐の色を含んでいるが、明るく弾んでいるように感じた。


「ずっと音楽室の前の階段に座り込んで聞いていた。1週間くらいだったかな。突然あなたが話しかけてきたのよ。毎日何をしてるんだって」


 僕はただ黙り込んで話の続きを待つ。


「私はこう答えたわ。あなたの演奏を聞きに来てるの、悪い?って」

「それ、僕はなんて答えたんですか?」

「なんだよそれって笑ってた。それからは音楽室に私も入って聞いてたのよ。それから次第に放課後以外にも話しをするようになって、一緒に勉強とかするようになった」


 それはごく自然な流れなんだろう。

だって、人間関係なんてそんな何てことないことで形成されていくのだから。


「あなた勉強ができる人間だったから、テストの度に救われたわ。おかげ様で高校に入れたしね」

「御冗談を」


 梓さんの喋り方とは雰囲気を見ていると、勉強ができなさそうには見えない。

人は見かけで判断してはいけないのは分かっているが、どうしたって最初に見た目で判断してしまうのは避けようがない。


「歴史は得意なんだけどね。数学は全然ダメだった」


 何となく理系っぽいと思っていた。

冷めた喋り方が理系っぽく感じていたのだろう。


「休みの日に電話しながら勉強教えてもらったり、図書室で一緒に勉強したりしたこともあったのよ」

「わりと……仲が良かったんですね」

「まぁ、そうね。私自身、あまり友達が多くないのもあったけど、たぶんあなたも友達が少なかったから」

「そ、そうなんですか」


 言われてみれば、僕が目冷ましてから病室に訪れた人物は、家族を除けば担任教師と梓さんだけだ。

来てくれたとしても誰か分からないだろうが、友人が一人も来ていない事実を鑑みるに、僕には友達がいないのだろう。


「昼休みだってほぼ毎日屋上で食べてたわね」

「2人で?」

「えぇ、そうよ」


 なんだか、それだけ聞くと、恋人みたいだ。

無意識に頬が熱を帯びた気がした。そんな僕の様子に気付いたのか、梓さんの顔も赤みを帯びていた。


「コホン。斯くして私たちは出会い、友達になったわけです」


 だいぶ端折って話したんだろうけど、それなりに親密にしてきたのは伝わった。

それと、かなり仲の良い間柄だったことも。

もしかしたら、梓さんならあの謎の楽譜とカセットテープについて何か知っているかもしれない。


「梓さん、ちょっと聞きたいんですけど」

「なに?」


 僕の視線を察して、梓さんは僕にもたれかかるのをやめた。

手を伸ばして棚からカセットテープと楽譜の入った封筒を取る。


「これ、何か分かりますか? 当たり前ですけど、僕には見覚えがなくて」


 その瞬間、梓さんの表情が曇った。


「それ、聞いたの?」


 声色も暗く、鋭く冷ややかなものだった。


「一応、聞いてみました」

「どう思ったの」


 素直に答えてもいいものだろうかと疑りたくなるほど、梓さんの目が恐ろしかった。


「よく分からないですが、一生懸命だと思いました。歌詞も、演奏も、歌声も」

「……そう」

「梓さんは知っているんですよね。この曲が何なのか」


 小さく頷いた梓さんは、楽譜を手に取り恨めしそうに見つめた。


「これは遺言みたいなもの。一人の少女が一人の少年へ抱いた恋心を尊び、そして永遠の別れを嘆く詩よ」

「それは誰のことなんでしょうか。僕と関わりのあった人ですか?」


 そうでなければ、この病室に楽譜とカセットテープがある理由が分からない。


「あなたが記憶を失くしたのは、失くした方が幸せだとあなた自身が思ったからだとは考えられないかしら? 真実を知るのは知らないよりも怖いことだとは考えられないかしら?」


 それつまり、僕自身が今の僕を望んだ結果ということだろうか。

突然そんなことを言い放つ梓さんの心意を察するに、僕の大事だった人が作った曲なのだろう。


そしてその人はもう……。


「奏多……?」


 戸惑いと焦りの声で梓さんが僕の名を呟く。

自分でも分かった。

今、僕の目から涙が溢れていることが。


「……その人にはもう、会えない……そう、ですよね」


 小さく頷いた梓さんは、泣いてはいなかった。

ただ、何かを憎むように顔をしかめていたのだ。


「でも、もう忘れちゃったんだから、忘れたままでいいんですよね。きっと」


僕は何もできない。

梓さんと過ごした日々の記憶も、この曲を書いた僕の大切な人の記憶も、何もないから。

『大丈夫』なんて強がりの言葉すら口に出せない。

不用意な言葉は優しさなんかじゃなくて、自身を余計に傷つける凶器にしかならないのだから。


「そうよ、忘れればいいの。私があなたの白紙の記憶に上書きしてあげるから」


 そう言って僕を包んだ梓さんは、陽だまりのように暖かく、深海のように冷たかった。


「ずっとあなたの傍にいるわ。あなたが片時も寂しさに苛まれないように」


 この瞬間が僕の全てで、この瞬間に僕は僕であることを許容し、肯定できたのだろう。


「だから、これらもずっとあなたは私の傍にいて。あなたの人生をかけて……」


 それが例え嘘でも、梓さんの言葉は優しかった。

今、僕が望む完璧以上の言葉だったから。


「意外と強引ですね、梓さん」


 軽く笑いながらそう言った。


「その言葉、嘘だったら呪いますからね」


 どれくらいの強さで抱きしめるのが正解か分からない。

けど、想いが伝わるくらいの強さで、梓さんを抱きしめた。





 病室を出た。

廊下は既に薄暗く、来訪者の影もない。

私以外は誰も歩いてはいない。


「はぁ……」


 危うく隠しておくつもりだったことを言いかけた。

奏多を殺したのは私だ。あの日、手を離さなければ。

あと少しでも早く病室に行っていれば。奏多をそそのかさなければ。


 そんな後悔が永遠と私の中を巡っている。

だからせめて。私の人生をかけて償いたいと思う。

それが私のエゴだって分かっているし、それを彼が望んでいない可能性があるのだって理解している。


 真正面から素直に思いの丈を伝える勇気のない私は、彼を近く眺めているだけで満足していた。

あの子のことを好きな彼を好きでいる自分に納得していた。

それで満足かと親友に言われなければ、自分が満足していないことにすら気付くことはなかっただろう。

 足早にエントラスを抜けていく。


「少し待ちたまえ、梓くん」


 足を止め、呼び止める声の方を振り向く。

白衣のポケットに手を入れて、相変わらずの暗い顔でこちらを見つめる日向先生がいた。


「なんですか」


 今は一刻も早く家に帰りたかったから、不機嫌そうな声で返事をした。


「そう嫌がるな。暗い話じゃない。何か飲み物でも奢ろう」

「……」


 ここでイエスと返事するのは、物で釣られているみたいで癪だ。


「冴羽奏多のこれからについてだ。まずは君に話をしておきたい」


 怪しいとずっと思っていた医者だが、これでもずっと奏多の面倒を見てくれた人だ。

あの子の主治医も務めていた。

だから、せめて話だけでも聞かねばなるまい。

 私は小さく頷いた。


「長話にはしたくない。中庭で話そう」


 寒さを理由に話を切り上げる魂胆なんだろう。

別にいい。それはこっちだって同じことができるのだから。


 来た道を戻り、中庭に出る。5つくらいのベンチと大きな桜の木があるだけの中庭だ。

晴れた日には患者とその見舞人が日向ぼっこをしていたりする。


「梓くん、温かいミルクティーでいいかな?」

「はい」


 私は先に桜の木の下のベンチに腰をかけた。

この場所を選んだことに他意はない。ただ、座ったときに見える棟に奏多が入院しているというだけ。


 しばらくして、飲み物を手にした日向先生がやって来た。

差し出された缶は、かじかんだ手には痛いくらい熱かった。


「凍える前に単刀直入に話そう。私は少年を3学期から学校に行かせたいと思っている。つまりは早急に退院させたいのだ」


 今は12月中旬。3学期は1月の初旬には始まる。

あと1か月もない。

約4ヵ月も目を覚まさなかった人間を、たった1か月足らずで社会復帰させたいと言っている。


「それは……医学的に可能なんですか」

「あぁ、可能だとも。毎日少年に会いに来ていた君にならば分かるだろう。彼は言うほど衰えてはいない。今の医学は凄いんだ。食事をせずとも必要なだけの栄養を摂取できる。電気的に筋肉を刺激し、筋肉の衰退も防ぐことができる。もちろん、患者の若さという武器があってこそだが……」


 私だってそれは分かっている。

17歳という若さでなければ、そんな先進医療は使用しなかっただろうと他の先生も言っていた。


「何より、彼の家族が医療機器に頼らず、彼の身体をほぐし続けた結果でもある」


 姉の美影さんはほぼ毎日病室に来て、奏多にマッサージをしていた。


「その甲斐もあって、彼はちゃんと歩けたんだ。ふらつきながらでも、自分の足で立つことができた」

「私はそれでも心配です。身体的な問題はクリアできても、精神的な問題があります。彼は記憶を失くしているんですよ?」


 学校に行けば彼のことを知る生徒がいる。

何事も無かったかのように彼に話かけるだろう。

自分の知らない自分がいた日常のこと聞いたとき、一体どんな風に思うだろう。


「だが、少年には君がいる。記憶はなくとも、今の少年には梓弥生という絶対的な存在がいるんだ」

「どういう意味ですか、それは」

「君は少年のことが好きだろう?」

「な、なんですか……それ」


 そりゃただの友達が毎日見舞いに来るわけがないし、バレていたとしても不思議ではないけれど。

先生の話す内容はよく分からない。


「さっき様子を見ようと病室に行ったら2人が抱き合っている影が見えたんだ」

「覗き見ですか。悪趣味ですね」

「ほう。本当に抱き合っていたのか。少年は随分とモテるんだな」


 はめられた……。


「……」

「そう怖い顔をしないでくれ。君が彼を好きなことくらい、見ていれば分かるさ。君は彼女と同じ目をしているからな」


 彼女、つまりはあの子か。

そっか。

私もあの子と同じくらい奏多のこと好きだったんだ。

少なくとも他人からはそう見えていたんだ。


「学校側には何とか話をつけられる。君が常に彼の傍にいられるように」

「……それ、周りになんて思われるんですか」


 いや、別になんと思われたっていいんだけど。

やっぱりちょっと恥じらいはある気がするし。


「困るのかね? 変な虫が寄ってこなくて済むぞ」

「寄ってくる前提なんですね」

「彼はモテるからなぁ。そういえば青髪の子とは会ったのか? 彼女もかなり少年にお熱だったように記憶しているが」


 青髪と聞いて思い当たるのは瑠璃しかいないんだよな。


「……どうにもならないことってあるんですよ」

「ふむ……なるほど。思春期とは実に厄介だな。私にも覚えがあるような気がするな」

「そうですか。みんなそういうものなんでしょうかね」


 返す言葉を見つけられず、中身のない言葉を発してしまう。

日向先生は、「ふっ」と鼻で笑った。


「兎にも角にもだ。これ以上、君たちと少年の生きる時間を離すわけにはいかないだろう」


 そういうことだったのか。

私はもう少し時間をかけて、奏多を社会復帰させるべきだと勝手に考えていた。

だが、それは貴重な高校時代を奪うということ。

考えていなかったというわけではない。

彼が私と一緒に卒業できないということを、心のどこかで覚悟している自分がいたんだ。


「私は諦めてたんですね。奏多のいない学校なんて、何にも楽しくないと知っているのに」


 長い時間を共に過ごすわけではない。

ほんの1時間弱。

あの屋上で、あの短い時間を共有する毎日があってこと、私が学校を好きになれたんだ。


「それが君の本音だろう。まさかそこまで想っていとは予想外だよ。ふふっ」


 今まで見たことが日向先生の笑顔は、いつもの冷たさはなく、心の底から笑っている暖かさを感じることができた。


「日向先生。私は奏多のためならなんだってやってやります。だから、復学の件はちゃんと奏多の両親に話しといてください。必要なら私も同行しますから」

「頼りにさせてもらおう。どさくさに紛れて両親の許しも貰えるしな」

「そういうつもりじゃないですよ、ほんとに」


 まぁ、そりゃ……。ゼロだったかと言われると、言い切れないけども。

多少は両親に顔を覚えてもらって、なるべくいい印象をもってもらおうとか考えたりしたけども。


「じゃあ、私は帰ります」

「あぁ。今日は雪で滑りやすい。気を付けてな」


 軽くお辞儀をしてから、先生に背を向けて歩き出す。


「梓弥生」


 まだ、何か話があるのだろうか。私は振り返らずにその場に立ち止まる。


「君は宇垣橘花の代わりになる必要はない。君には君のままで、冴羽奏多の隣に立てばいい。例え彼の記憶が戻ったとしても、彼が君を拒むことはきっとないだろうから」


 そういう風に見えているのね、先生には。


「何の話か分かりかねますが……」


 他人からの指摘を認めることができないのは、私がまだ大人になれていないから。


「留めておきます」


 だが知らぬ存ぜぬを貫くことができないのは、私がもう子どもになりきれないから。


少し歩く速度を速める。

一刻も早く先生から距離を置きたかったからだ。

それは自分の鼓動の速さが伝わるのを恐れているから。

今、私の心臓は高鳴っている。

無意識的に諦めていた奏多との学校生活が、再び戻って来るかもしれないから。

そうすればまた学校が楽しくなるはずだから。

でもその為には、一つだけ必ずやらなければならないことがあるのだけど……。


 病院の敷地を出るころにはまた雪が降り始めていた。

少し遠回りだけど、商店街のアーケードを抜けて帰ろう。


午後7時を回ると、商店街のシャッターはほとんど閉まっている。開いているのは居酒屋と、チェーン店のコンビニ。逆にスナックとかはまだ開いていない。

 そんなアーケードを抜けると、雪は止んでいた。点滅信号の交差点を曲がると、家から最寄りの自販機がある。


「やけに楽しそうだね」


 路地の街灯の下。自動販売機の前で瑠璃が立っていた。

その手に握られているのは缶のカフェオレと、ペットボトルのミルクティー。

蓋の色がオレンジだから多分ホット。よく見ると肩に雪が積もっている。


「こんなに寒いのにわざわざ私を待ってたの?」

「もうすっかり冷えちゃったよ」


 凍るように冷たくなった缶を私の頬に当てようとしてきたから、制服の袖で阻止した。


「そんなこと言ったって罪悪感なんか抱かないわよ」


 だって約束なんかしてないんだから。


「そうだろうね。弥生のそういうところがボクは好きだよ」


 私の手に触れる氷の様に冷たい指が、少しだけ罪悪感を生んだのかもしれない。


「何か用?」

「別に用なんかないさ。ただ弥生に会いたいと思った。それだけだよ」


 もう言われ慣れた歯の浮くようなセリフ。もし、このセリフを奏多に言われたらどうだろうか。

やっぱり照れくさいのかな。


 そんなことを考えてると、ふと思い出した。

それは瑠璃と奏多の問題を解決しなければならないということ。


「……丁度良かったわ。私、あなたに話したいことがあるの」


 かじかんだ瑠璃の手からミルクティーを奪い、ポケットで温めておいたカイロを渡した。


「なんだい?」


 瑠璃はカイロを両手で包み、口元へ当てた。


「手短に言うわ。奏多に会って。何でもいい。中身なんかなくても良いから、会話をして」


 瑠璃と奏多の問題と言ったって、奏多は全てを忘れている。

だから、瑠璃から奏多に歩み寄ってもらう他に手段はない。


「弥生がそれを望むなら、ボクは別に構わないよ」

「え?」

「なんだい? その間抜けな顔は」

「いや、だって……」


 あまりにもあっさりと返事をしたから。


「ボクも少しは考えたのさ。冴羽奏多のことをどう思っているのか」


 瑠璃はカイロを握りしめたまま、私の胸内を語り始める。


「ボクにとっての彼はやっぱり幼い頃からの友人なんだと思う。お互いを勝手に親友呼ばわりしていたけど、親友と呼べるほどお互いのことはよく知らない間柄。上っ面の部分だけを眺めて、相手に自分の理想を押し付け合っていたんだ」


 その眼が思っていること、考えていることを、私は不思議と読み取れている気がした。

私が瑠璃を知った時、そして奏多を知った時から2人は友達だった。

会話は多くないし、一緒にいるところを見ることも多くはなかった。

だけど、2人が話しているときの空気がやけに親密に見えたのを覚えている。


「でも、あの日。ボクが彼に助けられた日、ボクの中にある感情が芽生えた。ボクは彼を知りたいと思った。いつもの平然として何事にも冷静な強い彼じゃなくて、くよくよして泣き虫ですぐに諦める弱い彼を知りたかった」


 瑠璃の頬が紅く染まり始めた。その瞬間、背筋に嫌な感覚が走った。

奏多が私に弱い部分を見せたことはない。少し落ち込んでいるところはあったとしても、その奥に抱えるものを見たことはなかった。

もしかしたら、瑠璃には……。


「それで? 奏多の弱いところ、見ることはできた?」


 瑠璃にこの不安が伝わらないことを願いながら私は聞いた。


「そうだね……その質問に答える前に、ボクは君に謝罪をしとかないといけないことがあるんだ」


 ドクンッと心臓が跳ねた。仮にもこの2人は一時的に恋人関係だったのだから、少しくらいはそういうことがあったって仕方がないことだ。

いや、そういうことだと決まったわけではないんだけど。


「なに……?」

「ボクは彼とキスをした。それと同じ日にボクの望みは叶ったんだ」


 瑠璃の言葉の意味は、言葉通りの意味よりも深いことを指している。

それがどうした、何とも思わない。なんてことはあるわけがない。

もともと私の物だったわけではないのだから、それに対して不平不満を言うのは違うのだ。理屈じゃない。


 でも、それが原因で瑠璃を恨もうとは思えなかった。

奏多が弱いところを見せたってことは、相当追い詰められていたってことだから。


「それは……奏多から?」


 頭では仕方がないと割り切れても、頭がそれを拒んでいる。


「いいや、どちらかと言えばボクから」

「……そう」


 あぁ嫌だ。私の見たことがない奏多を瑠璃が知っているのが嫌だ。

私には見せない表情を、漏らさない本音を瑠璃に教えたことが嫌だ。


「っ……」


 自分を制御できない。

頭では仕方がないことだと、どうしたって変えられない過去の出来事だと分かっているのに。

なぜだか私の目から涙が止まらない。

こんな顔、瑠璃には見せたくない。

ただでさえ色々なものを抱えてる瑠璃に、これ以上何も背負わせたくない。


「ごめん」


 私は瑠璃の謝罪にちゃんと返事ができただろうか。

俯いた顔を横に振ることができただろうか。

指先の感覚がなくなりそうなのも、呼吸が苦しいのも、見つめる地面が歪んで見えるのも全部全部全部寒さのせいだ。


「弥生……ごめんよ」

「……ん」


 声が上手く出せない。目が霞んでいく。何も見えなくなる。


「弥生!」


 ごめんね、瑠璃……。

糸が切れた操り人形と同じだ。私の身体は重力に引かれて落ちていった。


「ごめんよ、弥生」


 私の身体を受け止めた瑠璃が、体重を支え切れずにしゃがみ込んだ。

その腕の中で荒くなった息遣いを整えられずにいる。


「はぁ……はぁ……」

「弥生の言う卑怯な手を使ったんだ。絶対に彼がボクを拒めない状況を作り上げた。だから、彼が悪いんじゃない。むしろ彼は被害者だと思っていい。悪いのは全部ボクだから」


 歪んだ視界の先に見える瑠璃の目は、懺悔の色で染まっていた。

私を抱える腕の震えもそれを証明している。


 いつだったか、瑠璃は底抜けに優しい人間だと奏多が言っていた。

命の儚さと、不条理を知り、幼いながらに優しさに辿り着いた人間なんだと。


その言葉の意味も背景も、何も私には分からなかった。

今だって分からない。だけど、優しさだけは何度も感じたことがある。


「ごめんなさい、瑠璃。もう2度とあなたを傷付けたくはないの……」


 手を伸ばす。瑠璃の手に触れるために。

今、優先すべきことは自分じゃない。

過去を失った奏多の未来を明るくすることだ。


「すごく嫌よ、奏多をあなたに取られたのは。だけど、そんなものはもうどうだっていいわ。私が見るべきは過去じゃなくて、これからのことだから」


 瑠璃の手を離れ、一人で立ち上がる。

もとより、自分が何もしなかったが故に招いた今だ。

最初から奏多は誰のものではない。強いて言うなら、彼女のものだったはずだ。


「ありがとう、瑠璃。奏多を救ってくれていて。これからは私もあいつを救って見せるわ」


 瑠璃の表情はまだ晴れない。

私が強がっている事を隠しきれていないから。しゃがんだままの瑠璃に向けて手を伸ばす。


「……」


 その手を見つめる瑠璃は何かを言いたげだ。


「分かってる。今私が口にした言葉の全ては強がりだって」


 頭で無理やりに納得させているだけで、心はそれを強く拒んでいるのだから。


「それでも私は奏多のことが好きだし、瑠璃のことも友達だって思ってる。清算できる過去ばかりじゃないけど、これからもあなたと関わりたいと強く思うの」


 瑠璃が私の手を取ることを拒んでいるように思えた。

だから私が瑠璃の手を握り、その身体を立ち上がらせる。その勢いのまま抱きしめる為に。


「瑠璃、あなたは私の友達。だからこれからも友達でいてよ。友達でいさせてよ……」


 それは私にとって都合が良く、瑠璃にとってはあまりにも惨い言葉だ。

瑠璃を抱きしめたのは、瑠璃の顔が見えないように。瑠璃を抱きしめたのは、私の顔を見られないように。こんな泣いている顔は見せられない。

泣きたいのは瑠璃のはずだから。


「ひどい……じゃないか……そんなにハッキリと言わなくたっていいじゃないか……」

「……ごめんなさい」


 涙声が鼓膜の近くで鳴り響く。


「このまま有耶無耶な関係でいさせてくれたっていいじゃないか……それで何となく楽しく生きていけばいいじゃないか……」


 瑠璃の本音だ。それは選択肢としては無しじゃない。


「選ばないのだって選択肢の一つだと思う。だけど、私は選ぶわ。それが選ばれた者の義務だと思うから」


 今ならあの時の奏多の気持ちが痛いほど分かる。

何かを選ぶとき、選ばれなかった方の気持ちを想えば胸が締め付けられるんだ。

瑠璃の気持ちを想うと、今にも逃げ出してしまいそうだ。


 震える瑠璃をどのくらいの力で抱きしめたらいいんだろうか。

いいや、抱きしめるなんて余計に苦しめるんじゃないだろうか。分からない。分からない。分からない……。


「世界なんてやっぱりロクなもんじゃないんだ」


 低く小さな声で瑠璃が呟いた。


「今にも未来にも希望なんてないし、毎日が生き辛くて苦痛の日々だ。いつ死ぬか分からないのが人なのにボクはいつも一人で、寂しさに襲われて……」


 私は瑠璃のことを何も知らない。

友達だったのに。親友だと言っていたのに。

知らなかった。知ろうとしなかった。


「絶望に越されそうな世界だ。けれど……それでもボクは……」


 瑠璃の腕が私を包み込む。初めは弱弱しかったその抱擁は、次第に強さを増していく。

そして、私を潰さんとばかりの強さで抱きしめた。


「これからも、ずっと……一生……弥生のことを、弥生のことだけを抱きしめていたい。一番じゃなくて……いいから。最下位だって、眼中になくたってかまわないから」


 涙で溺れるように苦しみながら瑠璃は吐き出した。

その重すぎる叫びを、私は真正面から正しく受け止められているだろうか。


「……構わないわ」


 迷ってはいけない。迷うことだが最も愚かな選択だと直感が告げている。


「後悔しても知らないからね……」


 流れた涙が頬を隠す様に瑠璃は私を強く抱きしめた。

その体を抱きしめ返すことはできないけれど、瑠璃を拒むことはしない。

その行動が無責任であることは承知の上だ。瑠璃を余計に傷つけるのも承知の上だ。


それでも私は奏多へと繋がる道を選ぶ。

例えを記憶に繋がらなくとも、瑠璃の存在は奏多にとって無くしてはならないものだから。


だからせめて。瑠璃が悲しみに明け暮れるときだけは。

思うままに抱かれていよう。

いつか、この世にいるか分からない神に、私の罪が裁かれるその日まで。





 病室も今日は静かだ。

朝起きて、食事をして、リハビリをする。

食事をしたら、またリハビリだ。

そうして昨日と同じく一人寂しく夕方を迎える。

そんな日々に不満が無いわけではないが、何者でもない僕には他にできることがない。

それを悲しいと思ったところ、何も変わらないからただ受け入れる。


 誰かが扉をノックした。時計を見ると16時を少し過ぎたくらい。

どうやら待ち侘びた人が来たらしい。


「どうぞ」


 嬉しさが声に出ない様に気にしながら返事をした。


「こんにちは、ちゃんと大人しくしてた?」

「こんんちは、梓さん。大人しくし過ぎて根っこが生えるかと思いましたよ」


 気持ちが昂りすぎてよく分からない言葉を口にしてしまう。


「よく分からないけど、退屈してたのは分かったわ。ちょうど良いかは分からないけど、今日は私の友達を連れてきた。もちろん、あなたのことを知っている人」


 梓さんが右にズレると、廊下からひょこっと顔を出したのは青髪の少女。


「や、やっほー、奏多くん」


 なるべく前と同じように接しようとしてくれているのだろうが、声に不安が隠しきれていない。

 僕は梓さんの方を見た。この人は? という意味を込めて。


「あなたの同級生よ。私とあなたが出会ったのは中学に入ってからだけど、この子は奏多と小学校も同じなの」

「私は南川瑠璃。10年ぶりのはじめましてだね、奏多くん。改めてよろしく」


 そう言って微笑みながら南川さんは僕に左手を差し伸べた。

シトラスのような香りが僕の鼻孔を擽る。


「……」


 どうしてだろうか。

差し出された手に疑いを持ってしまうのは。

目の奥、網膜が強烈な痛みを訴えかけてきている。

思い出せ、と脳ではなく眼球が訴えてきているような感覚。

覚えていなくても、僕の2つの水晶体を通してこの左手を見たことがあるだから、と。


「奏多?」


 差し伸べられた手を見つめて、俯く僕に不安を抱く梓さんの声すら遠くに感じる。

僕は瑠璃さんの左手から目を逸らせなかった。

その薬指に着けられた銀色の指輪から。


「……奏多くん、君はもしかして」


 瑠璃さんが差し出していた左手を僕の頬に添えようとした時、ふいに見えてしまった。

指輪にあしらわれた青く輝く石が。


「ラピスラズリ……」


 空調の音、時計の秒針音、誰かの息遣い。

そして時間すらも止まってしまったように、僅かな静寂が病室を包んだ。


「……あの日のこと……覚えて……」


 はっきりと頷くことはできなかった。

だけど、断片的なイメージ、それはまるで教科書の片隅に掲載されていた絵画のように覚えていると言えるのか定かではないほどの記憶。


「僕は知っている、この匂いも……その石も……」


 でも……。


「僕はあなたのことを知らない……知っていたはずなのに……」


2人が悲しそうな顔をしているのが心を抉った。


「思い出さなくていい……そこまでは思い出さなくてもいいんだ……奏多くん」


 南川さんが僕を抱きしめた。

浮かび上がりそうになる記憶に蓋をするように。


「君が思い出すべきはボクのことじゃない……君は弥生のことだけを思い出せばいいんだ」


 この人も僕にとっての大事な人だったはずなのに。


「ごめん、なさい……」


 涙と嗚咽が止められない。

押さえつけられて本当の僕が浮かび上がってくるみたいに。

頭がクラクラするくらいのシトラスの匂いと、日向の様に温かい体温に絆されていく。


「謝ることはないよ。君がこの状況を望んだわけじゃないのだから」


 どうして僕が生きているのだろう。

本当の僕が消えなければ、誰かをこんなに傷つけることはなかったのに。


「僕は……思い出したい……例え僕が消えたとしても、僕自身のことを知りたい……」


 溢れ出る感情。止めどなく溢れる涙。

一体、どれくらいの時がたったのだろうか。


そうして泣きつかれるほどの涙を流した僕の意識は、深い海の底に沈んでいった。





「何か大切なことを忘れている気がする」


 なんだろう。分からない。

けど絶対に忘れちゃダメだったはずなんだ。

〇〇〇。

 思い出そうとすると頭に靄がかかる。


「……ヴァイオリン?」


 どこからかヴァイオリンの音色が聞こえた。窓の外からだ。


「愛の夢………」


 いいメロディーだ。気持ちがいい。

僕はこの曲をよく知っていたんだろう。

 窓の外を見渡すと、灰被り色の髪の少女がヴァイオリンを弾いていた。

今の僕にはその少女すらも懐かしく感じられた。


『奏多くん』


 声が聞こえた。大好きだった人の声。橘色の髪の少女が脳裏に浮かんだ。


「ごめんよ………君の名前、忘れちゃった」


 ヴァイオリンを弾いていた少女が、こちらを向いた。

わずかに口を動かす。


『めんたいいちごみるく』


 なんとなく、そう言われた気がした。

次に同じ場所に目をやると、少女の姿は消えていた。


「めんたいいちごみるく……そんなの飲むやついるのかな」


 また、あの人の笑い声が聞こえた。

喉を襲う甘み。

次にやってくる辛み。

切れかけの街灯の微かな灯り。

遠くで聞こえる波の音。

もう慣れてしまった潮の匂い。


「これが……君への記憶なんだね」


 僕の頬に涙が流れる。まだ何も思い出せてはいない。

彼女の顔も、背丈も、名前さえも。


けれど彼女の声が耳に響き、橘色の髪が瞼に映る。


「いつか、君に会いに行くから。君を思い出すために」


 僕は口ずさむ。

きっと僕と彼女にとって大切だったこの曲を。


『亜麻色の髪の乙女』を。


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