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Summer Evidence  作者: 米八矢


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第5章 こころを開いて


「おはよう、橘花」


あの日から2週間が過ぎた。

学校はもう夏休みに入っている。

橘花は相変わらず入院しているが、梓や姉さんがお見舞いに来ており退屈はしていなさそうだ。

梓が来ていることを知ったときは流石に驚いた。橘花のことを苦手だと言っていたから。


僕はと言えば、瑠璃と絶対に被らないように訪問している。


「持ってきたぞ、橘花」


橘花から頼まれていた楽譜帳と、持ち運べるキーボードを持って今日も朝から病室を訪ねる。


「ありがとう」


 橘花はベッドの角度を上げて、机の上の楽譜を眺めていた。


「これ、どうするんだ?」


 僕が尋ねると、橘花は笑って答えた。


「私ね、まだ曲を作ったことがなくて。せっかくの機会だから作ってみたいの」


 少し寂しいせっかくの機会だけど、何かに熱中できるのは悪くない。


「なるほど。それで楽譜帳とキーボードか」


橘花は電動ベッドを動かし、起き上がる。


「でも、私はもうピアノを弾けなくなっちゃったから、私の描いた楽譜を弾いてくれる?」


 橘花の一つ一つの発言が、僕の心を抉る。

しかし、橘花の望みならば全力で叶えてやりたい。


「あぁ、いいよ」


そして、初めての作曲を始める。

橘花は鼻歌でリズムを刻む。それを楽譜に書き記す。

書き記された楽譜を、僕がキーボードで奏でる。

納得がいけばそれで決定。納得がいかなければやり直し。それをひたすら繰り返していく。


それを繰り返して早1週間が過ぎた。

コンコンとノック。


「おいっす~」


ドアを開けて入ってきたのは姉さんだ。何やら紙袋を携えている。


「橘花ちゃん、調子はどう?」


姉さんは紙袋を僕に渡して、橘花の近くに座った。


「わざわざごめんね。不自由にはなっちゃったけど、体は元気だよ」


 橘花は笑っている。それは作り笑いではない。


「そっか。ならよかった。あ、そうだ奏多」

「ん?」

「その紙袋の中身は橘花ちゃんに剥いてあげてね」


紙袋の中を覗くと、オレンジ色の果物が4つ。蜜柑よりも少し大きい。


「これは……八朔?」

「そそ。橘花ちゃんが好きでしょ?」


 ポピュラーではない好物だと思う。

一体どこで見つけてきたのやら。


「ありがとう、美影ちゃん」


 本当に嬉しそうだ。


「いいってことよ。私はそろそろ行くわね」


 いつもの姉さんなら1時間くらいは病室で駄弁っていくのだが、今日はやけに早足だ。

「なんかあるのか?」


 だから聞いてみた。


「バイトよ、バ・イ・ト」


 姉さんは夏休みに入ってほぼ毎日バイト漬けだ。


「精が出るな」


 何かと金がかかるのだろう。何に使うのかは知らないけど。


「忙しい中ごめんね」


姉さんは首を横に振った。そして、思い出したかのように言った。


「あ、ちょっと来て、奏多」


姉さんに袖を引っ張られるまま、病室を出た。


「どうしたの?」


 病室では話せない内容ということは、橘花に聞かれたくない内容ということだろう。


「奏多、大丈夫?」


 文面だけで見れば失礼極まりない。

だけど、それが姉さんの優しさだ。あえて多くは言葉にしない。

短い言葉で淡泊に心を覗いてくる。


「……分からない」

「奏多……」

「でも、後悔はないようにやるよ」


 あの男の子には負けたくないから。


「奏多がそう言うなら無理には止めないけど。最近の奏多を見てると、なんだか無理をしているように見える。橘花ちゃんを大事にするのも大切だけど、あんた自身も大事にしなくちゃいけないのよ?」


姉さんの言葉は全部正しいのだろう。

だけど、正しさだけじゃ自分を納得させることなんてできやしない。

命を削ってでも、自分の魂を削ってでも、橘花のことだけを考えなければならないんだ。


「………そうだな」


 だから僕はこういう風に返すしかなかった。


「分かっているならいいんだけど。私が言いたいのは………いや、何でもない。忘れて」


 姉さんは後悔したような口振りだった。

何も後悔することなんかないだろうに。


「迷惑かけるよ、姉さん」


 これは負け惜しみというのかもしれない。

でも仕方ないじゃないか。僕は負けたんだ。

もう、負けているんだ。


「いいよ、別に。お姉ちゃんだからね、私は」


姉さんは静かに微笑んで走り去っていった。

その背中が消えるまで見守った。

今までの感謝と、これからの謝罪を込めて。見えなくなった後も、しばらくは病室に戻らなかった。


 病室に戻ったのは、10分くらい経った後。


「悪い」


 扉を開けて開口一番に謝罪をいれた。


「ううん。なに話してたの?」


 本当のことを言えるわけがない。だから、頭にパッと浮かんだことを口にした。


「八朔の剥き方」

「へ?」


よくもまぁ、こんな適当な嘘が出てくるものだ。でも今はそれがありがたい。


「食べるか?」


 話を逸らす為に、八朔を進める。


「うん、ありがとう」


紙袋の中に入っていた果物ナイフで8朔の皮を剥き始める。

本当に姉さんから剥き方を聞いたわけじゃないから、我流で剥いた。

皿に載せて橘花に差し出すと、美味しそうに頬張った。


「やっぱり美味しいね、八朔って」


 この笑顔が僕は何よりも大切なんだ。大事で大事で仕方がないんだ。


「それは良かった。僕は酸っぱい物が苦手だから食べられないんだけども」


 返事なんて何でもよかった。

ただ、もう少し笑った橘花の顔を見たかっただけ。


「奏多くんって意外と苦手なものが多いよね」


 また笑っている。橘花がまだ、笑っている。


「野菜は好きだからいいんだよ」


何気ない一言。何気ない会話。そう、これを失ってしまうのだ。

僕は。僕は………

この時間を失って。

生きて……生きていけるのだろうか。

その答えはとっくの昔に分かっているというのに。



◆◇◆



電話が鳴る。もうすぐ日付が変わろうとしていた時だ。


「もしもし……」


 相手は分かっている。


『あ、ごめんよ、寝てたかい?』


相手は瑠璃だ。なんとなく気まずい。


「いや、まだ」


 本当は出たくなかった。


『なら良かった』


 明るい瑠璃の声が、心を痛めつける。

今は瑠璃と関わりたい気分じゃない。関わりたくない。会話をしたくない。

声を聴きたくない。そこにいて、欲しくない。

「何か用か?」


 最近は平静を装うのに慣れてきた。


『ううん。特に用はないんだけどね……最近、あんまり会えてなかったし、話もしていなかったから、声だけでも聴きたいと思ってさ』


 あぁ、そうだろうな。そういう風になるんだろうな。


邪魔だな……。

今は、こんなことに時間を割いている場合じゃないんだ。

瑠璃に構って、瑠璃のことを考えて、瑠璃の傍にいて、そんな時間なんかないのに。


「……悪い」


 そんなこと、間違っても口に出せることじゃない。


『気に病む必要はない。君は何も悪くないから』


何をやってるんだ、僕は。何をしてるんだ、僕は。

何度だって瑠璃は僕を肯定してくれる。だから僕は瑠璃に逃げたんだ。でもそんなのはいけないことで、このまま流れに任せたんじゃ駄目なんだ。


 瑠璃も橘花も、どっちも抱えられるほど僕は大人じゃない。


だから何か言わなきゃ…………。瑠璃が何かを言う前に。でないと、僕は………。


「……あ」

『おやすみ、奏多』


先を越された。

いや、瑠璃に遮られたんだ。余韻もなく、感傷もなく、電話は切られた。

己の不甲斐なさに苛立つ。

握っていたスマホを床に投げ捨てた。

柱に当たって画面の割れる音がする。


「どうしたら……どうしたらいいんだよ………くそっ……」


静かな部屋に自分の嗚咽だけ響く。

苦しいくらいに、虚しいくらいに。


やがて、その嗚咽も消え去った。

そして、蝉の音だけが耳に届いた。





もう慣れてしまった病室で今日もキーボードを弾く。

出来上がったばかりの旋律を奏でる。その最後の一音。


「………」

「………」


余韻と静寂を噛みしめる。

それは今日この瞬間までの、心地良い時間の終わりを告げる沈黙だった。


「………完成。ありがとう、奏多くん。手伝ってくれて」


 あぁ、本当にいい曲だと思う。

ピアノで弾いてはいるが、楽譜にはヴァイオリンのメロディーだと書いている。

いつか、その音色を聞いてみたいものだ。


「いい曲だと思うよ」

「うん。ふふふ」


完成した楽譜を眺めて橘花は微笑む。

僕は少しだけ寂しい気持ちになった。

楽しかった数日がもう終わってしまったんだ。橘花との最後の数日が。


「もう明後日だね。花火大会」


 その声に僕はきっと縛られる。


「そう、だな……」


 僕には捨てることも選ぶこともできやしない。


「私から約束したのに守れなくなっちゃった。ごめんね」


 どうして、橘花は目を合わせてくれないんだろう。


「謝ることなんかないよ」

「だから明後日は瑠璃先輩と行ってきて」

「え……?」


 僕は橘花が病室から出られないのなら、ここで一緒にいるつもりだった。


「私は知ってるんだよ。奏多くんが選んだ人のこと」


 いつ、どこで、どうして、どうやって……。


「あ、えっと……」


 いや、この際そんなことはどうだっていい。

瑠璃だって見舞いに来てんだから、知る機会があっても不思議じゃないから。


 そんなことよりも、僕は……君と一緒にいたかったんだ。

例え花火なんか見に行けなくてもいい。

どこにもいかなくたっていい。

この狭い病室の中で、橘花と2人きりで……。

遠くに聞こえる花火の音を聞きながら、他愛もない話をしていたかった。

優しく手を握って、頬を寄せ合って。

ただそれだけのことすらも、橘花は望まないというのか。


「お願い……」


何故そんなにも悲しそうな目で言うんだ。

どんなに難しくても、どんなにしんどくても。

橘花を抱きかかえてでも、一緒に行くのに。わがままを言ってほしいのに。

橘花は、僕の未来を選んだんだ。だったら、僕は従うしかないじゃないか。


初めて、感情が邪魔だと思った。感情なんて死んでしまえと思った。


「……分かったよ」


そっか、コツがあるんだな。感情を殺すには。

ただ瞼を閉じずに前だけを見据えて、頬を強張らせて。

短く、息継ぎの様に。乾ききった目で呟く。

そんな僕は、今すぐ死んでしまいたかった。





次の日は、橘花に病室には来るなと言われた。

橘花にも一人になりたい時があるだろう。

だから僕は言われた通り、病室に行くことはしなかった。


一日中、雨が降っている。

このまま、明日の花火が上がらなければいいのに。なんてことを思いながら。


そんな雨も僕の願いを無視するかのように、夕方に止んでしまった。

ベッドから起き上がる気にも、食事をする気にもなれなかった。

あの日から電源の入らなくなったスマホは、海にでも投げ捨ててしまおうか。

ごみはゴミ箱に捨てろ、と瑠璃は言うだろう。


「奏多」


そんな僕の心を、知ってかしらずか。姉さんが扉をノックした。


「なに?」

「お客さん、来てるよ」


 姉さんの声には、疑心があった。


「客? 誰?」


 姉さんが疑う客とは一体誰なんだろう。


「青髪のギタリスト」

「……」


ギタリストと聞いて思い当たる人物は一人しかいない。

青髪とくれば尚更だ。

そう言えば、スマホを壊したことを伝えていなかった。

重たい腰を持ち上げて外へ出た。マンションの廊下で赤い傘を持って、瑠璃は立っていた。


「こ、こんにちは………」


瑠璃の第一声は弱弱しいものだった。

瑠璃らしくない。あの日、京都のショッピングモールで買ったワンピースを着ている。


「………悪い。スマホ、壊しちまったんだ」


そうじゃないだろ。何を言ってるんだ、僕は。


「そう、かい……なら、仕方がない、かもね」


 瑠璃も言葉を見つけられていないだろう。


「……あぁ」


廊下から見える街並みは、雨で濡れた屋根がきらきらと夕日を反射している。


「少し適当に歩かないか」

「え? あぁ、そうだね。そうした方がいいだろうね」


気まずさを埋めるために適当に吐いた言葉。

瑠璃の顔は見ずに下を向く。申し訳なさが溢れてきて、まともに顔を見れないんだ。


「……………」


 僕は声を出せない。


「……………」


 瑠璃もそれは同じなんだろうか。


「……………」

「……………」


お互いの内面を探るように沈黙が続く。


「奏多——」

「瑠璃、明日一緒に花火を見に行こう」


今度は僕が瑠璃の言葉を遮った。


「……いいの?」


 あまり聞いたことのない瑠璃の少女のような明るい声。


「……瑠璃以外に行く相手、いないんだよ」


また嘘をつく。

行きたい相手、とは言えないくせに。虚言だけは泥水のように沸いてくるのか。


「じゃあ……一緒に、行こうか」

「あぁ」


咄嗟に身に着けた感情を殺すコツが役に立った。

そうだ。これでいい。これで、橘花が望む僕の未来へ近づくんだ。


「明日は何時の集合しようか?」


 楽しそうな瑠璃の声。それが僕には苦痛で仕方が無かった。


「花火って何時からだっけ?」

「夜の8時だってさ」

「じゃあ、7時半に学校の門で待ち合わせしよう。瑠璃なら屋上の鍵を用意できるだろ?そこなら絶対に人も多くない」


 そうだ。そこならば、知り合いに見られることもないだろう。


「2人っきりで何されちゃうだろう、ボク」


 照れた風を装う瑠璃に対して、僕の心はとても冷めていた。


「……何もしないよ」


だから、こういう風にしか答えられない。

瑠璃の気持ちが不愉快で、気分が悪かったから。

本心かどうかも分からない他人の言葉など信用できない。僕は今、心の底から瑠璃のことが嫌いだった。


「別にしてもいいのに……」


聞こえないふりをする。


「雨、降らないといいな」


また嘘をつく。最低だ、僕は。

 一番嫌いなのは僕自身だ。早く死んでしまえばいいのに。





その日は見事なまでの快晴だった。自室で本を眺めていると、姉さんが入ってきた。


「奏多、花火誰かと行くの? 行かないんだったら私と……」

「残念。先約がある」


 姉さんも友達が少ない。


「あら残念」

「どうせ行くつもりもないくせに」

「ひどいなぁ。ま、家から見えるからいいんだけどねぇ」


ぶつぶつとボヤきながら姉さんは部屋を出ていった。


「はぁ……」


雨降らないかなぁ。諦めが悪いな、僕も。


午後7時。予定通りに毎日通う学校に来た。


「よう」

「こんばんは、奏多」


 髪型はいつもと同じ瑠璃だが、いつもより肌が明るい。

きっと今日のためにメイクとかしてきてくれたんだろう。

服装は昨日と同じワンピース。でも、昨日よりもいい匂いがする。

全く無意味で無駄なことだ。


「じゃあ、行くか」

「ほんとに行くのかい?」


一応ルール破るわけであるから、瑠璃は少しだけ拒む。


「音楽室に繋がってる非常階段の鍵、持ってきてんだろ?」

「まぁね。見つかって怒られたら連帯責任だからね」


 瑠璃が非常階段のフェンスの南京錠を開けた。錆びついた階段を登っていく。


「なんだか夜の学校って新鮮だね」


 辺りを見渡しながら瑠璃が言った。


「そうか? 暗いだけで別に何も変わらないだろ」


夏の夜7時はまだ明るい。瑠璃が躓かない様に気を使いながら登っていく。

矢先、瑠璃が躓き、転びかける。寸でのところでその体を抱きかかえた。


「大丈夫か?」

「うん、ありがとう」


笑った瑠璃がとても可愛らしく見えた。

そんな自分が大層気持ち悪い。消えてしまえ。


「ふぅ……あぁ、夜の屋上ってすっごいねぇ」


屋上の扉を開き、外に出た瑠璃が感激の声を上げる。

さっきよりも辺りが暗くなっている。そろそろ星も見える頃合だ。


「ねぇ、奏多」

「なんだ?」


 瑠璃が真面目に顔つきになった。

お願いだから、何も言わないでくれ。このまま大人しく花火を見てくれ。

そして、僕のことを見捨ててくれよ……。


「今日は誘ってくれて嬉しかった。ここ数週間は話したり会ったりできなかったから」

「……悪い」


 言葉だけでも取り繕って謝罪をした。

本当は橘花と過ごしたかったと、勘づかれない様に。それが無駄なことだと知っていても。


「いいんだよ、ぜんぜん。君は橘花ちゃんのことを優先すればいい」

「瑠璃……」


 そう思うなら、なんで昨日僕の家を訪ねてきたんだ。

そう思うなら、僕の前に現れないでくれよ。そのまま、僕のことを見放してくれよ。


「でも、最後はボクのところに戻ってきてほしい」


僕はなんで瑠璃にこんなことを言わせてるんだ。

仮にも親友だったんだ。僕が心を許せる数少ない友達だったはずなんだ。

だから、そんなこと言わせたくない、言ってほしくない。

友達のままで。親友のままでいたかった。いさせてほしかった。

瑠璃は泣いていなかった。ただ泣きそうな顔をしているだけ。

それが作られたものなのか、自然と浮かんだものなのかは分からない。

けど、心を痛めないほど、僕は非情になれなかったんだ。


でも、僕にだって言い分はある。

いくら瑠璃に対して、失礼で無礼なことをしたとしても、僕にはそれよりも優先すべき事柄があるんだ。


「ごめん……ほんとに、ごめん………」


 謝罪の言葉だけは無限に沸いてくる。本心では瑠璃を呪っているのに。

涙なんかも流れてきてしまった。何に対して泣いてるんだ、僕は。


「泣かないでよ。今日はボクを選んでくれた……それでいいんだ。それだけで、いいんだよ、奏多」


 訳も分からず涙を流す僕を、瑠璃は両腕で包む。

違う。この腕じゃない。

僕が本当に抱きしめてほしいのは、この人なんかじゃない。


「ほら、もうすぐ始まるから」


瑠璃の言葉に、僕は顔を上げた。

それとほぼ同時だった。バンッと壊れそうな勢いで屋上の扉が開いたのは。


「やっと……見つけた………」


 現れたのは途絶え途絶えに浅い呼吸をする梓だ。膝は震えているし、髪も乱れている。額は汗でぐっしょりだ。


「あんたは……何をしてるの⁉」


 強い語尾で梓は叫ぶ。


「あんたは……あの子の傍にいなくちゃダメでしょ……あの子の願いを叶えるはがあんたの役目でしょ⁉」


 心臓を射るような目で言い放たれた。あの梓が叫んでいる。

体力もないくせに、僕を探して走り回って、ここに辿り着いた。

あの、梓弥生という人間が。


「だから……僕はここにいる」


 そうだ。橘花の願いを叶えるために。


「違うわ……あの子の願いはそんなじゃない!」

「それでも橘花はそう言ったんだ」


 自分の感情と、心を殺して、僕はここにいる。


「……あんたは馬鹿なの? お勉強しかできないの⁉」


 梓は心の底から呆れたように吐き捨てる。


「なんだよ……」


 どうして、また僕を揺さぶるんだ。自分でも本当は分かってるんだ。

それでも僕は、色んな物を捨てて、選んで……今に辿り着いた。


「そんなのが嘘だって……強がりだって、あんたなら分かるでしょ⁉」

「分かってるよッ……‼」


柄にでもなく叫ぶ。

冷静になれと脳が命令しても、心が全力でそれを拒む。


「だったら、行きなさい……今すぐ」

「断る……」


 今更、どうしようもない。もう花火は始まってしまった。もう、僕にはどうにもできない。


「どうしてよっ!」


 悲しそうな叫び声だった。

どうして、そんなに感情的になってくれるんだ。こんな僕の為に、どうしてそんなに頑張ってくれるんだ……。


「僕はもう……橘花のことを」


 忘れ………


「忘れたなんて言わせない。あんたの下らない痩せ我慢なんて知ったこっちゃないわ!」


 それは自分でも理解していなかった自分自身だった。僕は痩せ我慢をしているのか。


「自分勝手な言い草だよ、梓……」


 でも、僕は逃げているんだ。橘花が死ぬ事実から。

もう二度と、その温もりを感じられなくなることが分かっているのに。

僕は橘花の言葉を嘘だと切り捨てることができない。終わりに立ち会いたくないから。


「あの子には時間がない。今だって……あんたを、待っているのに」

「っ………」


もう決めたんだ。何度も変えてたまるか。


「私は知ってるんだよ。あんたがどれだけ苦しんで、悩んで、傷付いてるか。だから私があんたに嫌われたとしても、今ここで私はあんたを傷付ける」


 めちゃくちゃな理論だ。日本語になっていない。なのに……。


「あんたはあの子の為に行動してよ……それが冴羽奏多のするべきことだから」


 どんな言葉よりも深く刺さったんだ。


「……どうしたらいいんだよ。僕は……」


何度も迷った。何度も決めた。その度に後悔して決断を変えて。


「あんたの本当の心に従って。でないと、あんたは後悔する。いや、私が後悔させてやる」

「…………」


僕の心は……。僕の想いは……。

分かっている。本当の心は変えたことがないんだから。

替えられなかったのだから。ずっと、ずっと、ずっと一人のことを想っているのだから。

そうだ。僕は……。


「橘花……橘花に、会いたい……」


 僕は君の本当の望みを叶えに行く。君に会いに行く。


その時、一発目の花火が上がった。

 僕は瑠璃を選ぶべきじゃなかった。選んではいけなかった。

こんなに優しくて、美人で、誰にとっての理想とも言える人を泣かせてしまうのだから。

でも、瑠璃の傷はきっと親友が癒してくれる。友より強い武器はないのだから。

僕がそうであったように、きっと。


「奏多………」


その場から走り去りたかった。

でも、瑠璃が服の袖を掴んだまま離さない。


「行かないで……行っちゃ、だめだよ………」


 今の瑠璃の涙は本心だ。だって、痛いほど美しかったから。


「ごめん。ほんとうに………ごめん」


2発目の花火が上がった。瑠璃の手を振りほどいて階段を駆け下りる。


「かなたっ……‼」


後ろから聞こえる瑠璃の涙交じりの声が心を締め付けて、刃物でずたずたにしていく。





 なぜ、私がこんなことをしたのか。

難しい理由はない、と思う。

単純にあの子を、あいつが想いを寄せる後輩を不憫に思ったからじゃないかな。


「……うっ、ぅ……ぁあ……」


 でも、目の前で涙を流す親友の姿を見てしまうと、間違っているんじゃないかって思ってしまう。


「……瑠璃」


 いや、これは正しいはず。

このままじゃ瑠璃もあいつも、何か棘のようなものが刺さったままだ。

手順を飛ばしちゃいけない。

踏むべき事柄は、一つ一つ順を追って過去にしていかなければならないから。


 あいつにとって、後輩との別れは必ずしなければならないこと。


「どうして……ボクから奪うんだよっ‼ ボクにはもう奏多しかいないのに……」


 泣きじゃくって真っ赤になった目で、私の襟を掴む瑠璃の声はひどく悲しい音色をしていた。

私は知らなかったんだ。瑠璃のことを。


「ボクはやっと手に入れたのにッ‼」


 何度も何度もその弱弱しい拳を叩きつけられた。痛みは微塵も感じない。


「瑠璃って自分のことをそうやって言うのね。知らなかった」


 瑠璃の手が止まった。私はその手を掴んだ。


「ごめんね、瑠璃。私、あなたのこと何も分かっていなかった」


 瑠璃の好きな物、嫌いな物、口癖や習慣、夢や想い。

本当の一人称さえも。中学よりも前の過去だって私は知らない。

私は瑠璃を強い人だと思っていた。

そんな瑠璃を押し付けていた。そうして弱い私を肯定していたんだ。


それが瑠璃をこんなにも苦しめてしまったのかもしれない。


「私も冴羽のことが好き。きっと、あなたに負けないくらいに」


 瑠璃を抱きしめる。その肩の震えが止まることを願いながら。


「だから、あの子がいなくなることを心のどこかで望んでいる自分がいたんだと思う。冴羽の気持ちも、あの子の気持ちは考えずに」


 それを自覚したことはなかったけれど、あいつが誰かの物になることを焦ったことはなかった。

それが何よりの証拠だ。


「あの子は私たちなんかよりもずっと、もっとあいつのことを想ってる」


 悔しいけれど、私たちなんかが敵う相手じゃない。


「あの京都での夜、私はそれを感じた。それを知っちゃったから」


 今でもあの子のことは苦手だし、どちらかと言えば嫌い。

だけど、何故そうだったのか今までは分からなかった。

それが分かったのは間違いなくあの夜。

私があの子を嫌いだったのは、羨ましいと思ったから。絶対に自分には手に入らない立場と関係性を持っていたから。


「私はあの子にあいつと会わせてあげたいと思ったの」


 瑠璃は何も答えない。

私だけが一方的に話しかける。

それでも私は話すことを止めはしない。


「偶然あの子の日記を見た。そこに綴られていたのは全部あいつのことだった」


 謝罪とか後悔とか、そんな内容が多かったけど。

あの子の『好き』という気持ちが、そこには確かに詰まっていた。

自傷行為のように綴られた『好き』という想いが、あの子の心を潰している。


本来ならば、人が何十年という年月賭けて消費していく感情を、あの子は10年と数年という短い間で燃やし尽くそうとしている。

私よりも小さなその体躯で、私には測り知れないほど大きな『好き』を。

でも吐き出すことはできない。それは冴羽を苦しめることになるから。

あの子はそう思ってたんだと思う。


「命の残り時間を知っている人間は、誰かといるとその誰かを不幸にしてしまう。そんなことが書いてあったわ」


それはそうなのかもしれない。定められている永遠の別れなど、無い方が良いのだから。

永遠の別れは突然やって来る方がちょうどいい。その時後悔しない様に歩けるから。


「あいつの為に心を閉ざしたあの子は、あなたに何かを頼んだんでしょう?」


 それが一番あいつを傷付けることになるとも分からずに。


「弥生の言う通りだ……」


 掠れ声で瑠璃が呟く。瑠璃から手を離して、その顔を覗き込む。

驚くほどにその表情には、無が広がっていた。据わった目は私を見ていない。


「ボクは頼まれた、奏多を幸せにしてって」


 やつれた瑠璃の頬の涙は乾いている。もう、流れる涙の粒一滴もないんだ。


「ボクの想いはもうどうだってよかった……ただひたすらに、橘花ちゃんの願いを叶えてあげたかった」


 何か腑に落ちない。

だって、瑠璃の言い方だと別に冴羽のことが好きじゃなかったように聞こえるから。


「あなた、もしかして冴羽のことなんて……」

「あぁ、そうだよ。別に好きなんかじゃない」


 声にならないとはこういうことなの……?さっきの慟哭は心からの叫びにしか聞こえなかった。

噓偽りの物ではないと思った。


信じられない……。


「じゃあ、どうしてあなたはそんなに泣いていたの……?」

「だってボクは、橘花ちゃんとの約束を守れなかったから……幸せにしてみせるって約束したのに」


 つまり、瑠璃は冴羽があの子のところに走ったのを嘆いたんじゃなくて。

あの子との約束を果たせないことに嘆いていた……ということ。


「あなたって人は……」


 なんでそんなに強がるのよ。

もういいじゃないのよ。強がるべき相手はここに居ないのに。


「嘘を吐かないで。あなたは冴羽のことが好きなんでしょ⁉」


 つい苛立ちが前に出てしまう。


「嘘じゃないよ。ボクは奏多のことを好きじゃない」


 遠くを見つめる瑠璃の瞳は、全くと言って良いほどに揺れていなかった。

凪いだ海のように静かで広く、深く、濁っていた。


「ボクが好きな人はずっと一人しかいないよ、弥生」

「それは、誰なの……?」

「簡単なことだよ、弥生。ボクは好きな人の好きな人を好きになろうとした。それが答えになるだろう?」


 回りくどい言い方はいつもの瑠璃っぽい。

瑠璃の言葉を整理しながら追っていく。

瑠璃が好きになろうとした人は疑うまでもなく、冴羽奏多だろう。

なら、冴羽奏多を好きな人が瑠璃の好きな人ということになる。


……あれ? もしかしてあの子なの???


「あんたもしかして……」

「ボクはちょっと他の人と感性が違うみたいなんだ。それを恥じたりはしていないけど、好きな人が一番好きな人を手に入れたくなる性格はやっぱり変だよね」


 とんでもない告白なはずなのに、それが入ってこない。

瑠璃ってもしかしてそっちの人だったの?

いや、別に偏見とかはないんだけど、全く気が付かなかった私自身に驚いてる。


「ま、まぁ今の時代、それくらい珍しくないんじゃないの?」


 今まで知らなかった瑠璃の一面を知れたのは良かったと思う。

なんかまた仲良くなれそうな気がするし。


「弥生なら、きっとそう言ってくれると思ってたよ。流石はボクが好きになった人だね」

「……ん?」


 え、私? 瑠璃の好きになった人って私?


「えっと……私のことが好きなの……?」


 瑠璃は顔を真っ赤に染めて目を逸らしていた。

嘘かどうか判断とかできないけど……。


「まじ…?」

「……うん」


 小さく呟く瑠璃が可愛かったから、なんか拍子抜けして何の話をしていたか忘れてしまった。





ただ走る。

夏の蒸し暑い夜を駆けていく。

交差点を越えて、商店街を抜けて。

浴衣を着た人々の横を通り過ぎ、花火に足を止める人を追い抜いていく。


ここ一か月を過ごしたあの病室。あそこで橘花はいる。

既に閉まっている病院の正面玄関は諦め、裏口から入った。

また夜空に一輪の花が咲いた。その花は枯れては咲き、また枯れる。


4階に駆け上がり、あの扉を開ける。

カーテンを捲ると、目を閉じたままピクリとも動かない橘花がいた。

それがどういう事なのか、すぐ理解できた。


遅かった……。


「橘花、目を開けろよ。年に一度の、花火だぞ。すご…くきれいだ…ぞ」


段々と声に涙が混じる。

折角の花火が涙で霞む。どうしようもなくなって、俯いて涙を流した。


この花火が終われば本当に橘花はそこにいなくなるんだ。

それは悲しい。悲しいよ。

どうしたらいいんだ。考えれば考えるほど分からない。

橘花には目を開けてほしい。

でないと、好きだと言えない。さよならとも言えない。


橘花を抱き上げ、病室から飛び出す。ピアノのある場所を探して。


「遅かったね、奏多」


病室の外に出ると、廊下の手すりにもたれ掛かる姉さんがいた。


「……姉さん」


 切れる息を整えながら呟く。


「ピアノ、いるんでしょ」


姉さんが指を差したのは病院の屋上だ。


「どうして……」

「ピアニストはロマンチストなんでしょ? ならここで一緒に弾くだろうと思って家から持ってきた。屋上にあんたが探してるものがあるわ」

「……敵わないな、姉さんには」


 涙を拭いながら感謝を伝える。

嬉しくなって思わず笑みが零れる。姉さんは全部分かっていたんだ。


「当たり前でしょう。私はお姉ちゃんよ」

「ありがとう、姉さん」


 今日は素直に感謝の言葉が出てきた。


「お礼はいいから早く行きなさい。花火終わっちゃうよ」


橘花を抱き抱えたまま、屋上への階段を駆け上る。

息が切れても構うものか。梓だって息苦しさを感じながら走ってきてくれたんだ。

僕が倒れるわけにはいかない。


 屋上の扉を開けると、ピアノが花火に照らされていた。

姉さんが持ってきたであろう車いすを広げ、そこに橘花を乗せる。

ピアノの椅子の横に車いすを止め、僕は椅子に座った。


橘花の左手を右手で握り、左手だけで鍵盤を奏で始める。これは『亜麻色の髪の乙女』。

ゆっくりとしたリズムで奏でる。橘花は未だに目を覚まさない。

今まで隠していた想いと、抱えていた気持ちを。

僕のたった一つの心を開いて。感情の全部、伝えたい言葉の全てを旋律に乗せる。


右手を通して伝わる橘花の体温が熱くなった。それが嬉しくて仕方がなかった。

あぁ、嫌だな。

もうすぐ曲が終わってしまう。花火はまだ上がっている。

もう少し弾いていたい。

まだきっと橘花に伝わっていないから。全部全部全部伝えたいのに、伝えきれない。

それがどんなに辛いかを初めて知った。


まだ、まだ嫌だ。まだ嫌なんだ。


それでも、楽譜には終わりがある。

無限に続くダカーポはない。だから無情にも曲は終わった。

姉さんが拍手を送ってくれる。


僕は手を握る力を少しだけ強めた。

返ってくると思っていなかったのに、手を握り返してくる感覚があった。

橘花の方を眺めるよりも早く、ピアノの音色が再び響く。


それは『愛の夢』。


橘花は弱弱しく旋律を奏でる。この音色は僕があの日に聞きたかった音色。そして、今一番聞きたい音色だった。

これが橘花の答えだと思うと、嬉しくて、幸せで、涙が溢れてくる。

橘花は、苦しさの中に幸せを感じたかの様に目を閉じていた。

前半が弾き終わると、橘花は鍵盤から手を離して僕の頬に触れた。


「橘花……」


 あぁ、今この瞬間が僕の人生の全てだ。

未来なんて、もういらない。今、イマ、この一瞬だけ、刹那の間だけが僕の生きる意味だ。


「約束守ってくれてありがとう」


 橘花の声だ。橘花の声が、今、確かに僕の耳に届いているんだ。


「橘花……君のことが、その……なんて言うか」


僕の心を。

僕の想いを。

僕の感情を。

全部。

全部全部。

全部全部全部。

この一言にのせて。届けたい。


「大好きだ」


目頭が熱くなって、鼓動が速くなる。

やっと、伝えられた。その安心感で涙がこぼれた。


「うん、私も………」


僕の言葉を遮るかのように、橘花は僕の唇に自分の唇を重ねた。

快晴の闇夜に黄金の花火が咲く。


そして最後に、とびきりの笑顔でこう言ってくれたのだ。


「さよなら、大好きだよ」





8月15日。橘花はこの世から去ってしまった。

それと同日。

僕は、大切だと思っていたはずの人を裏切って、そして傷つけた。

結局、掴もうとしたものはどちらも僕の両手から零れ落ちてしまった。


ならば何故、そんな物を僕に与えたんだ。最初から、失うと分かっていたら。

こんな物を掴みなどしなかったのに。


 まだ微かに残る橘花の温もりを感じながら、その小さな身体を強く抱きしめる。

頬を寄せて照れることも、頭を撫でて鼻を鳴らすことも、その手を握り返してくれることも、今はもうない。


 軽い体躯を抱えて、薄暗い階段を下っていく。

一つ一つと下る度、何かが消えて行く感じがした。

変わっていく気がした。


僕と橘花の時間はこれからずっと離れていく。橘

花の時間はもう止まっているのに、僕の時間は無暗やたらに過ぎ去って行く。

既に僕と橘花の時間に数分の乖離が生まれた。

それを埋めることはできない。これ以上、広がるのを防ぐ方法はただ一つだけだ。


 その選択をできぬまま、僕は階段を下っていく。

俯いていても、階段ならば先の景色が見える。屋上から一つ下った4階にいる人の姿も。

白衣を纏った純白の髪の女性の姿が、幻覚にしてはハッキリとした輪郭で見えていた。


「やっぱり、医者だったんですね。誘さん」


 僕が先手を打った。もう流されるのはうんざりだから。

誘さんは、白衣のポケットに手を突っ込んだまま答えた。


「やはり少年は聡明だ。あの日、君をそう呼んだ自分を褒めてやりたいな」


 僕は誘さんの前の前まで歩いた。

僕の前に彼女が現れるとき、それは何か確信的に変革が訪れる時だ。


「誘さん。教えて下さい。あなたと、橘花のことを」


 驚いた顔はされなかった。

まるで僕がこう言うことを分かっていたかのように、小さく頷いただけだ。


「決して愉快な話ではない。長い長い話だ」


 誘さんは僕の頭を撫でた。


「それでも、少年に語り継ぐことを願ったのは彼女だ。だからどうか聞いてほしい」


 僕は頷く以外の選択肢を持ち合わせていなかった。

コツコツと誘さんのヒールが床を叩く。その音に合わせるように僕の足も前に進んだ。


「初めて彼女と出会ったのは言うまでもなく、少年と出会ったときだ。ただの女子高生に過ぎなかった私だが、彼女の命の深刻さは肌で感じることができた」


 すっかり静かになってしまった夏の夜の音は、誘さんの声をよく引き立てた。


「少年には関係のないことだが、当時の私は進路に迷っていた。親の跡を継ぐために医者になるのが正しいのか、それが自分のしたいことなのか分からなくなっていたんだ」


 一歩手前を歩く誘さんが少し上を向いた。

まるで過去に想いを馳せるかのように。

それでも歩みは止まらない。


「察しの良い少年には私の言いたいことが分かっているだろう。私は彼女と出会ったから医者として君の前を歩けている」


 誘さんが振り返って僕の目を見た。


「彼女を救いたいと思った」


 橘花の髪を優しく撫でる誘さんの表情には、迷いで埋め尽くされてる。


「だが、私は何もできないただの人間に過ぎなかった。彼女の命を救う力などありはしなかったんだ。私ならばできると思い込んでいたわけでもなければ、自惚れていたわけでもない。ただ……夢のような理想を……誰もが頷ける幸せな結末を……ひたすらに信じ込んでいたんだ……」


 目尻に浮かぶその涙が、擦れるその声が、震えるその手が、誘さんの背負っていたものを雄弁に語っている。


「彼女と再会したのは偶然としか言いようがない。私が同僚の代わりに夜勤をしていた時のことだ」



・・・



 その同僚は身内に不幸があったらしい。

その人との関係性は知らないが、やけに落ち込んでいたのを覚えている。


何の問題も起きずに、夜は更けていった。

日付が変わった頃に院内を回った。まだ夜勤の回数が少なく、夜の病院の雰囲気を知っておきたかったからだ。

もちろん、同じ当直の先輩の了承を得て。

静かなものだったよ。昼間も決して賑やかな場所ではないが、夜は特別だ。

今よりもずっと静かだった。


 故に、その音は聞こえた。コトコト、トントン。

何かを叩く音だ。鈍くはない。軽い音だった。

私は音のする部屋の扉をノックした。

すぐに返事が来たから、ほっと息を吐いてから扉を開けた。


「すみません、うるさかったですか?」


 私が何かを言うよりも早く、彼女は口を開いた。

カーテンが開けられた病室は、春の月明かりに照らされている。

窓も少し開いていて、心地の良い空間だった。


「……」


 すぐに気づいたさ。

ベッドの上で上体を起こした彼女が、あの日の少女だと。

最近はプライバシーの観点から病室の外に名札を貼らないんだ。

だから開けるまで分からなかった。


「先生?」


 黙り込む私を不思議そうに見つめてきた。


「いや、うるさかったわけじゃない。少し気になったから。いったい何を?」


 私が問うと彼女は、先ほどと同じ音を出した。

まるでピアノを演奏するかのように、彼女のしなやかな指が躍っていた。


「不安な時はピアノを弾いていると落ち着くんです。変だと思われるかもしれませんけど、私には聞こえるんですよ。こうしているとピアノの音色が」


 彼女の言う通り、私には机を叩く音しか聞こえない。

でも、その音が何らかのメロディーを奏でていたのは分かった。

耳に覚えのあるメロディーのように聞こえた。


「もしよかったら。私に聞かせてもらえないだろうか。君の演奏を」


 彼女は目を大きくして驚いていた。

だが、すぐに笑って頷いてくれた。私が来客用の椅子に腰かけると、彼女の演奏が始まった。


 トントン。コンコン。タンタン。

ただの机を叩く音でも、色々な音が奏でられていた。

春の夜風が肌を撫でると、私は一気に引き込まれたんだ。彼女の奏でる世界に。


「……」


 やがて演奏が終わる。時間にしてみれば、5分もなかっただろう。

私は小さく拍手を送った。


「素晴らしい演奏だった。君の言う通り、はっきりと聞こえた。『愛の夢』が」

「先生、知ってるんですか?」

「一般教養レベルだけさ。君の様に音楽を嗜んだことはないんだ」

「先生が初めてです。机を叩く音で曲名を当ててくれたのは。奏多くんってば、いっつも当ててくれないんですよ」

「……」


 私は嬉しかったのだよ、少年。

彼女から少年の名が出てきたことが。

今でも2人の関係性が崩れていないことが分かったから。


「あ、奏多くんっていうのは私の幼馴染で、私よりピアノが上手な先輩なんです」

「ふふっ……そうか」


 笑みを溢さずにはいられなかったさ。何故だろうな。


「先生?」

「すまない。君のことを笑ったわけじゃないんだ。昔知り合った少年のことを思い出してな……」

「そうですか……?」


 何のことか分かっていないようだったが、それでいい。


「そう言えば先生。最近この病院に来たんですか?」

「あぁ。新米のペーペー、日向誘だ。よろしく」


 右手を差し出すと、彼女はその手を両手で握った。


「宇垣橘花です。こちらこそよろしくお願いします」


 その日から私は、彼女が病院に来るたびに話をした。

定期的に検査に来ていたんだ。

少年には内緒にしていたようだ。心配をかけたくなかったんだろうな。


彼女とは色々な話をした。

病気のことだけじゃない。日常の些細なこと、昨日の夕飯、勉強の事。


そして、冴羽奏多のこと。

彼女の悩み、悲しみ、苦しみ、憂い。その全ては少年のことに他ならなかった。


私が彼女と再会して2年が経った頃だ。

彼女の命に終わりが見え始めていた。

自分の無力さを呪ったさ。医者という肩書きを手に入れたところで、所詮はただの人間だ。

確立された技術を揮うことしかできない。全人類を救って見せる神にはなれないのだ。


 私は涙を堪えらなかった。

寂しそうに少年の名を呟く彼女の横顔が夕焼けに照らされている。

まるで血色の悪さを隠すかの様に。

 それでも諦めるという選択肢は無い。静観など有り得ない。


私は医者なのだ。命を救うことが使命であり、為せばならぬことなのだ。

故に、私は行動した。肉体は救えなくても、せめて心だけは救えるように。


 5月、私は君に会いに行った。

わざと君に存在を気付かせ、その上で少年の心を煽った。彼女の頼みであるカセットテープを渡した。

前者は私の独断だ。

電話越しにサイレンが聞こえてしまったのには流石に焦ったが、少年の親友と名乗る少女に助けられたよ。

不思議な空気を纏う青髪の少女だった。


 全てはうまくいったと思っていたんだ。

彼女の願いは果たされると心の底から確信していたんだ。


・・・


 橘花を病室のベッドに寝かせる。誘さんはカーテンを開けて金色に輝く三日月を眺めていた。


「……誘さん」


 その背中に声をかける。


「……」


 僕はこの人に何と言えば良いのだろうか。

慰め、叱責、感謝。どれも違う気がした。


「少年。これは彼女から預かっていたものだ」


 僕が声を発するよりも前に、誘さんが僕にA4サイズの茶色の封筒を差し出した。


「これは……?」


 受け取るとそれなりに重みがある。中は紙類のようだ。


「この世で少年しか見てはいけないものさ」


 誘さんが軽く手を振って病室を出て行く。

僕は病室の窓を開けた。今夜の風はよく乾いて心地が良い。


 橘花が眠るベッドに腰掛けて、封筒の中を見る。

入っていたのは一冊のB5ノートと楽譜が数枚。そして、ケースに入ったカセットテープ。


「……」


 カセットテープのタイトル欄にはこう書かれていた。


『Summer Evidence』


 楽譜の一番上にも同じタイトルが書かれている。

小さなショルダーバッグからカセットプレイヤーを取り出す。丁寧に蓋を開け、カセットテープをセットした。やけに綺麗なカセットテープだ。

今の時代にいったいどこで手に入れたのだろうか。


白いイヤホンを耳に当て、再生ボタンを押しこんだ。

しばらくテープの回る音だけが響いた後、ピアノの音が流れ始めた。

そしてそれを追いかけるように、ギターの音色が鳴り響く。

その2つの音とは違い、明らかにシンセで作った単調なドラムと、強調し過ぎなベース。


だけど、僕はこの曲を知っていた。

あの日、あの時、あの場所で永遠という刹那の終わりを感じながら、80億人の中のたった2人だけで奏でた旋律。

僕と橘花の2人だけが知っている曲。

編曲が施され、原曲とは程遠い。

もともとはゆったりとしたフォークソングのような曲だったはず。

それがどうだ。今流れているのは紛れもないジャパニーズロックだ。


『これは君に送る別れの歌』


 高く透き通った声が囁くように歌っている。

これは瑠璃の歌声だ。その意味が僕には分かる。

だって、瑠璃の声が苦しそうだったから。

いつもの瑠璃はもっと楽しそうに、無邪気な色で歌うんだ。


 代弁者なんて瑠璃には似合わないのに。

本当は橘花の歌声で聴きたいのに。

すでに僕の目尻には大粒の涙が止めどなく溢れ、防ぎようのない感情の波が僕の心を追い越していく。


~~~


放課後 木陰で待ち合わせ

2人で並んだ帰り道

焦る気持ちとは裏腹に

ゆっくりと歩いた


わざとらしく私は言った

「こんな毎日が続いたら……」

突然歩みを止める君の

辛そうな横顔


嫌だよ そんな目しないでよ

笑ってる顔が好きなんだ

もし許されるのならば

千年も 永遠に 悠久を

君と紡ぎたいけど


さよならが遠くて

辿り着かないなら

君は泣かないでいれた?

いや、そんなことはないね……

愛しさは近くて

いつも感じてたのに

目を背け遠ざけてた

君に伝える資格はもう無いけれど……


~~~


 曲としての完成度はきっと低いんだ。

世の中の大多数の人は耳も貸さないような曲なのかもしれない。


それでも、それだからこそ。

震えた。その震えを止められない。


 早く。早く詩の続きを聴きたい。

橘花の綴った言葉を浴びたくて仕方がないんだ。

心を書き出した痛いくらいに美しい詩を。


~~~


病室、一人で綴ってた

B5サイズのダイアリー

口に出せない言葉たち

空白を埋めてく


過ぎた時 数えないけど

残りの時間は数えてる

どれだけ君と過ごせるの?

神様、あぁ……恨むよ


理不尽な世界の中で

嘆き悲しみ立ち止まり

明日さえ見失っても

夏影に 眩んだ 標を

この歌に乗せるから


私は生きていたい

君を想っていたい

当たり前に朝迎えて

君におはようと言って 言われたい

声も目も温もりも

寝ぐせ混じりの髪も

捻くれた屁理屈さえも

好きと好きが好きで好きでたまらない


~~~


 僕は知らなかった。

こんなにも想われていたことを。

こんなにも苦しめていたことに。愛してる、大好きだ、なんて自分勝手を投げつけて、愛されなくて塞ぎ込んだ。


でも、橘花はこんなにも受け止めてくれていたんだ。

それを掬い取って、抱きしめられなかったのは僕が橘花のことを見ていなかったから。

見ている、分かっている、知っている気になっていただけ。

ごめんよ、橘花。そして、ありがとう。


~~~


最期に君へ伝えたいこと

それは私が言えなかったこと

口に出すのは照れくさいから

下手くそだけど歌にしたんだ


聴いて聴いて

声枯らして歌うから!


世界を驚かせてしまうほどに

この気持ちを叫びたいんだ

私は君のこと

愛してる 大好きなんだって


君に伝わるかな

伝わってほしいんだ

好きに最上級があるなら

それは君への気持ちに違いない

何度でも叫ぶから

君が忘れないように


傷つける言葉よりも

愛しい君への言葉を奏でたい


『さよなら、大好きだよ』


~~~


 言葉は出なかった。

口から漏れるのは慟哭だけだ。

未だに手に残る橘花の温もりが、消えゆくものだと実感した。

空白を再生し続けるテープが、まるでこれからの自分を表しているようで凍り付きそうだ。


 まだ涙は枯れない。

だと言うのに、僕は橘花のノートを開いてしまった。

それが橘花の心を本当の意味で書き出していた日記だと気付かずに。


『4月5日』

やっぱり私はもう長くないみたい。でも、夢だった高校生活は送れる。

たとえ短くても、奏多くんと同じ高校に通えるから。

それだけで、身に余るほどに幸せなんだ。


ううん、嘘。本当は……


『5月10日』

 瑠璃先輩と奏多くんが付き合い始めた。

これでいいんだよね。

私は奏多くんと幸せになれない。幸せにしてあげられない。

奏多くんに幸せにしてもらう資格が無い。

それでも、やっぱり。

奏多くんの隣を歩くのは……


『7月17日』

 奏多くんに好きだと言ってしまった。

溢れるこの気持ちを止めることができなかったから。

きっと、こんな幸せになることはもうない。

だって、残りの時間はずっと幸せで、それが当たり前になるから。


『8月1日』

 私の身体は不自由になった。

奏多くんと会うときはいつも通りにしていたい。

もう日記を書くのもしんどい。

それでも、今日が最後だとしても。

もしかしたら、この日記を奏多くんが読むかもしれないから。

最後は幸せだってことを伝えなくちゃ。

私の人生は他の人よりもずっとずっと短い。

だけど、だからこそ。

一日一日が大切な日々となり、出会った一人一人が私の人生を彩る大切な人。


『8月11日』

 きのうのつづきをかかなくちゃ

もうてにちからがはいらない

かなたくん

わたしとであってくれて

わたしをあきらめてないでいてくれて

わたしをすきだっていってくれて

わたしをだきしめてくれて

ありがとう


『8月14日』

かなたくん

さようなら

わたしのことわすれないで

でも、しあわせのじゃまをするなら

はやくわたしなんかわすれて

わたしのしらないだれかと

わたしのいない

かなたくんだけのしあわせをみつけてください


わたし、宇垣橘花は冴羽奏多をあいしています

これまでも これからも

ずっとずっとだいすきだよ





 死のうと思った。

死ねば、ぜんぶ解決だと思った。

この苦しみも悲しみも。この痛みも虚しさも。消えてなくなるはずだから。


 そして、もう一度。橘花に会えるはずだから。

そうすればずっと、これからも永遠に橘花といられるから。


「もっと早く、こうしていればよかったんだ」


 病室の窓を全部開ける。ちょうど人が身を乗り出せそうなくらいに開いた。

よく見るとストッパーが外れていた。神の思召しだとこの瞬間は思えた。


「そうすれば、こんな暗い気持じゃなくて。橘花に会いたい。その一心で君に会いに行けたのに……」


 橘花の身体を抱き占める。もう温かみも感じない。唇を重ねる。もう息遣いも感じない。

これが死というものなんだ。永遠の別れというものなんだ。


「僕は橘花との幸せ以外、何もいらないんだ」


 カセットテープを握りしめる。橘花の日記と楽譜を抱きしめる。

これさえあれば、僕は何も怖くない。


「今から、橘花に会いに行くから。まだ追い付けるかな……」


 窓から身を乗りだす。

幅50センチくらいの足場に立って、窓枠に腰掛けた。

もう一度、橘花の方を見た。

安らかな表情で安心したんだ。最後に浮かべた表情が安らかだったから。


「橘花——」

「冴羽ッ‼」


 バンッと勢いよくドアが開いた。


「なにしてるの……」


 息を切らし、汗だくになった梓が僕を睨んだ。


「死ぬなんて……許さないから」

「……」


 やっぱり君は良い人だ。

僕なんかと関わるべき人じゃない。


「そう言ってくれてありがとうな、梓」

「だ、だめよ……冴羽」


 僕は笑って見せた。

ゆっくりと手を伸ばしてくる梓から、僕は逃げるように立ち上がる。

踏み出した先に地面はない。

奈落というほど深くはなくとも、重力に引かれ落ちるだけの高さはある。


「かなたっ! だめッ‼」


 梓を泣かせてしまったのが最後の心残りだ。

僕に向かって手を伸ばす梓がどんどん遠くなる。叫び声もかき消されていく。


 僕の右手に何か暖かい物が当たった。それはたぶん、梓の涙だ。


「あぁ……泣かせてしまったなぁ」


 走馬燈は見えなかった。

けれど、真夏の星空を背景に、悲しそうにする梓の表情が僕の人生を表しているみたいに思えた。


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