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Summer Evidence  作者: 米八矢


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第4章 あなたを感じて痛い


ミーンミーンと蝉が鳴く季節になった。

いつもの屋上も熱い日差しが射している。

だからと言って冴羽奏多の昼休みの居場所に変化はない。同じく、梓弥生の昼休みの居場所にも変化はない。


しかし違う事が一つある。


「ねぇねぇ奏多、このオムレツの出来はどうだい?」


それは、南川瑠璃が昼休みに屋上に入り浸る様になったこと。


「えっと……少し焼きすぎかな。オムレツは焦げ目が少ない方がいい」


 決して美味くないわけではないが、料理には見た目も大事だ。


「うーんそっかぁ。でもこれくらい焼かないと全体が焼けないんだよね」

「蓋をしてみたら?」

「それで変わるの?」

「だいぶ変わるぞ。焼くというより蒸すという感じだけど」


 料理において蓋はリーサルウェポンと言える。


「そうなんだ。今度やってみるよ」

「あぁ」


瑠璃とのやり取りを何か言いたげな顔で梓が見つめていた。

しかし、会話を邪魔する気はないらしく、文庫本を開きながら食事を続けている。


「じゃあ、そろそろ戻るよ。また明日、奏多」

「あぁ」


瑠璃は胸元で「バイバイ」と手を振った。僕は手を振り返すことはせず、小さい返事だけで返した。


「随分と楽しそうね」


これまで口を開かなかった梓が口を開いたかと思えば、それは皮肉だった。


「別に楽しくはない」

「どうだか。端から見れば楽しそうよ、あんた」

「ふむ……嫉妬か?」

「殺すわよ」


 目が怖い。本当に殺されそうだ。


「口が悪いな」

「あの娘はどうしたのよ、あの娘は」

「…………」


 誰だと聞き返す必要はない。


「黙ったところを見るに、避けてるってわけね」

「……避けてない」


 少なくとも避けているつもりは微塵もない。


「あんた最近あの娘に呼ばれても音楽室に行かないじゃない。私は瑠璃に呼び出されて行ってるのに」

「ただの僻みじゃないか」


 というか呼ばれて行くのが悪いんじゃ。

でも、仲違いはしていなさそうでよかった。


「それもある」


 あるのかよ。


「けどそれだけじゃない。あれだけ仲が良かったあんた達が2か月もつるんでないのよ? 何かあるんじゃないかって疑うのは普通ではなくて?」


 そうかもしれないけど、それは梓には関係ないことだろう。


「……なんで僕に構う」

「私はね、善意で言ってんの。それを分からないあんたじゃないでしょ。まさか忘れたとは言わせないわよ」

「……もちろん覚えているが」

「ならそれが答えよ」


 もう、2か月も前になるのだろうか。

梓は僕に言った。お前は瑠璃に逃げているだけだと。それは僕自身も認めざるを得ない事実。

だからはっきりと言葉にして瑠璃に伝えようと思った。

でもその度に上手くはぐらかされてしまう。デートをするようなことも無くなったし、夜中に電話がかかってくることもない。

ただ毎日の昼休みの数分をともに過ごすだけ。また僕は逃げているのかもしれない。


「あんたもさぁ。あの娘が好きだからって言って私を振ったくせにさぁ。あの娘を避けてるってふざけてるの?」

「……別に」


 それを言われると強く言い返せないから困る。


「ともかくね。早く仲直りしてくれなきゃ私がストレス溜まるの。胃潰瘍にでもなったら医者料請求するわよ」


慰謝料とは医者の料金ではないのだが。


「喧嘩してるわけじゃないけど」

「だったらなおさら避けるのやめないさいよ」

「……むぅ」


僕はどうも梓に逆らえなくなってしまったようだ。

好意を無下にした申し訳なさは思っていたよりも重いな。

橘花にフラれてからもう2ヶ月も経ち、想いを断ち切り、心を入れ替えたにも関わらず、どうも橘花との関わり方を掴めずにいる。


「ところで梓」

「何よ」

「何を読んでるんだ?」


 何となくご機嫌取りをしとこうかという気になったから聞いてみた。


「歴史の本」

「歴史好きだもんな、梓。いつの時代?」

「蘇我入鹿」

「誰だっけかな。蘇我馬子の親戚?」


 聞いたことあるような無いような名前だ。


「馬子は入鹿の祖父。あんたも大化の改新くらい知ってるでしょ?」

「そりゃまぁ」

「あれって一連の政治制度の改革をまとめた名称なのよ。それの第一段階を己巳の変と言うのだけれど、その変で中大兄皇子と中臣鎌足に討たれたのが蘇我入鹿よ。大和朝廷の大臣をしていたのだけれど、専横が甚だしくてね。打倒蘇我氏を掲げたってわけ」

「おーん。あんまりその辺の時代はよく分かんないんだよな」

 この発言が地雷だった。



「そう。じゃあまずはどこから話そうかしら」


 予鈴が鳴るまでの30分弱、梓先生のありがたい歴史の授業を受ける羽目になったのは言うまでもない。





教室に差し込む日光が眠気を誘う5時間目。

睡魔に追い風を当てるかの様に教科は現代国語だった。


「えー、これまでKは精進の道を歩んできていたわけです。それがお嬢さんと出会って———」


定年間近と思われる男性国語教師の坂本が夏目漱石の『こころ』を解説していた。

教室の後ろ方の席の僕が辺りを見渡すと、机に突っ伏して眠る男子が2、3名。

口元に手を当てて欠伸をする女子生徒が4、5名。真面目にノートをとる生徒がざっと10名。

隣の梓は欠伸をする女子生徒のうちの一人。

つられて自分も欠伸をしそうになるが、息を吸ってなんとか耐えた。


黒板に白い文字が増えていくが、僕のノートは白いままだ。

カチカチと教室のどこかでシャーペンの芯を出す音がした。

それが自分の右手だったのだから驚きだ。シャーペンを机の上に転がし、右手で頬杖をついた。


「はぁ………」


ふと、窓の外を見た。2階の窓から見える景色の遠くでは水面がキラキラと光り、すぐ近くの校庭では一年生が体育の授業をしていた。2クラス合同の体育で70人ほどの生徒が集まっている。


その中から橘花を見つけるのは容易かった。

あの橘色の瞳が僕を探すようにこちらを見ていたから。

目が合ったことに気が付いた橘花は胸元で小さく手を振った。


「…………」


けれども僕は手を振り返すことが出来ず、目を逸らした。

再び教室を見渡すと、隣の席の梓と目があった。


(なんだよ)


目線でそう伝えた。すると梓は首を横に振った。


(なんでもない)


多分こういう意味であろう。

視線を窓の外に移すと、橘花は友達と雑談していた。その中でもチラチラと僕の方へ視線を送っている。橘花の瞳には孤独と、恐懼の色が宿っていた。


なんとかしないとな……。心の中で呟いた。

再び教室にカチカチという音が響くのに、そう時間はかからなかった。


放課後、昇降口の壁にもたれて外を眺めていた。昼間はあんなに晴れていた空は、黒い雲が大粒の雨を降らせている。


「どうすっかな……」


当然の事ながら傘を持っていない僕は、立ち尽くすしかなかった。

スマホで天気予報を見てみればあと4、5時間は止みそうにない。

白雨と言うには激しすぎる雨だった。


仕方がないので学生鞄を頭の上に置いて走るしかない。

とは言え、教科書類が濡れるのは嫌なので、一度教室に置き勉しに戻らなければならない。

壁から背を離して踵を返す。

そして教室へ戻るべく歩き出したその時、橘花が友達と雑談しながら目の前の階段を降りてきた。


一瞬、橘花と目が合ったが、すぐに俯いて目を逸らして速足で階段を昇って行った。

橘花もまた、僕の事を気にするフリも見せず、そのまま階段を降りて行った。

その姿が、少しだけ寂しいと思ったのは何故だろうか。


教室の扉を開けると、自分と同じような理由で帰宅困難になった生徒がちらほらといた。

皆一様に手にはスマホ、耳にはイヤホンを付けていた。

自分の席の机の中に今日の授業で使った教科書を詰め込む。

途中だった小説も濡れるのは嫌なので後ろ髪引かれつつも机の中に入れた。これで鞄の中には筆箱と弁当箱しか入っていない。


軽くなった鞄を手に教室を出ると、廊下の柱の陰に見覚えのある髪が見えた。

艶やかな橘色の髪の人物は僕を目に留めると、小走りで近寄って、小声で呟いた。


「………傘、無いんでしょ」


 俯いていて表情が読み取れない。


「え、あぁ……」

「……貸したげる」


そう言って橘花は俯いたまま、白い折り畳み傘を僕に押し付けた。


「2本、あるのか?」


橘花は何も言わず首を縦に振った。


「嘘つけ。折り畳み傘2本も持ってるやつなんかいないだろ。僕は走って帰るから橘花が使いな」


橘花に押し付けられた折り畳み傘を橘花の右手に握らせ、「じゃあな」と言ってその場を去った。

いつもならきっと、一つの傘で一緒に帰る事だって出来たはずだ。

けれど、そうすることが出来なかったのは、梓が言っていた様に避けているからなのかもしれない。


昇降口まで戻ってくると、雨は勢いを増し、沛雨(はいう)へと変わっていた。

傘を持っていたとしても帰るのを躊躇いそうな雨だと言うのに、傘なしで帰るなど酔狂を通り越してただの馬鹿だ。

かと言って橘花に「入れてくれ」と頼むのも、あんな別れ方をした手前難しい。 


しかし早くここを離れなければ橘花が降りてきてしまう。八方塞がりとはこの事だ。

進むは大雨、退くは橘花。


「あれ、奏多? どうしたんだい、そんな所で」

「……瑠璃」

「あ、もしかして傘がないのかい?」

「え、あー。まぁそんなところだ」

「じゃあ貸してあげるよ。天気予報を見てたんで予備の折り畳みがあるんだ」


瑠璃の右手には紺色の傘が握られている。靴箱を開けて、中から赤色の折り畳み傘取り出した。


「はい、どうぞ。色が明るいのは我慢するんだね」

「あ、ありがと」

「じゃあね」


 ふと、昼休みの梓との話を思い出した。


「瑠璃、ちょっと話があるんだけど」

「悪いけどこれ以上雨が強くなる前に帰りたいから。また今度」


玄関を出て傘を開き、雨の中へ走って行った。

その姿はすぐに雨粒に消えていった。


また避けられた。右手に残った折り畳み傘を見つめ、ため息をつく。

取り敢えず、靴を履いて玄関の外に出ることにした。

そうこうしているうちに階段から橘花が降りてきた。その姿はどこか落ち込んでいるように思える。


靴箱まで歩いてきた橘花は、ポツリと立ち竦む僕を目に留めた。


「奏多くん……」


憔悴した顔で橘花が虫の音の様に呟く。軽く手を上げ、返事をした。


「走って帰ろうとしたんだけど………思ったより雨が強くて、さ」


右手の折り畳み傘を背中に隠しながら。


「だから……その、なんていうか。橘花の傘に入れてもらえれば、なんて思ったりするんだけど……」


橘花は驚いたように呼吸をし、首を縦に振って「いいよ」と小さく言った。


「ありがとう」


橘花は靴箱から出した革靴を履いて外に玄関を出る。

僕の横で傘を開き、「どうぞ」と言った。


「僕が傘を持つよ。背が高い方が持った方がいいだろうから」


橘花は頷いて傘を差し出した。

受取った僕は橘花の歩幅に合わせて雨の中に進んだ。

傘の下は雨の音で覆われた結界の様に静かだった。聞こえるのは自分が息を飲む音と、脈打つ拍動。

ふと、横目に橘花の姿を見る。姿勢よく歩き、双眸は雨景色を真っ直ぐと見つめていた。


それだけ。たったそれだけで、何故か安心する。


「どうしたの?」


視線に気づいた橘花が首を傾げた。


「なんでもない」

「そう? 夏だけどちょっと寒いね」


 濡れてしまっているので、体温が奪われてしまう。


「帰ったら熱いお茶でも飲みたいもんだな」

「ふふ、そうだね」


橘花の笑った顔はいつかと同じように、どこか寂しげだった。

けれども、愛おしくて、仕方がなかった。

だから家までの距離がいつもより短く思えた。


「じゃあな」

「うん。風邪引くからちゃんと体拭きなよ」

「分かってるよ」


家に着いた2人は傘を閉じて、それぞれの家に分かれた。


「ただいま。母さん、悪いんだけどタオル取ってきてくれない?」


玄関に入り、リビングでいるだろう母にタオルを要求した。


「やっぱり傘持って行ってなかったんだ」


しかし返事をしたのは母ではなく、姉さんだった。


「姉さん、いたんだ」

「何よその言い方。はい、タオル」

「ありがとう」


 受け取ったタオルで、雑に髪の水気を拭いた。


「あれ、鞄に傘入ってるじゃない」


姉さんは鞄の外ポケットから赤い折り畳み傘を抜き取った。


「随分と明るい色ね」

「僕のじゃないよ。借り物」

「何で使わなかったの?」


 当然の疑問である。だが、真実を答えるわけにはいかない。


「いや、濡らすのは悪いなと思って」


 言い訳が思いつかず意味不明なことを言ってしまった。


「いやいや。これ日傘じゃないんだから濡れるのは当たり前じゃない」


 ごもっともだ。


「いやいや。本来だな。傘と言うの笠と書いて女の人の被り物だったんだ。それが発展していって今の傘になったわけ。つまり男の僕が傘を使うのは間違いなんだ」

「あんた何言ってんの?」


 姉さんが目をぱちぱちとさせているのを初めて見た。


「……自分でも分からん」


僕には自分が何を言っているのか本当に分からなかった。きっと疲れているんだと思う。

或いは……。


「ははーん。分かっちった」


姉さんは悪戯っ子の様な笑みを浮かべて舌を鳴らした。


「何そのおっさんっぽい口調」

「橘花ちゃんと相合傘してきたでしょ?」

「なっ⁉ いやいや! してないしてない!」

「その焦りようはしてる人のソレよ」

「仮にしてたとして、姉さんには関係ないだろ」


姉さんの手から傘を奪い返して、速足で自分の部屋に逃げていった。


「遅めの反抗期かしら……?」


自室に戻った僕は濡れた制服も着替えぬまま布団に飛び込んだ。

濡れたワイシャツが肌に張り付いて気持ちが悪い。


けれど、それよりも気持ち悪いのは自分の心だった。

鍵をかけた戸を突き破って何かが入って来る感覚が消えない。遂に吐き気まで催すようになった。


水でも飲もうとベッドから立ち上がった時、誰かが扉をノックした。


「なに?」


 足音的に姉さんなのは分かっていた。


「橘花ちゃんが来たけど。部屋に上げてほしいって」

「橘花が?」


橘花が高校生になってから部屋を訪れたことは殆どない。

それが部屋に上げてほしいとなれば、それなりの事情があるのだろう。


「分かった。上げていいよ」

「じゃあそう伝えるわね」


姉さんの足音が遠のいていくのを聞いてから、部屋の中を軽く片づけた。

と言っても、床に転がっていた学生鞄を机に掛けただけだが。


一分と経たずに再び扉をノックする音。

「どうぞ」と僕が言うと、制服のままの橘花が入ってきた。


「どうしたんだ、橘花」

「謝らなきゃって思って」

「そうか。まぁ、取り敢えず座れよ」


何のことだ、と問いただしたい心を押さえつける。

椅子に座り、橘花をベッドに座るように促した。この座り方がいつもの構図だからだ。


「何か飲むか? 姉さんに淹れてもらうけど」

「ううん。大丈夫」


橘花はスカートの裾をいじりながら俯いていた。

自分から口を開く気になれず、机の上の木目を眺めた。


しばらくして。口を開いたのは橘花だった。


「ごめんね、奏多くん。あんな形でしか、自分の気持ちを伝えられなくて」


 その弱々しい声に、僕は何故か不安になる。橘花はあの日のことを言っている。

あのカセットテープのことを。聞きたいことはたくさんあった。

気になることもたくさんあった。


けど。


「あぁ……そのことなら、別にもういいんだ」


 あのカセットテープは僕の一生の宝となるだろう。

本当は忘れるために捨てようと思っていた。逃げるために必要ないものだから。


 でも、僕の心がそれを強く拒んだ。

だから今も、そのカセットテープは机の引き出しの中にいる。

一番奥の誰にも見られないところに。


だから僕にはもう、どうだっていいんだ。


「ごめんね。私は自分の口で奏多くんに思いを伝えることをしなかった。それが奏多くんを苦しめることになるって分かってたのに」

「………」


 そう言われてしまうと自分でも自分のことが分からなくなる。

本当はもっと、色々問いただした方がよかったんじゃないかって。


「でもね。今日一緒に傘に入れてくれって言われて嬉しかった。私はまだ奏多くんに嫌われたわけじゃない、傍にいても良いんだって思えたから。けど、やっぱりそれはいけないことなの。私は奏多くんの傍にずっといられない。そんな私に奏多くんの気持ちに答える資格はないの」


橘花の目には強い意志が宿っている。それは簡単に否定できないものだと分かった。

けれど否定せずにはいられなかった。

何故か。


それは、僕がまだ。橘花のことを想っているから。


「そんなことはないだろ……」


 口に出さなければ否定することはできない。


「ううん。あなたの幸せを引き裂いてしまう。奏多くんの気持ちは嬉しい。だけど奏多くんの幸せを願って———」

「だったらッ……‼」


勢いよく立ち上がり、椅子が倒れた。

気付いた時、橘花はベッドに押し倒されていた。

他でもない僕に。

橘花は抵抗する素振りも見せず、ただ僕の目を見つめた。


「だったら……僕の心に入って来るなっ‼ 資格だの幸せを願うだの、そんなことをどうだっていい! お前は僕の事を好きだと言ってくれたじゃないか。だったら、僕の気持ちも考えてくれよ‼」


知らぬ間に僕は泣いていた。涙が橘花の頬を伝う。橘花が僕の事を考えてくれているのは分かった。

けどそれは僕の気持ちを汲み取らず、橘花の気持ちだけで判断している。

だから苦しかった。


僕は今、最低のことをしている。

瑠璃の顔が頭に浮かぶ。これから傷付くのは瑠璃だ。

瑠璃に対する後悔と、逃げたことに対する後悔が生まれていく。

でもそれ以上に、橘花のことで頭がいっぱいになる。


橘花は手を伸ばし、僕の頬に添えた。


「じゃあさ。奏多くんは私と心中してくれるの?」

「……っ‼」


相手の気持ちを考えていないのは僕も同じだった。

もうすぐ死んでしまうという恐怖、虚しさ、言いようもないそれらを僕は知らないし、決して分からない。だから橘花は悲しい物を見るように笑っているのだ。

貴方には分からないでしょう? そう言いたげに。


「お前が……そうして欲しいなら。僕は橘花と心中する」


橘花は瞼を下ろして呟いた。


「……嘘つき」


橘花は僕の左頬に右手を添え、つまんで引っ張った。


「そんな辛そうな顔をしながら言わないでよ」


嘘じゃない。本当だ。本当にそう思っている。


「う、嘘じゃ……ない」


 嘘じゃないから、こんなにも悲しいんだ。


「それは嘘だよ。本当の心じゃない。奏多くんの優しさがそう言わせているだけだよ」

「同じことじゃないか。それも僕だ。だから嘘じゃない」


 そうだ嘘じゃない。どっちも僕の心だ。


「それは屁理屈だよ」

「それでも、理屈は理屈だ。捻くれてると言いたいなら橘花が気づかなかっただけだ。僕は、昔から捻くれてる」


 僕は全身全霊をかけて橘花のことを想うから。


「………知ってる。だから困ってるんだよ。奏多くんが嘘をついていないって分かっちゃうんだよ。どうして……私のことを嫌いにならないの……?」

「どうして……って」


橘花と始めて会った日の事は覚えていない。

それくらい昔だということ。物心ついた時にはこの家で、この部屋でよく遊んでいた。

僕にとっての橘花は一番の友達であり、特別な妹だった。そして……大好きな女の子だ。


「僕にとって……橘花は、友達であり、妹であり……」


言葉を選ぶ。この17年間で身に着けた語彙を全て使って橘花に伝える。

けれど、その言葉の続きを見つけられない。

瑠璃への罪悪感が僕を凍らせる。

縛り付ける。

マリオネットの様に口が開いて閉まる。空っぽの息が漏れる。


そして、言葉を選ぶ必要はないと知った。

単純な言葉でいいじゃないかと。

瑠璃への後悔も僕が自分で選んだ結果に過ぎないのだから。


「僕にとって橘花は……世界中の誰よりも大好きな女の子なんだ」


そう言い切ったとき、僕の中で何かが吹っ切れた。

ずっと絡まって縛っていた得体の知れぬ何かが消えて行った。そんな気がした。同時に、自分が最低の人間だと思い知った。

何度目だ、これで。でも、僕はもう逃げたくはないから。


「……やめてよ。そんなこと言われたらもう、私はもう、自分を殺せないよ………っ」


橘花は瞳を閉じて涙を堪えた。

そして僕の首元に両腕を回し、自分の胸元に抱き寄せた。


「きっ……か……」

「私の顔、見ないで、お願い」

「…………」


 橘花の心臓の音は雷鳴の様に鼓膜に届いた。


「……ありがとう、奏多くん。もう自分を殺すのはやめるから。私も、奏多くんの事が好きです。ごめんね、あの時答えてあげられなくて」

「……もういいんだよ」


橘花の体を弱弱しく抱き返した。

クビキリギスの音が夏の色を感じさせる、夏の夜のこと。

ずっと思い続けていた相手の気持ちを知れた喜び。

自分が選んだ人を傷つける痛み。死んでしまいたいほどに、僕は最低な人間に成り下がっていた。


何度も、何度も、何度も……僕らは口づけを交わした。

鞄の中に入ったスマホが鳴っていることに気付かずに。


「約束して。私への想いは隠したままでいて」

「……どうして」

「私はもうすぐいなくなるんだよ? だから、2人だけの……ひみつ」


橘花には全て知られているのだ。だから、こんなにも涙を流してくれているのだ。

なら、こう答えるしかない。


「約束、する」





「昨日はお楽しみだったね、奏多」

「昨夜は大変ご迷惑をお掛けしました、お姉様」


僕は姉さんの部屋で、ベッドに腰かけた姉さんに土下座で謝る。


「まぁ、あの流れだと仕方ないか」


 会話を聞かれていたのが一番恥ずかしかったりする。


「本当に申し訳ございません」


昨晩はあのまま橘花と寝落ちしているのを姉さん見つかってしまった。

別に悪いことはしていないのだが、橘花の両親が心配していたという話を聞いて、申し訳なくなる。


「はぁ……お父さんたちがいなくて良かったね」

「……はい」


 この歳になって両親に怒られるのは嫌だ。


「そんな萎縮しなくても大丈夫よ。橘花ちゃんのお父さんたちも怒ってなかったし。信頼されててよかったわね」

「はい……ありがとうございました」


 向こうの両親への説明は姉さんがしてくれた。

適当に嘘を言って誤魔化してくれたらしく、特に大騒ぎにはならなかった。

本当に感謝しかない。


「ちゃんと橘花ちゃんの事、大事にしなよ」


 姉さんは嬉しそうに言った。

どうして嬉しそうなのかは分からないが、僕はこう答えるほか選択肢を持たない。


「……もちろん」

「ならばよし。とりあえず今日は私の言う事を聞いてね」


 めちゃくちゃ怖いが、昨日の今日だから素直に聞くしかない。


「何なりとお申し付けください」


 また深々と頭を下げる。


「デートして」


 姉さんの要求は予想外過ぎて、その言葉を理解できなかった。


「は? 姉さんと?」


 嫌とまでは言わないけど、ちょっと嫌だ。

結局嫌なんじゃないか。


「違うわよ。橘花ちゃんとよ」


 姉さんは僕の耳を引っ張りながら否定する。


「橘花と?」

「そう。祝い金としてこれを譲渡しよう」


姉さんは財布の中から諭吉を取り出し、僕に握らせた。つまりそれは一万円札。


「怖いんだけど」


 姉さんは確か万年金欠だったはず。


「心配しなくても大丈夫よ。後から請求したりしないから。軍資金は必要でしょ?」

「でも……」


 流石に金欠で昼飯を抜いている姉から万札を受け取るのは気が引ける。


「じゃあらぷーるのクロワッサンを買ってきて。苺とチョコを一つずつね。お釣りは全部あげるから」


 貰っていい金額のお釣りじゃないんだけど。


「……分かった。じゃあ行ってくるよ」


 ここは姉にカッコつけさせてあげるところだと思ったから、受け取ることにした。


「うん、いってらっしゃい」


 それから1時間後。


「ごめん、待った?」

「大丈夫。今来たとこだよ」


姉さんから万札を受け取った僕はすぐに橘花に連絡を入れ、出かける約束を取り付けた。

集合時間はマンションのエントランスに11時だったのだが、揃ったのは10時30分。

だから橘花に待ったかと聞かれてても、は「待った」などとは答えることは出来ない。


「昼ご飯は何食べる?」

「何でもいいよ」


 笑って返事をする橘花。

本当に可愛くて仕方がない。たぶんこの宇宙で他の追随を許さないくらい可愛い。


「それが一番困るの知ってて言ってるだろ」

「うん」


 間髪入れずに答えるところも可愛い。


「じゃあニンニクラーメンでもいいのか?」

「うっ……それは困る、かも」


 引きつった顔も可愛い。


「知ってると思うが、僕はお洒落な店なんか知らないからな。行きつけの店なんてラーメン屋か牛丼屋しかないぞ」


 どっちもチェーン店だけど。


「どっちも女の子を連れて行く場所じゃないね。私は別にいいけど、他の女の子は連れて行っちゃだめだよ」

「……うん」


 今は他のことは忘れていたい。

橘花には僕のことだけを考えていてほしい。そんな風に思った。


「どしたの?」

「いや、なんでもない」


昨日決めたことだ。隠す、と。第三者には僕と橘花のことを秘匿する。

それは橘花からの願いだ。橘花と恋人の関係になるわけではない。

ただ、橘花の残り僅かな時間を傍で見守るだけ。

そう橘花が望んだ。

なら僕は、ただ隠し続ければいい。それで何も起こりはしない。


「奏多くんはお腹空いてるの?」

「さほどは。食べようと思えば食べられるけど」

「私もそこまでお腹空いてないんだよね」

「じゃあ姉さんに頼まれたものを先に買いに行くか」

「そうしよ」


無意識に昼食を求めて商店街方面に向いていた足を、駅方面に変えて歩く。

休日の表通りの人数は平日と大差ない。田舎はこれが当たり前だ。


「そういえばさ、らぽーるのイベント広場ってあるでしょ?」

「よく物産展やってるところか?」

「そう。そこにグランドピアノが設置されたんだってさ」

「なんでまたあんなところに?」


 確かに広いけど、おっちゃんが休憩してるスペースだぞ、あそこ。


「最近流行ってるらしいよ。ストリートピアノってやつ」


 それならばこの間瑠璃に見せられた。


「あぁ、そういやYauTubeでよく上がってるな。ゴリゴリのオタクがめちゃくちゃピアノ上手いドッキリ。本当に上手いから面白いんだよな」


 普段ネット動画とかを見ないので、新鮮だったのでよく覚えている。


「もし空いてたら弾いてみようかな」

「橘花の実力なら恥ずかしくないだろうな。いいじゃないか」


 動画撮らないといけない。ネットには上げずに僕が一人で楽しむ用に。


「奏多くんは?」

「僕は遠慮しとくよ。もう半年も弾いてないんだ。下手過ぎて笑われるよ」


 正確には4ヶ月くらいだけど。


「この前、弾いてたよね?」

「この前?」


 ここ最近はピアノを弾いた覚えはない。一体いつのことだろうか。


「5月の連休前。ギターに合わせて弾いてた」


 思い出した。橘花を待つ間、ギターとのセッションをしたんだ。


「……聴いてたのか」

「盗み聞きするつもりはなかったんだよ。けど、久しぶりに聞けて嬉しかった。また聴きたいなぁ」


 橘花にそう言われると、弾いてもいいかな、なんて思ってしまう。思い返せば、僕がピアノから離れた理由はもう成立していない。


「……もうちょっと練習したら、また弾いてみるよ」


 だからこう答えられた。


「うん。約束だよ」


 約束か……守れるといいんだけどな。


「その時は連弾しような」

「うん!」


橘花は心からの笑顔で答えた。なんと可愛らしい表情だろうか。


 姉さんからのお使いは少しばかり並んだが、すぐに達成された。


「ねぇ、せっかくだし海に行って食べない?」

「じゃあどっかで飲み物も買ってこう」


姉さんからの頼みごとの品と、自分たちにお昼用に購入したクロワッサンを持ってエスカレーターを降りていた。

するとどこからともなくピアノの音色が届いた。


「あ、誰かピアノ弾いてる」

「例のグランドピアノか」


誰が弾いているのかは分からないが、僕も知っている曲だった。


「確か何かのドラマ主題歌だったっけ?」

「そうだね。なかなか面白いドラマだよ」


ドラマの内容に興味はないが、誰がこの曲を弾いているのかは気になった。


「ちょっと聞いてってもいいか?」

「私はいいけど。珍しいね、奏多くんが誰かが弾くピアノに興味を持つなんて」

「ちょっとな」


人前で弾くのをあまり好まなかった僕にとって、こんな場所でピアノを弾いているのがどんな人間なのか興味があった。

歩みを止め、聞いてくれる人間がいたならば、それは喜ばしいことだろう。

けれど、誰もが目を背けて過ぎ去っていったなら、修復し得ない傷を残すことになるかもしれない。


「あれ……」


エスカレーターから降りると、曲の途中だと言うのに演奏が止んだ。とても歯切れの悪い終わり方だった。


「演奏やめちゃったね」


 少し寂しそうに呟く橘花。


「普通あんな所でやめるか?」

「私だったら止めないけど」

「僕だって止めない。なんでだろうな」


イベント広場に行くと、広い場所にポツンと漆黒のピアノが一つ。

ピアノ椅子に小学生くらいの女の子が座り、その隣に高校生くらいの女子が一人立っていた。


「あの子が弾いてたのか」

「そうみたいだね。あ、ちょっと奏多くん?」


無意識の歩みの速度を速めた。橘花を置いてピアノに近づく。


「やっぱりまだ難しかったかな?」

「むぅ……初めからいったじゃん。私はまだ左手使えないんだよ。それなのにお姉ちゃんが弾いてみなっていうから」

「あはは…ごめんごめん」


姉妹の会話が耳に届いた。


「上手だったよ。さっきのピアノ」


ピアノの一メートル手前で拍手をしながら僕は言った。


「あ、ありがとうございます! けど私まだ全然で……1曲弾き切ることすらできなくて」


 少女は恥ずかしそうに、けど嬉しそうに言った。


「左手がまだ使えないの?」

「はい」


 左手が使えないのは何も恥ずかしいことじゃない。


「じゃあ僕が君の左手の部分を弾くよ。それで1曲弾き切ってみよう」


 僕がこんなことを言ってしまったのは、昔の橘花を思い出してしまったからだろう。

でなければこんなこと言うわけがない。


「え? お兄さんピアノ弾けるんですか?」


 少女が意外という顔をした。どういう風体ならピアノが弾ける人に見えるんだろう。


「少しだけ」


 誰かの先生になれるほどの実力は僕にはないので、こう答えた。

それでも、この少女に一曲弾ききる喜びを教えてあげたかったのだ。いつか僕が感じたあの喜びを。


「えっと、どうしよお姉ちゃん?」


 少女は困り、近くにいた姉に選択を委ねる。


「うん、いいと思うよ。冴羽にも意外な一面があるのね」

「……なんで僕の名前を知っている」


 少女の姉は僕の名を呼んだが、僕にはこの女性が誰か皆目見当がつかない。


「は? 同じクラスなのだけど?」


そう言われてまじまじと女の子の姉の顔を見るが、一切記憶にない。


「悪い。全く誰か分からん」


 心を痛めるほど申し訳ないとは思っていないが、一応謝ることはしておく。


「あ、そっか。普段眼鏡かけてるから」


そう言いながら鞄から眼鏡ケースを取り出して眼鏡をかけた。


「ほら、分かるでしょ?」


 眼鏡をかけたくらいで変わるもんかよ、と思ってたのだが。


「委員長……」


 分かってしまった。でも名前はまったく思い出せない。

クラスの委員長ということしか分からない。


「せーかい。まぁ、取り敢えず弾いてやってよ。あんたの実力は知ってるからね」


 おちょくられているみたいで辞めたくなったが、そういうわけにもいかない。


「……言い出したのは僕だしな」


少女の座る椅子の横に立つと、少女は椅子の左側を空けた。


「さっきの曲でいいか?」

「あ、はい。楽譜無いんですけど大丈夫ですか?」

「一応覚えてる。耳コピだけど」


 多少の音階のズレはあるだろうが、やむを得ない。


「凄いですね……」

「君も練習すれば出来るようになるよ」


少女は一度深呼吸をし、右手を鍵盤に添えた。

この曲の7割は右手一本で主旋律を引き終えられる。

けれど、残りの3割は両手が必要になる。

その3割の部分がサビに当たるのだから、作曲者の性格の悪さが伺える。勿論誉め言葉である。


少女がゆっくりと鍵盤を鎮める。

セピアなイントロを寸分狂いなく少女は弾き始める。

短音で繋ぐバラードはリズムを取るのが難しいのにも関わらず。この少女には天性の才能がある。

才能がなかった僕にとって羨ましい存在だった。


Aメロ、Bメロを引き終える。

ここからが僕の出番だ。全休符と2分休符の静寂。少女の右手が鍵盤に触れるのと同時に、僕の左手が鍵盤に触れた。音色が小雨から大雨に変わったように激しく鍵盤が上下する。

サビを引き終わり、再び少女が一人で奏でる。


初めは引きつっていた少女の顔に自然と笑みが浮かぶ。

下ろしていた右手を鍵盤に上げ、主旋律を邪魔しない程度の旋律を添える。

少女は弾きながら僕の耳元で「お兄さんの弾くメロディーを聞かせて下さい」と言った。


頷きで返事する。

再び全休符と2分休符の静寂。

少女は鍵盤から手を離し、5線譜を託す。

意識せずとも独りでに音色は奏でられた。指先に力は入れない。そして気付いた。


やっぱり、ピアノは楽しい。


隣に少女が入ることなど忘れてモノトーンの世界に触れ続けた。いつしかピアノの周りには足を止めた買い物客でいっぱいだ。


そして最後、A0からC8の白鍵をグリッサンドで奏でる。ペダルを踏み込み演奏終了。

余韻に浸る僕は周りからの拍手喝采で我に返った。

椅子から立ち上がり周りに一礼。これが礼儀だ。


「凄いです、お兄さん!」


 興奮気な少女を見て我に返った。


「ごめん。最後の方は君がいること忘れてた」


 これじゃあ少女のステージにしゃしゃり出て乗っ取っただけじゃないか。


「いいえ。とても楽しかったです!」

「なら良かった」


 少女が笑顔でそう言ったので良しとしよう。


「また、一緒に弾けますか?」

「どうかな。けど、弾けるといいな」


 少女には感謝しなければならない。ピアノを弾く楽しさを再確認させてくれたのだから。

だからまぁ、少女の望みには希望を持たせてあげてもいいだろう。


「私、これからもここで弾きます! だから、また一緒に弾いてください」


 少女の瞳はキラキラと輝いていた。昔の橘花と同じ瞳だ。何にもかき消されることない光だから、この少女は僕のようになることは無いだろう。


「あぁ。そうだな」


僕は少女の頭をポンポンと軽く触れ、椅子から立ち上がった。


「やるじゃない、冴羽」

「お世辞はいい。じゃあな、委員長」


 あまり話したことのない委員長から褒められるのは、実にむず痒い。早くこの場を立ち去らなければならない。


「ありがとう」

「いいって」


委員長との会話もそこそこに切り上げ、取り残してきた橘花の下へ走った。


「悪い、ほったらかして」


 不満げな顔をしている橘花に謝罪を入れる。


「別にいいけど……。奏多くん、私より先に小学生の女の子と連弾しちゃうんだね」


 そっぽを向く橘花。


「怒るなよ……」


 そんな姿を可愛らしくて愛おしいのだが、それを口にするわけにはいかない。


「練習してから弾くって言ってたのに」


 小さく呟いた橘花。めちゃくちゃ不満なんだろうな。


「それはまぁ、何というかノリで、な?」


 実を言うと橘花との約束が頭から抜け落ちていたのだが、それは内緒である。


「分かるけど分かんないよ」


 橘花は頬を膨らませて感情を露わにする。

あーもう可愛すぎるんだって。


「他で埋め合わせをするからさ、ごめんな」


 橘花が望むことならなんだってやろう。どこにだって一緒に行く。


「じゃあ、私とあれ行ってくれる?」

「あれ?」


橘花は建物の柱に貼られていたポスターを指さした。日付は8月の中頃。


「花火大会か」


 毎年行われている舞鶴の恒例行事だ。町を挙げての祭りなのでそこそこ規模も大きい。

出店の数も、花火の打ち上げ数も多いので隣町からも人が訪れるほど。


「最後に行ったのって5年くらい前だよね」


 確かに橘花と行った記憶はある。けど、それが5年も前だったかは分からない。


「もう記憶にないな。花火だっていつ見たのが最後だったか」


 家にいれば花火の音だけは聞こえてきたりするので、それで満足していた。実際に足を運んで花火を見たのは、その5年前が最後かもしれない。


「じゃあ埋め合わせは来月の花火大会に行くこと。それでいい?」

「分かった」


 なんだか僕の方が得している気分だ。浴衣とか着てくれたりしないかなぁ。

あ、もしかしたら橘花は持っていないかもしれない。僕がこっそり買っとこうかな。


「じゃあ気を取り直してご飯食べよ」


 元気な笑顔で橘花は僕の手を引いていった。


◆◇◆


『昨日電話をかけても繋がらなかったから、メールで書いておく。来月の花火大会、良かったら一緒に見に行かないかい?』


瑠璃からのメールを受け取ったのは、橘花と来月の約束を取り決めた日の夜のこと。

予測は出来たことだろう。夏祭りや、花火大会はカップルの行く行事としては上位に入ることだろう。

僕の気持ちは一つだ。橘花と一緒に行く。瑠璃は僕にとって今一番邪魔な存在だ。

そう少しでも思ってしまう自分が嫌になる。


でも、何とかしないといけないのは間違いないのだ。

だから返信に困る。

橘花と行きます、なんて送れるハズがない。何とかして他の予定を考えないと。





 橘花と約束した日から1週間と経たない木曜日。


「ぇ……そんな、まさか」


学校から帰宅した僕は、姉さんから認めたくない事実を聞いた。

橘花が病院に搬送された、という事実。


「……なんで」


 息が詰まるのを感じた。目の前が真っ白にもなっていった。


「学校で倒れたからって。それで、もう歩けないかもしれないって」


 姉さんは冷静に事態を教えてくれた。


「うそ、だ………」


 でも、僕から冷静さは消え失せ、動揺だけが脳みそを支配していた。


「とにかく、病院に行こう。ね?」


 姉さんはそんな僕の気持ちをよく分かってくれているようで、優しく肩を寄せて僕を抱えた。


「あぁ……」


気が気ではない。心配で、心配で、仕方がない。

 移動する車の中で僕は最悪の未来を思い浮かべてしまう。2度と、橘花と言葉を交わすことも、抱き合うことも、連弾することもできない未来を。


病院につくと、姉さんがナースステーションで病室番号を聞いてきた。

4階の1号室らしい。

エレベーターで4階まで上がる。

今日のエレベーターはいつもよりも遅く感じられた。

エレベーターの扉が開いた瞬間、全力で病室まで走った。

切れる息と、荒れ狂う心臓を放っておいて、病室の扉を開ける。


「橘花っ‼」


 叫ぶ僕に、冷静な声が答えた。


「奏多君、来てくれたのかい。ありがとう」


 既に病室にいた橘花の両親だ。2人の表情は穏やかだった。

それはきっと突然の出来事じゃなく、予想できた未来だから。

目を逸らしていたのは僕だけだったんだ。


「橘花は……」


 不安を押し殺して、聞いた。手の震えが止まらない。涙も溢れそうになっている。


「今は眠っているよ」

「そう、ですか……」


 それを聞いて一安心することはできた。最悪の事態ではなかったから。


「大丈夫。今すぐどうこうという事じゃないらしいんだ」


分かっていたことじゃないか。もう橘花の命が長くないことなんて。

瞼を下ろして深く息を吐く。自分を落ち着かせるために。


「すまないが、僕らはどうして外せない仕事があるんだ。だから奏多君。橘花の傍にいてあげてくれないか?」


 本当はそんな仕事ないんだろう。娘よりも大事な仕事があるわけがない。

僕に気を使ってくれただけ。


「分かりました」


 でもそれを指摘するほど僕は子どもじゃない。


「ありがとう。美影ちゃんも、頼むよ」


 おじさんはこそこそと姉さんに何かを伝えていた。


「はい。お気をつけて」


2人が病室から去っていくのを見届けて、橘花の眠るベッドの横の椅子に腰かける。

橘花の白くて細い、しなやかな手を握る。

まだ温かいことに安堵を覚えた。生きている。

まだ、僕のそばで生きてくれている。それだけが今の喜びだった。


「奏多、大丈夫?」


 こんなに優しさに溢れた姉さんの声を聴いたのはいつぶりだろう。

たぶん、橘花の命の終わりを聞いたあの日以来だ。


「うん。意外と冷静だよ。不思議なくらいに……」


心が凍り付いていて、逆に頭が冴えている。

嫌な感覚だ。だから、考えたくもない終わりの始まりを考えてしまう。

そして、終わりの終わりまでもが、明確に浮かび、襲い掛かってくるのだ。


「何か飲み物でも買ってくるわね」

「あぁ」


気遣い。いいや、違う。気まずいだけだろう。

それでいい。

今はこうして、橘花の手を握りしめて、それを額に当てて。涙を堪えて。


「……っ……ぁ……」


嗚咽は漏れる。涙だけは食い止めて。


「橘花………橘花………」


繰り返す。その名前を。哀しみに打ちひしがれて。


「か……なた…………くん」


それは寝言の様に静かで。虫の音の様に繊細だった。


「橘花……⁉」


握った手がぴくりと動いた。


「ん………ごめんね……」


橘花は開ききっていない瞼で呟いた。


「謝ることなんか、ないよ……」


 だって今、橘花は僕の名前を呼んでくれたんだから。


「そう、だね……」

「そうだよ。誰も悪くない」


悪いのは嘘に嘘を塗り重ねた僕なのだから。僕だけなのだから。


「じゃあ……傍にいてくれて、ありがとう……」


 橘花は、えへへと軽く笑った。苦しいだろう、辛いだろう。

それでも僕のことを想って笑ってくれている。それだけでもう、10分過ぎるほど。


「そんなの、当たり前だろ。傍にいるって決めたんだから」


瑠璃に嘘をついてまで。瑠璃をこれから傷つけることになることを知っていて。


「……橘花」


ベッドで横たわる橘花の体を抱きしめる。


「だめ、だよ………私はもういなくなっちゃうんだから……辛くなるだけだよ……」


 僕から離れようとする橘花を、さらに強く抱き寄せる。

絶対に逃がしたりしない。離れてなんか行かせない。


「それでもいい。今は……橘花を抱きしめて……いたいんだ」


いつまでも。とは言えなかった。それは不可能なのだから。


「もう……仕方ないなぁ」


その言葉がどれほど嬉しかったことか。橘花も弱々しい両腕で僕を包む。


「ありがとう……橘花」


さらに深く抱きしめる。

ベッドに橘花の体を押し付けながら。涙は見せぬように。


「こんなところ、他の人に見せちゃだめだよ?」

「うん……分かってる」


橘花の胸に顔を埋めた僕の頭を優しく撫でてくれた。


「ごめんね、花火大会行けなくちゃった……」

「そんなことはない。僕が車椅子でもなんでも押していくから」


そうじゃないだろ。そうじゃないだろうが。

橘花はそんなことを言いたいんじゃない。

来月まで、命を保てないと言ってるんだ。だけどそんなこと、受け入れてたまるか。


「………もう、ばかなんだから」


 耳元で聞こえた橘花の声は、僅かに弾んでいるような気がした。


しばらくして橘花は、また眠りについた。

きっと疲れたんだろう。

それと同じころ、宣言通りに飲み物を持った姉さんが戻ってきた。


「ごめん、ちょっと頭冷やしてくる」

「うん、それがいいよ」


橘花……。眠り姫というよりもお人形といった方が正しかろう。


病室を出て屋上へ向かう。夕暮れの海はオレンジに染まり、涼しい風が頬を触れる。

一番海に近いベンチに腰を下ろす。

屋上に干されたシーツが風になびいている。

細きれの雲が浮かぶ空を見上げて、息を吐く。

いつかこんな日が来ることは分かっていた。橘花が病に侵されていることを知っていたのだから。


でも、今じゃないと思っていた。

遠い未来の話だと思って目を背けてきた。姉さんも、梓も警告をくれていたと言うのに。


「くっ……」


そんな自分が情けなくて唇を噛んだ。


「僕は……これから何をすべきなんだろうか」


 初夏の夕暮れの空気は澄んでいる。

僕の心とは正反対に。

これ以上、現実に生きていたくない。

もう何も知りたくない。

どうせ橘花のことは救えない。助けてあげることも、笑わせてあげることもできない。

僕は何もできないただの人だから。


 寒くもないのに身体の震えが止まらない。その震えを往なす様に両腕を抱きしめた。そのくらいで止まるようなものではないのに。


 扉が開く音がした。シーツが干された物干しを挟んだ向こう側の扉だ。


「見てみて、哲郎くん。夕焼けが綺麗だよ!」

「走ったら危ないよ、泉水ちゃん」


 男の手を引いて走って行くのは、小学生くらいの少女。病院服を着ているから、入院患者だと思う。少女は屋上のフェンスを掴んで遠くの空と海を見つめている。

病気は年齢なんか気にしてくれない。それは僕が一番分かっているつもりだった。


あんな小さな女の子でも病気に苦しまされてしまうのだから、この世界には優しさの欠片もありはしない。


「これからもずっと毎日、こんな綺麗な夕日を見てたいなぁ」


 女の子が呟いた。男の子はそんな女の子を見て、寂しそうに笑っている。

何も返事ができないのを誤魔化す様に。


「……」


 僕にはその笑顔に見覚えがある。いや、この光景そのものに見覚えがある。


「………ぁぁ」


 そうだ……僕に似ているんだ。男の子の心が手に取るように分かる。

辛くて、寂しくて、心細くて。

女の子の置かれている状況は分からないけど、何となくそう伝わってきた。

でも、たぶん長くないんだ。

血色の悪い顔、痩せた身体、色素の抜けた髪。そして、涙を堪える男の子の姿。この2人の切なさを知るには、十分すぎるほどの情報だった。


「哲郎くん?」


 女の子というのは、同い年の男の子よりも遥かに大人だ。

だから他人の心を感度よく読み取れてしまう。隠したつもりの感情が、全て筒抜けになってしまうんだ。


「泉水ちゃん、もう戻ろうよ」


 目尻に浮かびかけていた涙を、男の子は拭い取って言った。


「……もうちょっとだけ」


 見たくない。結末が分かっているから。

これは僕が通った過去だ。そして、あの男の子が辿り着く未来は今の僕だ。

辛いよな。泣きたいよな。

その気持ち、痛いほど分かるよ。

僕は受け止めきれずに立ち止まってしまっているから。


「ねぇ、泉水ちゃん」


 でも、彼は僕と違っていた。男の子は女の子の目を真っすぐと見ていた。


「泉水ちゃん」

「な、なに……?」


 女の子が頬を染めながら男の子の目を見つめ返す。

次の瞬間、男の子が勢いよく女の子を抱きしめた。


「え、ちょっと、な、にを……」


 戸惑う女の子に構わず、男の子はさらに強く抱きしめる。

それはまるで、映画の中のような美しすぎる光景だった。綺麗な夕日と相まって絵画のようにも見えた。


「ぼくが泉水ちゃんのそばにいるから……」

「哲郎くん……」


 男の子が女の子の手を握りしめるのが分かった。


「ぼくの最後の日まで、泉水ちゃんの隣にいるから……」


 あぁ……君は、強い子だ。

ここに居ちゃいけない。2人は僕に気付いていないから。

今は2人だけの時間にしてあげなければ。


 それでも、これだけは伝えてあげたい。


「頑張れ、少年」


呟いたあと、すぐに深呼吸をして頬を叩く。

少年に勇気をもらった。少年が本当の強さを教えてくれえた。

そんな気がするから。その瞬間に迷いも悲しみもなかった。


ただただ病室へ向かって走る。さっきと同じように思いっきり扉を開けた。

病室には姉さんが一人だけで椅子に座っている。額の汗を拭い、橘花の傍へ駆け寄る。


「奏多?」


 汗だくな僕を見た姉さんが、心配そうに呟く。


「姉さん、僕はこれから色んな人に迷惑をかけるかもしれない。でも、そうせずにはいられないんだ」


 姉さんはきっと全力で止めてくるだろう。

やめろと言うだろう。けれど、そう簡単には引き下がれない。


「いいよ」

「へ? 即答していいの?」


 予想外の返答だった。


「いいんじゃない? 奏多がそうしたいんでしょ?」


 笑顔を浮かべる姉さん。適当に返事したわけじゃないみたいだ。

ちゃんと僕の感情を読み取ってくれたんだろう。


「僕は……やらなきゃいけないんだ」


 橘花に苦しんでほしくないから。


「なら私は止めない。でも今はダメよ。あなたがしようとしていることは、最後の最期。その時だけにしなさい」


 最後だけ、真面目な声だった。全てを見透かしているかのような言い方。


「あ、全部バレてる……?」

「当たり前でしょ。あなたの姉さんよ?」


そうだ、姉さんはこういう人だった。忘れていた。

そんな姉さんのことを、なんやかんやで僕は尊敬している。


「私は先に帰ってるわ。橘花ちゃんも奏多と話したいらしいし」


姉さんの言葉に橘花の方を見る。

すると、眠っているように見えていた橘花の耳は真っ赤に染まっていた。


「き、聞いてたのか……」

「あ、あはは……私、何されちゃうんだろう、ね?」


橘花は恥ずかしそうに笑った。

そんな橘花を見て、僕の決心はさらに強くなった。

それと同時に、僕はあの少年の幸せを願った。



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