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Summer Evidence  作者: 米八矢


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第2章 揺れ動く想い


広い広いコンサートホールに鳴り止まない拍手が響く。前から後ろから、右から左から。気が狂いそうになるほどの喧騒、のちの静寂。静けさが向かった先は光り輝くあのステージ。黒光りするピアノとその椅子が置かれた質素な舞台。


けれどここにいる人はそのステージをそわそわしながら眺める。ある女性は成功を祈る。ある男性は冷静を保とうと息を吐く。そして少年は今、舞台に上がった。額に汗を浮かばせ、ぎこちない足取りでピアノへ進む。

少年はピアノの前で910度右に体を向き変え、観客に向かってお辞儀した。そしてピアノに向き合い、椅子に座った。少年はゆっくりと両手を鍵盤の上に添える。コンサートホールは静かに、けれど高らかに鼓動を打つ。少年の演奏を心待ちにして、耳を傾けながら。

白い鍵盤が沈んだ。流れたメロディーはピアノではなく、うるさい電子音だった。それは即ち目覚まし時計の音。


そして冴羽奏多は目を覚ました。


「……うっさい」


悪態を吐きながら目覚まし時計を止めた。上半身を起こすと頭がずきずきとした痛みを訴える。


「あそこに今度は橘花が立つのか…………」


思えば気まぐれで始めたピアノに随分とのめり込んでしまったものだ。橘花のことを笑う事なんて出来やしない。


「奏多、起きてる?」


姉さんが扉をノックして言った。


「起きてるよ」

「早く準備しな。橘花ちゃんが迎えに来てるよ」

「うん」


今日は京都に行くことになっている。舞鶴市も京都なのだが、辺鄙な場所にある故か都市部のことを京都と呼ぶ。

京都市に行くのは、市のコンサートホールで行われる演奏会を聞きに行くためだ。このコンサートはプロからアマチュアまで実力があれば経歴年齢不問で招待される。今回は橘花が招待されたということで訪れることにした。2泊3日の京都小旅行である。


僕は洗面所で顔を洗い、出掛ける時に着る普段着で身を包んだ。昨日の間に準備しておいたスーツケースを引き、リビングに向かった。


「あ、おはよう。奏多くん」

「うん、おはよう」


リビングには、母によって歓待されている橘花が座っていた。

ほう……赤いスカートに黒タイツか。悪くない趣味だ。スケ具合から見るに、60デニールくらいか。この間姉さんが買ったファッション誌に載っていたくらいのスケ具合だ。

僕が橘花の服装チャックをしていると、背後から姉さんが小声で話しかけた。


「あんた今えっちなこと考えてんでしょ」

「馬鹿言え。60くらいかと思っただけだ」

「何が?」

「デニール数」

「きもっ」


 ドン引きされた。


「自覚はあるから心配しなくていい」


 ドン引きされても文句は言えない自覚はある。


「泊りがけだからって変なことしちゃだめよ」

「別に2人ってわけじゃないからしたくても出来ねぇよ」


 あ、墓穴を掘ったかもしれない。見逃してくれ姉さん。


「あらそう、したかったんだ」


 姉という生き物は、取れそうな揚げ足を絶対に見逃さないものだ。取ったら取っただけ報酬がある歩合制なのだろうか。


「……」


姉さんはニヤニヤとしながら僕の背中を叩き、どこかへ行ってしまった。


「悪い、またせたな」

「大丈夫、待ってないよ。どうせ寝てるだろうと思って早めに来たからね」


 ティーカップを置き、橘花がこちらに顔を向けた。少し化粧をしているのか、ほんのり頬が紅い。可愛いと思う。いや、可愛いと断言できる。


「でも早めに出た方がいいかも」

「どして」


 どうせならもうちょっとこのまま橘花を眺めていたい。


「瑠璃先輩って朝が弱いらしいから」

「あの完璧な南川が、ねぇ」


 意外だと口にしながら、 僕の頭の中には「おそようだね」と言う南川の姿が浮かんだ。


「起こしに行こっか」

「遅れられる方が問題だしな」


橘花はお茶を飲み終えたカップを母に渡して一礼して玄関へ消えていった。


「それじゃあ、母さん。僕も行ってくるよ」

「気を付けてね」

「うん」


玄関へ出ると、橘花がしゃがみ込んで靴を履いていた。


「なんで革靴なんだ?」


 タイツ越しの足を眺めていると、自然と靴に目が行った。


「演奏する時は制服だからね。靴を何足か持っていくのは面倒くさいし」

「そりゃそうだ」

「よし! 行こう」


橘花は気合を入れるかのように頬を叩き、元気に玄関の扉を開けた。

僕は休日の外出を疎ましく思いつつ、橘花の後に続いた。





ゴールデンウィーク2日目。僕は橘花に呼び出され学校の音楽室に行った。

しかし約束の時間になっても橘花は現れることはなく、結局姿を見せたのは1時間も後だった。その間に姉さんは飽きたという理由で帰ってしまった。

橘花に遅れた理由を問い詰めてもはぐらかさすばかりで、説明はないに等しいものだった。このままでは埒が明かないと思った僕は、「理由はいいから、呼び出した理由を教えてくれ」と言った。


「それは皆さん報告したいことがあるからです」

「良い報告か?」

「一応そうです」


橘花は通学鞄の中から一通の封筒を取り出し、僕に渡した。宛先は橘花の自宅ではなく学校になっている。封はペーパーナイフで綺麗に切られていた。


「僕が見てもいいのか?」

「もちろんです」


切り口から3枚折りにされた紙を取り出して広げた。


「第67回京都国際クラシックコンサート招待状………?」

「先輩は知ってますよね」

「あぁ」


京都国際クラシックコンサートとは京都府が主催し、世界各国から実力ある演奏家を招待するコンサートだ。京都府が主催という事で京都の学校から数名が選び、特別枠として招待される。


「でもこれは夏に開催されていたはず……」

「5年くらい前からゴールデンウィーク開催に変わったんですよ。それで、私がこのコンサートに招待されることができたのです」

「お前……予選に応募してたのか」


 このコンサートには、それなりに厳しい審査がある。


「軽音楽部として何か功績を上げねばいけませんから」


橘花は照れくさそうに笑った。


「あ、ちなみに私は落ちたよ」


音楽室の隅の机に座っていた南川が胸を張りながら言った。


「なんでそんなに自慢気なんだよ」

「橘花ちゃんがそれだけ実力者ってことを伝えたかったのであります」


 ビシッと敬礼する南川。


「訳が分かんねぇ」


 逸れそうになる話を橘花が戻す。


「それでですね、4人分のチケットを貰ったんだけど、見に来てくれませんか? ホテル代とかも出してくれるそうです」


 僕は少し迷ったが、こう答えるしかなかった。


「……悪いけど、他を当たってくれるか」

「どうしてです?」


 橘花は予想通りの返事だと言う顔をして、問うてきた。


「僕が行くのは失礼な気がするんだ」


 ほんとは橘花がピアノを演奏しているのを見ると辛くなるからだ。


「ピアノを止めたからですか?」

「……そうだよ」


 ちょうどいい質問だった。そういう理由にしておこう。


「別にいいじゃないですか。見に来る人が全員楽器を弾けるわけじゃないんですよ?」


「それでもだよ。あの空気が好きじゃないんだ」


 本当は大好きだ。みんながピアノの音色だけに集中しているあの静寂。初めの一音が鳴った瞬間。終わったあとの寂しさ。全部好きだった。それでも、橘花のことが脳裏に過ると、気持ちは裏返る。


「先輩……」


橘花は肩を下ろして俯いた。まるで泣いているかのようにも見える。


「奏多さぁ。行ってあげなよ。橘花ちゃんは奏多と同じ舞台に立つために練習して来たんだよ? その努力が報われないのは寂しいと思わない?」


 橘花の気持ちを汲み取れと言わんばかりに、明るく南川が言う。


「あ、先輩! それ言っちゃダメって!」


橘花が顔を赤くしながら南川に抗議しているが、南川はニヤニヤとしながらからかっている。


「……分かった。行くよ」


僕も鬼なわけではない。自分を目標に後輩が頑張って来たのだと知った今、断ることなど出来やしない。橘花がどれだけピアノに打ち込んできたか知っているから。


「先輩ありがとう!」


 いくら辛くても、この笑顔を見てしまえば、それもお釣りがくるくらいの些事になる。


「いいって。あと2人はどうする?」

「瑠璃先輩は来ますよね?」

「うーん……人がいないなら行こうかな」


 本当は行く気満々なんだろうな。


「実はさっき美影ちゃんも誘ったんだけど、電話に出てくれなくて……」


 さっきの姉さんの電話は橘花がかけていたのか。


「ついさっきまでここにいたんだけどな。飽きたからって帰っちまった」


 たぶん誘ってもこない。クラシックコンサートとかは眠くなるだけだろう。例え橘花が演奏していても。ここで候補がなくなったことに気が付いた。しばらくどうしようかという空気が流れた後、口を開いたのは南川。


「じゃあさ、私の友達誘っていい?」

「瑠璃先輩のですか?」

「うん。橘花ちゃんも知ってる人だよ」

「……もしかして梓さんですか?」


 橘花の表情が少し硬くなるのを感じた。しかし妙だ。確か梓も呼び出しているということだったので、最初からそういう話になっていたはず。


「正解。だめ?」


 それは南川も感じ取ったようだ。


「いえ……全然大丈夫ですよ」


 僕からは大丈夫じゃない様に見える。苦手なんだろか。苦手そうだな。梓はずっと不機嫌そうに橘花のことを見ていそうだ。


「じゃあ誘っとくね。どうせ暇してるだろうから」


 南川にはそんな風に見えなかったのだろうか。


「なぁ南川」


 僕は橘花が嫌だと言えていないと思って、フォローをする。


「うん?」


「梓は来ないと思うけど」

「どうして?」


 本当に気づいていないのか?


「あいつは僕以上に引きこもりだからな」


 遠回しにあいつは誘うなと言ってみる。


「そうかな。きっと来るよ」


南川はスマホをいじりながら僕に言った。そんな思惑は見事に外れてしまったのである。

南川の言葉にはある一種の確信と、それを支える揺るがない根拠があるように思える。


「そうだ、橘花ちゃん。明日は何時にどこに集合すればいいの?」


 梓にメールをするのに必要なんだろう。


「私はリハーサルとかあるらしいので、明日の昼には向こうに行きます」

「じゃあ私たちも一緒に行こうかな。奏多はどうする?」

「同じ時間に行くよ」


 わざわざ別に行く理由もない。


「じゃあ明日の10時12分発の快速で行きましょう。集合は10時に駅でお願いします」

「あいよ。じゃあ僕は帰る」


 早く帰って布団に顔を埋めたい。もしくは猫のヘーハチと一緒に寝たい。


「はい、また明日」


 手を振る橘花に頷いて、帰路についた。



時刻は10時前。まだ橘花と南川は不在の中、僕と梓は駅でいた。後の2人もそろそろ駅に現れておかなければならない時間だろう。心配になって、橘花に電話をかけた。


『もしもし……?』

「あ、橘花。まだかかるか? そろそろ電車の時間だけど」

『間に合わないと思う……』


 橘花の声には絶望が宿っている。


「どうして?」

『瑠璃先輩が起きない……』

「はぁ⁉」


 朝が弱いと言ってはいたが、誰かに起こされたら起きるだろ普通。


『ごめんね』

「橘花が悪いわけじゃないけど……どうすればいい? 待ってようか?」

『先に行ってていいよ。梓さんと京都観光でもしてて』


 南川の家について行こうとしたら、橘花に「寝起きの女の子のところに行くのはマナー違反」と怒られた。こうなるのであれば、僕も行って力づくで起こすべきだったかもしれない。


「分かった」


スマホをポケットに突っ込みながらため息を吐いた。すると横で話を聞いていた梓が口を開いた。


「先に行くの?」

「不本意ながら」

「そう」


 梓の特に表情は変わらなかった。もっと嫌そうな顔をされると思ったんだけど。


「悪いな。僕と2人で」


 一応謝罪を入れておく。


「そうね。でもあの後輩と2人っきりよりはマシ」

「え、なに、橘花のこと嫌いなの?」


 苦手なのは何となく分かっていたが、嫌いだとは思わなかった。


「ああいう子が苦手なだけ。羨ましいとは思うけどね」


梓は吐き捨てて券売機の方へ歩いて行った。

年頃の女の考えてることはよく分からんな……。

ため息をつき、僕は梓の後に続いた。もともと人口の少ない町なので、連休だろうが平日だろうが利用客は大して変化はない。


「どこまでのを買えばいいの?」

「京都駅だ」

「お金」


 お手とでも言わんばかりに右手を差し出す梓。


「なんだ、足りないのか」


 JKは金欠になりやすいと聞いた。姉さんから。


「違う。あんたの分」


 ちょっとキレ気味だった。


「あぁそゆこと」


財布から千円札をだし、券売機に入れた。


「雑すぎ」

「小銭は出すのがめんどくさいからな。ついでにおつりで旅のお供でも買ってきてくれ」

「お供?」

「旅のお供って言えばゆで卵だろう」


 じいちゃんがそう言っていた。由来は知らない。


「……買って来いと?」


 目を細める梓。


「お釣りは全部やるよ」


 まぁお釣りなんてほぼないだろうけど。


「あんたもついてきなさい」


 睨む表情がめちゃくちゃ怖かった。


「分かったよ……そこのコンビニでいいか?」

「私は別に行かなくてもいいんだけど?」


そうは言いながらも、切符を買い終えた梓はコンビニの方に歩いて行った。東舞鶴駅の構内には大手コンビニエンスストアが出店しているのだが、店内の商品は普通のコンビニと違い、お土産色が強くなっている。


「梓はなんかいるか?」

「あったかい紅茶」

「午前? 花弁? それともトーマス・ジョンストン?」

「……最後の知らない」


梓は目を細めて冷ややかに呟いた。その顔には悔しさが滲んでいる。なるほど。最初の2つから3つめも紅茶であろうと予想はしたが、何のことを言っているのか分からなくて悔しいのか。梓の紅茶好きは良く知っている。


「トーマス・ジョンストンって誰」


「創業者。トーマス・ジョンストン・リプトン」

「あのメーカーの……。なんでそんなこと知ってるの?」


 今日の梓はずっと僕に対して不審な表情を浮かべている。


「無駄に濫読はしないんだ。なんか雑誌に載ってた」

「紅茶雑誌?」


 そんなのあるのか? 無いとは言い切れないのが昨今。


「いや17」

「きも」


 身を引きながら、顔を引きつかせる梓。


「やめろ。静かに蔑むな」


 僕にそんな性癖は無い。橘花にでもされない限り芽生えることもない。


「あんたそんな趣味あるの?」

「断じてない。家にあったから眺めただけだ。それに今のご時世だ。男が女性誌読むのだって珍しくはない……はず」

「そう。ま、どうでもいいけど」


梓は興味なさげに吐き捨てて店の奥に消えていった。僕は特急列車の中でつまむ物を物色していると、持っていた籠の中にペットボトルが淹れられた。入れた主はもちろん梓。


「なるほど。梓は花弁派か」

「特には気にしてないよ。これしかなかったからこれを選んだだけ」


そう言って梓は店の外へ出て行ってしまった。僕は適当にお菓子をかごに入れてレジに持って行った。お会計は1500円くらいだったが、まぁ仕方ない。


「お待たせ」


レジ袋を引っ提げて梓に話しかけると、ゆっくりとスマホの画面から目を離して顔を上げた。


「あと3分」

「はいはい」


なんとも情報量のない文だが、電車までの時間のことだろう。速足で歩く弥生の後を追いかけた。


「速足なのは結構だが、何番線かはわかっているのか?」

「馬鹿にしないでちょうだい。東京駅くらいの多さだったらわからないけれど、この駅位なら余裕よ」

「それは頼もしいが、君はあることを忘れている」

「あること?」

「特急券」

「あ……」


梓は明らかに「しまった」という顔をした。僕は千円札しか渡していないのに、梓はなにも言ってこなかった。特急列車に千円で乗れるはずもないのに、だ。いや、乗れるはずもないというと誤解を生むのだが。どうやら特急には乗り慣れていないようだ。高校生なら乗り慣れていなくて当然なのだが。


「ど、どうしよ……」 


 おどおどする梓は珍しい。


「心配するな。車掌から車内で買える」

「ほんと?」


 泣きそうな顔をしている梓もレアだ。だが、本当に泣かせては意味がない。罪悪感により満足感を得られないから。


「ほんとだ」

「よかったぁ……」


梓はほっと胸をなで下ろした。自分のせいで乗り遅れることになるのを恐れていたのだろう。


「とにかく急ぐぞ」

「うん」


僕は梓を先導し、休日の構内を走った。ホームに電車が入って来たところで、独特のアナウンスが響いている。プシューという音と共に扉が開く。余裕は無かったが、遅れることもなく電車に乗れることができた。


「はぁ~なんとか間に合った」


梓は席について「ふぅ」と大きく息を吐いた。そんな梓を僕は右往左往しつつ見つめた。


「なに? 座らないの?」

「僕が横に座ってもいいのか? 梓の真横に座ることになるが」

「うん? 何か問題でもある?」


梓は真顔で問い返してきた。問題と言われてしまえば、それはないと言えるだろう。しかし、僕が心配したのは「思春期の女子が、恋人でもない男子と並んで座りたくないのではないだろうか」という疑問からなのである。梓自身にその感情が無いのなら問題なしだ。


「いや、別に問題はない」


荷物を網棚において梓の隣に腰を下ろした。思えば普段から昼休みは一緒にいることが多いが、この距離まで近づいたことはなかった。冷静に分析した結果、梓は男子受けがいい女だと僕の中で結論が出た。けれども、そういう色立った噂が無いのは南川瑠璃という人間のせい、またはおかげだろう。


「なにさ、人の顔なんかジッと見ちゃって」

「悪い。梓はモテそうだと思ってな」


 返答に迷った僕は、思ったことをそのまま伝えた。

今日の私服は決して可愛い系ではない。ふくらはぎが半分見えるくらいの黒いズボン(名前が分からない)に、白シャツの上から薄桃色のカーディガンを羽織っており、地味だが綺麗に思う。

服のことはよく分からないが、梓にはこういう服が似合うと思う。


「おちょくってるの?」


 怪訝そうに目を細める梓。こういう表情で喜ぶ男子がいるのも理解できなくもない。橘花にやられたら喜ぶ自信がある。


「いやいや、本心だよ」

「だとしたら気持ち悪いね」


 こういうのも喜ぶ男子がいるのだろう。


「そういう口調は男受けが良いんだぞ」


 思わず声に出してしまった。


「……あんたも好きなの、こういう口調」

「嫌いではないが、僕の趣味ではないな」


 橘花に罵られたら、喜ぶ前に凹むだろうな。で、保身の為に喜ぶことにする。


「……そう。じゃあ、あんたはどんな女の子が好みなの?」


なんの前触れもなく、梓が言った。


「僕の好みなんか聞いてどうするんだよ」

「参考までに。普通じゃない男の子の好みをこの際だから聞いておこうと思ってね」


 一体どんな際になれば、そんなことを聞いておこうと思うのだろうか。


「遠回しに貶されているのが気に入らないが……」

「まぁま、いいからいいから。せっかくのこの機会に話しておくのもアリってものよ」


 アリかナシかの話じゃないし、もしそんな話ならナシだ。必要ない。


「梓に話したところでどうにもならんだろ」

「それはわからないわよ。条件に会う人がいれば私が紹介してあげられるかもしれないし」

「ほう。それは名案と受け取っておくが、南川以外に親しい友人のいない君がどうやって紹介するつもりなんだ?」

「友達いないのはあんたも一緒でしょ」


梓は膨れっ面をしながら言った。そんな梓を横目に僕はポッキーをかじった。


「ごもっともだとも。だから僕は別に彼女なんていらないのさ」


そしてポッキーの袋を梓に差し出す。梓は2本抜いて、口に咥えた。


「でもさ、あんた。あの子をずっと追うのはやめなよ。悲しくなるだけだよ、お互い」


車窓を流れる景色を見ながら梓が呟く。車窓に反射した梓の表情は日光で遮られて見えなかった。だから僕は小さく返した。


「分かってるよ」


姉さんに言われたときは腹立たしいと思ってたのに、梓に言われるとなぜか素直に従ってしまった。それはきっと同族嫌悪だ。自分に言われているような気がしてしまう。


「そう。分かってるならいいけど」


それ以降、京都駅に着くまでの間に、中身のある会話がされることはなかった。けれど、沈黙が流れることもなかった。


『次は京都。京都です。お降りの際はお忘れ物などございませんようご注意ください』


京都駅に着くとコインロッカーに荷物を預けて、京都観光をすることにした。


「どっか行きたいところあるか?」

「そうね。無難なところで清水寺にでも行く?」

「清水か。まぁ近すぎてあんまり行く機会はないよな」


僕はスマホで清水寺を検索し、最短ルートを探した。


「分かっちゃいたが、結構遠いな」


 京都を舐めてかかってはいけない。生半可な気持ちで名所巡りの予定を立てると、次の日は確実に筋肉痛になる。


「ほんとだ。どうする?」

「歩くという選択肢もあるし、電車を使うという選択肢もある。はたまた別のことをするという道もある」

「じゃあ適当に歩こ。京都だしなんかあるでしょ」


 行き当たりばったりで旅をするのも悪くない。むしろそれこそ旅の本来の姿なのかもしれない。


「そうだな。とりあえず京都駅の北口にでればなんかあるさ」


2人で並んで京都の町を歩くことにした。京都府に住んでいながら、この辺りを散策したことはほとんどない。小学校の遠足であったかなかったかくらいだ。それは舞鶴という町の立地故なのだが、悲観する事はない。舞鶴には綺麗な海、綺麗な空、綺麗な山々があるのだから。


「ねぇ、冴羽。あそこに茶屋がある。行ってみよ」

「おぉ……なかなか風情がある店だな」


川辺を歩いていると、赤い絨毯に赤い和傘が立てられたお茶屋があった。よくよく見ると団子屋のようだ。


「すいません、お団子2つください」


梓が外面営業スマイルで店主に話しかけた。こういう時の梓は本当に輝いて見える。

まぁ、初めて見たのだが。


「あいよ。お好きな席にどうぞ」


店主に促されるまま梓は、緑の葉の生い茂った桜の木の下に腰を下ろした。その横に僕も座った。


「ホントにあるんだな、こんな店」

「そうね。私も驚いた」


他に客はなく、ゆったりとした時間が流れる。そよ風が吹き、生い茂った樹木が葉を擦らせながら揺れる。


「お待ちどうさま」


団子とお茶2つをお盆に載せた店主が言った。串に3つの団子が刺さった草団子だ。


「ありがとうございます」

「ごゆっくりどうぞ」


梓は目をキラキラと輝かせながら団子を頬張った。梓の食事シーンを僕は何度か目にしているが、こんなにもおいしそうに食べているのを見たのは初めてかもしれない。


「冴羽、食べないの?」


既に食べ終えた団子の串を咥えながら梓が言った。ワイルド梓か……悪くはない、な。


「いや、食べるよ」


梓に促されて口に運んだ団子は、ほのかに甘く、少ししょっぱかった。





「すいません、お待たせしました」


午後4時。街歩きもそこそこに駅に戻ってきた梓と僕は、南川と橘花と合流した。


「いやぁごめんねぇ。まさか起きれないなんて思わなくてさぁ」


 えへへ、と頭をかく南川。反省の色は見えない。もう少し悪びれてくれ。

急いで着たのだろうか。ジージャン(名前が正しいか分からない)の下に着ている黒いシャツが、半分だけカーキ色の短パンから出ている。

服が乱れている南川は見たことがなかったので、許してやろうと思う。


「もう済んだことだから仕方ない。取り敢えず僕はホテルに行きたい」

「同感。私も歩き疲れた」


普段から引きこもっており体力のない梓は、駅のベンチに倒れるように座っている。

それにしても疲れすぎではなかろうか。


「じゃあ宿に行きましょうか」

「そうしよう」


 橘花の先導でしばし歩き、今日の宿へとたどり着く。


「ほう……、ここが今日の宿か……なかなかどうして立派なもんだ」


僕は目の前に佇む宿を見つめた。瓦張りの屋根に漆喰の壁。いかにも京都の宿という雰囲気だった。


「じゃあチャックインしましょうか」


チェックインという言葉が似合わない。適切な言葉も思い当たりはしないけど。


橘花は僕らをロビーに残し、カウンターの方に去っていった。


「しかし、こんな宿をタダで泊まっていいもんなのかねぇ」


きょろきょろと辺りを見渡しながら南川が呟いた。


「確かに。ちと高級すぎるな」


 タダほど怖いものはない、という言葉もある。中庭には鹿威しがあり、先ほどコーンと甲高い音を響かせていた。それだけで高級感がでてくる。これが日本人の心なのだろうか。


「ほんとだよね。主催者も太っ腹だ」

「なんでもいいけどさ……お布団入りたい………」


梓が椅子に腰かけながら青ざめた顔で言った。追加で歩いた分が余計に梓の体力を蝕んだらしい。


「君は普段家から出ないんだろう? いくら何でも体力がなさすぎだ」

「別にいいでしょ。今の時代、外になんか出なくても生きてけるんだから。ていうかなんであんたは体力あるのよ」


 言葉を絞り出すだけで肩が揺れている。息も荒く、顔色も優れない。


「僕だって無い方だ。ただ、平均的な体力値なんだよ」


 実際、長距離走やシャトルランは大嫌いだ。


「なんか腹立つ。あんたは絶対私より引きこもってると思ってたのに………」

「残念だったな。これでも散歩が趣味なんだ」


 引き籠るのにも体力は必要だからな。散歩は大事だ。


「歩いて何になるって言うのよ」


 梓が散歩嫌いなのは何となく知っていた。


「潮風を浴びながら海沿いを歩いてみるといい。プラスで音楽もあればそれはもう崇高だ」


 梓が音楽を聴くのかは知らない。少なくともクラシックは知らないだろう。『春』を知らなかったのだから。


「あんたらしい趣味ね」


 褒められてはいないだろうな。ただの皮肉だ。


「おすすめは夏の朝7時。暑くもなく、寒くもない。そんな時間が一番心地いい」

「夏になったらやってみるわ」


 絶対にしないだろうと思う。けれど、一抹の希望を込めてこう答えた。


「そうしてくれ」


僕と梓のいつも通り意味の無い会話を聞いていた南川が、口角を上げてクスッと笑った。


「何が可笑しいんだ、南川」

「気を悪くしたらごめんね。2人が仲いいなと思っただけだから気にしないで」


 どこをどう見れば仲が良く見えるのだろう。南川はもっと聡明だと思っていたが、人間関係を見る目はないんだろうか。それともその眼を通してみると、人間関係も違って見えるのだろうか。


「別に仲良くはない」

「そうよ、瑠璃。こんな男と仲がいいなんて思われたら心外だわ」


 先ほどよりも少し体力が回復したようだ。声にわずかだが覇気がある。選ぶ言葉も強くなっている。


「口が悪いな、梓」


「嬉しいくせに」

「どういう意味だ、この野郎」

「誰が野郎よ」


 僕は睨みつけられた。いや怒るところそこ?


「訂正。どういう意味だ、この女郎」


 深く考えずに、野郎の反対は女郎だろうと思って言った。


「失礼ね。その漢字の意味は花魁って意味よ」


 もちろんそれだけじゃなくて、若い女という意味もある。それは梓も知っているだろうから、口に出すのは控えた。


「勿論知っている。君には似合わない言葉だな」


梓が明らかに恨めしそうな目で僕を見た。

流石にまずかったか。てっきり貧乳をネタにいじるのは問題ないと思ったが……。


「悪い。少し配慮が足りなかったな」


 反省しよう。


「素直に謝らないで。ガチな方で泣きたくなる」


 本当に心にダメージを追っているようで、肩を落としている。


「なら今後も定期的にネタにしようか?」

「セクハラで訴えられる覚悟があるならどうぞ」


 目が本気だ。


「やっぱり、君たちは面白いね。聞いてて飽きないや」


南川は目尻の涙を拭きとりながら言った。今は「あぁお腹いたい」と笑っている。そしてうなだれている梓の背中をポンポンと叩いた。そこへチェックイン手続きを終えた橘花が戻ってきた。その表情はどこか浮つかない。


「どうした橘花?」

「いえ……あの、少し大変なことになったかもしれません」

「大変な事?」

「はい。簡潔に言えば部屋がありません」


その場にいた全員が固まった。まるで時が止まったかの様に。


「すまん。ちょっと脳が止まってた。詳しく説明を頼む」


 聞き間違いだろうか? 出先で夜を過ごす場所が無い的な内容が聞こえたぞ。


「はい。元々は主催者側に私を含め5人まで招待していいよと言われていたんです。なので5人分で予約をお願いしていました。けど、美影ちゃんが来られないとのことでしたので、急遽4人に変更してもらったんです」


 うむ。そこは分かる。


「そしたら部屋が無くなりまして……」


 今にも消え入りそうな声の橘花。分からないのはこの部分だ。


「いくら前日に連絡したとは言え、無くなることなんかあるのか……?」


 橘花を責める気は微塵も無いが、つい語気が強くなる。


「急遽外国からのツアーで一部屋追加予約されたらしいんです。それで部屋が一部屋しかありません。しかもダブルベッド一部屋です」

「マジか橘花」


 よし、全部姉さんのせいだ。


「すいません……」


ダブルベッドの一部屋となると、2人が同じ布団で寝ることになる。詰まる所、僕が今夜布団で寝ることは不可能という事だ。


「それでですね。同じ系列のホテルのツインルームを一部屋取ってくれるそうです。部屋割りはどうしますか? 私はこの旅館で泊まらないといけないみたいなんですが」


 よかった。なんとか解決案があるようだ。布団にありつけるかは微妙だが、4人で一部屋よりかはマシだろう。


「なら僕がここで泊まろうか。橘花が布団で寝るといい。僕は椅子にでも座って寝るから。南川と梓でツインの部屋に泊まりな。いいか、橘花?」


僕が橘花に問いかけると橘花は困った顔をして口を噤んだ。


「あ……えっと。で、出来れば……先輩とは別がいい、かな……」


 ぎこちない橘花の言葉は実に蕪雑だ。本心が読み取れない。


「え?」


断られると思っていなかった僕は、驚いたと同時に怖くなった。何か橘花に嫌われるようなことをしたのではないかと。


「あ、別に先輩の事が嫌なわけじゃないですよ! ただ、女の子同士だったらダブルベッドでも寝ることは出来ますから……その方が、良いんじゃないかと思って」


明らかに焦って考え出したような言い訳だ。僕にはそれが一瞬で分かった。いや、きっと南川にも梓にも分かっただろう。だからと言って誰も指摘することは出来なかった。当事者たる僕自身が俯いて黙ってしまったから。

そうだよな……嫌、だよな。当たり前のじゃないか。なんで気付かなかったんだろう。

橘花に一度告白して断られているのだ。嫌いとまではいかずとも、避けたいとは思うのは至極当然のことだろう。


「じゃあ、私が橘花ちゃんと一緒の部屋になるよ。で、ツインルームは奏多と弥生が使いな。君ら2人なら変な間違いも起こらないだろうし。というか起こりようがないよね」


場の空気を変えるためか、本心なのかは分からないが、明るい声で南川が言った。


「私はそれでもいけど。冴羽はいいの?」

「…………」


僕は俯いたまま黙り込んでいた。


「冴羽。ねぇ、冴羽」


梓が何度も名を呼んでいたのは聞こえていたが、しばらくは反応する余裕がなかった。


「あ、悪い……なんだっけ?」

「私と同じ部屋でいい?」


 梓と同じ部屋か……。しんどいなぁと思った。嫌なわけではない。たぶん気楽にやれる、と思う。


「梓よりも南川の方が助かるな」


だが僕は特に考えるでもなく、そう答えていた。それは梓よりも南川の方が僕を助けてくれる本能的に思ったからなのかもしれない。


「奏多がそうしたいなら私は全然いいよ」

「では瑠璃先輩の名前で予約してもらいますね。場所はここなのでスマホの地図を見ながら行けば迷わないと思います」

「ありがとう。ほら奏多、行くよ」


南川は僕の手を引っ張る。抵抗する理由はない。そのまま引っ張られる。


「あ、あの。瑠璃……」


どことなく落ち着かなく言う梓に南川は「心配なさんな」と答えた。そのまま僕の腕を引いてその場から去る。


「一人で歩けるから」


 ロビーを出ると人目も増え、恥じらいが生まれてきた。


「そうかい? ならしっかり歩いてね」


ホテルの敷地を出た所で南川は僕の腕を離した。


「そんなに落ち込まない落ち込まない」


明らかにしょんぼりとしている僕の背中を南川が叩く。


「別に落ち込んではない。ただ自分のデリカシーの無さに呆れてるだけだ」

「はいはい、とにかく部屋に行くからね」

「……誘導任せた」


それから10分ほど京都の街を歩いた。夕方に沈む街はどこか閑寂で、けれど陶酔させられる。僕は先を行く人の後ろ姿を見た。本当は梓と同じ部屋になりたかったのではないかと思うと、その背中が悄然としたものに見えてきた。すまん、と心の中でしか謝罪できない自分が嫌いになりそうだ。


「ねぇ、奏多。晩御飯どうしよっか?」


立ち止まり南川は僕の方へ振り返る。その表情を見れば先ほどの考えは杞憂に過ぎなかったと知れる。或いは優しさが為せる強がりか。


「僕は特にはいらないけど。南川は梓たちと食べてきたらどうだ?」

「何を言ってるんだい。ボクは君と夕食を一緒したいって言っているのが分からないかい?」


その瞳には南川瑠璃と言う人間のユーモアが宿っている。


「すまん。全く分からなかった……」

「それはひどいなぁ」


そう言って南川は踵を返した。再びホテルへ向かって歩き出す。これはシンキングタイムと言う事だろう。到着するまでに納得する回答を考えろと。

かと言ってそれが本当とも限らないので、あくまでその可能性があるという事にしておく。

先を行く南川は時折目線を左右に振らし、何かを見ている。その目線を追うと、そこには居酒屋が立ち並んでいた。


「居酒屋に行きたいのか?」

「え? なんで?」

「さっきからちらほらと見てたから」

「あー、バレてたの。でも残念。別に居酒屋に行きたいわけじゃないよ。ただ、皆なビールとか焼酎ばっかりだなぁと思って」


言われて僕も居酒屋の客を見た。軒先に設置されたテーブルで飲むグループは全員がビールや焼酎を嗜んでいる。


「確かにそうだが。別に珍しい物でもないだろ」


 とりあえずビール、という言葉があるくらいだし。焼酎の方はよく知らない。とりあえず熱燗と言ったりするのだろうか。


「そうだけどね。ボクはビールとか焼酎よりも綺麗なお酒の方が好きだからさぁ」


あまりにも南川が自然体で言うので、僕も自然と言葉が出た。


「お酒は二十歳になってからだぞ」

「へ?」


南川は一瞬首を傾げ、僕の言葉を不審がったが、すぐに意味を理解してくれた。


「あはは。ボクの言う好きは飲む方じゃないよ。見るだけ」

「だよな。分かってた」


多分南川が言っている綺麗なお酒とはカクテルのことだろう。確かに南川はそういう物が好きそうだ。酒は目でも楽しめると姉さんが言っていたのを思い出した。その時はそういうもんかと思っていたが、真面目な南川の目を見てしまうと、妙に腑に落ちる。

そんなことを考えているうちに目的地に到着した。


「じゃあボクはチェックインしてくるから待っててね」

「頼んだ」


ロビーに残された僕はソファーの柔らかさに驚きながら腰かけた。ここに泊まっている人のほとんどが観光客だろう。僕の目の前の椅子には外国人が英字新聞を読んでいる。

内容はよく分からないが、当人は満足した様子で頷きながら読んでいる。贔屓にしているサッカーチームが勝ったんだろうか。掲載されている写真にはサッカーゴールが映っている。


「おまたせ。部屋は7階だって。景色綺麗だといいね」

「そうだな」


やはり柔らかすぎるソファーから立ち上がり、これまでと同じく南川の後を追った。自分で椅子を買うなら固めを買おう。

エレベーターの中にはホテル内のレストランの広告が貼ってある。夕食は別料金のようだ。そして、かなり値が張る。高校生には痛い。これは他で外食するしかなさそうだ。


部屋はいたって普通のツインルームで、テレビ付き。珍しいのはユニットバスでないということ。並んで配置された奥のベッドに南川は飛び込んだ。


「やっほぉー」


何故かテンションが高い。旅先でテンションが低いよりは遥かに良いのだろう。


「南川はそっちでいいのか?」

「うん。奏多はこっちがよかった?」

「別にどっちでも」


ここまで上ってくる間に何となくだが、この部屋の窓からの景色は掴めた。恐らくだが、絶景は望めまい。頑張っても嵐山が見えるか見えないからくらいだと予想している。

ちょうどその時、南川がカーテンを開けて外を見てため息を吐いた。


「やっぱり見えなかったか?」

「うん。分かってたのかい?」

「いや。なんとなく向き的に無理だろうなと」

「なーんだ」


再びため息を吐きながら南川は布団に飛び込んだ。枕に顔を埋め、両足をパタパタとさせている。


「お腹空いたぁ……」

「はぁ?」


南川が唐突にそんなことを言うものだから、間抜けな声を漏らしてしまった。


「奏多、少し早いけどご飯行こうよ」

「いいけど」


これはさっき考えておいたのが役に立つかもしれない。


「じゃあ、どこ行こっか?」


ここで「どこでもいい」と答えてはいけないと、姉さんが言っていた。


「せっかく京都に来たからな。京都らしいもの食おうじゃないか」

「京都らしいもの? 八つ橋?」


僕の頭の中に琴奏者の八橋検校が出てきて、お菓子の八つ橋が出てくるのに10秒ほどかかったのは内緒である。


「どしたの?」

「いや、なんでもない。お菓子が夕飯なのはまずいだろ」

「そうかい? なら京都らしい食べ物を教えてもらおうじゃないか」


 ベッドの上に胡坐をかいた南川。年頃の娘がしていい座り方じゃないな。短パンを履いているから色々見えそうでマズい。


「あまりイメージがないかもしれんが京都の郷土料理は色々あってだな。しば漬け、千枚漬け、すぐき漬けみたいな漬物から、松茸ご飯に栗ご飯、さばずしにおはぎ。とまぁ、色々あるんだよ」


 気を散らすため、できる限り早口で喋った。


「半分くらい漬物なんだね……」

「姉さんの趣味なんだよなぁ」


 先日、家にめちゃくちゃ重い段ボールが届いた。母さんも僕も持ち上げられずに困っていると、姉さんがひょいっと自室に持って行ったのだ。何かと聞くと、令和最新版の漬物石らしい。騙されてそうで怖い。


「で、今日のご飯は何にするんだい?」

「その土地の味を食べるには最強の店があるぞ」

「最強?」


 南川は首を傾げた。腰を抜かして驚いてくれるといいのだが……。





「ここが最強の店……?」


南川は机の上に並べられた小鉢を見つめ、若干引き気味で言った。腰を抜かすどころか、驚いてすらくれなかった。


「そうだとも。見ろ、この旨そうな小鉢たちを。実に旨そうだ」

「ここ、行きしなに通った居酒屋じゃないか。もっとお洒落な店を待ってたボクの期待を返してくれよ……」


 残念そうにしょんぼりする南川。反論したくなる気持ちを抑えて、諭すように言い返す。


「なかなかに酷いことを言うな。とにかく食うこった」


居酒屋は酒飲みの集まる店だ。となれば当然の様に酒の肴が置いてある。京都の郷土料理に多い漬物も多く取り扱っているわけだ。もちろん、姉さんの入れ知恵である。まさかこんなことで役に立つとは思わなかった。


「まぁ、食べるけどさぁ。頂きます」


南川はぶつぶつ言いながらも小鉢の中身を口に運んだ。


「……悔しいけど。美味しい……」

「それは良かった」


 一口食べてしまえば、南川の心は料理に落ちていく。笑顔で頬張る姿を見ると、何となく僕も元気になってきた気がした。食事の間だけは、今日の出来事を忘れることができた思う。

腹を満たした2人はホテルに戻った。後は風呂に入って寝るだけだ。


「ねぇ、奏多。ボク先に入ってもいいかな?」

「あーいいよいいよ」

「それとも一緒に入るかい?」


南川は食事に誘うかの様に言った。もし、本心で言ったのなら、男子的には是非とも受けたい申し出なのだが、まだ理性がまともに働いていた。同じ過ちを2度は犯せまい。


「いや、遠慮しとくよ」

「そうかい? 残念」


南川は部屋に備えられていたバスタオルを引っ提げて風呂場に消えて行った。


「ふむ……これは惜しいことをしたかもしれん」


誰もいなくなった部屋で独り言を呟く。本心ではない独り言呟いた時に、ツッコミをくれる人がいないのはかなり虚しいことが分かった。45度までしか開かない窓を開ける。遠くを走る列車の音が聞こえた。音は空気の温度の境目で屈折するから、地表の空気が冷たい夜の方が、遠くまで聞こえるようになる。だから、昼間なら聞こえない音でも夜になると聞こえるのだとか。涼しい風が窓から吹き込み、頬を沿う。自然と漏れたのは欠伸で、意図したのはため息。


もう、橘花に関わるのは止めよう。橘花への気持ちは捨ててしまおう。でないと橘花を傷つけるだけだ。自分が傷つくだけだ。そう、心に言い聞かせる。

イヤホンで耳を塞いだ。旧式のカセットプレイヤーの音が鼓膜を震わし、雑音は届かない。目を瞑れば光さえ見えない。

これで、橘花の声を聞くことはない。

これで、橘花の姿を見ることもない。

それでいい。間違いなんか何もない。

瞼を下ろせば涙は流れないし、耳を塞げば自分の啜り泣きも聞こえない。


また、逃げよう。ベッドに倒れ込み、右腕で視線を塞いだ。一曲しか入っていないDATカートリッジはすぐに再生が終わり、無音のまま410分弱の時間回り続ける。


やがて、カチッという音と共に巻き戻しを始めた。



◆◇◆



ボクはシャワーを浴びながら考えた。彼、冴羽奏多に何という言葉をかければよいか。

春休みにも同じようなことがあったが、あの時はボクの感情のままに彼を流して有耶無耶にした。

今の彼は、相当疲弊していることだろう。小学校の時からあの2人の事はずっと知っている。

だからこそ、可愛そうだと思った。

だけど、哀れとは思わない。報われない恋ほど激しく燃え盛るものだ。それを美しいと呼ばずに何と呼ぶんだ。

何か声をかけてあげたいと思う。言いたい事だってある。


「今更、言えないよね。好きだなんて……」


目尻を流れた温水が口に入る。ほのかにしょっぱかった。


「お待たせ、奏多。お風呂空いたよ」


ついつい考え事をしていて、一時間弱も入ってしまった。髪を拭きながら彼に話しかける。けれど返事はない。


「奏多?」


返事が返ってこないことを不審に思い、洗面所からベッドの方へ歩いた。バスローブ一枚で。


「ありゃりゃ。寝てる?」


彼はベッドの上でイヤホンをつけたままで眠っている。その腕に、時代遅れのカセットプレイヤーを抱きながら。


「あーもう。イヤホンなんてつけたまま寝たら耳を傷めるよ」


ボクは彼の眠るベッドの上に4つん這いになり、カセットプレイヤーを奪い取って、彼の耳からイヤホンを抜こうとした。しかし、不意に寝返りをうち、ボクの体をベッドに倒す。そして、抱き枕を抱きしめるかのようにボクの体を抱きしめた。


「はは……眠ったまま女の体を押し倒すとは、良い趣味じゃないか」


返事はない。


「本当に寝てるのか……はぁ」


何と声をかけようか悩んでいた自分が馬鹿らしくなる程に、幸せそうな寝顔をしていた。彼はもぞもぞと動き、やがてボクの胸に顔を埋めた。


「奏多、実は起きてるんじゃないの……?」


一番爪の長い左手の薬指で頬をつつくが、反応はない。本当に眠っているらしい。


「ボクが通報したら捕まるのは君なんだからな」


これで気が紛れるのなら受け入れよう。とても紛れるとは思えないが。

夜の8時を過ぎた。そろそろ街が眠り始める。ボクの瞼も閉じてしまい、夢の上映が始まった。

ボクが一番幸せを感じたあの瞬間の夢を。


———2か月前


「冴羽くん?」


 3月の初旬、白雨が降りしきる日のこと。ボクは雨に濡れながら茫然としている冴羽奏多を見つけた。話しかけるが返事は無く、ボクの方を見ようともしない。足取りは不安で、顔色も悪い。何となくボクは事情を察した。

フラれたんだ、あの子に。良かった……。

良かった……?何が良かったのだろう……。


「冴羽くん。おいで」


 本当に彼を不憫に思った。だからせめて、風邪をひかぬ様に、家に連れていくことにしたのだ。

 雨で濡れた彼を風呂にいれている間に、ボクはコンタクトを外して眼鏡をかける。そして、濡れた彼の服を洗濯機に放り込む。洗濯機の乾燥機モードを初めて使った。一時間弱かかるので、風呂から上がった彼の服を用意する必要がある。クローゼットを開けるが、女の一人暮らしの部屋に男物の服などあるわけがなかった。下着がないのはもちろんだが、サイズの合いそうな羽織る物一つすらない。


「バスタオルで我慢してもらうしかないかな」


 幸い、かなり大きいバスタオルがあった。確か引き出物でもらったやつだ。彼はゆっくりと湯船につかっているようだが、音が何一つしない。揺れる水音も、漏れる吐息も。何も聞こえない。

 ボクは心配になって声をかけた。


「冴羽くん? 生きてる?」


 返事がない。


「返事がないなら開けるからね」


 恐る恐る扉を開ける。彼は浴槽にもたれかかり、顎まで湯船に浸かっていた。今にも沈みそうだ。


「ちょ、ちょっと危ないよ⁉」


 慌てて湯船から彼を起こす。服が濡れるのも気にせず、力の限り彼を引っ張る。


「………自分で、出れるから…………」


 彼はそう呟くと、ゆっくり湯船から立ち上がった。やっと声を発してくれた。


「ぁ…………」


 相手が一糸纏わぬ姿だと忘れていた。お湯が滴る彼の体を、ボクはしっかりと見てしまった。痩せている割には、意外に逞しい体をしている。この場合、どっちが犯罪者なんだろう。


「拭いてあげようか?」


 立ったまま動かない彼の体をまじまじと眺めることに耐えられず、ボクはそう言った。今思えば冷静じゃなかった。

 返事がなく、自分で拭こうともしないので、仕方なしに拭いてやる。髪をワシャワシャと拭き、上半身から順番に拭いていく。

ボクに触れられる度、彼の体がピクッと反応する。死んではいないようだ。少しだけ背徳感が湧き、彼の顔を見上げてみた。


 その瞳はボクを見ていた。けれど光は無く、虚ろな影がチラついた。3年前のボクと同じ瞳だ。

 しゃがんで彼の足を拭いていると、何かが頬を伝った。見上げると彼の瞳からは涙が流れていた。

その時、ボクはお腹の下辺りが熱くなるのを感じた。この感覚をボクは既に知っていた。本当にそんなつもりは無かったのに。だからコンタクトを外したのに。


「流石に冴羽くんが着れる服は無かったからさ」


 拭き終えた彼の手を引いて浴室を出た。


「これで我慢してくれないかな?」


 先程出してきた大きめのバスタオルで、彼を包む。

彼は何も答えなかったが、涙は止まったようだ。

 ボクは最低だと思う。だって悪いことを考えているのだから。どう足掻いても彼が逃げられないようにしようとしているのだから。

 ボクは彼の両手を握って先導する。ワンルームに置いたベッドの前まで、彼を連れてきた。ボクは振り返り、彼の肩を抱くように腕を回し、そのままベッドに倒れ込む。彼はボクが下敷きにならないように、手をついてくれた。その反動でバスタオルはめくれてしまったけれど。

 ボクの足の間に、彼は右膝をつく。ボクの両肩の横には、彼の掌がある。ボクの鼻先105センチには、彼がいる。

 ボクは冴羽奏多という男の子によって、ベッドへと押し倒されたのだ。心臓はバクバクと音を立てている。彼にも聞こえているかもしれない。

彼の全てが見えるようだった。顔も首も胸も腕も腹も脚も。

胸の内に秘めた悲しい叫びも。胸元のボタンを外したワイシャツが、汗ばんで体に貼り付くのを感じる。


「…………………悪い」


 長い長い沈黙の後、彼は謝罪の言葉を口にする。

ボクは悪い人間だから、彼の全てを支配しようと思った。感情も、欲望も。願いさえも。

だから、ボクは煩い鼓動に掻き消されなが、こう言ってやった。


「君は今日、ボクに救われる。哀傷も悔恨も……欲情も。君の汚れた感情の全てを」


 彼も傷を負った人間だ。その傷に効く薬はないけれど、和らげる方法はあるだろう。


「ボクに救われてしまうんだ」


 彼の感嘆の息が漏れた。


「いいんだよ。全部ボクに吐き出しちゃえば」


 ボクは、両手を伸ばして彼を待つ。早く彼を手に入れたかったから。誰よりも早く。でも、自分からは嫌だから。彼から来てほしかったから。責任を彼に負わせたかったから。


「ボクをあの娘の代わりにして…………奏多」


 そうしてボクは彼の全てを受け止めた。

心の片隅が痛かったけれど、何度も何度も何度も彼の悲しみを受け止めた。


彼が愛する後輩よりも、彼を愛する親友よりも。ボクが一番早く手に入れたんだ。

一生忘れない。絶対に、忘れない。


 気づいたら、ボクは眠っていたようだ。目を覚ましたとき、隣には彼はいた。

ボクはベッドから起き上がる。そして、乾燥機の中から乾いた彼のワイシャツを取り出す。

広げてみると、何となく袖を通したくなった。やっぱり少し大きい。

 部屋に戻ると、彼も目を覚ましたようだった。


「おはよう、奏多」


 自然と名前を呼んだ。ずっと、呼びたかったのかな。


「それとも、おそようかな?」


 彼は状況を理解してしまったようだ。青ざめていくのが目に見えて分かった。これはこれで面白い。


「すまない南川。僕はどうやって謝罪をすればいいのか……」


 彼は素早い動きで土下座する。そんなに謝らなくてもいいのに。どちらかと言うと否はボクにあるのだし。

「あはは、そんなに気にしないで。辛いときは誰にだってある」

「でも……僕は……」


 本当に彼は真面目で良い奴だと思う。


「本当に気にしなくていいんだよ」


 それでも彼は謝るのを止めなかった。だから私はこう答えた。


「ボクのことは瑠璃でいいよ。奏多」


 結局、彼がそう呼ぶことはなく解散した。

彼の方は気まずかったのか、春休みが終わってもしばらくは目を合わせてくれなかった。



◆◇◆



「なんだ、これは………」


目を覚ました僕は、自分の眠っていたベッドでバスローブの前をはだけさせ眠る南川に困惑していた。


「また僕はやってしまったのか? いやいや、思い出せ。そんな記憶はないぞ……ほんとにない……」


動揺しながらも冷静に記憶を探るが、南川とそういう行為に至った記憶はない。


「と、取り敢えず……起こすか?」


起こして状況を確認しようと思ったが、気落ち良さそうに寝息をたてていて、とてもじゃないが起こせなかった。時刻は21時。まだ眠るには早い。


「散歩でもすっか……」


何故か南川が握っていた自分のカセットプレイヤーとイヤホンを回収し、スマホと財布を持って外に出た。念のため「外に出てくる」と書置きもしておく。


ホテルの廊下は外国人観光客がちらほらと散見された。金髪の外国人が浴衣を着ている姿は物珍しい物がある。日本を満喫してくれているようで、何だか嬉しくなった。


「あ、鍵忘れてきた……」


もちろんオートロック式なので、今から入ることは出来ない。帰ってきたときに南川が起きていればいいが、最悪の場合はフロントに頼らざるを得ない。

街灯に照らされた石畳を歩く。観光客たちは夜の街を楽しげに歩いている。そんな中、一人で歩く僕の姿は目立っているかもしれない。


「竹林か……」


観光客たちが目指す先には、灯篭でライトアップされた竹林があるようだ。僕は振り返り、観光客の流れに逆らった。特に見たいわけではない。なるべく人通りの少ない場所に行きたかった。空いていたコンビニに入る。アルバイト店員が気だるげな挨拶をした。どこのコンビニもバイトは似たようなものだ。

雑誌売り場で適当に雑誌を眺める。すると横に女性が隣に立った。

僕と同じように雑誌を手に取り、眺め始めた。横目で姿を確認。白くて長い髪をポニーテールにし、赤い眼鏡をかけている。


 僕はその姿に見覚えがあった。一度も忘れたことのない古い記憶の中のその人に酷似している。立ち尽くして呆然としていると、女性は本を棚に戻してコンビニを立ち去った。

僕は手早くお茶だけを購入し、追いかける。無賃で立ち読みだけして出るのは忍びなかったからだ。


一歩出て左右を見渡すと、右手の遠くに白い髪が見えた。あまり近づきすぎると怪しまれると思い、3メートル後ろをついていく。しばらくして国道367号を橋の手前で右折した。

賀茂川沿いの道を歩いていく。街灯は少ないが、今夜は月明かりで前が見える。

今の時期はもう散っているが、もう少し早ければ桜並木が見れたことだろう。


10分ほど歩き、出雲跨橋の下辺りまで来た。ふいに女性は立ち止まり、こちらへ振り向く。

咄嗟に僕は目を逸らしたが、足を止めることはしなかった。ここで立ち止まる方が怪しまれるだろう。

女性は僕を見るとゆっくりとまた歩き出した。まるで僕が後ろからついてきているかを確認するかのようだ。


僕はイヤホンを耳に着けた。これなら音楽を聴きながら散歩しているように見えなくもないだろう。


 今度は振り向くことなく15分ほど歩いて、出町橋をくぐった。ここがいわゆる鴨川デルタという場所のようだ。すぐ目の前に賀茂大橋が見える。

 ちょうどその時、雲が月明かりを閉ざした。女性の影が見えなくなる。賀茂大橋を渡る車のヘッドライトの光が差して、一瞬だけ彼女の姿を目にできた。鴨川デルタの先端に彼女はいる。

だが、またすぐに見えなくなり、数10秒ほど周囲が闇に包まれた。


そして、ゆっくりと月明かりが鴨川デルタに差し込む。やがて完全に雲は晴れる。その時、彼女の姿はそこにない。


「……」


 周囲を見渡してみても彼女の姿は見当たらない。ゆっくりと歩きながら最後に彼女を見た場所へ歩く。鴨川デルタの先端、そこは石畳になっており、さらにその先には出町の飛び石という観光名所がある。


「幻、だったのか……?」


 川と陸との境目、その場所に僕は立った。


「なんだこれ」


 不自然に小石の下に敷かれたレシートを見つけた。石をのけてレシートを拾い上げる。内容は近所の花屋のもの。日付と時間は今日の夕方だ。グラジオラスという花を買っている。

確か夏の花だったと思う。昔、母親が育てていた。


「……」


 季節外れの花を買ったレシートなど持っていても仕方がない。あとでゴミ箱にでも放り込もう。

くしゃくしゃに丸めると、裏に何か書かれているのを見つけた。

再び開いて裏返す。優しく引っ張ってしわを伸ばす。


「——っ⁉」


 短い文章だった。だが、レシートの裏に書くには丁度いいくらいだ。

その文の内容は誰にでも理解できるわけじゃない。複数の条件に当てはまる場合にのみ、解読できるものだ。


『忘れろと言っただろ、少年』


 彼女だ。やはり、彼女だったのだ。僕は慌てて右や左に彼女の存在を探す。前や後ろも探しまくった。だけど、彼女の気配はそこにない。静かな月の明るい夜が広がるだけだった。

ただ立ち尽くして空を見上げる。


「僕は……」


 どうしたいのだ。

彼女に会えたところでどうしようと言うのだ。

泣きついたところで現実は変わらない。仮に彼女が手を差し伸べたとて、別れを拒むことはできない。僕に何もできない様に、彼女に何かできるわけじゃない。大人が万能じゃないことを今の僕は知っている。


それは僕も同じ。自分が大人になったところで万能になれるわけじゃない。何にもできない小僧が無意味に歳月を重ねただけだ。


「あなたに……」


 けど、僕は彼女に会いたいんだ。彼女に会ってただ一言「諦めるな、少年」と言ってほしいんだ。10年前、そう言ってくれたように。

あの時の彼女と同じ歳になった僕には分かる。それが何の根拠もないことを。ただの気休め、ただの慰めだとしても。


 強い風が僕の前髪を揺らしながら吹き抜けていく。少し湿り気のある風だ。ふいに視界に花びらが舞う。白とピンクの混じった花びら。


「これは……」


 グラジオラスの花びらだ。それは賀茂大橋の歩道から舞い散っていた。そこには口づけを交わす男女の姿。

 僕はやっぱり所詮ただのガキだった。そして、彼女は僕が思っているよりもずっと大人だった。

たなびく髪で顔は見えない。合間から見えるのは眼鏡の赤いテンプル。

ずっと求めていた懐かしい白く艶やかな髪が、月明かりに照らされてキラキラと煌めいている。

相手の男など僕の網膜に映らない。風に舞うグラジオラスの花びらが邪魔をしたから。

白い姿が色鮮やかに見えたから。口づけを交わす彼女の姿が美しすぎたから。

目を奪われた。心もここにはなかった。


 刹那、雷鳴が轟いた。幻聴ではないことを、数秒後の激しい雨音が教えてくれた。橋の上の2人を水煙が消し去っていく。完全に見えなくなるまで、一分とかからない。僕はぼんやりと2人のシルエットを見つめていた。


 再び、雷鳴が轟く。賀茂川のゴォォと不気味な音を立て始める。目の前の鴨川の水量が目に見えて増えていく。


「……」


 頬は滴る雨で冷めている。指先と足先の感覚は既に無い。この場所に居てはいけない。そうは思っても、身体は動かない。木々の根っこのように足が重たくなっている。

 空を見上げた。ついさっきまで綺麗な月が見えていたのが嘘のような曇天だ。


「うぁぁぁぁぁぁッ‼」


 鉛色の空に叫び声が溶けていく。何に対して僕はムカついているんだろうか。なんで僕はイラついているんだろうか。


 3度、雷鳴が轟く。そして、僕は逃げ出した。降りしきる雨が身体を濡らす。3106度ちょっとの体温を奪いながら。

橘花っ‼ 想い人の名を心の中で叫ぶ。

僕は……どうしたらいいんだよ……。君のことが大好きなのに……あの男に嫉妬した……。


「最低だ……僕って」


 来た道を走って戻る。もう辺りは完全に闇だ。

上の車道を走る車のヘッドライトだけが僕の行く道を照らしてくれる。階段を上って鞍馬口通りに出る。そのまま進んで府道3102号と合流した。立ち止まり、空を見上げた。


止むことを知らない雨が僕の頬を打つ。少しは人の気配がするが、明るくはない。コンビニの灯りがただただ眩しかった。


「あれ、奏多じゃないか。どうしたんだい? 随分とびしょ濡れのようだけど」


 悪戯っ子のように笑う声だ。今、心の中でその声を求める自分がいた。もしかすれば僕をまた助けに来てくれるんじゃないかって、期待していた自分がいた。

彼女が僕を見捨てても、僕を見捨てないでいてくれるその人を。どれだけ僕は情けないのだろうか。


「南川……」

「ふふっ。ボクのことは瑠璃、でいいよ」


南川はコンビニ袋を右手に、傘をさして電柱の前に立っていた。


「入りなよ。そんなに濡れていたらもう遅いかもしれないけど、ずっと濡れているよりは幾分かマシだろうからね」


溢れかけていた涙を雑に腕で拭って、南川の左側に並ぶ。もう遅いだろうが、南川に涙を見られたくなかった。


「…………」


 何か喋ろうと口を開こうとすると、咽びそうで声にならない。


「君が泣いているなんて珍しいじゃないか。そんなに泣いていると、からかいたくなるだろう?」


南川の冗談に反論することも出来ず、僕はまた黙り込んでしまう。


「………」

「ボクらは親友だ。なら悩みの一つや2つ、聞いてやるさ」


 南川は少し上を見ていた。何かを思い出しているかのようだ。


「ふふ、仕方ないぁ。また、ボクを押し倒すかい? それで君が救えるなら喜んでこの身を差し出してあげよう」


 もちろんそれが冗談だってこと、僕はよく知っている。本気だったらこんなこと南川は口にしない。


「……助かる」


 でも今の僕には、南川の冗談を訂正するだけの体力は残っていなかった。


「あらま」


 感情の籠っていない感嘆詞からは、南川の感情が読み取れる気がした。


「それじゃまずは部屋に戻ってシャワーに浴びてからだね」


 くすくすと笑いながら、歩みを進める南川。深くは聞かないその態度が、今の自分にはありがたかった。

やっぱり南川は、また僕を助けてくれている。





ホテルに戻ってシャワーを浴びた後、ベッドに腰を下ろした。南川が親切から僕の髪を乾かしてくれている。弱風のドライヤーの音は静かで会話するのに支障はない。


「なんで泣いてたのさ。ボクが恋しくなったのかい?」

「茶化すのはやめてくれ……」


 今はそういうのに付き合う気分になれない。耳に掛かる息がくすぐったくてぞわぞわとする。


「あれが原因?」


 南川が指さしたのは机の上に置かれたしわしわのレシート。雨で濡れてインクが滲んでいる。


「………」


 察しが良くて助かるときもあれば、嫌になることもあるもんだ。


「この人は誰なんだい? 字から見るに女の人だね。それもかなり年上の」


 その観察眼には賞賛よりも恐怖が勝る。


「奏多が橘花ちゃん以外の女の人で悩むなんて珍しいこともあるんだね。この雨は君のせいみたいだ」


 晴天の霹靂。そう言いたいのだろう。失礼極まりない。だけど、いつも通りの南川の姿がやっぱり、少しだけ嬉しかった。


「嫉妬したんだ。見知らぬ誰かと口づけを交わす誘さんに」


 吐いた方が楽だ。南川はこんな僕を見捨てずにいてくれるだろうから。


「いざなさんねぇ……誰さ、その人」


 南川は訝しげに目を細めながら言った。僕は10年前の出来事をありのまま伝えることにした。そこに嘘も誤解も無いよう、なるべく客観的に説明する。


「ふーん。そんなことがあったんだ」


 この話は誰にもしたことが無い。もちろん橘花は知らないし、姉さんも知らない。

恥ずかしい想い出だとは思わないが、誰にも知られたくなかったのだ。

これは僕と誘さんの2人だけの出来事にしておきたかった。

記憶を独占しておきたかったのだろうかと今になっては思う。


「奏多はさ、無自覚かもしれないけど」

「……なんだ」

「その人のこと好きなんじゃないの」


 息が喉につっかえて上手く吐き出せなかった。呼吸するのに失敗して咽返る。


「……なんでそうなるんだよ」


 短絡的思考に反吐が出そうになる。

でも南川はいつだって思考を巡らせ、可能な限り主観を省いた解を導き出す。それが分かっているからムカつくし、反吐も出る。どう考えてもそんなわけがないのに、第3者から見ればそうとしか見えない自分に憤りを感じる。


「君が自分のことを偽っているからだよ」

「……」

「そんなことも分からなくなってしまったのかい? 君らしくもないことだね」


 僕の返事や反応など南川にとってはどうでもいいのだろう。たぶんこれはただの独り言。だから僕に構わずに言葉を発していくんだ。


「自分が好きなものくらい自分で分かってろよ。何でもかんでもボクに言わせるな」


 苛立ち、怒り、呆れ。そんなところだろうか。


「だいたい君はいつもそうだ。何でも分かってるフリをして他人と接しているくせに、ホントは何にも分かってない。自分のことさえ何も」


 そんなことはない。


「分かってるフリなんか……しちゃいない」

「してるよ」


 南川は睨みつけて言った。僕はその青い瞳から目を逸らした。現実を宿すその瞳が僕の心を抉って壊してしまいそうだったから。


「だから奏多は3年前のあの日、ボクにあんな無責任なことを言ったんじゃないか!」


 脱兎の勢いでベッドから立ち上がった南川の目は、今にも涙が零れそうなほどに潤んでいた。


「南川……?」


 涙の意味が分からない。たぶん、分からないから問題なんだ。

考えろ! 僕は何をした? 何が南川を困らせた? 3年前? 中学の頃?思い出せない。僕は何をしていた? 何をしてしまった?

ほんの3年前のことが何も分からない。何も記憶に残っていない。


「……ごめん。なんでもないから忘れて」


 手の甲で目尻を擦る南川の姿からは、とてもなんでもないとは思えない。思い出すだけで泣いてしまうようなことがあったのは、誰の目にも疑いようがないことだ。


「でも——」

「とにかく! 奏多は自分のことを理解すべきなんだよ」


 明らかに誤魔化されている。でも、3年前の出来事が思い出せない以上は深追いすることもできない。だから南川の話に乗ることが僕の選べる唯一の道だ。


「僕のことってなんだよ」

「君が本当に好きな人は誰だい?」

「橘花」

「即答……」


 本心だから即答した。何にも変なことはない。


「じゃあさっさと自分のものにしてくれる? もじもじされてもボクがイラつくだけだ」

「それが可能なら何も苦労はしないんだよ」


 南川は何も分かっていない。分かったフリをしているのはどっちだ。


「はぁ……両想いのくせに何を言ってるんだよ。一回振られたくらいでくよくよしてんじゃないよ」


 違うんだ。一回振られたからじゃないんだ。

一度拒まれたという事実は何よりも痛ましいものなんだ。何度でも求めることができるわけじゃない。その壁が高く、分厚くなってしまったんだ。

好きだからとか、諦めなければどうにかなるとか、そんな綺麗事は部外者だから言える世迷言なんだよ、南川。


「橘花は僕のことなんて何とも思っちゃいないんだ。だから、僕の気持ちは届かない。地面に落ちた雪みたいに何も残らずに消えていく」


そう、届かない恋なんだ。これは。届くはずのない恋だから。

消えてしまう方がいい。今降りしきる雨粒の様に。意味もなく地に落ちて、誰に看取られることもなく沈んでいく。


「……軟弱だね。男って」

「…………」


 そうかもしれない。でも、そう言われるのは少し嫌だった。

傷つくから本気なのだ。立ち直れないくらいに凹んで、寝込んで、それでも忘れられなくてまた傷ついて。でもそれくらいじゃなきゃ、誰かを好きになんてなれやしない。それを軟弱の一言で片づけられてしまうのは、辛いことだと思う。


 そんな気持ちを知ってか知らずか。南川は続けた。


「一つだけ言えることがある。君が何もしないことを選んだら、きっと後悔が残る。けど、忘れることができるなら。奏多は誰よりも幸せになれる」

「……どうして」


 聞き返しはしたが、本当は分かっている。どういう意味なのか。


「あんまり、こんな言い方はしたくないんだけどさ。橘花ちゃんには未来がないんだよ。ううん、未来を持てなかったんだよ」

「……そんなこと——」


 否定しなければならないのに。否定せずにはいられないのに。言葉は絶え絶えで、息が詰まる。残りの2文字が音にならない。


「あるんだよ。だから橘花ちゃんは君を突き放した。2カ月前、君が橘花ちゃんに振られたとボクに泣きついてきたとき、橘花ちゃんもボクに言ったんだ。私は奏多くんを好きになったらいけないんだって」

「………」


初めて知った、そんな話。


「もう、分かるだろう? 橘花ちゃんは君のことが大好きなんだ。それでも、いや。そうだからこそ、君の未来の幸せを望んだんだよ」


初めて知る事実に、心が揺れる。目尻が熱くなる。


「少し喋りすぎてしまったね。選ぶのは君だ」


南川の聲は冷たい。突き放すようで、怖い。苦しい。

それでも………。それでも、選ばなければいけないのか。このまま有耶無耶にして、何事もなかったかのように明日を迎えるのはいけないのだろうか。


「選ばないというのも、君の選択の一つさ。否定はしないしできないよ。けれどね。選ぶことは、選ばれた君の義務だと思うんだよ。ボクはね」


そんなことは分かっている。分かっているんだ。

それでも、ここで選んだことが、これからの道を決めているようで。2度と元には戻らない気がして。


「一人で抱えきれなくなったら。ボクが君を受け止める。だから心配せず、自分の心に従うんだ。親友」


その言葉はきっかけに過ぎない。決めたのは僕自身だ。他の誰でもない。でも、こうして僕に手を差し伸べてくれる誰かがいる。それは僕にとって、最強の武器だ。


「ありがとう、南川」


 だから、僕はまた立つことができる。いつかと同じく南川のおかげで。


「ふふっ。だからさ、ボクのことは瑠璃、がいいな」


仕方ない。感謝は行動で示すものだ。


「ありがとう、瑠璃」


「へっ? 今……なんて?」

 ウサギのようにぴょんッと肩が震えて、顔を真っ赤に染める南川。


「どうした、親友。瑠璃がいいんじゃなかったのか?」


いつもの仕返し、蓄積した悪戯の仕返しだ。


「君ってやつは……まったく。とことん性格が悪いな」


瑠璃は呆れた表情でそう言ったが、嫌ではなさそうだった。調子に乗って名前で呼んでしまったが、どうにか収まったようで助かった。


「それと、これは乾かした方がいいね。テープの方はもうだめかもしれないけど……」


 上着のポケットに入っていたカセットプレイヤーは、雨にずぶ濡れになっていた。

南川は優しくタオルで拭き、中のカセットを抜き取る。


「あれ? これなんのカセットなんだい?」


 中のカセットには何も書いていない。透明なプラスチックが剥き出しのままだ。


「昔は書いてあったんだ。水性マジックで書いてたみたいで、いつの間にか消えてた」

「ということは自作?」

「CDと違ってカセットはたいていみんな自作するものなんだ。自分だけのプレイリストを作るのが醍醐味」

「ふーん」


 裏返したり、また戻したりして眺めている。


「珍しいか?」

「まぁね。君の言い方から察するに、これを作ったの奏多じゃないんだよね?」

「あぁ。それを作ったのは父さんだ」


 カセットプレイヤーもそのテープを父親から中学1年の時にもらったものだ。


「何が入ってるの?」

「ただの古い流行歌が2曲だけだ」

「流行歌?」

「懐かしのラブソングってやつさ」


 コーマシャルでも使われているから、若い世代の人でも聞いたことのある人は多いだろう。何なら父親も世代なわけじゃない。


「お父さんが好きだったの?」


 首を横に振る。


「好きだったのは母さんの方なんだ」

「えっと……?」


 どういうことか分からないらしい。戸惑う姿が珍しくて笑えてくる。


「よくあるだろ? 好きな子の気を引きたくて、その子の好きなものを知ろうとするやつ」

「ははっ、なぁるほど」


 その話を聞いたとき、すごくロマンチックだと思った。


「僕も同じなんだ。橘花の憧れを叶えてやりたかった」


 ピアノでの告白を、橘花はロマンチックだと言った。僕はそうは思わなかったけど、橘花のためを思って弾くピアノは楽しかったのを覚えている。ドキドキして、少しテンポが速くなったり、半音間違えたりもした。


「まだ過去形じゃない。時間はある」

「瑠璃……」


 瑠璃はカセットテープをタオルの上に乗せ、優しく包み込んだ。明日には完全に水気が飛んでいるだろう。


「叶えられるよ。奏多なら」

「え?」

「叶えるまで何度だってボクが尻を蹴ってやるから」


 歯が浮きそうなセリフも瑠璃が言えば様になる。そんな何かを持って生まれてきたのが南川瑠璃という人間なんだろう。


「お手柔らかに頼むよ」





翌日の午後1時。梓と合流しコンサートホールの前の群衆の列に加わった。この辺りは人が密集していて、居心地が悪い。


「ねぇ瑠璃。なんで昨日の電話出なかったの?」

「ちょうどお風呂入ってた。あと普通にご飯のこと忘れてた」

「そんな事だろうと思ってた」


後ろで雑談する2人に後ろ髪惹かれつつ、耳に黒いイヤホンを当ててた。

ポケットの中で握っているカセットプレイヤーのスイッチを押す。カセットテープが回り始め、音が鳴り始める。一晩乾かすと、不調一つなく動き始めた。カセットの方も音飛びはしていない。

やはり昔の製品は頑丈だ。


ふと、光が目を射った。鳩が一斉に空へ舞った。顔を上げ、光の先を探す。速足で歩く群衆の中に不自然な人物がこちらを見つめていた。その人物は黒いフードを深く被り、上着のポケットに手を突っ込んでいる。フードが影を作り、男か女かさえ掴めない。


また光が射し、僕は目を閉じた。次に目を開けた時、フードの人物はそこにはおらず。

ただ、モノラルのメロディーが耳元で震えていた。


「気のせい……?」


辺りを見渡すが、先ほどの人物らしき影は見当たらない。眼を擦った。不思議な感覚だった。その時だ。耳元で誰かに囁かれた。


「失くすなよ」


聞き覚えのある声と共に、右ポケットに何かを入れられた。


「え?」


急いで振り返るが、それらしい人物はどこにもいない。ただ、遠い歩道橋の青看板の奥に、黒いフードの人物が見えた。だが、揺らぐ空気に幻惑されて見えなくなる。

 右ポケットに入れられたものを出してみると、それは透明なケースに入ったカセットテープだった。


「……」


忘れてはいけないような何か。古い鏡を叩きつけられているような感覚。

カチッ。再生を終えたカセットテープが巻き戻しを始めた。

 ケースを開けてカセットを取り出すと、これが最近作られたように綺麗だった。A面にもB面にも文字は書かれていないが、ケースの底に折りたたまれた紙を見つけた。開いてみると、近くのコンビニのレシートだ。


「まさか……」


 印字の裏を見るボールペンで『コンサートが始まってから再生しろ』と書かれていた。

僕は嫌でも昨日のことを思い出す。これを用意したの誘さんで、さっきのフードの人物ももしかすると……。


「……」


 思うところはいくつもあるし、今すぐ探したい衝動もある。

けれど、今はこのメッセージに従おうと思った。橘花の演奏を聞き逃すわけにはいかないから。

 開始時刻までの数分がやけに長く感じた。



◆◇◆



コンサートホールは静かだった。反響する音の一つもない。

光はステージのみを照らし、観客は隣に座る者すら認識できない。やがて主催者の挨拶が始まった。観客は拍手で答える。1人目の演奏者はヴァイオリニストの女性。

年齢は20代そこら。

ステージの真ん中で一礼し、首元にヴァイオリンを当てた。そうして弦を震わせる。


セレナード第7番ニ長調K.250(K6.248b)《ハフナー・セレナード》ロンド


この上なく甘美な旋律と、ヴァイオリンの響く音色が上手く調和している。

モーツァルトはどんなことを思いながら作曲したのだろうか。その意図を知ってか知らずか、優美に語り始める。ヴァイオリンに聞き入り、浸る。瞼を閉じれば浮かぶ黄昏。景色は花道、真夏の夜空。


 だが、そんな音色も僕の耳には届かず、ひたすらあのカセットテープの音に集中する。

まだ何も音は聞こえていない。あっという間に演奏が終わった。ホール内を大きな拍手が埋め尽くす。そうして始まったコンサートは、続々と実力ある演奏家の登場によって盛り上がりを見せていた。


だが、僕の耳はそんな音は微塵も届かず、ただひたすらにカセットテープの音に意識を集中させる。未だに何も聞こえていない。


そうして次は橘花の番だ。橘花の演奏だけはちゃんと聞いてあげたい。


「ねぇねぇ。次橘花ちゃんの番だよ。なんでコンサート中にイヤホンつけてるのさ」


左側から瑠璃が小声で話しかけた。


「いや、ちょっと訳あって」

「始まる前から怖い顔してたけど、関係あるのかい?」


 相変わらずよく見ているやつだ。


「大丈夫だ。どうしても気になることがあって聞いてるだけだから。橘花の演奏の時は外すよ」


 瑠璃と会話するときも再生は続けているが、やはり何も聞こえない。


「良かったのかい? 橘花ちゃんに何も言わなくて」

「あぁ。今のあいつには邪魔だろうからな」

「喜ぶと思うけど」


 瑠璃は納得がいっていない様子。


「それが邪魔なんだよ。演奏ってのは楽譜にどれだけ縛られることができるかなんだ。そこに感情は邪魔でしかない」


 決められた物を決められた通りに鍵盤を押す。一寸の狂いもなく音色を奏でる。それが演奏なのだ。


「楽譜に従わない奏多がそれを言うんだ」


 別に従っていないつもりは微塵もない。


「時と場合に左右されるんだよ。この会場にはお偉い方々が参列してる。そういう人たちは総じて楽譜絶対主義者だからな。招待してもらってる側としては不機嫌にするわけにはいかないんだよ」

「ふーん、そういうもんか」


そして、瑠璃は僕の耳元で囁くようにこう言った。


「覚悟は決まったみたいだね、奏多」

「あぁ。感謝してる、親友」

「いいってことさ」


それっきり瑠璃が話しかけてくることはなかった。やがて壇上には橘花が上がった。ホールの喧騒が一斉に消える。橘花は一礼をして、ブレザーの一番下のボタンを外して椅子に腰かけた。僕は橘花の演奏に集中するために、両耳からイヤホンを外そうとした。


『奏多くん。私の声、聞こえていますか』


 さえずりのように優しい囁きだった。昔からよく知っている最愛の人の声。


『きっと奏多くんのことだから、今まで全然聞こえなくて音量最大にしているんでしょ?』


 その通りだ。聞き逃すとまずいと思ってボリュームを最大の10まで回している。


『そう思ったから小声で話しています。今から普通に喋るから音量は下げてね』


 慌ててボリュームを3まで下げる。いつも聞いている音量くらいだ。


『大丈夫かな?』


 囁きから普通の声に戻った。ピアノの前に座る橘花を見つめた。

橘花も僕の方を見つめていたから。

すると、安心したように微笑み、白と黒モノクロの鍵盤に指を置く。            

そして鍵盤が沈んだ。


『こほんっ』


サール番号541、フランツ・リスト『愛の夢』変イ長調第3番。


いつの日か橘花が音楽室で弾いていた曲だ。イヤホン越しでもその音色は僕の耳に届いた。

それは正の答であり、誤解の訂正だった。その音色は弱弱しく、どこか震えている。

きっと橘花の緊張の証。しかし、その楽音に人々は飲み込まれていく。皆が瞼を下ろし、俯き、落ちていく。


その中でただ唯一。僕だけは唇を噛み締めて橘花を真っ直ぐと見つめた。


『ごめんね。あの時、返事が出来なくて』


その声には後悔があった。なんで………。


『たくさん迷ったんだよ。けど、やっぱり上手に返事できないとだめだから……いっぱい練習したんだ。奏多くんに返事するのはこの場所だって決めてたから』


頬に温かい何かが触れる。これは涙だと人類皆知っていること。決めていて選択が、徐々に薄らいでいく。こんなのズルい。こんな返事、嬉しくないわけがないじゃないか。


『だからね。奏多くん。好きだと言ってくれて嬉しかったよ。泣きたいくらい嬉しかった』


演奏は後少し。もうすぐあの喧騒が帰って来る。その前に、その前に。

橘花の言葉を聞きたい。その言葉を聞いたら、一度選んだ選択肢なんて簡単に捨てられるんだ。これが最後のチャンス。


『ありがとう、奏多くん。私もね、君のこと好きだったよ』


その言葉の続きをどれだけ僕が待ち続けたことか。


『でも、ごめんね』


 カチッ。それ以上、橘花の声が聞こえることはなかった。

ただ、ウィィンというテープが巻き戻される音が聞こえるだけ。それは今一番聞きたくない音だった。


「ぇ……」


そして演奏が終わる。漏れた呻きは演奏終了後の拍手で掻き消された。


「凄かったね。橘花ちゃんの演奏」


瑠璃が拍手をしながら言った。けど僕は、返事もせずに立ち上がってその場を離れる。


「ちょ、どこ行くの⁉」

「悪い。ちょっと外す。終わったら連絡をくれ」


瑠璃の返事も待たずに僕は歩き出した。暗いホールの階段を上って警備員のいる扉を開けてホール外へ出た。俯いたままゆっくりと歩く。

階段を降りる直前で誰かと肩がぶつかった。


「あ、すいま……」


振りかえるとそこには黒いフードの人物がいた。


「いや、こちらこそすまない」


その声は低い。フードの影からのぞく顔は眼鏡に隠れてよく見えない。レンズの奥の瞳が冷ややか色を宿しているように思えた。

さっきの人に似ている気がした。


「あ、あの!」


立ち去ろうとしていたフードの人物は立ち止まって振り返った。


「さっき、外で僕を見て何か言いませんでしたか?」


 少女は少し驚いた顔をしたが、すぐに元の冷たい表情に戻った。


「……いいや。きっと人違いだ」

「そうですか。すいませんでした」


軽くお辞儀をすると、フードを深く被り直し歩いて行った。フード被った人なんて大勢いる。ただ肩がぶつかっただけだ。なのに、僕にはあのレンズ越しの瞳が忘れられなかった。



◆◇◆



私は奏多くんに伝えた。きっと奏多くんを悲しませた。

それでいい。その穴を埋めるのは奏多くんを好きになってくれる人の仕事だから。





また夜だ。あの日からずっと夜だ。

もうすぐ明けそうな程、東の空は明るいのに。分厚い雲に隠れて光は消え、僕の世界はまた夜だ。永久に夜明けの一歩手前。


橘花は僕の気持ちを全て知った上で、理解した上で行動した。こんな手の込んだやり方で僕を突き放した。本当は変化なんて求めていなかったのかもしれない。

このぬるま湯のように居心地のいい関係が、他人から馬鹿にされるくらいの緩い幸せが、これからも続いていればそれでよかった。


たしかに、最初に変化を望んだのは僕だったかもしれない。橘花に好意を伝えたのは今の関係を変えたかったからだ。他の大多数の男女のような枠にはまってみたかった。

ごく普通の高校生のように、或いは漫画や映画の中の男女のように。

橘花を縛る名前を渇望していた。橘花が僕を縛ることのできる立場を得たかった。

そんな夢と呼べるのかも定かではない思いを持っていた。


でも、それを橘花に拒まれた。それを恨んだり憎んだりはしない。そんなのはただの逆恨みだ。みっともない。

だけど僕は夢から醒めたんだ。橘花に自分を押し付けることを止めた。それでも想うことを止めたわけじゃない。あの言葉はそれでもなお僕の中で生き続けているから。


 当初は落ち込んだりもしてたいたが、最近になってやっと立ち直りかけていた。

傷は完全に癒えなくとも、物事はそつなくこなせていた。

なのに、なんで今日になって橘花は僕に期待をさせたんだ。このまま橘花と道を分かつことになっても、僕は後悔なんか無かった。

いつか「振られたんだよな」って姉さんや瑠璃に話す笑い話に昇華させるつもりだった。

もう無理だ。一言でも「好きだ」と言われてしまえば、後悔せずにはいられない。

橘花を求める自分を隠せない。


 だから、あの場所から逃げた。行く当てなど無かったけれど、あの場所で、あの空気を吸いながら、あの椅子に座っていることは耐え難いことだった。


 そうして辿り着いた場所はどこかの神社だ。見たことがあるような気もする大きな朱色の門がある。


「……」


 夕方の4時を過ぎた境内は人の姿はまばらだった。だから、門の前の小川の近くに突っ立っていても迷惑にはならない。


「……」


 ポケットの中のスマホが震えている。コンサートが終わったとの連絡だろう。たぶん瑠璃からだ。スマホの画面を見ると、瑠璃からではなく、非通知からだった。


「……」


 悪戯電話だろうかと思ったが、僕の電話番号を知っている人間は限られてくる。誰かが悪意第3者に漏らしたのだろうか。

いや、僕の番号を知っているほど近しい人間の中に、そんなことをしそうな人間は思い当たらない。

だとしたら残された可能性は非通知設定でかけてきているか、公衆電話からかけてきているかのどちらかだ。


「もしもし、どちら様ですか」


 悪戯だったらすぐに切るつもりで応答した。


『出るのが遅いぞ、少年』


 ドクンッと心臓が強く脈を打った。その声を知っているから。


「………なんで」

『久方ぶりだな』


 僕の声を無視して電話の相手は話を続けた。どれだけ頭を回しても状況が理解できない。どうして、どうやって、どうすれば。そんな言葉が空回りしていく。


『少年は何故と思っているんだろう。正しい反応だ』


 チャリンっと小銭が落ちる音がした。公衆電話からかけているらしい。


「どうして……なんですか」

『すまない。質問の意味が分からない』

「どうして今なんですか……」


 もっと早ければ。或いは、もっと遅ければ……。


『理由はない。ただ、君の姿を見たからだ。酷く怖い顔をしていた』


 見た……? 僕の姿を?やっぱりあのフードの人物は……。


「……誘さん」


 切望していた人の名を呟く。できれば返事してほしくはなかった。


『随分と弱くなってしまったようだな』


 それは違うよ。僕は元から強くなんかなかった。


「……はい」


 でも、それを言うのは強がり方を教えてくれた人を裏切ることと同義だと思う。だから肯定する。


『それでいいと私は思う。身の丈に合っていない自分は捨てるべきだ。そうさせてしまったことをずっと後悔していた』


 どこか暗さを宿した誘さんの声は、ノイズ交じりの音声となって僕の耳に届く。


「……」

『……』


 再び、チャリンっと小銭が落ちる音がした。僕は何を言えばいいのか分からずに黙り込んでいる。

だけど、誘さんは僕の言葉を待っているのだと思う。この沈黙の時間は気まずさではない。ただ回答できていない自分のせいで生まれた狭間だ。


 ずっと思っていたことがある。僕はどうしてこんなにも橘花のことが好きなのだろうか。その根源は何なんだろうか。一つ一つ過去を辿ると、やはり10年前のあの夕方にしか行き着かない。

誘さんのあの言葉が僕を呪っているんだ。僕の本心を覆いつくして上書きしていくあの言葉が、僕を磔にする。簡単なことだ。2度も拒まれたのなら、この感情は悪でしかないのだ。

今すぐにでも捨ててしまった方が良い。橘花から逃げればいいじゃないか。

嫌なことや辛い現実から逃げることの何が悪い。何も悪くないじゃないか。


 ちょうど逃げ道はすぐそこにある。自分を騙すのも隠すのも必要なく、真っすぐ走れる逃げ道が。


「誘さん……僕は——」

『それ以上は言ってはいけない』


 僕の何倍も物事を思考している誘さんには、僕の心は筒抜けだった。最後まで言わせてもらえなかったのがその証拠だ。

僕が言おうとした内容は、今の誘さんにとっては迷惑でしかないはずだから。


『この10年の自分を否定するつもりか?』

「そうじゃない。これはただの独白です」


 例え自分を否定することになろうとも、言わずにはいられない。


「僕はあなたに独白します……」


 言葉の意味が間違っているのは分かっている。それでも、これは独白にしなければならない。誘さんに聞かれてはいけない。返事を求めてはいけない。


『………』


 その沈黙は肯定の意思だと思う。だから僕はゆっくりと口を開いた。


「橘花のことが好き。僕はそう思いながら生きて……生きてきました」


 風が吹き目を閉じた。前髪が瞼を撫でていく。


「それを疑うことはありませんでした」


 瑠璃がいなければ。昨日、誘さんと出会わなければ。そう思うこともなかったはずだ。

だけどもう、今の僕にはある一つの想いが芽生えた。いや、ずっと蕾のままでいた物が芽吹いただけなのかもしれない。


「でも、それを否定してくれた親友がいたんですよ」

『……』


 悲しそうな息遣いに、姿も見えないのに俯いているのが分かった。


「橘花のことを思う度に、僕は無意識にもう一人のことも思い出すんです。その人の手の温もり、息遣いや言葉遣い。長くて綺麗な髪や、優しさの満ちた眼鏡越しの瞳。ゆっくりとした歩き方さえも」


 思い出さないようにと、もう一人の自分がしていた。自分とは住む世界が違う人だから。


「僕を少年と呼んだ年上の女性のことを」

『……やめろ』


 もう誰にも僕を止めることはできない。僕ですら僕の言葉を止められない。


「誘さん、僕はあなたに会いたい」


 これは僕の独白だ。誘さんが答えるはずがない。答えてはいけない。


『……馬鹿なことを言うな』


 だと言うのに、誘さんは答えてしまった。


「僕はもう馬鹿になりたいんですよ。大人ぶって生きるのは疲れました」


 遠くから救急車のサイレンの音がした。徐々に近づき、遠のいていく。少し振り返ると、府道103号線を走って行くのが見えた。すぐ後ろの道だ。


『君は賢い。だから私は少年と呼んだんだ』

「気づかなければ、そういられたかもしれません……もしくは、今日じゃなければ」


 全ては歯車の組み合わせの悪さのせいだ。たらればをいくつ重ねたところで、自分の感情も、取り巻く現実も、この関係だって何も変わらない。


「誘さん、僕は………え?」


 その時だ。受話器から聞こえてくる音と世界から聞こえてくる音がリンクしたのは。

あのサイレンの音が、ほぼタイムラグ無しに聞こえてきている。偶然だと片付けるには、あまりにも音が似ていすぎた。

進路を開けるように促す無線の声までも、同じだったから。


「誘さん、今どこに——」


 ガチャンッと雑に受話器が置かれ、電話は切られた。近くにいるんだ。救急車が通って行ったあの道の向こうに。


 意識せずとも、足は大地を蹴って走りだす。

会いたくてしょうがないその人がいるであろうこの道の先へ。長い参道を走り、鳥居をくぐって府道103号を左折。古い景観の美しい街を進んでいく。小さな水路の奥には漆喰の壁が長く立っている。

 この先のどこかに公衆電話があるはずだ。そこに誘さんはいないだろうけど、さらにその先のどこかいるかもしれない。だから全力で走った。


2、3分走ると大きな木と赤い柵が見えた。その下に電話ボックスが見える。近付いて中を見るが、やはり誰もいない。

だが、緑色の本体の上に10円玉と百円玉が合わせて10枚ほど置かれていた。すぐに投入できるように準備していたが、慌てて立ち去るときに回収し忘れたんだろう。とりあえずそれらをポケットに放り込む。

電話ボックスから出たところで、僕を呼ぶ声がした。


「……見つけた、奏多」


 額に汗を滲ませながら、息を切らす青髪の少女。


「……瑠璃」

「メッセージ送ったのに見てないから、慌てて探してた」


 その前に電話をすればよかったのに。大した策も講じずに行動するのは瑠璃らしくない。

不自然さがまとわりついている。気にはなったが、今の僕にはそれよりも優先すべきことがある。


「瑠璃、眼鏡をかけた白髪の女性を見なかったか?」


 誘さんに会う事。それが僕の今するべきこと。


「え? 見てないけど……」

「よく思い出してくれ! 黒いフードを被っていたかもしれない!」


 とにかく情報が欲しくて、瑠璃の肩を掴んで問い詰める。


「ご、ごめん。ほんとに知らないんだ」


 どこか不安げに答える瑠璃。嘘は無さそうに見える。


「あ……わ、悪い。もう帰るなら先に帰っててくれ。ホテルに置いてきた荷物もそのままでいい。何とか今日中に取りに行くから」

「待って!」


 走り去ろうとした瞬間、瑠璃に腕を掴まれた。


「急いでるんだ。また今度にしてくれ」

「だめ、今じゃないと」


 僕の手を握る瑠璃の手が強くなった気がした。


「君はあの人を探しているんだろ?」

「……」

「ボクは君のことが分かる。何でもじゃないけど……今の奏多をこのまま行かせることはできないんだよ」


 こんなにも感情の籠った瑠璃を見るのはいつぶりだろうか。いつも、発する言葉には心が伴っていないような気がしてならないから。


「何が分かるってんだよ……お前は僕のことなんて何にも分かっちゃいない」

「分かるよ! ボクだって分かるんだよッ‼」

「所詮お前と僕はただの他人だ。分かる分からない以前の問題だ」


 好きな人の感情一つさえ僕には分からなかったんだから。

ただの他人に僕の気持ちが分かるわけがない。唯一の逃げ道を追いかける愚かな僕の心のことなど。


「他人なんかじゃない……」

「なんだよ、親友ともでも言うつもりか!」


 そんな薄っぺらで上っ面な関係を僕は望まない。


「そんなんじゃない! 好きな人のことくらい考えなくても分かるって言ってんだよッ‼」

「ぇ……」


 たじろいだ瞬間、視界が歪む。これまで積み上げてきた何かが崩れていく音がした。


「ボクは奏多のことが好きだよ……」


 震える肩から目を逸らした先は車道のアスファルト。


「………」

「ごめんよ、迷惑だよね……」


 握られていた手が熱を帯び、小さく震えている。春の夕方の風はまだ少し冷たい。


「ボクってズルいんだよ、昔から。今の君は橘花ちゃんにまた振られて傷ついてる」


 何も語っていないと言うのに、それが真実だと疑っていない様子の瑠璃。


「だから今ならボクのものにできるんじゃないかって。そう、思ったんだ」


 風に湿り気が出てきた。僕は何も言えぬまま、瑠璃の言葉だけが綴られていく。


「君が逃げるのは、あの人じゃなくたっていいじゃないか。勝算の無い人なんか逃げ場所になってないよ……」


 盲目的に信じていた。あの人に会えば僕はどうとでもなると。

でも、あの人にはあの人の大切なものがあって、あの人の時間が流れている。

僕への干渉はただの気まぐれ。初めから住む世界の違う人間だ。


「なんでボクに逃げてくれないんだよ……ボクは君を拒んだりしない。悲しませたりだってしないのに………」


 涙で掠れた声なのに、僕の耳には鮮明に聞こえた。

澄んだ声が一番届く声とは限らないのだと初めて知った。


「ボクに名前をくれたっていいだろ? ただの他人ではない証が……ほしい」


 それは僕が橘花に求めていたこと。橘花が与えてくれなかったもの。瑠璃はそれを僕に寄越せと言っている。


「……ぼくは、」


 ふいに、アスファルトに黒いシミができた。それは瞬く間にアスファルトの表面を覆いつくしていく。また雨だ。


「瑠璃、こっちだ」


 僕の手を握る瑠璃の手を握り返し、電話ボックスの中に瑠璃を入れた。風邪をひかすわけにはいかない。


「……奏多も」


 2人では手狭な電話ボックスの中に引っ張り込まれた。ドアを閉めると、意図せずして見つめ合う距離だ。


「……誰かに、見られたらどうするんだ」


 横目で外を見ると、勢いよく地面を叩きつける雨で水煙が舞っている。

さっきまで見えていた筈の周囲が見えなくなる。太陽が隠されていき、一気に暗い世界が広がった。


「構わないよ、奏多となら」


 赤く腫れた目尻が痛々しかった。でも、それ以上に嬉しさが込み上げてきたように思う。


「……瑠璃」

「ご、ごめんね。ほんとにボクってズルいんだ。弱ってるところを狙ってるんだから、最低だよね……」


 頬を赤く染めて瑠璃は目を逸らす。

水の滴る青髪が瑠璃の額に張り付き、鼻先にかけて水滴を垂らしていく。このままじゃ風邪を引きそうだ。

 濡れているのは僕も同じで、前髪から落ちた雫が瑠璃の胸元に吸い込まれた。


「こ、このままじゃ2人とも風邪引いちまうな……」


 言ってみたものの、具体的にどうするかは浮かんでこない。


「………うん」


 だいぶ気温が下がってきた。瑠璃が震えているのが目に見えて分かる。

何か羽織らせるものがあればよいのだが、残念ながら自分の上着もびしょ濡れだ。


「ねぇ……もう少し近づいてもいいかな……?」

「そ、そうだな……いいんじゃ、ないか」


 寒いから暖を取ろうとしているだけ。それだけのこと。


「ありがと」


 瑠璃が僕の身体を抱くようにしがみ付く。濡れた衣服同士が押し合って何も暖かくはない。

ジメッとした感触が広がっていく。でも、不思議と嫌な感覚ではなかった。

瑠璃は僕の胸に顔を埋めて、まだ震えている。


 僕の中であの人が遠のいていくのを感じた。代わりに、瑠璃がやけに近くに感じる。あんなに遠く離れていると感じていたのに。

事実として、僕と瑠璃の距離は遠かったはずなんだ。

口では親友と言い合っていたが、自分のことを話していたのは僕だけ。

でも遠く離れていたからこそ、今この瞬間に近く感じているのかもしれない。瑠璃が初めて自分のことを話してくれたから。

ただの他人なんて酷い言葉を浴びせてしまったのに。

強くて気高いと思っていた瑠璃を親身に感じたとき、同時に僕は目が眩みそうなほどの居心地の良さを感じた。


「なぁ、瑠璃」

「……?」


 返事は無かったが、頬を紅く染めたまま瑠璃は僕を見上げた。


「もし、瑠璃が良いのなら。橘花からの逃げ道でも良いのなら」


 今日の苦しみは今日終わりにする。その選択肢を与えてくれたのは他でもない瑠璃だ。


「僕と一緒にいてくれないか?」


 カッコ悪い事この上ない。好きな女に振られて。逃げ道にしようとした人に追い付けず。罵声を浴びせた親友に想いを告げられ。その甘い蜜に飛びついた。選んでもらえなかった僕は、選んでくれた人を利用する。


「…………うん」


 返事は虫の音のように小さいものだった。それでも、僕を抱きしめる腕の強さは確かだった。

 雨は勢いを増していく。

電話ボックスの中は降りしきる雨の音で包まれ、会話もままならない。


「……キ………て」


 瑠璃が呟くが何も聞こえない。

僕の問い直しも瑠璃には届かない。

悲しそうな顔をしたかと思えば、少し笑って背伸びをした。僕が何事か分からずに戸惑っていると、瑠璃はそのまま僕の唇を奪った。

状況が分からないまま、僕の唇には柔らかくて暖かい感触が広がっている。


 5秒くらい経っただろうか。もっと長かったようにも感じる。


「……へ?」


 瑠璃は心の底から笑うと目が細くなるみたいだ。いつも笑い方よりも美しい。


「大好きだよ、奏多くん」


 瑠璃は僕の耳元で、雨音に惑わされない声で言った。

どこかの誰かとそっくりな口調で。

 チクッと胸が痛むのを感じたが、その痛みは重ねられた瑠璃の唇の感触が奪い去って行った。


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