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Summer Evidence  作者: 米八矢


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第1章 過ぎ去った日のノスタルジア


「ふぁぁ…ぁぁ」


昼休みの校舎の屋上で欠伸をしながら寝ころんだ。春の日の空には飛行機雲が3つ浮かんでいる。風が運んだしょっぱい磯の香りが鼻腔を擽りながら、山へと吹き抜ける。

ここは京都府舞鶴市。かつては海軍鎮守府として栄えた港街。

だがそれも過去の話。今となっては過疎化が進み、寂れた田舎になってしまった。観光客と言えば、海上自衛隊のファンか物好きだけ。いや、まだ明確な観光客がいるだけマシだろう。

既に飲み切っているパックの苺ミルクのストローを咥えた。当然、中身は出てこない。それでも砂糖の甘ったるい香りが欲しかったのだ。

頭の後ろで手を組み、枕にして目を閉じた。


「3、2、1」


カウントダウンが零になると同時に、遠くから微かに汽笛が伝播する。毎週金曜日の12時15分。この屋上の片隅で静かに目を閉じて寝ころんだ時にだけ聞こえる音。入学してから1年と1か月ちょっと、誰とも話さず昼食を摂っていた僕だけが知っている音。もっとも、知っていた所で自慢などできやはしないのだが……。

汽笛を最後まで聞き終える前に金属がすれる音がし、屋上の扉が開いた。中から出てきたのは僕もよく知る女子生徒。


「また君か、梓」

「悪かったわね、また私で」

「全くだ」


梓弥生というこの女子生徒は1年生の時から同じクラスで、入学したての頃に隣の席だった。

それだけなら、普通の同級生ということで納得も出来た。

だが、この女には僕にとって特異点だった。


「なぜ僕の横に座る」

「あのね、1メートル以上離れてたら横とは言わない。気持ち悪いから2度と言わないで」


 梓は眉間にしわを寄せ、声を低くして言った。不機嫌が声に出やすいのが梓の特徴だ。


「訂正。なんで僕の1メートル横に座る」


 どっか行けと言葉に込めるが、残念ながら梓には効かない。今までの経験がそう告げている。


「ここにしか腰を下ろす段差はないから」


 梓は小さな保冷バックを膝に乗せ、水筒でお茶を飲んでいる。


「そうか。君の目の前にあるコンクリートは段差ではないんだな」


 僕が指差したのは、緑色のフェンスの根元部分。腰をかけるのに丁度いいくらいの高さに見える。座ったことはない。なぜなら、そこは必ず日が当たる場所だから。


「段差である事には間違いないけど、日が当たるから即却下。冴羽が行けばいいじゃん」


 梓はボブヘアーでそれほど長くない後ろ髪を、ヘアゴムで結んだ。薄紫色の髪は、赤いヘアバンドが良く目立つ。いつもこうしているので、食事中に邪魔にならないようにしているのだろう。


「なんでだよ。僕が日焼けするだろう」

「男なんだから日焼けしたっていいじゃない。大体ね、冴羽は白すぎるのよ」


 僕は自分が色白だという自覚があるが、梓は僕以上に白い。不健康なほどに。


「そういう君は雪女の様に白いな。生きてるのか」


 梓が雪女なら、巳之吉の母はお雪のことを気に入りはしないだろうな。礼儀がなっていないから。


「さぁ? 生きてるかどうかなんて自分では分からないわ」


 洋画でよく見る、やれやれというジェスチャーをしながら梓は答えた。


「哲学的だな」


 中学生の頃はそんなことを考えた日もあったな、と思い出した。


「そうかしら。高校生ならこのぐらい考えるんじゃない?」


 僕はもう考えていない。だが、思春期真っ只中である17歳の女の子なら、それくらい考えても仕方ないのかなと思う。この間たまたま姉さんに借りたラノベに丁度いい言葉が載っていた。たぶん梓には伝わらないだろう。


「どうやら君は高二病らしい」

「なにそれ」


 やっぱり梓には伝わらなかった。あのラノベと同じ様に説明をしてやる。


「その名の通り、高校2年生の時に発症しやすい病気だ」


この会話の中でも弁当を広げる手を止めていなかった梓は、手を合わせて小さく「頂きます」と言ってから食事を始めている。対人以外の礼儀が正しいのも梓の特徴だ。

食事を始めても僕との話を止めるわけではないらしく、質問を投げかけてきた。


「中二病の派生形?」

「御名答」


 流石に中2病は知っているらしい。梓も通った道だったりするのだろうか。たぶん通っているだろうな。性格の捻くれ具合が拗らせた証拠だ。


「あー確かに。瑠璃に中2病っぽいって言われた事あるかも…‥」

「南川、か……」


 春休みの記憶が蘇る。すると、なんとも居心地が悪くて仕方がなかった。思わず空を見上げて逃げたくなる僕もまた、中二病なのかもしれない。


「どうしたの?」


 黙り込む僕を不思議に思ったのだろう。梓は箸を止めて言った。思い出したくない思い出は封印し、誤魔化す様に答える。


「いや、南川は聡明だなって思っただけだ」


 梓の親友、南川瑠璃は才色兼備な少女だ。勉学に関してだけではなく、人間として。


「学年2位だからね。頭がいいのって羨ましい」


 ミニトマトを器用に箸でつまみ、口に運ぶ。僕ならたぶんトマトがころりんして、ネズミの餌になっているだろう。


「それは君が勉強してないだけではないのか」


 梓の成績とかは知らないが。話している感じでは、馬鹿ではない思う。少なくとも国語はできるんじゃないだろうか。


「あのね、天才って言葉の意味を知ってる?」


 今度はえんどう豆を箸でつまんで口まで運んでいる。箸使いが立派過ぎて、ツッコみたくなる。ある意味、天才の技だ。

だがしかし。今はその話の流れではない。読めるときは空気を読むのも大事なこと。


「どうせ、努力が出来る凡人とでも言うんだろう」


 数多の小説やドラマで言われる文句だ。


「そういうこと。私は努力が出来ない凡人なの」


 次はうずらの玉子を箸でつかもうとしている。


「ない胸を張りながらいう事じゃないな」


言い終わった後に失言だったと気づいた。これはただのセクハラだ。

お巡りさん案件だ。未成年でも容赦がないのが昨今だ。


「そりゃ、あんなスタイルのいい後輩ちゃんを見てれば私なんてまな板同然でしょうけどね。私じゃなかったたらセクハラよ」


 梓は、これまた器用にうずらの玉子をつまんで持ち上げた。僻んだ口調だが、態度だけ見れば言うほど堪えてなさそうに思う。


「……君にはいいのか」


 警察沙汰は避けられた、と考えて良いだろう。


「胸に関してはもう諦めたからね。お母さんもミニマムだし仕方ないよ」


 はむっとうずらの卵にかぶりついた。いや、一口で食べ終えているのだから、かぶりつくと言う表現は最適ではないかもしれない。


「遺伝でサイズが決まってしまうのか?」


 橘花のお母さんは胸が大きかっただろうか?思い出すが、いまいちピンとこない。そういう目で見たことがないから。昔からの馴染みのお母さんを、そういう目で見ることのできる人間がいるのなら、それは才能だ。誇ってもいい。いや、悔いた方がいい。懺悔しろ。


「まぁそうでしょう。遺伝子にない物は形成されないのが人間だから」


 梓が次に口にするのは、スイートコーンのようだ。どうして箸でつかみにくい物ばかり詰め込んでいるのだろうか。マナービーンズの大会にでも出場するのだろうか?


「ご愁傷さまとでも言っとけばいいか?」


 とりあえず、梓のご機嫌を窺っておく。女性の扱いは難しい。その胸の内に秘めた所存は、シャーロックホームズでさえ完璧に推理することは難しいと言っている。


「そうね。付け足して飲み物でもあれば百点かも」


言い切った梓は僕の方を全く見ず、黙々と食事を続けた。その態度が意味することは一つだ。ここまであからさまな態度をされると、名探偵ではない僕でも確信を持てる。

だが、どう切り出すべきか……。少し考えて、深呼吸してから口を開いた。


「僕は飲み物を買いに行くけど、梓はなにかいるか?」


 すると梓は、「及第点ね」と呟いて何かを考える仕草をとった。


「じゃあついでに紅茶をお願い。甘いやつね」


 いつも梓が飲んでいる甘いやつなら何か分かるから、迷うことはなさそうだ。及第点、と言われたのは少し癪に障る。何事もどうせら百点を取りたい。


「分かった」


僕は屋上の扉を開け、階段を下った。正面玄関を出てすぐの所に、珈琲や紅茶などの食後に飲む系ドリンクの自動販売機がある。正面玄関には昼食を摂り終えた生徒たちが、グラウンドで運動に勤しむべく、競い合って靴を履いて走って行った。


そんな生徒たちとは逆方向を上靴のまま進む。

外廊下を通ると自販機が見える。

まずは梓から要求された甘い紅茶を購入。

見慣れない新商品が並んでいたが、いつものミルクティーの方がいいのだろう。

しかし、いつも飲んでいる銘柄は売り切れている。

他のミルクティーを探すが、某有名珈琲店とのコラボ商品しか置いていない。


「しゃーないか」


少し高いが快晴の空に免じて、それにしてやった。

快晴の日は気分が良いので、多少は寛大になれる。

毎日が快晴ならば世界は平和になる、と子どもの頃は本気で思っていた。世界はそんなに簡単じゃないと気付けたのだから、義務教育も無駄ではない。


次は自分の飲み物だが……いつも買う練乳珈琲の隣に気になる飲み物が並んでいた。

その名も『めんたいいちごみるく』。


「こんなの誰が飲むんだよ………そもそも辛いのか甘いのか分からんぞ」


未知の味に飲んでもいないのに胸やけがしてきた。


「うぅ……」


呻きながらその横の練乳珈琲を購入。やはり甘味はシンプルに限る。

飲料を手に取り、屋上に戻ろうとしたとき、いずこからピアノの音が聞こえてきた。

聞き覚えのあるリズムだ。


「……春」


この音色は誰もが一度は聞いたことのあるクラシック音楽だ。ヴィヴァルディの『四季』、その中の『春』という曲。本来はヴァイオリンがメインの曲だが、ピアノで弾くのも悪くはない。


ただ不思議なのはずっと同じリズムが繰り返されているということ。

冒頭の一番耳に残る旋律だけを繰り返している。

とは言え、この春の快晴の日に聞くには丁度いい。


「時間ならあるよな」


腕時計をチラ見して自分に呟く。音楽室は屋上への帰り道なので覗いてみることにした。

2階まで上ると音楽室は目と鼻の先。

すぐに到着した目的地の閉まった扉の前には、小さな先客がいた。扉のガラスから中を覗いているようだ。


「何をしている橘花」


 先客の橘色の髪には見覚えがあった。

というより、よく知っている。僕の幼馴染で後輩である宇垣橘花だ。

梓が胸で幻滅する要因を作った張本人。自覚はないんだろうけど。


「あ、先輩。音楽室から不自然な春が聞こえてきたので、先輩が弾いているのかと思って……違ったようですね」


 未だに橘花の敬語には慣れない。

今まで通りにタメ口で話してほしいものだが、高校生になったのだから、その辺りはちゃんとしたいらしい。真面目な性格は美点であろう。


「僕はもうピアノは弾かない」


 ピアノなんてただの暇つぶしでやっていただけ。だから未練なんて微塵も、ない。


「そうですか……勿体ないです。折角上手なのに」


 橘花の残念そうな顔を見ると、少し申し訳ない気もしてくるけど。

それくらいで僕の気は変わらない。


「僕なんかちょっと弾ける程度だよ。橘花の方が上手に弾けてるさ」


 昔は先生みたいなことをしていたが、今じゃもう追い抜かれて置いてけぼりだ。

嬉しくもあり、寂しくもある。


「いえ、また教えて下さいね」


 橘花は微笑みながら言った。その笑顔に嫌味はない。

本当に教えてくれと言っているんだろう。

だけどもう僕に教えてあげられることは何もない。

楽譜の再現度も、指先の動きも、演奏中の呼吸の仕方も。今の橘花は僕を超えている。


「観客なら喜んでやるよ」


 だから、できることはこれくらいだろう。


「はい! また連絡しますね」


 橘花は素直で裏が無い。たぶん本当に連絡が来るだろう。

それはそれで楽しみにしておこう。


「それでどうする? 覗くか?」


 橘花がここにいるという事は、ピアノの主が気になっているのは間違いない。


「ノックしてからなら……」


 恐る恐る言う橘花の肩をポンポンと叩いて、僕はこう言った。


「よし、じゃあ任せた。僕は届けなきゃならんものがあるから、またな」

「え、ちょっと先輩⁉ えー‼ もうっ!」


音楽室の前で地団駄を踏む橘花を尻目に、屋上へと急いだ。

奏者の正体は気になるが、あんまり遅いと梓に文句を言われそうなので、こちらを優先。


階段を駆け足で上っていると、踊り場で女子生徒とぶつかりかけた。


「おっと。悪い、委員長」

「階段は走るな、冴羽」


いかにも真面目そうな黒髪おさげの委員長は、クイッと眼鏡を持ち上げて去って行った。

怒られたからには守るしかなく、先ほどよりもゆっくりと階段を上って屋上を目指した。


「お待たせ」


 屋上の扉を開けた先には、弁当を仕舞う最中の梓の姿があった。

もうちょっとおかずのラインナップが知りたかったな。

 もともと座っていた場所に腰を下ろし、隣の梓にミルクティーを差し出す。


「ん、 ありがと。いくらだった?」


 意外にしっかりとしている梓は、財布を出しながら言った。

シンプルなクリーム色の折財布だ。


「え、いや別にいい。奢りだ」

「あら珍しい。どうしたの?」


 キョトンと首を傾げる梓。

橘花がやったら可愛いらしい仕草なのに、梓がやると不快感を覚えるのは何故だろうか。


「天気がいいからな」

「……?」


 梓は顔をしかめてしまった。

全く梓には伝わらなかったが、男には天気が良いだけで気分が高揚する日があるのだ。それは理屈なんかで説明はできやしない。


「気にしなくていい」


 ずっと顔をしかめられているのも困るので、話を終わらす。


「そう? じゃあ頂きます」


梓は律義に礼を言い、ミルクティーを飲み始めた。それを見届けた後に僕も珈琲を口にする。


「そういえばさ、さっきまで変なピアノが流れてたね」


 屋上までピアノの音は聞こえていたらしい。自販機からの通り道だったとはいえ、それなりに距離はある。梓の耳がいいのか、音の通りがいいのかどっちだろう。


「同じところばっかりループしてたやつか?」


 念のため、同じピアノを聞いたか確認する。この学校にはピアノは一つしかない。

体育館のピアノは修理中だからだ。けれどもしかすると、アコーディオンを弾いていた変り者がいたかもしれない。


「そうそう。聞いたことあるんだけど、曲名が出てこないんだよ」


 ならば、同じ音を聞いている。アコーディオン奏者の変わり者はいなかったようだ。


「春だよ」


 梓も耳に覚えがあるであろう曲名を答えた。


「そうだね、春だね」


 梓はたまに天然を発動する。普通、この流れで季節に触れたりしないだろう。ちょっと考えれば分かるはず。


「いや、そうじゃなくて。曲名が『春』っていうんだ」

「そうなんだ」


 気になっていた割には、あっさりとした返事だった。女子と言うのは実に難しい。梓は特に。


「まぁ別に知らなくてもいいだろ」


 話を淡泊にフェードさせるために、そう言ってみた。


「流石は冴羽。元ピアニストなだけあるじゃん」


 が、梓は話を止めなかった。それどころか、触れられたくない場所を素手で触ってきた。


「冷やかしはやめろ」


 いつもより声を低めにして言ったのだが、天然を発動中の梓に意図が通じることはなかった。


「えー。上手だったじゃん。中学の時のピアノ伴奏、凄かったよ?」


 お世辞か本心か微妙に分かりづらい言い方をされた。


「そりゃどうも」


 なるべく感情を宿さないように、無色透明であるように吐き捨てた。

これまた無敵の天然モードの梓には効かない攻撃だ。


「照れてる?」

「まさか」


 今の梓に察しを求めるのは無意味なので、大人しく諦めた。


そのころ、ピアノの音色は先ほどの物よりも綺麗になっていた。

ループもしていない。橘花が弾いているのだろう。


 そのピアノの音色は予鈴が鳴る5分前まで鳴り止まなかった。



「あ、先輩。ちょっといいですか?」


梓と屋上で会話をした日の放課後。帰宅しようとしていると、同じく帰宅する直前であろう橘花に引き留められた。

僕は既に下駄箱から靴を取りだし、上履きと履き替えている最中だった。


「いいけど。108時半に予定があるからそれまでだぞ」


 特に予定はなかったのだけど、読みたい本があったからこう答えた。


「2時間はありますね。今から私に付き合ってほしいんです」


 橘花は笑顔で言った。なんとも怪しく、裏がありそうな笑顔だ。


「買い出し?」


 だから僕は怪訝そうに答えた。


「まぁ、ちょっと町の方へですね」


 濁された。目的は買い物じゃないんだろう。基本的に僕が橘花の頼みや願いを断ったことはない。

まぁそれはいいのだ。男には惚れた弱みという厄介な代物が存在するから。


「なるほど。僕は荷物持ちか」


 僕は知らないフリして答えてみせた。

今までもわりと荷物持ちをさせられてきたから、ごく自然な返事になっているだろう。


「そ、そんなこと言ってないですよ……」


 橘花はバツが悪そうにしている。もちろん、本当にそういう目的があったんじゃないことは察しているので、橘花の反応は予想通り。


「いいよ。非力な僕でよければ付き合う」


 問い詰めても本当の目的を喋ったりしないのは知っているので、無理やりにでも流れのままに話を通す。すると橘花は、「まぁ、いっか」というような納得のアクションを起こし、こう言った。


「ありがとうございます! 時間が迫っているので早く行きましょう!」


 時間が迫ってる?誰かと約束でもあるのだろうか。それとも、電車かバスか?

他に思いつくのは……散髪とか?いや、だったら僕が一緒に行く必要はないだろ。

正解は今のところ不明だが、何かを予約しているのは間違いなさそうだ。


「僕が了承するかどうか分からないのに、予約したのか……」


 その呟きを橘花に聞かせる気はなかったが、耳の良い橘花には聞こえてしまったようだ。


「先輩なら忙しくても何とか時間を作ってくれる人ですよ。少なくとも私には、ね」


 いつにも増してセンチメンタルな顔をして言った。その心に何を思っているのか、その頭で何を考えているのか。僕には計り知れないことだが、気になって仕方がなかった。


「……一本取られた」


 感情が表情に現れない様に、僕は強がりのセリフを吐き捨てた。一歩前を歩く橘花に聞こえるように。唯一の後輩のためだ。仕方がない。これは強がりではなく、本心だ。

校舎を出ると、10六時過ぎの夕日が眩しい。もう少し歩くと、校門前の大きな栴檀の木の下に髪の長い女子生徒が立っているのが見えた。

 金曜日の放課後である今日は、すぐに帰宅しようとする生徒の数は僅かだ。みんな、今からの予定や、明日明後日の話題で盛り上がっている。そんな中、校門から出もせずにじっと校庭のサッカー部を眺めている女子生徒は、ひどく浮いて見えた。

そんな彼女を通り過ぎ、校外へ出る。橘花は目の前の富士通を左折し、与保呂川方面へ歩いて行く。こっちに来たということは、赤れんがパークにでも行くのだろうか。

橘花は町と言ったが、その言葉は信用しない方がいいだろう。おそらく咄嗟にでた嘘だから。

 だからあえて追及しない。


「そういやさ。昼休みの謎のピアノの奏者は分かったのか?」


 昼休みのピアノとは、リピートされていたアレだ。


「はい。瑠璃先輩でした」

「南川? あいつはギターじゃないのか?」


 梓の親友、南川瑠璃は橘花と同じ軽音楽部部員で、ギタリストだ。


「紛らわしいですよね。一瞬でも期待した私に謝ってほしいですよ」

「期待した?」

「まだ会ったことのないピアニストに会えたと思ったんですよ、ほんとに」


それを聞いてピンときた。橘花のピアノ好きは本物だから、色んなピアニストと出会って、語り合いたいと思っているのだ。


「あぁ、なるほど。一緒に演奏とかしたかったわけだ」


「そうです。一応私、軽音楽部なんで」


 いつも思うのだが、ピアノは軽音楽なのか? かなり重量のある楽器だから、あえて当てはめるなら重音楽だと思う。ちなみに、軽音楽の定義は楽器の軽さで言うのではなく、クラシック音楽以外のポピュラー音楽を表すジャンル区分のことである。


「リクルートに失敗しちまったな」


 軽音楽部は万年部員不足らしく、廃部の危機とかなんだとか。どうも吹奏楽部に部員をかっさわられているらしい。それはたぶんとあるアニメのせいだろう。今はバンドアニメよりも吹奏楽部アニメの方が熱いらしい。姉さんが言っていた。


「やめてくださいよ、その言い方。そこまで部員に飢えてませんから」


 唇を尖らせる橘花だが、軽音部員の南川の情報では部員勧誘に奔走しているそうだ。


「じゃあ僕への勧誘をやめてくれよな」


 それでその筆頭が僕らしい。もともと軽音部員ではなかったので、可哀そうだが断り続けている。名前だけ貸してあげたいのも山々だが、こういうのは中途半端が一番よろしくない。自分の精神衛生上でも。


「やですよ。一番の有力候補で即戦力なんですから!」


 左手をグッと握り込んで橘花が言う。入部して間もない割には、もう軽音部に思い入れができているようだ。


「前にも言ったろ。僕はもうピアノは弾かないんだ」


 何度目か忘れたセリフを吐き出す。


「……そんな悔しそうな顔で言われても説得力、ありませんよ?」

「僕はそんなにも情けない顔をしていたか」


 橘花がどう思っているのか分からないが、表情を真顔に保とうとしてみた。


「うふふ、今もしてますよ」


僕は一瞬顔をしかめて、反論しようとする。けど、橘花の笑う顔を見たらどうでもよくなった。それよりも今の向かっている場所を知る方が優先度で言えば高い。


「話を戻すが、橘花。これからどこに行くんだ?」


 何かを予約しているのは間違いないし、それを拒否するつもりもない。ただ、心の準備とかはしておきたいわけだ。


「奏多くんも昔からよく知ってる場所だよ」


ご機嫌になったのか、いつもの呼び方に戻っている。やっぱりこっちの方が自然でいい。


「昔からっていつからだよ。子どもの頃から知ってて、今も残ってる場所なんて限られてるぞ」

「そんなことないよ。田舎なんて変わるものも変わらない。だからこの街は暖かいんだよ」


 優しさを宿した瞳で何を見ているのだろうか。


「……そうかもな」


否定しようと思えばいくらではできた。そうしなかったのは、橘花の見ている街が変わっていないのならそれでいい、そう思ったからだ。

 この街はかなり変わってしまったと僕は思っている。小学生の頃、商店街はもっと栄えていた。大きなスーパーなんかなかった。肉は肉屋さんで、野菜は8百屋さんで、魚は魚屋さんで買うのが当たり前。橘花と通った駄菓子屋も、家出した日に食べたコロッケも、立ち読みしていた古本屋も、初めて楽譜を買った楽器屋も、みんな無くなってしまった。

 だけど橘花はこうして僕の隣にいて、今も僕と同じ時を過ごしている。思えば、それは奇跡なんじゃないかと思う。夢なんじゃないかと疑いたくなる。

 目を擦って橘花を見る。夢じゃない。これは現実だ。これが今だ。この瞬間は永遠じゃない。一時間、一分、一秒。確かに進んでいく。今日まで何度も橘花と並んで歩いた。

だからこれも忘れる。そして消えた数多の記憶の中に埋もれてしまう。


「ついたよ、奏多くん」


 3条通を左折して少しの場所。目的地はそこにあった。


「……あぁ、そうだった。ここは変わらないんだった」


 白いコンクリートの建物は昭和の匂いが漂っている。この『舞鶴女千代館』は舞鶴唯一の映画館だ。創業は一九38年だから、もうすぐ九10周年になる。大きな黄金の竜のオブジェが懐かしい。何度も通った映画館だ。


「小学生のときだよね。ここに初めて来たの」

「そう、だな……」


 人生で初めて見た映画は、過去に行ったり未来に行ったりするあの映画だ。古い映画だったが、少年時代の冒険心をくすぐられたのを覚えている。


「面白かったんだよね、リバーストゥザフューチャー」

「そうだな。面白かった」


 夢中になってスクリーンを食い入るように見ていた。


「でも最初の方、ちょっと寝てたよね、ふふふ」


 そうだったのかな。あんまり覚えてない。


「確かパート2も見に来たんだ」


 当時、リバイバル上映は2週間ごとに入れ替えられていた。だから、その2週間後にまた2人で来たのだ。タイムマシンが空を飛ぶ姿がかっこよかったのを覚えている。更にその2週間後。パート3が上映された。


「あの日、パート2を見終わったとき。約束したのを覚えてる?」

「……うん」


 その約束が果たされていないことを僕は知っている。


「パート3も一緒に見に来よう、そう約束したんだよね」


 懐かしそうに話す橘花は、劇場の看板を見上げた。あの頃よりも赤い文字の色は褪せているし、竜のオブジェもくすんだ様に見える。けれど、あの日の記憶は色褪せないまま透き通っている。


「ごめんね、約束したのに」

「そんなこと気にすることはない。レンタルでもサブスクでも見れるんだから」


 だけど、僕はパート3の内容を知らない。見る方法も見る機会もたくさんあった。パート2までは何度も見ているのに。


「見てないくせに」


 クスッと橘花は微笑む。気にするなって言う方が無理だろう。だからせめて悔いのない様にしてあげたいと思う。


「奏多くん。約束、守ろうとしてくれてありがとう」


 橘花の瞳の中に僕が映る。僕の瞳の中に橘花が映る。


「これはほんのお礼だよ」


 橘花が差し出したのは映画の前売り券。発行日は10年前の今日から2週間前。ちょうど、パート2がリバイバルされた日。タイトルは『リバーストゥザフーチャーPART3』だ。見慣れた車から身を乗り出した主人公と博士、そして知らない女性が描かれている。

 映画を見終わってすぐ、受付で買ったのを思い出した。どこに行ったのか分からなくなっていたけど、2枚分しっかりと橘花が持っていたとは。


「橘花……」


 僕は自分の感情が分からなくなって、目の前が眩んだ。だけど、嬉しさが込み上げてきて、柄でもなく泣きそうになる。


「ふふっ。早く行こっ!」


 僕は手を引かれながら走った。ガラスの扉を開けると、受付で見慣れたおじさんが笑顔で出迎える。懐かしい光景だ。いつもこうやって迎えてくれていた。


「いらっしゃい、橘花ちゃん」

「こんにちは、館長さん」


 先ほどの前売り券を橘花が渡したのを見て、僕も慌てて渡した。


「それから、ありがとうございます。無理言って上映してもらって」


 おじさんはこの映画館の館長で、橘花も僕も面識がある。話から察するに、パート3のリバイバルは橘花が頼み込んだものらしい。


「奏多君も久しぶりじゃな」

「元気そうだね、おっちゃん」


 ここに来るのは中学2年生以来だ。その時から館長はおっちゃんだった。受験で一時期来るのを止めてから足が遠のいたが、館長が覚えていてくれたのは嬉しい。


「ほれ、ぼーっとしとらんで早く行った行った。もうすぐ始まるぞ」


 館長が急かすように手を叩く。


「行ってきます、館長さん」


 橘花が僕の手を引いて一番スクリーンに入ろうとしたとき、後ろから呼び止められた。


「お2人さん、これサービス」


 そう言ってポップコーンとペットボトルのコーラを2本差し出してくれたのは、館長の奥さんのすみさんだ。


「おばちゃん……元気になったんだね」


 最後にここに来た時は、身体を悪くして映画館から遠のいていた。


「もうピンピンしてるわ。心配かけたわね」


 首を横に振る。それから、ありがたく差し入れを頂戴する。


「すみさん、行ってきます」


 橘花はすみさんに手を振って、1番スクリーンに入る。僕と橘花が入ると、重そうな扉が閉められた。薄暗い館内は、僕と橘花の2人しかいない。


「貸切、なのか?」


 小さな首謀者に聞いてみる。


「そ、そうみたい、だね……」


 暗いせいで橘花の表情がよく見えない。それに、少し俯いてしまったので前髪で目元が隠れてしまっている。でも、耳が赤いのは隠せていない。僕と同じだ、などと都合の良い解釈をしてしまうのは愚かだろうか。

 僕らは一番真ん中の席に座った。スクリーンが一番綺麗に見える場所だ。子どもの頃もこの辺りに座っていたはず。


「ねぇ、奏多くん」


 照明が落ちる。橘花の気配が近づいた。そして、その息遣いが耳に届く。


「寝ちゃだめだよ?」


 本来なら上映が始まれば沈黙がマナーだが、今は貸切だ。


「橘花こそ、寝るじゃないぞ」


 僕は橘花に約束を破らせたくなかった。だから、今日という日がある。この瞬間、橘花と2人でパート3を見ることができている。この10年間の自分を褒めてやらねばならない。

よくやったぞ僕、と。

 近々公開予定の映画の予告は流れず、すぐにあの特徴的な制作会社のオープニングが流れた。これを見ると映画が始まるという感じがしてくる。

 そして、10年の時が拒んできた約束の終わりが始まった。


◆◇◆


 あの日のことを僕はよく覚えている。

10年前の春の夕方、僕は橘花と2人で学校から自宅に帰っていた。まだ小学校一年生だった橘花の身を案じて、両親の提案で毎日一緒に帰るのが日常。

小学生にとっては、そんな小さな毎日が世界の全てだった。


だから、僕の世界の中身は限られていて、橘花が占める割合も大きかった。であるからして。もしもその一部でも失われるとしたら、僕にとっては世界を失うのと同義だった。当時はそんなこと思いもしない。ただ悲しみと恐れと驚きが僕の心を埋め尽くしていた。

橘花が倒れた時、僕はふざけるなよとあしらった。それが体の異変が起こしたものとは露にも思わずに。事の重大さに気付かなかった悪ガキは、取るべき行動を取らず、為すべきことを為せなかった。

いつもの通学路。橘花とふざけ合った道。日常を具現化したような場所。

だから、悪いようには考えられなかった。いや、そういう考え方を知らなかったんだ。


5分経っても橘花は倒れたまま起き上がらない。

呼吸も途切れ途切れだ。そうして事態の異常さに気付く。


「橘花?」


 呼びかけても返事はない。橘花の頬に触れた。生きているはずなのに、それを疑いたくなるほどに冷たく感じた。


「おい、橘花……」


 僕が抱き上げようとしたとき、誰かの叫びが僕を制止した。


「動かさないで!」


 大人びた女性の声だ。僕は橘花から手を離して振り返る。紺色のブレザーを着た女子高生だ。その長くてツヤのある白髪と、知的に見えた赤い眼鏡を僕は忘れないだろう。そんな彼女の姿は小学生の僕にとって、大人以外の何物でもないかった。

だから、助かったと思った。大人は何でもできると思っていたから。


「……ぁ、あの」


 僕は「助けて」と言おうとした。難しい言葉じゃない。いつもならすんなりと言える言葉だ。


「……」


 倒れこんで動かない橘花に駆け寄るその人には、言えなかった。


「呼吸はしてるけど、意識がない。体温も低い……」


 女子高生は橘花に触れて呟いた。そして、ブレザーを脱いで橘花にかける。


「君、この子の歳は?」


 ガラケーを取り出しながら僕にそう言った。レンズの奥の目は焦りに満ちている。


「ろ、6歳……」


 それを聞くとすぐにどこかに電話をし始めた。たぶん救急車だ。


「なごみ商店前の九条通りで六歳の女の子が倒れてます。はい」


 冷静に、淡々と状況を伝えた。


「呼吸はありますが、意識がありません。出血は無し。ですが、体温が低いです」


 電話が終わると、僕に近づいてこう言った。


「心配しなくてもいい。ここは病院とも近いからすぐに救急車が来る」


 僕は頭を撫でられた。


「なんで、動かないの」

「……誰だって体調を崩すことはある」


 そう言っても、倒れるような状態はただの体調不良ではない。それくらいは小学生でも分かる。ふいに頭に過った。橘花が死ぬかもしれないということが。


「……死んじゃうの?」


 涙は勝手に流れた。遠くにサイレンの音が聞こえる。


「諦めるな、少年」


 彼女は僕の涙をハンカチで拭いてくれた。


「人はいくつもの恐怖を克服してきた。これからもそうだ。今は無理だとしても、いつかはきっと、どんな病も恐れるに足らなくなる日が来る」


 彼女は曲がり角へと走って行った。サイレンの音の方だ。残された僕が立ち尽くしていると、救急車を引き連れて彼女が戻ってきた。


そこからはあまり覚えていない。ストレッチャーに乗せられた橘花が救急車に収容されるのを見た。彼女は救急車に同行せず、自分の連絡先を渡して救急車を急がせた。一瞬のできごとだ。彼女も救急隊員も怖い顔をして話していた。それは余計に僕を恐怖させた。大人が難しい顔をしているのを見たことが無かったからだ。

涙が止まらなかった。もう橘花に会えないんだと察してしまったから。


「少年」


 サイレンが遠のいていく。橘花が乗っているのに。どんどん僕から離れていく。


「少年、行こう」


 彼女は僕の手を取って歩き出す。


「ここに居てもダメだ」


 無理やり引っ張られた。拒んでも力では敵わない。


「僕は……橘花のところに」


 心配で心配で気が気じゃない。


「行ったところで何もできない。それでも、少年は行きたいか?」


 なんだっていい。何にもできなくたって構わない。


「それでも、僕は……橘花のそばに」


 はぁ、とため息が聞こえた。


「少年はあの子のことが好きか?」

「……」


 僕は黙って頷いた。


「そうか」


 彼女は僕の手を優しく引いた。今度は拒まずに横に並んで行く。


「彼女のことが好きならば、私の言う3つのことを守れ」


 彼女は僕の目を見て言った。


「一つ、常に彼女を優先しろ。2つ、約束は違えるな。3つ、さよならを拒むな」


 少し難しい言い回しだったが、言葉自体は理解できた。でも内容の理解が追い付かない。


「……?」

「今は完全に理解できなくてもいい。けど、忘れてはいけない」


 彼女は学生鞄から取り出したメモ帳にさらさらと書きなぐり、ページを破って僕に持たせた。


「一つ、常に彼女を優先しろ。2つ、約束は違えるな。3つ、さよならを拒むな」


 難しい漢字もあったが、さっきの彼女の声が頭に残っていた。


「それから。私のことは忘れることだ」

「どうして?」

「私を思い出す度に、今日という日を思い出す。それは少年の心を擦り減らすだけだ」


 やっぱり高校生は大人だと思った。大人の話している事はよく分からない。


「……」

「……」


 僕も彼女も黙り込んでいた。病院までの道のりは長くない。小学生に合わせた速度でも105分もあれば到着できる。


「あの……」

「うん?」


 どうしても僕には聞いておかなければならないことがあった。


「名前、なんていうの」

「……秘密だ」

「どうして?」

「名乗ってしまうと少年は私という存在を強く記憶してしまう」


 彼女なりの気遣いだったと今なら分かる。


「……でも——」

「少年、着いたぞ」


 結局、彼女の名を聞く前に病院に着いてしまった。自動ドアを通り抜けると一気に消毒液の匂いが鼻につく。


「私は向こうで聞いてくるから、ここで待ってて」


 彼女はガラケーをポケットに取り出しながら、ナースステーションに歩いて行った。一人ロビーで取り残される。椅子に座ろうと辺りを見渡すと、彼女が立っていた場所に2つ折りのパスケースが落ちていた。拾って中を見ると、彼女の写真が貼ってあった。どうやら学生証のようだ。東舞鶴高校の生徒らしい。名前は『日向誘』と書いている。


「ひなた……さそい?」


 かろうじて読める漢字ではあったが、とても女性の名前とは思えない。正しい名前は何だろうかと頭を捻っていると、彼女が戻ってきた。


「少年、どうやらすぐには会えないようだ。もうすぐ少女の両親が来るそうだからここで待っているといい」


 首を縦に振る。治療室に入ったらすぐに会えないというのは、何となく知識があった。


「すまないが、私は今から行かなければならない場所があるんだ。一人で待てるか?」

「うん。ありがとう」


 僕は手に持っている学生証を思い出した。聞いても答えてくれないのなら、呼んでみようと思った。とにかく、この時の僕は彼女の名前が知りたかったんだ。


「あの、さそいさん?」


 イチかバチかかで思った名前を読んでみた。彼女は眉をひそめて首を傾げる。


「なんだ急に」

「ごめんなさい。これ、拾ったから」


 パスケースを差し出す。


「……携帯を取ったときに落ちたのか。ありがとう」


 彼女は僕の手からパスケースを取る。そして中を見て、ふっと笑った。


「なるほど。少年はなかなかにユニークな発想をするな。ふふ」


 彼女が笑ったのを意外だと思った。


「さらばだ、少年」


 僕の髪をわしゃわしゃと撫でると、彼女は踵を返してロビーを出て行った。僕はしばらく呆気に取られていた。

やばい、と思い急いで追いかける。自動ドアを通ると彼女の後姿が見えた。

夕暮れのオレンジに溶け込む彼女は美しかった。今でも思い出せる。


「ねぇ、ほんとはなんて読むの?」


 彼女に届くように僕は声を張った。


足を止めた彼女は振り返り、微笑みながらこう言った。


「私の名前は『いざな』だ。苗字は内緒にしておく」 


 いざな。確かに覚えた。


「僕は冴羽奏多! ありがとう、いざなさん」


 僕が名乗った時にはもう背中を向けていた。だけど、右手を大きく掲げて振ってくれた。

確かにいざなさんに僕の名前は届いたはずだ。

 これ以降、僕がいざなさんに会うことはなかった。10年経った今も。けれど、この出会いが夢じゃないことは確かだ。


 しばらくして、橘花の両親と合流した。それからまたしばらくして、病院の先生から容態を聞かされた。橘花の両親の好意で、僕も一緒に聞くことができた。橘花が倒れた原因はよく分からない。脳と心臓が悪いらしい、ということは分かった。便宜上、脳の癌と心臓の癌と言っていた。はっきりとは言わなかったが、長くは生きられないのだろう。

 信じられなかった。嘘だと大きな声で先生の言葉を遮ってしまいたかった。現実だと認めたくなかった。これは嘘だと。

 そんなとき、僕の手元に一枚のメモが残っていた。


「一つ、常に彼女を優先しろ。2つ、約束は違えるな。3つ、さよならを拒むな」


 声に出して読んだ。何故だか分からないが、僕は勇気を貰えた気がした。

橘花のことが好きだ。

だから、橘花のことを最優先にしようと思った。僕より苦しいのは橘花だ。

だから、橘花の望むことをしようと思った。橘花の笑顔を見たかった。

だから、僕は最後の日まで閉ざさないでいようと思った。

橘花はいつか死んでしまう。それは僕も同じことだ。だが、今日じゃないし今じゃない。この瞬間は生きているのだから。橘花から目を、心を、言葉を、閉ざさずにいよう。


 10年前はこんなに具体的に思ってはなかった。もっと曖昧だったように思う。こんなにも明確に思えたのは彼女の言葉が僕の中で生きていたから。この遠い日のノスタルジアが、今もあの時の僕のままでいさせてくれる。


◆◇◆


「面白かったね、奏多くん」


 上映が終わり、帰路に歩く最中。何度目か分からない言葉を橘花が言った。


「私、実はパート1とパート2を改めて見てきてたの」


 もし最後に見たのがあの日なのだとしたら、予習は大事だっただろう。僕自身も何度か見ているが完璧に記憶しているわけではない。できれば直前に2作品を見てから来たかったと思う。


「だから主人公の人生が幸せそうで本当によかった。物語くらいは幸せに終わってほしいもんね」


 橘花の言う通りだ。悲しい物語は数多く存在し、人々の胸を打ってきた。だけど僕は幸せな物語の方が面白いと思う。みんな自分の見たことのない景色を虚構に望んでいる。それは僕とて同じこと。現実は悲しい物語の何倍も苦しくて嫌になる。そんな世界に生きている人間は、幸せな物語を求めている。悲しい物語を好む人間はきっと、現実が幸せで満ち溢れているに違いない。


だから、悲しい物語を好む人間を僕は一生理解しない。僕には嘘くさくてご都合主義に塗れた幸せな物語で10分だ。


「……奏多くん?」


 黙り込む僕の顔を橘花が覗き込む。


「あ、なんだ?」


 足を止めて返事をする。


「面白くなかった?」

「そんなことはない。面白かったよ、ありがとう」


 橘花がこうして用意してくれなければ、一生見ることが無かったかもしれない。何より、橘花がこうして僕の為に何かをしてくれたのが嬉しかった。例えそれが、ただの兄貴分のような幼馴染に向けられた優しさだとしても。


「でも、なんだか寂しそうだよ」


 楽しそうに感想戦をしていた橘花とは打って変わって、静かに口を開く。


「映画を見た後なんてだいたいそうだろ?」


 壮大な世界に溶け込み、自分が経験したことのない冒険や大恋愛をする。そんなあっという間の2時間が終われば、物寂しさで言葉を発する気になれなくなるのだ。


「うん……そうだね」


 楽しそうに話す橘花を否定したつもりはなかったが、先ほどよりも静かな微笑みに変わってしまった。気を使わせてしまったか……。


「だけどまぁ、幸せな未来が待っていそうでよかった」

「私もそう思うよ」


 遠く、東の空に一番星が浮かんでいる。もうすぐ夜は短くなるだろう。そして日が長くなる。そうすれば、こんな日々は終わってしまうだろう。ずっと守り続けた自分が、10年という月日の後に崩れてしまいそうで恐ろしい。


きっと映画に触発されたんだ。自分の未来を考えてしまっている。たった数か月先のことが分からないんだ。10年先のことなんか、何に一つ分からない。分かっているのは、今とは全く環境が変わってしまっているということだけ。僕の傍に橘花はいなくて、行き場を失った想いが空回りしているだけ。決して消えることのない痛みと共に。


「また、見に来ようね。色んな映画を」


 裏表が無いのが素晴らしい人間の条件なのだとしたら、なぜこの世界はそんな子を苦しめるのだろうか。

 誘さん。僕は今、さよならを拒みたくて仕方が無い。現実味を帯びてきたさよならを、受け入れる強さはどうやって見つければいいんですか。

教えてください……。僕を助けてください……。

あなたの言葉に救われた僕は、あなたの言葉に苦しめられているのです。


「……あぁ」


 それでも、僕はあなたの言葉に従って橘花を何よりも優先して見せます。約束も違えません。

 誰でもいい。神でも仏でも、ただの人間だって構わない。誘さんでもいいから。

 時間を。僕が勇気を手に入れる時間を下さい。決して何にも屈せず、拒まない心を手に入れなければならないから。



 翌週の朝は少し肌寒かった。


「姉さん、もう8時だよ。早く起きないと遅刻する」


規則正しい寝息をたてる姉、美影の肩を揺すった。何度か揺すると大きな欠伸をして姉さんは上半身を起こした。


「ふぁぁ……おはよ、奏多」


 欠伸をして、涙を浮かべている。実にみっともない。


「起きたならその酷い顔を何とかしてきなよ」

「奏多ー美影は起きたー?」


 母親の声だ。いつまで経っても起きない姉さんを起こせと命じた張本人。


「今起きた」

「なら早く食べて」


台所の母が朝食を急かす為に大きな声で言った。


「だってさ。遅刻したくないなら早く準備することだね。じゃあ僕はお先に」

「あ、ちょっと奏多!」


呼び止める姉さんを無視してか僕は朝食を食べに向かった。


「まったく……いつになっても変わらないなぁ、私の愚弟は」


 何か言っているが無視だ。

僕はそそくさと朝食の肉じゃがパンを食べ終えた。誰が買ってきたのか分からないが、舞鶴の隠れた名物だ。驚いたことに、裏のシールに商品名が菓子パンと書かれていた。

確かに甘かったが、まさか菓子パンだったとは。


化粧をし終えた姉さんが。朝食の席に着く頃に家を出た。歩くこと約10分。僕の通う「東舞鶴高等学校」に到着した。

この季節は合服姿の生徒とブレザーの生徒が混在しており、統一感のない風景で不快だ。そんな不快な景色に溶け込むようにして前に進み、2年B組の教室まで進んだ。教室に入ると時刻は既に8時25分。SHRの5分前だというのに教室にいる生徒は少ない。

いつも通りだな、と見下すように心の中で呟いてから自席に腰を下ろした。


「おはよう。お早いご登校だこと」


隣の席に座る梓弥生が、文庫本を片手に言った。


「おはよう。皮肉か、梓」


 5分前登校は何も早くない。むしろ遅い。京都人の言葉を素直に受け取ってはいけない。余談であるが、噂によると、舞鶴出身者が京都出身というと、京都人は顔をしかめるらしい。


「さぁね」


 梓は適当に返事しながら文庫本をめくった。


「ワケの分からん奴だな」


 相手にするだけ無駄そうなので、授業の準備をする。1限目の数学の教科書とノートを鞄から出した。


「あっそ。ならそれは冴羽の国語能力が低い証拠だね」


梓はため息を吐いて文庫本を栞も挟まずに勢いよく閉じた。梓の言葉の意味を理解できない僕への怒りをぶつけている様だ。


「やめろ、梓。文庫本に罪はない」


 本は大事にしてほしい。


「どうだが。ある意味……一番の凶悪犯、なんだけど」


 含みある言い方だ。ちょっとは思考回路を回して見る。


「さっぱり分からんが……?」


 やっぱり相手にするだけ無駄だ。


「じゃあ瑠璃にでも聞けば?」

「何故にそこで南川が出てくる」


 ほとんど脊髄反射で会話をしている。頭の中は、今日読む本のことを考えていた。気分的にはミステリーだ。


「それを察せないあたりを鑑みるに、一生かけても分からないだろうね」

「分かるように説明できないのも、国語能力の低い証拠だということを教えてやろう」


 積み読が多いので、消化していきたいのだが、どれを読もうか迷っているうちに夜が来てしまう。特にミステリーはストックが多い。


「開示できる情報は全て含めた上で話したよ」

「ならばほぼ開示できていないということだな」


 梓の話はほぼ脳まで到達していない。適当にあしらっている状態だ。


「あんた、めんどくさいね」


 だけど、めんどくさいと言われたのだけは脳に届いた。その瞬間、頭の中に梓の言葉が巡りに巡る。


「何故だろうな。君以外に言われても何とも思わないのに、君に言われると無性に腹が立つ」


 口ではこう言ったが、理由はなんとなく分かっている。


「何故か教えてあげようか?」


 だからわざわざ教えてもらう必要はない。


「大体予想はつく」

「なら答え合わせはいらないかしら?」


 梓は僕をイラっとさせたいのだろうが、簡単には乗せられてやらない。


「予想というものは回答を見るためにあるんだぞ」

「……あんた捻くれてるわね。分かり辛いにも程があるわ」


 一瞬、梓の動きが止まった。きっとイラっとしたに違いない。


「それは君の国語力の低さを愚直に表しているんじゃないか?」


 畳み掛ける。


「勝手に言ってなさい」


 ほらほら、苛立ちが声に宿り始めた。


「勝手に言っているだろう」


梓は見るからに不機嫌そうに顔を背けた。どうやら僕の勝ちみたいだ。


「どうやら〝同族嫌悪〝しているのは君の方だったらしいな」


 視線は教科書に向けたままで、トドメを放つ。僕は心の中で勝ち誇るようにガッツポーズをしたやった。梓に届くことは無いガッツポーズを、だ。それくらい梓には普段からイラつかされている。


「あーもう! うっさいわね」


 売れた苺の様に顔を真っ赤にする梓。


「許せ。昨日のミルクティーの代金だ」


 苛立ちが収まるとも思えないが、一応謝罪をしておく。


「やな性格してるわね、あんた」

「誉め言葉として受け取っておこう」


こうして毎日の梓と僕の駄弁は終幕した。タイミングを見計らっていたかのように担任が入室してきたからだ。


「ん? 今日はえらく人が少ないな。まぁいい。出席をとるぞ」


教師は手短に出席をとり、SHRを始めた。それからの午前中の授業は真面目に聞きながら過ごした。


昼休み、僕の居場所はいつもと同じ屋上。昼休みに入って15分が経過したというのに、珍しく今日は梓が姿を見せていない。心配なんかしていない。大方朝のアレが原因だろう。

静かな昼休みを過ごせてラッキーだ。

そう思って居たのに、代わりに姿を見せたのは梓の親友、南川瑠璃だった。扉を開け、できた隙間から瑠璃の青い髪が見える。


「おっ、いたいた」


南川は僕の姿を目に留めるなりそう言い、ゆっくりと近付いていた。僕は未だに南川の姿を見ると、あの日を思い出して心拍数が上がってしまうのだ。


「そ、その言い方から察するに……僕を探していたのか……南川」


苺ミルクのストローを噛みながら答えた。めちゃくちゃ動揺して、噛み噛みだ。


「前から言ってるだろう? ボクのことは瑠璃でいいって」

「それで、何しに来たんだ?」


 南川の言葉にドキッとしたが、それを見せないように返事してやった。どうやら南川の方はもう何とも思ってないらしい。ありがたい限りだ。


「探してるんだ、弥生のこと。見てない?」

「梓? 僕は見てないが……購買には」


言い終わる前に失言だったと気づいた。


「いや、聡明な君が確認していないわけがないな」

「お褒め頂きどうも。奏多に聡明なんて言われても嬉しくないけどさ」


 嫌味かそれは。


「一言余計だ」

「そんな事より弥生の居場所に心当たりない?」

「僕が知っているとでも?」


 南川の前だが、お構いなしに文庫本を開く。


「そう思っているから聞いてるのだよ」

「残念ながら知らない」


 栞を挟んでいたページを開き、続きを読み始める。


「そうなの? なんかいっつも昼休みに2人でいるからてっきりそういう仲なのかと」

「連絡先すら知らねぇよ」


 南川の目的は既に達成されているか、雑談を投げかけてくる。そういう仲ってどういう仲だよ。互いを罵り合う仲か?


「知りたいなら教えてあげるよ?」


南川は笑みを浮かべながら、梓の連絡先を表示したスマホを差し出した。僕は一瞬だけそちらを見て、文庫本に視線を戻す。一見普通の笑みだがその表情が恐ろしいのは何故だろうか。

今更己に問うまでもない。理由なんて分かっているんだから。


「それはあいつに失礼だからやめとくよ。特に知りたいわけじゃないしな」

「そっか。それならそれでいいけど」


南川はしゃがみ、僕の耳元に口を近づけた。


「弥生が欲しいなら早くしなよ。じゃないと、ボクの物にしちゃうよ」


 息がかかりそうな距離だった。でも動揺したり、焦ったりしないのは、相手が南川瑠璃だから。いや、結構頑張った結果だ。


「…‥‥」

「ふふっ」


南川は僕の髪をくしゃくしゃにして足早に出入り口に向かい、「じゃあね」と手を振って姿を消した。


「……なんなんだよ、あいつ」


やはり苦手だ。中学生の時から瑠璃はこうだった。


「はぁ……」


昨日も今日も晴天で空ばかり見ている。そんな空は僕には綺麗過ぎたのだ。栞を挟んで本を閉じる。そして、乱された髪を直して、そのまま寝転んだ。

 天気が良い日は嫌いじゃない。でも、好きでもない。昔は好きだったはずなのに、今はずっと雨だったらいいのにと思っている。

そうこうしているうちに、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。



今日の授業を全て終えた僕は靴箱の前で懐かしい音を聞いた。姉さんからの「今日は夕飯いらないから」というメールへの返信の手を止めてしまった。

サール番号541、フランツ・リスト『愛の夢』変イ長調第3番。『愛の夢』の中でも最も有名な第3番だ。


「……」


別に体が疼いたわけじゃない。ピアノが恋しいわけじゃない。ただ、その音色に背中を押された。その悲しい旋律に。

気付いた時にはもう、音楽室に足を運んでいた。けれど、扉を開ける勇気はなかった。橘花がそこにいると知ったから。呼吸が荒れる。手に汗が浮かぶ。頬に熱が帯びる。膝が笑う。涙が溢れそうになる。

ああ、駄目だ。これ以上はもう……心が泣いてしまうから。


「……くっ」


僕は音楽室の扉に背を向け、その場を後にした。数分前と同じように靴箱から靴を出し、俯いたまま玄関を出た。まだ、心臓は煩いままだ。その煩さを紛らわすためにイヤホンを耳に当てた。

時代遅れのカセットプレイヤーがテープを回し始める。流れ出すのたまたま持ってきた310年前の流行歌。会いたいだの寂しいだのと難しい言葉を使って歌っている。

 僕は海に向かって歩き出す。家に帰る気にはならなかったから。商店街は賑わいがあり、人の数が多い。これからもっと増えるだろう。川沿いの道を歩き、海へ出る。こちらはやはり人が少ない。まだ明るいため、わずかながらに人はいるが、散歩やジョギングをしている人ばかりだ。長居する人はいないだろう。


 コンクリートの堤防に腰掛ける。海を眺めるのが昔から好きだった。悲しいことがあった時、嬉しいことがあった時。相反する感情の波を海に投げ捨てていた。それが心の逃避であることも知らずに。けれどそれが自分の咽び泣きの代償と知っていたからやめなかった。その積み重ねが今の自分だと思えば、多少は自分を誤魔化すことも出来るものだ。

僕は自分が特殊な人間だと自覚しているし、他人から指摘されても反論することはない。

特殊で何が悪い。特異さを持つ人間こそが人類の発展を促してきたのだろう。ならば誰かと違う事に何を躊躇う必要があるんだ。そんなことを言う人間はきっと左団扇で暮らしているに違いない。


「………どうしろってんだよ」


僕は夜の海に吐き捨てた。いつかと同じ様に。自分の置かれた状況など知らずに無邪気に微笑む少女。その少女を見て悲しそうに笑う父と母。その姿を少し退いて眺める姉弟。鼻腔にこびり付いた消毒液の匂い。双眸に焼き付いた光景と、歯齦の痛み。右手に伝わる肌膚の荒さと、耳朶に触れる静かな声音。医者の言葉では現実味の無かったことが、大人たちの空気に触れて幼いながら理解できた。橘花の命の灯火の長さを。未来の果てを。


 再生を終えたカセットテープが、オートリバース機能により巻き戻されていく。そうしてまた最初から再生された。正直なところもう聞き飽きていたが、止めることさ億劫だった。そうして、何度も何度もオートリバースが巻き戻しては再生を繰り返す。

やがて、プレイヤーの電池が切れ、曲の途中で再生が終わる。


「奏多」


丁度その時、背後から僕を呼ぶ声がした。意識を取り戻すと、いつの間にか夜だったことに気付く。イヤホンを外して振り返ると、缶コーヒーを2つ携えた姉さんが立っていた。


「姉さん……なんでここに?」


 一瞬、GPSでも仕掛けられているのかと疑った。そんなものを買う金が姉さんに無いことは分かっているのに。


「あんたが家にいなかったからね。どうせここだろうなぁって」


 ふっ、と姉さんは笑いながら言った。GPSじゃなくて良かった。


「そっか。心配かけた?」

「ここにいなかったら心配してたかもね」


 姉さんは鼻歌でも歌いだしそうなほどに上機嫌だ。気味が悪い……。


「それは良かった」

「隣、いい?」


 僕の隣まで歩いてきた姉さんは、座りながら聞いてきた。


「もう座ってるだろ」


姉さんは誤魔化すように笑い、僕の左頬に缶珈琲を当てた。ひんやりとした感覚が、頬の感覚を奪っていく。流石にまだホットなのが欲しかった。


「ありがと」

「今日はなんかあった?」

「……うん」


 受け取った缶コーヒーのプルタブを上げる。一口飲むと、口の中に甘みが広がった。随分と喉が渇いていた気がする。姉さんがプルタブを開ける音がした。


「橘花ちゃんのこと?」

「分かるの?」


 一発で悩んでいることを当てられ、思わず驚いてしまう。


「顔に書いてある」


僕は自分の頬に手を当てて表情を確認するが、別段おかしなところはない。その様子を見た姉さんが声を上げて笑い出した。


「ごめんごめん。顔に書いてたってのは嘘」


そんなこと分かっている。反射的に触っただけだ。


「奏多のことなんてだいたい分かるよ」

「なんでさ」


 実の姉でも自分のことを見透かされているの気に食わない。


「お姉ちゃんだから」

「………説得力のある言葉だ」


姉さんは黙って空を見上げた。僕は右手の中の珈琲を回した。姉さんは待っている。


「橘花のこと考えてたんだ」

「あんたってほんと橘花ちゃんのこと好きよね」


 姉さんはニヤニヤと不快な笑みを浮かべている。


「茶化すなよ」

「いいじゃん、事実なんだし」

「僕がそうでも向こうはそうじゃないんだよ」


 だから問題なのだ。単純じゃないこの世を恨んで仕方がない。


「橘花ちゃんが?」


 僕は頷いた。


「本人から聞いたの?」


 首を横に振る。あんなに甘く感じた缶コーヒーが今度は苦く感じた。


「え、なに、告白したの⁉」


 姉さんの鼻息が荒い。親戚のおじさんにこういう人がいたな。数年は会っていないが、子どもながらに嫌いだと思っていた。


「……そんな驚くこと?」

「そりゃそうでしょ! お姉ちゃん知らなかったよー‼」


 興奮で無意識に立ち上る姉さん。それとは対照的に僕の心は冷静だった。興奮した人を見ている第3者は案外冷静なものだ。


「姉さんには言わないよ」


 姉さんの態度にムカついたが、態度には出さない。余計に茶化されるから。


「まぁそうかもだけどさぁ……あ、そう言えば春休みに家に帰ってこなかった日あったよね。あの日か、振られたのは」


 たぶん、ビクッと肩が動いたことだろう。それは春休みの忘れたい記憶だからだ。姉さんに対しては身構えていなかった。


「どったの?」

「いや。何でもない。頼むから春休みのことは追及しないでくれないかな」


 姉さんは沈黙で頷いた。そして息継ぎの間の後、再び問い掛けてきた。


「なんで振られたの?」


 再び腰を下ろす姉さん。


「ピアノの上手いお兄ちゃん、だとさ」

「あるあるだね。そんで今日は何があったの?」


 同情の意味を込めて髪をわしゃわしゃと撫でられた。僕は猫じゃねぇよ。


「橘花が『愛の夢』を弾いてたんだ」

「『愛の夢』?」


 思った通りの返事だった。姉さんは楽器を弾かないし、音楽も聴かない。そこは父親の影響だろう。僕は母親の影響で音楽を聴くのが好きだ。


「クラシックを聞かない姉さんは知らないか」

「『愛の喜び』なら知ってるけど」


 ちょっと驚いた。確かに有名だけど、クラシックの中では超有名までは言わない曲だ姉さんは『カノン』くらいしか分からないと思ってた。


「それはクライスラーだよ。『愛の夢』はフランツ・リスト」

「ふーん。それが何かあるの?」


 クラシックには興味なさそうな声色だが、話には興味があるらしい。


「僕の話を絶対に笑わない?」

「うん、笑わない」


 姉さんはいつも僕のことをからかうけど、今の表情にそういう類の意思は宿っていなかった。だから僕は珈琲を一気に飲み干し、息を吐いてから口を開いた。


「僕が橘花に告白する時に『亜麻色の乙女』って曲を弾いたんだ。ピアノの先生が旦那に告白する時に弾いた曲なんだって」


 めちゃくちゃ痛いことを言ってるのは分かっている。こういうのは分かる人間にしか共感されず、そうではない人間からは奇異な眼差しを向けられることも分かっている。


「私にはまったく分からないんだけど、ピアニストにとってピアノを弾いて告白するのって浪漫なの?」

 

それみろ。やっぱり姉さんには分からない。


「そうだね。ピアニストは口下手が多いから。今も昔も」


 だから5線譜に想いを綴り、旋律に希望を託したんだ。そんな純粋な心が、今も弾き継がれるクラシックには宿っていると思う。


「でもそれってさ、可否問わずだけど返事はどうするの?」

「可ならそれに見合った曲を弾くんだ。クラシック界にはそういう曲は多くあるから」


 日本の俳句にも同じことが言える。なんならクラシックよりも、やりやすいんじゃなかろうか。告白の句と、その想いに答える句が分かりやすく残っているから。


「それが『愛の夢』なの?」

「僕が最初に言っておいたから。了承なら『愛の夢』を弾いてほしいって」

「ぅわぁ‥‥きしょっ」


姉さんが僕から少し距離を置いた。


「マジ顔で引くなよ」


 ブルーな心に、ボディブローをくらわされた感じだ。


「普通気持ち悪いよ、あんた」

「そうかな……」


 結構オシャレだと思ってたんだけどなぁ。姉さんもそういうの好きだと思ってたのに。


「そもそもなんで、その選曲なの?」


 姉さんの疑問はもっともで、ちゃんと選曲には意味がある。


「もともと『亜麻色の髪の乙女』って詩があるんだけど」

「あぁ! あの210年くらい前に着メロで流行った曲の歌詞?」

「いや違う。まぁニュアンスは似てるんだけど」


 『亜麻色の髪の乙女』が有名なのは、ある女性アーティストがカバーして大ヒットしたからだ。だから姉さんでも知っている。


「花に囲まれひばりと歌を歌う愛する人よ。口づけさせてはくれないだろうか? って内容の詩なんだ」

「へぇ~?」


 姉さんが気持ち悪いくらいニヤニヤしている。


「なんだよ。あくまで詩の内容であって僕のポエムじゃないからな?」


 痛いようにも感じるが、今の自分が書けるような幼稚なものじゃない。


「でもそれを告白曲に選んだってことはさ、橘花ちゃんとキスしたいって思ったからなんでしょ?」

「……」


 嫌なところを突くな……。


「ノーコメント」


 一々姉さんの話に乗っていたら、話が一向に進みやしない。


「あ、怒っちゃった? ごめんね?」


 あからさまに不機嫌な態度を取ると、姉さんは態度を一変させる。


「それでどうして『愛の夢』が返事になるの?」

「これも歌詞なんだけどさ。『愛しうる限り愛せ』って歌詞がある」

「おぉ……なんか偉そうな詩だね」


 僕も最初はそう思った。だから姉さんの反応は間違いじゃない。


「自分に心を開く者がいれば、その者の為に尽くせ。どんな時も悲しませてはならない。いつかあなたが墓の前で嘆き悲しむ日は必ず来るのだから」

「あんまり意味がわからないんだけど?」


 姉さんは本当に芸術を受け取るセンスがないと思う。やはり読書とか音楽鑑賞は幼いうちからやっておくべきだな。


「一言で言うなら、大切な物を失ってから大切と気付くのはもう手遅れってこと」

「それを橘花ちゃんから伝えられたかったのね」


 姉さんはやっと理解したようで、小声で「そっかそっか」と呟いていた。そうして苦笑いを浮かべている。

 どうしたもんかと悩んだように髪をいじっていた姉さんは、決心したように口を開いた。


「そんな気持ち悪いことしたから振られたんじゃない?」


 普通の人からすればそうなるのか。覚えておこう。


「それはないと思う。橘花本人がピアノで告白のことをロマンチックだって言ってたから」

「ふーん。じゃ普通に異性に見られてなかったって事だね」

「分かってるからトドメを刺すな」


 そして、それが一番切れ味の高い言葉なのだった。


「でもなんで橘花ちゃん、今日『愛の夢』を弾いてたんだろうね」

「さぁ。でもなんか落ち着かなくてさ」


 まさか誰かに告白されて、その返事に弾いていたわけじゃないだろう。もしそうだったら……。

南川に聞いた話では、入学から一か月と経たずして橘花を狙っている男子がいるらしい。

むぅ。落ち着かない。そわそわする。橘花が出会ってまもないよく知らない男子の告白を承諾するような女の子じゃないことは分かっている。


 でも、もし。万に一つも有り得ないことだが、僕が知らない間に知り合っていた男で、もう何年もの付き合いが続いていて、そいつから告白されたのだとしたら……。もしかしたら、もしかすれば。橘花が……承諾の演奏をしていた可能性も捨てきれない。


「奏多もそんな顔するのね」


 一人で考えすぎて頭が痛くなってきた僕を、止めてくれたのは姉さんだ。僕は今自分がどんな顔をしているのか全然分かっていない。


「僕は今どんな顔をしてる?」

「恋する少年って感じかな」


 姉さんは僕にデコピンをした。全然痛くない。涙一つ浮かばない。


「面白くない恋愛小説のタイトルみたいだ」

「あはは、そうだね」


それっきり姉さんは口を開かなかった。空にはもう、欠けた月が浮かんでいる。波音が静かに近づき、遠のき、また近づく。それを永遠に繰り返していく。


「もしかしてさ。あんたがピアノを弾かなくなったのってピアノが上手なお兄ちゃんを脱出するため?」

 

姉さんは僕を気遣うように問いかけた。


「かもね」


 当たっているが、素直に返事などしてやらない。


「不器用すぎ。そんなことしたって”ピアノが上手な”が抜けるだけよ」

「………」


 そうなんだよな。姉さんの言う通りだ。どうして、気付かなかったかなぁ……。


「それでいいの?」


 諭すような優しい口調だ。こんな声聞いたことが無い。


「………」


 僕の中で、その声を受け入れる余裕が無くなっていくのを感じた。


「あんたにもだけど、橘花ちゃんには時間がないのよ?」


姉さんは俯く僕に手を伸ばす。


「じゃあどうしろってんだよッ‼」


叫び声と共に姉さんの手を払いのける。姉さんの目に哀しさが宿っていた。僕はただのガキだった。他人の優しさを拒み、否定する。最低だ。


「奏多……」

「っ……ごめん」


 どこも痛くないのに、目尻に涙が浮かんだ。俯いて、両腕に顔を埋める。涙を隠したかった。表情を隠したかった。この心を隠してしまいたかった。


「……あんただって考えたんだよね」


 姉さんには全てお見通しだった。恐ろしく思うほどに、姉さんは姉としての才能に溢れている。嬉しくもあり、恐ろしくもある。


「でも、私からのお願い。ちゃんと向き合いなさい」


 姉さんが僕を抱きしめた。そして、耳元でこう囁く。


「心を尽くせ。汝の心が燃え上がり、愛を育み、愛を携えるように。愛によってもう一つの心が温かな鼓動を止めない限り」


 それは『愛の夢』の詩だ。姉さんに話さなかった残りの詩の部分。


「そうでしょ? 奏多」


 微笑みの声を僕にくれた。姉としての立場からくる愛の一つをくれたんだ。


「……知ってたの?」


 それが恥ずかしくて、こんなことしか言えない。


「ノーコメント」


 我が姉ながらズルい人だ。


「奏多は橘花ちゃんが好きなんでしょ?」

「……うん」


小さく返事した僕に姉さんは、抱く力を強くした。


「だったら、愛しうる限り愛さなきゃ。すぐにその時が来ちゃうから」

「……うん」


 そうだよな。そうなんだよな。嘆いたって、拒んだって、目を逸らしたって。もうすぐ、橘花は死んでしまうのだから。じっとしていても、橘花は僕の前からいなくなるのだから。

 僕が、僕だけが。橘花のために。橘花のためだけに。

僕が持ちうる力の全てを使って、愛しうる限り愛さなければならないんだ。

 そう確信できるほどに、僕は橘花のことを想っていたのだ。


「姉さん……」

「なぁに?」


 涙は溢れたままだが、気にしない。当分、止みそうにないから。


「ありがと」


 素直に礼を言えたのは、姉さんが僕の姉さんだったからだろう。


「お姉ちゃん、だからね」


 姉さんは僕の頭を撫でながら、「帰ろっか」と言った。僕はその腕の中で小さく首を縦に振った。




ゴールデンウィーク初日の深夜2時。

僕は海沿いの道を歩き、コンビニを目指していた。理由はいつも通りの姉さんとの賭けに負けたからだ。街灯が照らす夜道を歩きながら考えた。なぜ自分はこんなにもゲームという物が弱いのか。スラブラすれば自滅する、ペトリスすれば隙間空き、モリカーすれば最下位だ。兎に角、僕にはゲームの才能がない。


「はぁ……」


毎度お馴染みとなってしまった休日深夜のコンビニ訪問。アルバイトの学生の顔も覚えてしまった。バイトの彼もそれは同様だろう。休日の深夜に一人で来てアイスとカップ焼きそばを買う客がいれば覚えないわけがない。


目当てのコンビニに到着したが、店先にはヤンキー一人いない。田舎だから。そもそも210四時間営業をしていることが奇跡だ。

自動ドアが開くと冷気が肌を撫で、店員は気の抜けた「いらっしゃいませ」を口にする。雑誌売り場を通り過ぎ、アイスの冷凍庫に行こうとして、飲料売り場で立ち止まった。そこに見慣れた橘色の髪の少女を見つけたからだ。

橘花は冷蔵庫の扉の前にしゃがみ、首を傾げて唸っている。面白いと思った僕はしばらく見守ることにした。橘花は悩んだ末に、扉を開けて缶ジュースを手に取った。

一本の缶ジュースを買うか否かで悩むくらい金欠なのか……。可哀そうに思った僕は後ろから声をかけた。


「橘花」

「うひゃっ⁉」

「⁉」


 途端にビクッと跳ね上がる橘花。まるで猫だ。


「びっくりした……奏多くんかぁ」


 振り返り、僕だと分かった途端に肩から力が抜けたようだ。


「こっちがびっくりしたぞ。金欠なんだろ? 奢ってやるよ」

「え? あーいやー別にいいよ」


 なんだか気まずそうな橘花。そう言えば昼間から変だった。僕は何かしてしまっただろうか。


「遠慮なんかしなくてもいいぞ」

「え、遠慮なんかしてないよ。金欠じゃないし」


 橘花の苦笑いもいつもと何かが違う。


「そうなのか? その割にはえらく悩んでたけど。なんのジュースで悩んでたんだ?」

「いや、ちょっと見せられない」


橘花は手にした缶ジュースを背中に隠した。見せられない缶ジュースとはなんだ……。僕の頭に浮かんだのはアルコール飲料。


「お前……まさかアルコールか?」

「いやいや。私未成年だし」


 そんなことは知っている。


「じゃあなんだよ」

「へ、変な飲み物……?」

「は? 変な飲み物?」


そう言われてしまうと気になってしまう。これがカリギュラ効果という奴なのだろうか。


「わ、笑わない?」

「多分だけど僕は飲み物で笑えない」


 思いを巡らせても、笑える飲み物の候補すら浮かばない。


「えっと…‥‥これ、なんだけど」

橘花が僕に見せた飲み物は『めんたいいちどみるく』だった。

「飲む奴いた……」


 ついこの間学校で見たやつだ。飲む奴なんかいないと思っていたゲテモノ。


「え?」

「いや、気にするな。それ僕も気になってたんだよ。どんな味がするのか」

「そなの?」


 目をぱちぱちとさせる橘花。僕が興味を持つとは思わなかったのだろう。


「うん」

「よかった。ところで奏多くんは何を買いにきたの?」

「姉さんとの賭けに負けた」

「またゲームしたの? 奏多くん弱いくせに諦めが悪いから……」


 呆れ顔をした橘花は、いつもと変わらない様子だった。『めんたいいちごみるく』の重圧が無くなったからだろうか。


「言わないでくれ」

「美影ちゃんもよくこんな時間にアイスなんて食べるよね。私なら絶対に太る……」

「確かに。でも太ったなんて話は一回も聞いたことないな」

「羨ましい……。じゃあ私は会計してくるね」

「おう。じゃあな」


橘花は小走りでレジの方に消えて行った。僕はカゴを取り、カップ焼きそばと炭酸飲料、最後にカップアイスを入れてレジに行くと、既に橘花はおらず、ダル気なバイトが会計を始めた。765円を払い、店を出るとコンビニの看板の下に橘花が立っていた。


「先に帰ったんじゃなかったのか?」

「帰ろうと思ったんだけど、奏多くんもこれ、飲みたいんじゃないかと思って」


橘花は右手に持った缶を持ち上げ、少し振った。振ったということは、炭酸では無さそうだ。


「いや、味の感想だけで良かったんだが」

「そう言わずさ、飲んでみなよ」


ふむ。僕は考えた。多分、あのジュースは美味しくないのだろう。ここは飲むべきか飲まざるべきか。


「遠慮しとく……」

「遠慮しなくてもいいよ。ほら、美味しいから」


そういう橘花の瞳は笑っていた。そんな顔をされれば断ることなど不可能だ。甘んじて受け入れよう。


「じゃ、じゃあ一口」

「うん。どうぞ」


橘花から渡された缶を恐る恐る口に近付けた。口に含んでもいないのに鼻腔に甘くて辛い匂いが漂い、胸やけがしてきた。


「……うっ」


ここで一度離してしまえば2度と飲めなくなると思い、一気に口に含んだ。舌の上で味わう事などせずに一気に飲み込む。


「ゴホッゴホッ……まっず⁉」


口に含んだ瞬間に広がる甘み。飲み込んだ後に喉を襲う辛み。


「あははは!」


橘花はお腹を抱えて笑っていた。


「畜生……こうなること分かってたのに」

「いい反応だったよ、奏多くん」

「はぁ……」


これも惚れてしまった弱みだろう。例えどんなに罵られようと、橘花に対して腹が立つことはあっても、嫌いになる事などなかった。今だってそうだ。ムカついていてもそれ以上の感情は無い。むしろ笑っている橘花を可愛いと思っている。哀れだな……。


「帰るぞ。もうすぐ3時だ」

「うん。そうだね」


橘花とコンビニを後にし、海辺の道を歩いて戻った。切れかけの街灯が照らす防波堤の歩道には人っ子一人いない。波音だけが響き、潮の匂いが鼻腔を襲う。


「静かだね」

「深夜だからな。こんな時間にうるさかったら迷惑極まりない」

「捻くれ者」


 橘花は唇を尖らせる。


「何を今さら。僕は昔から変わってないよ」

「そうそ。昔から捻くれてて友達がいなかったもんね」


 そう言って笑う橘花は、やはり可愛くて仕方がなかった。


「友達がいなかったは余計だ」

「事実でしょ」

「だから余計なんだよ。だいたいな、友達が何だってんだ。いなくたって何にも困らないじゃないか。友達が多い方が偉いのか? やだね、そんな世間は」


 前に読んだ小説のヒロインのセリフを引用した。


「だからそういう所がダメなんだよ。友達がいた方が楽しいでしょ? お昼ごはんとかも一緒に食べられるし。トイレも一緒にいける。あとは、休みの人かも一緒に遊べるし」


 トイレは一人で行くもんだ、と思った。


「どうだろ。僕は今までそんな事したことない。けど寂しいと思ったことも虚しいと思ったこともないよ」

「どうして?」

「橘花がいたからな」

「え?」


 しまった。流石に発言が気持ち悪かったかもしれない。


「いや、深い意味はないよ。ただ僕には多くの友達はいなくても休みの日に一緒に遊ぶ奴がいたって話。姉さんも橘花も、総司君もいたから。僕はそれでよかったんだ」


 咄嗟に否定してみせた。ちなみに総司君とは橘花の兄で、今は東京にいる。


「でも今、お兄ちゃんはいないよ?」


 寂しそうに橘花が言う。


「別に総司君とは永遠の別れをしたわけじゃないだろ? 今だって姉さんと遊んでたからこんな時間にこんな所にいるわけだし」


 橘花は何かを怯えている。その何かを僕は知っているが、口に出せるような物ではない。当事者以外には、その物事の重大さが分からないのだから。


「じゃあさ、私は奏多くんの友達じゃないの?」


 嫌な質問だ。


「そうだな。友達って括りにはしたくないな」


 そんな軽くてすぐに消えて行く関係で終わらせたくはない。


「じゃあ何なの?」

「分からん。けど、敢えて言語化するならば兄妹、か。長く一緒にいすぎたんだろうかな」


 本当は好きな人、と言いたいのだけれど。それは今言うべきことじゃない。


「そっか。なら良かった」

「どういうことだ?」

「友達じゃないから他人って言われたら悲しいもん」


 もう一度、橘花は「よかった」と呟いた。


「それは僕も同じだ」


それから発することなく、帰路を歩んだ。僕が家に着くと、姉さんは僕の部屋で腹を出して眠っていた。


「嫁入り前の娘が何をやってるんだか………」


姉さんを僕のベッドに寝かせて毛布を掛け、買ってきたアイスを冷凍庫に放り込んだ。リビングには目を覚ました飼い猫のヘーハチ(本名:平8郎)が、ふてぶてしく僕の足に寄ってきた。


「おーどした? 腹減ったのか?」


こんな時間に餌を上げるのはどうかと思ったが、チャルチュールを与えた。食べ終えると「ぬっふ」と鳴いてどこかへ行ってしまった。ツンデレな猫だこって。橘花が家に来たときは愛想よく頬をスリスリするのだが。


「やはり可愛い女の子の方がいいのか……」


ボヤキながらリビングのソファーで眠りについた。



『午前10時に音楽室に来て下さい』


ゴールデンウィーク2日目の午前九時、珍しく橘花からメールが来たかと思えば、それは一方的な内容だった。しかも当日の1時間前だ。無視してもいいのだが、仮にも好意を抱く相手からのメールなので無下には出来ない。眠たい目を擦り、制服に腕を通す。


「何が悲しゅうて休日まで学校に行かねばならんのだ……」


ため息交じりに呟く。自分の単純さには呆れを通り越して酔狂さを感じる。リビングには新聞を読む父と、鼻歌を歌いながら編み物に勤しむ母、退屈そうにスマホをいじる姉さんがいた。


「あれ、奏多どっか行くの?」


 スマホから目を移した姉さんが、聞いてくる。特に黙っておく理由もないので、手短に答えた。


「学校」

「なんで」

「呼ばれたから」

「誰に?」

「橘花」

「私も行こうかな」


 姉さんの突拍子もない申し出は、連休を暇に過ごしている証拠だろう。よほどすることが無いのか、姉さんのスマホの画面にはあやとりの動画が流れていた。ちなにみ、あやとりをする姉の姿は17年間で一度も見た記憶が無い。


「なんで」

「ゴールデンウィークにすることが無いから」


 あやとりでもすればいいのに、と思った。


「あっそ」


僕は机の上に置かれたパンを咥えて玄関へ向かう。どうせ姉さんなら、放っておいても何とでもするだろうから。


「準備するから待ってて」

「どのくらい」


 流石に1時間とかは待てない。


「5分」


 だん兵衛うどんができるじゃないか。


「50秒で支度しな」

「3分で勘弁して」


 顔の前で両手を合わせ、延長を乞う姉上の姿は、実に情けない。だが、どう考えても先日の自分の方が情けない。だから僕はこう答えた。


「3分間待ってやる」


 姉さんは3分と25秒後に支度を終えた。とある大佐ならブチ切れて発砲していたところだ。

 姉さんを引き連れて、午前10時の15分前に高校に到着した。


「久しぶりに校舎に来たらやっぱり懐かしいね」


 卒業以来の母校を懐かしそうに眺める姉さん。


「卒業して2年も経てばそんなもんだよ」


 運動部は祝日も関係無しに活動しているようで、正門は開いていた。正面玄関は流石に閉まっていたので、来客用の玄関から入る。そして、他愛もない会話をしながら階段を上り、2階の音楽室を目指す。勿論、途中の道では誰ともすれ違う事はなかった。


「あんたさ。こないだの今日で橘花ちゃんにアタックしないわよね」


音楽室の扉に手をかけようとした僕を姉さんが止めた。攻撃をするつもりは端から無いが、そう意味ではないことは分かる。


「少なくとも姉さんがいる前ではしない」


 例え姉さんがいなくといも、アタックする勇気は今の僕にありはしない。


「よかった」


姉さんの安堵した顔を見てから僕は扉を開けた。音楽室の中にはギターを抱え、ヘッドフォンをしている女子生徒が一人だけ。青髪に白いヘッドフォンを乗せていると、白波のようにも見える。


「あれは……橘花ちゃんじゃないよね?」

「うん」


この学校の生徒ではない姉さんには女子生徒が誰なのか分からないが、僕にはすぐ分かった。女子生徒はエレキギターにヘッドフォンを差し、何かを弾いている。たぶんこちらの存在には気が付いていないのだろう。


その女子生徒の肩をとんとんと叩く。


「うわっ⁉ びっくりした!」

「うぉっ…‥こっちが驚いたぞ」


女子生徒は体をビクッとさせ、悲鳴を上げる。これは仕方ない。同じ状況なら僕でも悲鳴を上げて、殴りかかるだろう。ヘッドフォンを首にかけ、女子生徒は僕の方を向いた。


「なんだ、奏多か」


 安堵とも不満とも違う顔を浮かべた。呆れた顔に近いだろうか。


「なんだとはなんだ。失礼な奴だな」


 だいぶ南川と普通に接することができるようになってきたと思う。もう一月以上の前の出来事をいつまでも引きずってはいけない。


「ん? そっちにいるには奏多くんの彼女さん? え、浮気?」


 駄目だった。何が浮気だ。何がだ、クソ。


「……」


 僕は黙り込んでみる。どういう反応をすればいいか分からなかったからだ。


「奏多?」

「お前、分かってて言ってるだろ」


 無論、姉さんのことではない。


「バレた?」


 南川は感情の変化を態度に出すことなく、ただ呟いた。


「バレバレだ」

「で、誰なの?」


 首を傾げる南川。ずっとそういう態度をしていれば、可愛げもあるもんだ。


「僕の姉さんだ」


それを聞いた南川は目を輝かせ、入り口付近で佇んでいた姉さんに近寄った。


「どうも初めまして。南川瑠璃です。奏多さんとは同じクラスでお世話になってます」


 姉さんの手を握ってぶんぶんと上下に振る南川。実は初対面ではなく、中学の時に顔を合わせたことがあったりする。まぁ、下校中にばったり会った程度なので覚えていないのも無理はない。


「はあ、どうも」


姉さんは若干引きながらに返事をした。南川と初対面の人は大抵こういう反応になる。(厳密には初対面ではないがそこは保留)


「いやぁーべっぴんさんですねぇ」


 笑いながらも南川は、姉さんの両手をまだ離さない。


「おい、南川。おっさんみたいなことを言うな、みっともない」


 姉さんの顔が引き攣っており、無言でヘルプと叫んでいた。

珍しい姉の姿をもう少し見ておきたい気持ちが無きにしも非ずだが、こういう時に恩を売っておくのも悪くない。


「えー事実なんだしいいじゃん」


 実の姉を褒められて悪い気はしないが、それが南川の発言だと思うと恐ろしくもある。


「そんなことより橘花はどうした? 南川も橘花に呼ばれたんだろう」

「いいや、私は違うよ。むしろ呼んだ側」


 やっと姉さんの手を離した南川は、もといた椅子に座り、ギターを手にした。紅いエレキギターは随分を使い古されているようで、どこかくたびれて見える。思えば中学時代から使っていたような気がする。


「そうか。では要件を聞こう」


 ギターで弾き語りをするのかと思い、こう言った。おおかた自分が連絡するよりも、橘花を通した方が僕を引っ張り出せると踏んだのだろう。


「それは私からじゃなくて橘花ちゃんが言うよ。まだ全員揃ってないしね」


 どうやら焦らすつもりらしい。南川はオーディエンスが多い方ほど精彩を放つタイプだろう。


「まだ10時まで時間あるし……仕方ないか」


「そそ、適当に座って待ってなさいな」


 南川は机に置いていたヘッドフォンを首にかけた。


「そうさせてもらう」


姉さんは適当に選んだ窓際の席に座り、その近くに南川が腰かけてギターを弾き始めた。対する僕はピアノ奏者用の椅子に座った。少し座面が低く感じる。たぶん最後に座ったのは橘花だろう。


「やっぱりそこに座るんだね、奏多は」


 完全に無意識だった。だから、南川の言葉にハッとしたのだ。


「……つい癖で」


ピアノを止めたことを知っている南川は、確信を持っていた様だった。場所を移動しようと立ち上がる。


「いいじゃない、そこに座れば。君には似合ってると思うよ」


 南川は鼻歌でも歌い始めそうなほど上機嫌に言った。それは無責任な部外者の発言に過ぎないのに。


「…………」


 僕は何とも言えない気持ちだった。本当はピアノ辞めたくなかったんだろうか。まだまだ弾き続けたかったんだろうか。そんなことを考えてしまう。


「せっかくだし待ってる間一緒に弾こうじゃないか」


 だから、南川のこんな質問にも返事をしてしまうのだ。「……何をだ?」と。すると南川は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。


「なんだその顔」

「即答で断られると思ってたから……」


なるほど、一本取れたというわけだ。目をぱちぱちとさせる南川の手から、ピックが離れた。重力に導かれながら、ピックは床に落ちていく。すぐに拾おうと伸ばされた南川の手が間に合うはずもない。


「よっと」


 前に屈んでピックを拾い上げると、南川は真っすぐと僕を見つめてきた。

どうしてかと聞いているんだろうが、どうも南川の顔を見ると目を背けたくなってしまう。

 だから目を校庭の方へと逸らしながら答える。


「まぁ、そうだよな。たぶん……この場所に橘花がいないから」

「……そうかい」


 それ以上問い詰められることは無かった。


「じゃあ私が適当に弾くから奏多も適当に合わせて」

「難しい注文だ」

「あ、じゃあリクエストいい?」


黙って会話を聞いていた姉さんが手を上げた。


「どうぞ! あ、えっと……」


 先ほど盛り上がった2人(南川だけ)だが、姉さんの名前を南川は知らない。面白いそうなのでこのまま黙っておくことにした。釈然としないのは、南川が姉さんのことを忘れていることだ。姉さんが忘れていても、南川だけは覚ええていそうなのに。


「美しい影と書いて、美影。冴羽美影よ」

「じゃあ美影さん、どうぞ」


 指名された姉さんは、わりと上手な口笛でリクエストした。その曲は誰もが知っており、音楽の入門用としても広く浸透しているクラシック曲だ。


「きらきら星か。僕は大丈夫。南川は?」

「余裕のよっちゃん、合点承知♪」


 指をパチンと鳴らした南川の行動は意味不明だが、いつも通りだ。こいつの行動を100パーセント理解できたことなどただの一度も無い。


「……うぜぇ」


南川は鼻歌を歌いながらエレキギターとスピーカーを配線で繋ぎ、何度か弦を弾いて音量を確かめた。準備が整うと親指を立てて僕に向けた。


「僕から始めればいいのか?」

「一番を弾き終わったら私も入るから」

「へいへい」


先ずはノーマルの楽譜に忠実にきらきら星を弾く。なんてことない入門の楽譜。ピアノを止めて久しい僕でも、まだ楽譜無しで引ける曲だ。

一番を弾き終わったところで南川がギターで主旋律を弾き始めた。僕は演奏の速度を上げる。音楽用語言うならストリンジェンド。白と黒のモノトーンの鍵盤の上で指を跳ねらせる。

きらきら星変奏曲。

かの有名なモーツァルトがアレンジしたきらきら星だ。彼の自由奔放な感性によって単調なリズムが変幻自在なリズムへ変わっている。


しかし欠点がある。楽譜通りに弾くとピアノは綺麗な音がなるが、ギター曲ではないのでアレンジ無しでギターを弾いても綺麗に合わない。どうしても幼い音楽になるのだ。


「すごい……」


だと言うのに、南川の弾くギターサウンドはカッコよく仕上がっている。そうして、ピアノとギターの音色が一つの曲として成り立っている。僕はただ楽譜通りに弾いているだけなのに。南川の実力は知っていたつもりだったが、ここまでとは思わなかった。

負けてられないなぁ。

対抗するべく演奏の雰囲気をポップに変えた。


「ぁ……」


誰かとも知れぬ漏れ声が聞こえた。カッコいいエレキギターに合わせるのが、普通に弾いたピアノじゃダメだ。だから、遊んでやる。ピアノなんて所詮は遊びなんだから。今までは綺麗に、美しく。これからのピアノは楽しく弾くんだ。もう楽譜に忠実になる必要なんてない。もう僕には自分が何を弾いているのかさえ分からない。ただ、自分が奏でたいと思った音を奏でる。


あぁそうか。僕はピアノが好きなんだな。

弾む。弾む。弾む。

指が、足が、自分も思っていなかった程に動く。瞼を下ろしても闇はない。耳から聞こえてくる音色が世界を彩らせていく。自然と笑顔で溢れる。

過ぎていくはずの時間が、終わりが来るはずのメロディーが、消えて行くはずだった想いが、全てが反転していく。時間は止まり、メロディーは永遠に。思いは再び高く舞い上がる。


音楽室にいた3人が目を瞑り音色に耳を傾けていたその時、無作法にもスマホの着信が鳴り響いた。その音で演奏を止めてしまう。


「あ、ごめん」


 咄嗟にスマホを取り出す姉さん。だがもう時すでに遅し。完全に興が冷めてしまった。


「もうやめちゃうの?」


 僕とは反対に南川にはまだ続ける意思があるらしい。


「約束の10時だからな」

「そっか。やっぱり、奏多はピアノが上手だね。聞いてて落ち着く音色だ」


誰かに演奏を褒めてもらうのは、やっぱり心地が良い。本当に褒めてもらいたい相手は一人しかいなかったとしても、音は空気を伝播するものだから、他の誰かにも届くのだ。


「ありがと」


 弾くのを辞めたのは、興が冷めたからでも、約束の10時だからでもない。本当は心の限界を感じたからだ。あの狂ったようにピアノを弾いていた日々を思い出して、涙が零れそうだったからだ。

努力は必ず報われる。僕の嫌いな言葉だ。報われない努力の方が大多数だし、その言葉で人の選択肢を奪う事だってあるから。

たった一人の為にピアノを弾き続けた日々は、確かに美しい想い出としてアルバムに保存できるだろう。けれど、結果が伴わなければ無駄でしかない。何も得られなかったのだから。だったら、そんなものはすぐに捨てなければならないんだ。


もうこれで最後だ。時間の無駄だったとハッキリわかったのだから。


「また弾いてみせてよ」


 南川は優しく言ってくれた。僕の真意を分かっているというのに。


「……気が向いたら」


もう弾くことはないだろう。この演奏で割り切ったのだから。自分がピアノを好きでも、ケリを付けることができたのだから。


「南川、あと誰が来るんだ?」


 話を逸らすために、忘れかけていた本題に舵取りをしてみる。


「弥生と橘花ちゃん」

「梓も呼んだのか?」

「人数は多い方がいいんだってさ。ほら、弥生も軽音部の関係者みたいなものだしさ」

「梓も不幸だな。部員でもないのに放課後に付き合わされて」


 嫌そうな顔をして悪態をつく梓の顔が目に浮かぶ。


「それはあんたも同じにゃ」

「にゃ、はやめろ。気持ちが悪い」

「あらら、弥生は可愛いって言ってくれるんだけど」


 何の前触れもなく猫娘化されても可愛くない。もしや誰にも言えない悩みを抱えていて、その弱い心が化け猫にでも付け込まれたんだろうか。黒とか白とかになったり……。いやいや、流石に本の読み過ぎだな。


「梓の言うことの7割は適当だ」


 この発言にもソースはなく、適当である。


「承知の上よ」


 たぶん、南川の返事も適当。


「そうだった……君は梓に対してそっちだったな」


 しかし、これは本人から聞いた発言だ。いつも適当に話す南川だが、あの夜の南川の発言は間違いなく真実だ。


「それは言っちゃいけないよ、奏多」


微笑むと言うよりは、強がるように南川は呟いた。


それから3人で梓と橘花と待ったが、30分経っても姿を見せる事はなかった。


◆◇◆


私はどうしてあの時、答えなかったのだろう。

自分の感情に嘘をついてまで、大好きなあの人を苦しめたのだろう。

自分には資格がないから?

自分には時間がないから?

自分には勇気がないから?

自分が宇垣橘花という人間だから?

またそうなんだ。これからもそうなんだ。

あんな演奏を私は聞いたことがなかった。聞かせてくれたことがなかった。

あんな音を奏でられる人だって知っていれば、今はもっとよかったはず。そう願う事も出来たのに。震える手を握る微かな意味を見出せたのに。


「……ばか」


そう呟くことでしか憧れを渇仰できなかった。こんな弱い自分を許してください。

ごめんね、奏多くん。私も大好きなんだよ、あなたの事。

屋上で両足を抱えて空を見ながら考えた。誰もいない春の空を全部ふたり占めに出来ればいいのに。貝寄風が髪を優しく揺らし、静寂が頬を撫でる。


「早く……夏がくればいいのに」


夏が来ればこの感情と不便な体にさよなら出来るから。毎年鬱陶しかった蝉の鳴き声が今は酷く恋しかった。


「どうして、上手くいかないんだろうなぁ……私は」


空を見上げていると、屋上の扉が開く音がした。私は目尻に浮かんだ涙を制服の袖で拭いとる。


「瑠璃の後輩……」


 不機嫌そうな声だ。声の主は真っすぐ歩き、私の隣に座った。


「梓さん……」


 その人の名を呼ぶ。梓さんは、私の方に目もくれずに空を見上げながらストローを咥えて、ミルクティーを飲んでいた。


「どうしてこんな所にいるんですか」


 私の質問が聞こえていないのか、返事はなかった。代わりに、ため息が聞こえていた。気まずくなったから、私は顔を伏せて隠す。


「ねぇ、あんたたちってさ」


その言葉で、私は顔を上げて梓さんの方を見た。


「実は馬鹿なの?」


 淡々と発せられたその言葉からは、意図は汲み取れなかった。ただ私の頭の中に疑問符だけが浮かんでいく。


「……?」


返事することも出来ずに、首を傾げてしまう。


「はぁ……なんで私が説明しなきゃいけないのかなぁ」


 紙パックのミルクティーを飲み干し、手で握り潰した梓さんの表情は寂しそうだった。私はやっぱり何も言えなかった。


「あなた、あいつのこと好きなんでしょ」

「……」


 鳥肌が立ったかのような感覚に見舞われた。腕をさすってみるが、鳥肌は立っていない。


「どうして私が冴羽先輩のことを好きだと思ったんですか?」


 だめだ。これじゃあ図星でイライラしている人みたいになる。


「名前を出していないのに、あなたの中で特定の人物に変換されてるわよ」

「あ……」


 しまった。まだ誤魔化せるだろうか。


「共通の知り合いが冴羽先輩しかいないからです」


 とりあえず適当な嘘を口にする。


「……なんだ、やっぱりただの馬鹿なのね」


 そう言った梓さんは、立ち上がって屋上の扉の方へと歩いて行った。


「待ってください! どういう意味なんですか、私が馬鹿だって 」


 ドアノブにかけていた手を動かさずに、梓さんはこちらを向いた。


「だってそうでしょ。計算も証明も根拠も要らずに確定させることのできる答えを知っていながら、それを認めてないんだもの」


 梓さんの言葉は、回りくどくて意味が分からない。


「私が冴羽先輩のことを大好きだって、梓さんには分かるって言うんですか!」


 声を荒げそうになるのを必死に抑えながら言った。


「へぇ……」


 梓さんは、さっきよりも不満そうな顔になった。


「あなた、馬鹿なんじゃなくて、頭の中がお花畑なのね。それも枯れアザミ」


 私はナイフで心を抉られたような錯覚をした。枯れ際の花だと言われ、自分でそれを否定ができない。本当に枯れ際だと思うから。


「私はね。あなたを見るとイライラする。あなたは彼から愛されている事実に甘えているだけ。浸っているだけ。優越感に抱かれながら悲劇のヒロインを演じているただの阿呆」

「っ……」


 私は言葉が出てこなかった。梓さんの本気が覗えて、その熱さに体が焼かれる痛みを感じる。


「私にはあなたが理解できない。理解できなくて気持ち悪い」


 感情の嵐に私は立ち尽くすしかなかった。


「私は好きになった人には幸せになってほしいと思うわ」


 梓は自分に呪いをかけるように言った。


「だけど、あなたはそうじゃないのね」


 違う。違う。そんなことはない。私は本当に奏多くんに幸せになってほしくて……。そんな私の心を知ってか知らずか、梓さんは冷たい一言を放った。


「彼の幸せを願うなら、彼の前から消えて。一日でも早く。一分一秒でも早く」


 それが最善手なことは分かってる。でも……できないよ、私には。


「……不愉快よ、あなた」


 バンッと勢いよく屋上の扉は閉められた。その音が鼓膜に貼りついてしばらく消えてくれなかった。


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