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ちっぽけな人生

はじめに

 短編ですが、この作品の文字数は約1万字となっております。少し長いですが、一気に読み切ってくださった方が作品に浸りやすいと思いましたので区切らずに投稿いたします。あらかじめご了承ください。

 さくっと読み切れる作品になっていると思いますが、段落番号が1〜11まで振ってありますので、必要に応じてご活用ください。

 一夜の出来事は夢のように儚く、まるで嘘だったかのように微睡まどろんで、今日もまた、昼下がりからの日常が始まる。少し頭が痛いのは寝不足か二日酔いか定かではないが、直近の不健康な生活による影響であることは明らかであった。

 夜明け前の白んだ時間、名古屋の街をひとり早足に歩いていたとき、このまま死んでしまえば綺麗なものだと思っていた。どうせ生きていてもちっぽけな人生、かつて作った空っぽな虚構に縋り付いて、それを失った今も、割り切れないまま他人にエゴを押し付けて生きているのだから、消えたところで誰も損をしないと思った。それどころか同時に、今死ねるのなら歌劇よりも悲劇的に、舞台よりも感動的に、自分を取り巻いていた小さくて大きないざこざを終わらせられるとも思った。すなわち、死ぬタイミングとしては完璧だと思ったのだ。

 始発電車は思いの外遅い。千種ちくさの駅前のカラオケ屋のフリータイムは朝の五時までで、時間に追われるようにM先輩と出たものの、中央線は五時五〇分まで来ない。M先輩から「それだけの時間があれば大曽根おおぞねまで歩けるね」などと、冗談とも本気とも取れる発言をされ、そうか、大曽根まで歩いてしまえばいいのかと思い立ち、隣の駅の大曽根へと向かったが、彼女は「私は行かないよ? ばいばい」と告げて、僕のもとから去っていった。

 薄情な人だろうか? そうかもしれない。そもそも彼女は、この前の木曜日に突如として連絡をよこし、僕をご飯に誘ってきたのだ。そうして昨日の昼下がり、大学下のコンビニで待ち合わせて落ち合ったのだ。


 少し前まではビニールハウス並みの灼熱だった世界も、この土曜日は気が変わったのか秋晴れを設定してきた。久しぶりに高く澄んだ空を見て心が和むかとも思われたが、就職をしてお洒落になったM先輩を見たとき、心の中に落ち着きとは真逆の感情がほとばしった。

 去年までの3年間でよく見慣れたボブカットだが、髪色を少し明るく染めて、内巻きのカールを軽くかけていた。灰色の薄手ニットに真っ黒なスリムパンツを合わせ、その上からウールタッチのベージュのコートを羽織っていた。背中には、そんな柔らかな秋模様のコーデと裏腹に、ゴツゴツのハードケースを背負っている。その正体は、彼女の相棒のホルンだと推察される。

「あ、おった。ひさしぶりー」

 僕を見つけると、アイラインで少し強調された瑞々しい目をやんわりと細め、しかし相変わらずの軽い雰囲気と口調で手を振ってきた。

「お久しぶりです。……暑くないですか?」

「んー、そうでもないで? 今日は少し寒いくらいやし」

 彼女はそう言って笑った。暦の上では確かに秋だが、それでもまだまだ暑い日が続いていたし、今日だけが偶然涼しいだけであると思うのだが、それでも寒いとまでは言えないと感じた。だからこそ、M先輩の本格的な秋の装いがどうも暑そうに思えてしまったが、本人は実際そんなでもないと思っているようだった。

 ご飯を食べに行こうと誘われたが、まだ夕飯には早かったため、しばらくドライブをすることにしたが、行く宛もないので多治見の市街や瀬戸の山、春日井付近を二時間ほど適当に走り回った。

 車の中で、M先輩に「彼氏作んないんですか?」と質問してみると、「仕事が忙しいからな、作ろうと思ったけど辞めた」と返された。

 M先輩との関係性は、今のところただの先輩後輩に留まっている。強いていうなら、かつて僕がM先輩のことが好きだった時期があるものの、部内恋愛を絶対にしたくないという彼女の価値観や、僕と親しくしてくれていた部長のT先輩がM先輩のことを好きだという話を耳にして身を引いた。

 思えば、これが第一の分岐点だったのだろう。身を引いた僕は、その数ヶ月後にM先輩の協力のもと、その友人であるAさんとお付き合いを始めることになった。それから順調に二年が過ぎたものの、Aさんが就職して二ヶ月が経ったときに「生活習慣が合わないから」という理由で振られるに至った。それ以降、今日までの五ヶ月の間で、心の拠り所を失った僕は様々な失態を犯してきた。

 親しい友人二人と絶縁状態になったり、現実逃避のために自分のキャパシティを超えた仕事を引き受けて案の定うまくいかなかったり、それでもって誰かに縋りたくなっても誰にも縋れなくて、ただただ悶々としながら下宿に引きこもって、怠惰を極めていた。それではダメだと思い立って、Aさんとの復縁を考えて電話に踏み切ったものの、敢えなく撃沈し、また再び塞ぎ込んでいた。

 そんな精神状態のときに舞い込んできたのがM先輩とのご飯の話で、縋る思いで誘いに乗った。下心が全くないわけじゃなかった。ぶっちゃけるなら、もしかしたら付き合えるかもしれないとも思っていた。しかし同時に、Aさんと近しい存在であるM先輩と付き合うのは憚られるし、結局今まで僕が犯してきた失態の全てはAさんの代わりを求めたことによる依存性に起因しているのであるために、先輩に対しても失礼だと強く思っていた。

 それでも、聞きたくなる。もしM先輩にその気があったのなら……

 運転中、そこまで考えるも、本当に心から喜んで付き合えるのかが分からなくなって、葛藤と逡巡をし続けた。結果、偽善で取り繕われた僕の口からは、心の底に抱いたままの付き合いたいとか甘えたいとかという想いとは裏腹に「先輩とは付き合えませんので云々」と告げていた。M先輩は愉快そうに笑って、「そりゃこっちもお断りやわ」と返してきた。


 家の駐車場に戻ってきて、そこからは歩いて駅を目指した。車の中でお酒を飲みたいという話になり、電車で名古屋まで出ることにしたのだ。

 駅までの道中、僕は初めて、僕の口からM先輩にAさんと別れたことを話した。車の中で恋愛話を振ったのも、僕とAさんが別れたことを知っているのかどうなのかを確かめるためだった意味合いがあったが、それらは殆ど意味をなしていなかったため、直接打ち明けることにした。

 M先輩は既にAさんから話を聞いていたようで「それについて触れてええんか分からんかったわ」と笑っていたが、詳しい事情は知らない様子だった。とはいえ振られた側の僕から話せることも少ないため、また後日改めてAさんから聞いてくださいと伝えておいたが、僕視点での話をM先輩に語った。

 M先輩は、語る僕に対して何も言わなかった。


 中央線に乗って名駅めーえきを目指す。土曜の夕方ということもあり、名駅は人でごった返していた。M先輩と逸れてしまいそうに思え、一瞬、手を繋いだほうがいいのではないかという邪念が頭を過ぎるも、必死にそれを振り払ってなんとか桜通り口までやってくることができた。

 お店を決めているわけではなかったため、以前ゼミの飲み会でお世話になったとあるビルの四階にある某焼き鳥チェーン店へ入ることにした。

「あ、お兄さん! お店決まってますか? もしよければうちどうですか? 五階にあるんだけど」

 そのビルの、エレベーターへと続く通路で、チャラチャラしたキャッチのお兄さんに呼び止められた。無視をするかしないか考えたものの、キャッチニキは「うち、完全個室で、何しても誰も何も言いませんから。ほら、綺麗な彼女さんいらっしゃるじゃないですかぁ」と言ってきたので無性に腹が立ち、即席で笑顔を取り繕って「お誘いは嬉しいですが、ごめんなさいね。もうお店、決めてるんで」と言って断った。それで終わるかと思ってキャッチニキに背中を向けたとき、

「どこ行かれますか?」

 としつこく食い下がってきたので、

「お兄さんのお店の下にあるところです」

 そう笑顔で返したら、キャッチニキは少し嫌そうな表情をしてこちらを見てきたが、ちょうどエレベーターが来たのでそそくさと乗ってバイバイした。

 エレベーターの中でM先輩が「優しいんやな」と微笑んできた。

「誰がですか?」

 訊くと、「君が」と返ってきた。キャッチニキの話ではなかったようだ。

 しかし、本当にそうだろうか。僕は彼に、嫌味を言っただけだ。結局、キャッチニキは仕事であれをやっている。もしかしたらやりたくもない仕事かもしれない。それでも客を下階の某有名チェーン店に取られてしまっているから出動しているのであって、その客を奪うことを目的としているはずだ。なのに、そうと知りながら僕は、M先輩を「綺麗な彼女さん」と表現され、僕の彼女であるかのように扱われたことや、ニキから感じたM先輩を見る目に対する下心に腹を立てて、ライバル店の名前を暗に伝えて去ったのだ。そんな奴を、優しいと表現できるのだろうか。

 とはいえ、キャッチニキにも失態があった。それはしつこく食い下がったことだ。キャッチの仕事上、店名を聞くことが義務付けられているのかもしれないが、最後の質問がなければ僕はそんな嫌味は放たなかった。しかし義務付けられているような文句だったら、そんな嫌そうな顔はしないでもらいたいところである。

 複雑な内省を抱えているうちに、エレベーターは四階に着いた。M先輩とお店に入ると、ほぼ個室なのではないかと思えるような仕切りで区切られた二人席に案内されて、あまり人の目を気にしなくてもいい環境が手に入った。

 お酒といっても僕はビールしか飲まないし、M先輩もハイボールしか飲まないため、頼むものはほぼ決まっていた。しかし食べ物に至っては、M先輩は(女性特有のものかもしれないが)あまり積極的に頼もうとしないため、僕が「何か食べたいのあります?」とばかり訊いて、M先輩から「なんでもええで」とばかり返ってくるような、そんな応酬を繰り返すだけだった。


 お酒を飲み始めて三〇分くらいが経過したとき、僕はようやく本題を切り出した。

「それで、なんで今日、僕を誘ったんですか?」

 それに対してM先輩は、少し表情を引き締めた。お箸を置いて、何か決心したかのように「そうやなぁ」と語り出した。

 曰く、決心がついた、とのこと。この瞬間、僕の心が飛び跳ねた。お酒が入って、ただでさえ鼓動が速いのに、体が熱いのに、更に拍車を掛けてきた感覚がした。

 車の中でも考えた葛藤が再び蘇り、逡巡した。しかし同時に、友人の元カレと付き合いたいなどと言い出すような相手でもないと頭の中では理解していて、それ以外の話題だとしたら何なのか、それも皆目見当がつかなくて怖くなった。

 M先輩の話は、もっと純なものであると同時に、僕が思っていたよりも過去のことに対する決別だった。

「私な、この前Tと会って話したんよ」

 その前置きの時点で、予想通り恋愛話であることは確定したが、僕が期待していたものではないと理解した。

 M先輩は、T先輩との間にあったいざこざにけりをつけてきたと言う。結局のところ、当時の状況は酷いものだった。M先輩を好きだったT先輩だが、そのT先輩に対して僕の同級生のHさんが告白して振られ、そこで初めて公になったのがT先輩の恋情だった。それを知ったM先輩は、友人だったT先輩との間に気まずさを感じるようになり、最後は二人が喧嘩してM先輩が部活を去って終わった。M先輩が好きだった僕はこれに巻き込まれそうになったものの、T先輩の恋情が拡散されたときに身を引いて、この一件においては間一髪で難を逃れた形となった。

「Tは相変わらずクズやったけど、その考え含めて私は受け入れることにしたわ」

 M先輩の言葉はそんなものだった。それを聞いた僕は、自分に何が求められているのかを判断してみる。すると、きっとこれはM先輩とT先輩をくっつける協力をしろと言われているのだろうという結論が出てきた。理論としては、Aさんと僕をくっ付けたんだから、今度はお前が役に立てといったところだろうか。

 だが、同時に大きな矛盾を孕んでいると感じた。M先輩は車の中で、彼氏はいらないと言っていた。となると、彼女が語った内容の趣旨は、

「受け入れるって、仲直りしたっていうことですか?」

 そうなるだろう。

「せやで」

 相変わらず軽い返事がきた。それで会話が終わり、しばらく沈黙が降りかかったので、

「……それだけですか?」

 思わずそう訊いてしまった。

「それだけやで。仲直りしましたって報告。なんの前置きなしに話せるのって君しかおらんやろ、やから誰かに話したくて呼んだだけやで。まぁ、話すか迷ったけどな。思ってたより病んでたし、そんな人に聞かせる話ちゃうかなとか思ったで」

 M先輩からの返答はそんなものだった。しかしそれに付け加えて、

「あとAちゃんとどうして別れたんかとか、何があったかとか、そういうのを君視点から聞きたいとも思ったし」

 と言うが、僕としては彼女の本題はこっちじゃないかと思った。


 そこからは当然、恋愛話になる。駅までの道である程度話したので、Aさんとの間に何があったのかは殆ど触れられなかったものの、別れてからの五ヶ月間に起きた、僕を取り巻く恋愛模様を根掘り葉掘り訊かれた。

 根底にあるものとしては、Aさんの代わりのような心の拠り所を探しているということだ。そのために彼女のような存在を欲していて、その矛先が自分と親しい間柄の女子に向くのは信頼関係上当然の話であり、ある程度遊びに行くも、当然向こうにはそういう気がないために告白すればどちらにとってもストレスとなり、絶縁に至るのだ。

 その犠牲者が二人ほど出て、自分の愚かさに苦しんでいるのが現状だと伝えた。酔いが回っていたため、全てを赤裸々に話した。

「そうかぁ、私にはどうすることもできんからなぁ」

 M先輩はそう言う。しかしお酒が入った今の僕には、自分の根底にある感情を取り繕うという思考などなく、

「付き合ってくれればいいのに」

 と言ってしまうのだった。当然、M先輩は困ったような顔をしていた。

 M先輩との間に脈がないことははっきりしている。当然、それを理解している。でも事実、甘えたくて仕方がない。好きだった人だし、親交があるし。しかし僕は、また同じ過ちを繰り返した。M先輩に告白して、以前の二人のようにまた拒絶されるかもしれないと、そう思ったら、辛くて仕方がなくて、自分の軽率さや無能な判断力に腹が立って、悔しくて、涙が出てきた。

 机に伏したくなる気持ちを堪えて、ギリギリの状態で、僕はM先輩に、小さな声で、

「……嫌いにならないでください」

 そう告げていた。

 M先輩の顔は見えない。

「ほんま可愛いなぁ」

 しかし、柔らかな声が耳に届いてきた。

「……かわいい?」

 僕は顔を上げてM先輩を見ようとしたが、視界が歪んでいることに気付いて焦って俯いた。泣き顔を見られたくないというのは、男の本能として備わっているようだ。

「せやで、可愛い。あんなぁ、私からしたら後輩なんて無条件で可愛いんやで? そんな可愛い存在が、私に嫌われたくないって一心で、か細く、泣きながら、嫌いにならないでとか言ってきたらそりゃ嫌いになれへんし、逆に可愛さカンストしてまうわ」

 俯く僕に、ケラケラ笑いながらM先輩は言った。

「そんなもんですかね」

 僕は疑問に思ったが、M先輩から可愛いと言われたのが存外嬉しかったようで、不思議な気持ちになった。

 しかし同時に、その嬉しさの裏に隠れている「可愛いと思われれば甘えられるかもしれない」という下心がちらついていることに気がついた。

 僕は自分が怖くなった。

「僕はただ、甘えられる人を探しているんです。だから、甘えさせてくれれば僕はそれでいいんです」

 M先輩にそう告げた。

「内容によるが、まぁええんとちゃう? 後輩なんやし、先輩に甘えとき」

 彼女は僕の言葉にそう返した。その言葉に、下心は当然有頂天になった。

「では、ハグできますか?」

「まぁ、しようと思えば」

「キスできますか?」

「……あー、そこまでくると恋情がちらつくから無理やな」

 M先輩へ質問し、そっから返ってきた内容に、ならばハグまでは許されるのかと勝手な解釈をして急かしてくる下心。それを必死に自制して、そんな結論になどならないと、そんな理論にはならないと、頭が必死に即席の善を用意していた。

 お酒が入ると静かになるという定評のある僕だが、どうやら違ったようだ。静かでいられるのは、結局、自制心がまともな役割を担っている時のみだったようだ。実際にビールをジョッキ五杯ほど飲んだ状況では、猛烈な頭痛を感じながらも、全てを赤裸々に語ってしまうほどの醜態を晒すだけの気色悪い生命体に変貌してしまうようだ。


 気付けば時間は日付を越えようとしていた。

 中央線名古屋口の終電は〇時五分であるため、今すぐお店を出たとしても間に合わない。帰宅手段は徒歩しか残されていなかった。

 終電、なくなっちゃったね。

 このセリフを言おうとした自分がいたが、これは女の子が言うからこそ素晴らしいのであって、こんな醜態を晒していつどんな行動で嫌われてもおかしくないような酔っ払いの男子大学生が言う言葉ではないと気付き、同時にこれ以上M先輩から嫌われそうなことはしちゃいけないと思って言わなかった。

 金額は五五〇〇円ほどであったため、M先輩に二五〇〇円ほど渡そうとしたら断られた。しかし散々迷惑を掛けたのも事実であるから、せめて二〇〇〇円くらいは払おうとするも、誘ったんだから私が払う、と頑なだった。

 電車がなくなったため、M先輩に「カラオケに行きませんか?」と提案した。彼女は「ええで」と二つ返事で許可してくれた。

 どこのカラオケ屋に入るか全く決めないまま件のビルを去って、とりあえず栄方面に歩いた。するとM先輩が、「うち千種なんやけど、そっち方面に行ってくれるなら帰るの楽やで嬉しいな」と言うため、僕らは深夜の名古屋を、名駅からさかえを経由して千種まで歩くことにした。


 道中、栄の電波塔を見て、東京タワーだの鉄塔だの、似て非なるものについて話したり、千種駅が思ったよりも低いところにあって驚いたり、もう冬の星座であるオリオン座が見えていることに季節を感じたり、二人で夜を楽しみながら過ごした。しかしすぐ隣にいるのに手を繋げないこのいびつさや、酔っていても微かに残った正常な判断がこの瞬間は鬱陶しく思えるなど、心の中では常に何かしらの悶々があった。

 歩きながら、僕が以前お酒を飲んで記憶を飛ばしたことについて話をした。

「今日もまた飲みすぎましたので、きっと記憶は残りませんね」と言うと、M先輩は笑って「じゃあ私も、今日のことは全部忘れるよ」と言ってきた。だから僕は、

「この夜のことは、全て忘れてしまいましょう」

 そう言ってみた。すると彼女はいつもと同じ調子で笑いながら、「そうしよう」と言う。それを聞いて、僕の下心が脳の自制を突破して口から出てきた。

「全て忘れてしまうんですから、今夜、僕が先輩に何しても許してくださいね」

 それに対してもM先輩は、

「ええで」

 と返す。しかしその声に、笑いは含まれていなかった。それが本気か冗談か、それとも怒りの類なのか分からなかったが、確かに先輩はそう言ったのだ。

 だったらどっかホテルにでも連れ込んで、やることをやってしまおうかと思ったのは、間違いなく下心だ。しかし、それは流石に脳が許さなかった。自制装置が作動し、そんなことは絶対に許さないとする自分がいつも通り善を取り繕った。

 その自制心によって出てきた善は、M先輩に対しても多少の怒りを持っていた。僕は立ち止まって、M先輩に言った。

「いいって……。どうするんですか、僕がもし、先輩に抱きついたりキスしたり、手出したりしたら。しかねませんよ、今の僕じゃ」

 すると先輩も立ち止まって僕を見て、

「そういう奴なんやなって軽蔑して、今後距離を置くだけやで」

 そう言ってきた。僕は俯いた。心の中にある感情は、やはり嫌われたくないようで、相変わらずチキンそのものだと思うが手を出すことは考えられなくなった。忘れると言っていたのに話が違うじゃないか、とか、そんなことは一切思わないのだった。

 それを見透かしたように、M先輩は今までよりも真っ直ぐ僕に向き直ると、

「せやけど、できんやろ? そんなことしないし、してこないっていう信頼が私にはあるで。それを崩してまで私に手出すなんて、できんやろ?」

 そう言ってきた。煽り文句のようにも思えたが、たしかにそういう信頼を築いてきたという自覚があったが為に、それが煽りではなく、忠告であることは理解した。これをされてまで手を出したのであれば、待ち構える未来は絶縁のみだと、僕の脳は判断した。

「……しませんよ。しませんし、できません」

 僕はそう言って、再び歩き出した。

 M先輩は、何も言わなかった。


 カラオケ屋に入ったのは、深夜一時半ごろだった。M先輩とカラオケに来るのは初めてで、それも二人きりで狭い空間にいるのは嬉しい反面不安でもあった。

 不安の原因は、僕の中に甘えたい欲が強くあるところだ。こんなに狭く暗い空間に二人きりならば、下心が驕り高ぶるのは明白だった。

 しかしその実、歌い出してしまえばそれほど気にならなかった。喋るのは楽しいし、面白く、飲みの席以降色々とあったものの、今まで通りただの仲の良い先輩後輩の関係を維持できていると実感できた。また、酔いが覚めてくるに連れて徐々に意識も正常化してきて、M先輩に対する下心が薄れていった。とはいえ、甘えたい気持ちは健在であるが、手を出そうとか、そういう鬼畜で最低なクズの思考はなくなっていった。

 M先輩は一人カラオケを好む人で、普段あまり人とカラオケに行かないという。そんな彼女が一緒にカラオケに来てくれたことにまず感謝するべきだ。また、彼女の意思も尊重しなくてはならないため、彼女がカラオケで何を歌ったか、どういう歌い方をしたのかなどは、全部僕の心の内に留めることにする。

 カラオケへ行くと往々(おうおう)にしてそうだが、どれだけ歌っても帰る時には歌い足りなくて仕方がない状態になる。今回も例外ではなく、やはり歌い足りなかったが、時間が迫って五時に退店した。

 そうして何もないまま、何もできないまま、まだ暗い十月の朝を迎えた。名古屋の街は十六度にまで冷えて、M先輩の暑そうな服装がちょうど良く似合うくらいだった。

 始発電車は思いの外遅い。千種の駅前にいようとも、中央線は五時五〇分まで来ない。

「それだけの時間があれば大曽根まで歩けるね」

 M先輩は僕にそう言った。先輩の言葉に、僕はそうかと思い立ち、

「では、大曽根まで行きましょう」

 とそう言うと、先輩はキョトンとして、

「私は行かないよ?」

 と返してきた。もちろんこちらも先輩についてきて欲しいわけではなかった。否、ついてきて欲しくはあったが、千種に住んでいる人を大曽根まで歩かせるつもりは毛頭なかった。それに彼女はずっと、ホルンを背負っているのだから尚更である。

「じゃ、私こっちやから」

 千種駅から少し進んだ場所で、M先輩は僕に言った。

「ありがとうございました」

 そう伝えると、

「うん。暗いで気を付けてな」

 優しい言葉が返ってきた。また、彼女は小さく右手を振っていたから、僕も向かい合う位置にある左手を振ってバイバイをした。

 最後にタッチくらいできないかと思って彼女の右手の前に左手を伸ばしてみたが、表情ひとつ変えずに手を振られたので諦めた。ハグもできなければ、手も繋げない。それどころか触れることもできない彼女に、心のどこかでこの一晩における距離の変化を感じていた。

「ばいばい」

 M先輩がそう言った。僕も「また」とだけ返して、二人とも真逆の方向へと歩いていく。


10

 夜明け前の白んだ時間、名古屋の街をひとり足早に歩く。先輩と一緒にいた時と比べて倍くらいの速さで、大曽根駅まで歩いた。

 歩くのは好きだが、歩いている時に巡ってくる思考は嫌いだ。

 先輩との間に感じた距離。それは、この一晩で生まれたものだろう。僕が赤裸々に語りすぎたがために、僕からの感情に違和感を覚えたがために生じた、心のどこかで拒絶を含んでいるようなものが、きっと先輩の心に芽生えたのだろう。

 またやった、やってしまった。僕は後悔に苛まれた。自分が何をしたいのか、何がしたかったのか、何一つ分からない。甘えたいだけなのか、彼女としてしっかり向き合いたいのか、それともただ、Aさんの代わりを探しているだけなのか。いずれにせよ、まともな感情ではない。M先輩は僕のことを後輩としか思わないだろうし、本来は僕もひとりの後輩として生きるべきだ。親しい仲にあるのなら、親しい仲でいるほうが幸せだ。しかし、なぜそれをしない。そうしようとしない。僕は僕が分からなくなって、結局何一つ、いい方向に転がらなかった一夜というさいを睨み続けた。

 あぁ、いっそこのまま死んでしまったほうが良いのではないだろうか、と、さっきまで散々有頂天になっていた下心が囁いた。今死ねば、M先輩は自分の死に責任を感じて、一生僕を思ってくれるはずだと、恐ろしい発想が生じ出した。

 同時に、そう感じるのはM先輩だけではなく、きっと絶縁した二人も、Aさんも、みんなみんなその死について責任を感じるはずだとも思う。そしてきっと、誰が奴を殺したんだと騒ぎになって、その死からは逃れられなくなるんだと、下心はわらう。

 綺麗なものじゃないか。そんな終わり方で全てにけりがつくだなんて。拒んだ奴に深い傷を、致命傷に至るほどの傷を負わせて、あの世でもう一回、一からやり直せれば、その方が幸せなんだと、思考は巡る。誰が僕を殺したのか、しっかり考えておけ。そんな酷いことを考えながらも、それが楽しくなってきて、意気揚々と死について脳内討論をする。

 結局のところ、死んでしまえばもう二度とこんな風に悩まなくてよくなるし、これ以上の被害者も生み出さなくてよくなる。こんな小さな自分の中のこんなに大きな問題を、一瞬にして片付ける方法として最善であると、本気でそう思った。

 大曽根駅に着いて、僕はホームに上がった。飛び込めば死ねるとそう考えるも、痛そうだとか、確実に死ねるか分からないだとか、始発列車を停めたら残された遺族への賠償請求が計り知れないとか、散々なことを考えて飛び込まなかった。

 そうして病んだチキンがひとり、のこのこと家に帰ってきた。

 死ぬのに最高なタイミングを失ったため、死ぬ気はどこかに失せてしまった。

 水筒に残ったお茶を飲み干して、水筒を洗って、シャワーを浴びて眠りについた。朝七時の出来事だった。結局、就寝時間はいつも通り。


11

 起きてみれば、一夜の出来事は夢のように儚く、まるで嘘だったかのように微睡んで、今日もまた、昼下がりからの日常が始まる。

 迷惑なものだ、こんなちっぽけな人生は。

名駅めーえきとは名古屋駅のことです。

この作品はフィクションです。


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