1章-1話:小惑星基地ラー
小惑星基地ラーで進められていた極秘兵器の開発は最終段階へと差し掛かっていた。
『単騎で戦況を覆す』そんな無理難題を達成し得る機体が、今まさに産声を上げようとしているのである。
しかし、ホルス本国から度重なって放たれたマスドライバーによる輸送を地球側も観測していた。
民間の疎開先や前線に対する補給としてマスドライバーによる安価な輸送が行われること自体は珍しくないが、それにしては規模も頻度も大きすぎるその輸送に地球側は警戒を示していた。
彼らはホルス国周辺の索敵を強化し、その手はラーへも迫りつつあるのだった……。
地球から空を見上げれば、それは青、あるいは黒だろう。また、天気や時間帯によっては灰色や橙が観測されることもあるかもしれない。
では、宇宙から空を見上げると何が見えるのだろうか。
———それは、"黒"である。
宇宙には大気が存在しないのだ。光の屈折によるカラフルな空の色を楽しむことは出来ず、宙間を漂えば夜明けや上下の概念すら存在しない。
360度、延々と続く真っ黒な空間に星々の光が浮かび、宇宙の星空は大気の影響を受けないため揺らぎがない。スカイランタンを下から眺めると空の広さに圧倒されるように、克明な星々が奏でる立体感は宇宙の広大さを実感させてくれるだろう。
広大な空間にたった一人。それはさながら透明度の高い海に放り込まれたような感覚だ。海洋恐怖症の人は恐怖すら抱くかもしれない。
———そして、そんな暗闇にポツンと浮かぶ岩石があった。
小惑星にしか見えないその岩石には、地球から見て裏側に位置する場所に巨大なエンジンが搭載されている。また、近づいて目を凝らせばアンテナや発電機、マスドライバーなどの施設が並んでいることも確認できるだろう。
しかし、パッと見て拝見できる施設はその程度である。この大きさの小惑星基地に港や地上へ張り出した建造物がないと言うのはなんとも珍しい。
なぜこのような構造になっているのかと言うと、これは星影を丸くすることで基地をただの小惑星に偽装しているのである。大型望遠鏡による太陽系全体の索敵は天体の円形度などからコンピューターが判定を行っており、惑星の建造物を極力減らすことで基地判定から逃れることが出来るのだ。
基地としての性能を若干下げてでもその存在を秘匿していると言うことは、ここにはそれだけの秘密が隠されていると考えるのが自然だろう。
———もうお分かりだろうが、こここそが『小惑星基地ラー』である。
秘密兵器の開発を目的としているこの基地には殺伐とした空気が蔓延していそうなものだが……。案外、そうでもないかもしれない。
さて、前置きはこれくらいにして、視点をラーへとズームインし、一つの部屋に焦点を絞ることにしよう。
———今は人間の活動開始時刻。つまり朝である。
一般的に朝の訪れといえば鳥の鳴き声や朝日の暖かさが想起されるが———いや、都会の現代人にとって鳥の声は身近ではないか。それに窓の側でカーテンを開けて寝ている人も少ないだろう。
となれば、太陽も生物も存在しない宇宙における朝の訪れを告げる事象も想像の容易い物と言える。
つまるところ、それは目覚まし時計である。
「……うぅ」
チリリ、と言う古典的なアラームが鳴り初めてから1分程が過ぎた頃。部屋の主人はようやく小さなうめき声を漏らした。そんな主人だが……。部屋を見渡してもその姿を確認することはできない。
それどころか部屋の中には人の姿すらない。確かに誰かが呻いていると言うのに。
なぜこのような光景になっているのか。それには、この部屋に存在するベッドの構造が関係している。
宇宙空間において普通のベッドで眠るのは至難の業だ。何せ無重力下では3次元空間を自由に動けるため、寝相次第では眠っている間に部屋を舞ってしまうからだ。
それを防ぐためには拘束具で体を拘束するのが一番簡単ではあるが、それでは寝付けない人も多い。また、寝返りを打てないほどの拘束は身体にも悪影響があるだろう。
そのため、よほど予算がない、または就寝スペースを抑えたい場合を除いて宇宙におけるベッドには『天蓋式ベッド』が採用されている。
その外見は……なんと形容するべきだろうか。
単純に形容するならば、『普通のベッドにふわふわなドーム状の天蓋がついている』と言うべきだ。
または、天蓋を寝巻きに見立てて『寝返りが打てるほどの大きめの寝巻き』と言った方がわかりやすいかもしれない。
上記の光景を思い浮かべて貰えば大体の仕組みは想像できるだろう。
就寝者がベッドの外に飛んでいくのを天蓋が抑え、尚かつ柔らかい素材が受け止めてくれることで打ち身も生じない。そのため無重力による浮遊感にさえ慣れれば快適に就寝することができる。それが天蓋式ベッドの仕組みである。
———さて、ここで視点を戻そう。その前提情報があれば部屋の主人がどこにいるのかも自ずと分かるはずだ。
壁際に設置されている蚕の繭を想起させる白色のモコモコな物体。それこそが天蓋式ベッドである。
……そして、その天蓋は羽化寸前の蛹のようにボコボコと動いている。
どうやら中の人間は相当抵抗しているらしい。長ったらしくベッドについて説明したが、映像さえあれば部屋の主人の居場所なんて簡単に分かっただろう。
「ん……!」
1分ほどだろうか。無駄な抵抗が終わると、ベッドの一端からニョキッと手が生えて来た。そして、それは何かを探るようにベッドの側面をペチペチと這い始める。
このベッドは目覚まし時計の機能を搭載した多機能ベッドになっている。そのため、目覚ましを止めるためにベッドの側面に備え付けられたスイッチを探しているのだ。
「うぐぬぬぬ……」
15秒ほどの悪戦苦闘。さっさと起きて目で探せば良い話だが、それを出来ないのが人間の性である。
やがてスイッチがカチッと音を鳴らし、目覚ましの音がストップする。すると、それをきっかけとしてベッド本体にも変化が生じた。
その変化とは、起きる際に障壁となる天蓋の除去である。天蓋がベッドの端にするすると収納され、中の人物が明らかになった。
そして———そこにいたのは、長い茶髪を纏った少女の姿であった。
「むぅ……」
うつ伏せでスイッチを探っていたため顔は見えないが、今縦にくるっと回って上を向いた。そのまま眠たそうに目を瞑っていたが、回った反動で体が浮きそうになってあわあわと慌ててシーツを掴む。しかしその一連の動作で思わず目を開けてしまい、とうとう眠り続けるのは諦めたようである。
体が浮かないように両手でシーツを掴みながら、彼女はゆっくりと上半身を起こした。
———彼女の第一印象としては、長い茶髪。特に動物の如く跳ねた癖っ毛が目立つ。それは元からの髪質に加えて、彼女の就寝スタイルにも関係があるだろう。
重力に従って髪が下に降りる地球とは異なり、無重力空間では髪が縦横無尽に動いてしまう。そのため女性の多くは就寝前に入浴時のように髪をまとめるのだが、彼女はそれを面倒臭がってそのまま寝ているきらいがある。
それにより、元からの癖っ毛も相まってこのような乱れ髪が完成しているわけである。
「ふわぁ……」
くるくると跳ねた髪の毛は彼女の顔や腕にかかっており、その色白の肌がより一層茶髪を目立たせている。しかし、一言に『色白』と言っても白人系の白さではない。日光に当たっていない環境で形成される不健康な白さである。
また、肌色とは裏腹に彼女は180cm近い身長で肉付きもそれなりに良さそうに思える。あくまで日光の当たらない宇宙プラントで生活していたことが原因の不健康さなのだろう。
「うーん……!」
寝起きに伸びをする人間は一定数存在すると思われるが、無重力空間でそれをすると体が浮いてしまう。そのため宇宙のベッドでは足側に足首を固定するための溝が設けられている物が多く、彼女が使っているベッドもまたその例に漏れない。
彼女は大きく伸びをすると、浮き上がったお尻を沈めて体勢を整える。そして部屋の中へと視線を向けた。
先ほども記した通り、彼女の見た目は不健康なだけの普通の少女だ。しかし、部屋の内装に目を向けるとその感想が少し変わるかも知れない。
彼女がいるのは———不自然なほどに質素な部屋なのである。
そこは八畳ほどの四角形の部屋だ。
壁際には彼女が寝ていたベッド。中央には収納機能やゴミ箱を備えた多機能デスク。出入り口と思われる扉のそばには洗面所が設置されており、その側にはクローゼット、部屋の隅には飲料程度ならば入りそうな小型の冷蔵庫が置いてある。
そして———家具は以上である。
必要最低限を体で表すような家具の数々に加えて、部屋の色合いも無味乾燥だ。
研究室かプレハブ小屋のごとき灰色の壁に、これまた白か黒か灰色で構成された家具たち。あまりにも無機質な部屋の中では、彼女の肌や髪の毛、色素の薄いピンク色のパジャマですら生物的で目立って見える。
……こんな表現を用いると今のご時世差別的だと批判を受けるかもしれないが、一言で言ってしまえば女の子らしさ———いや、人間味すら感じない部屋である。
「よしっ……」
ただ、当人にそんな様子は全く無い。どうやら起きてさえしまえば朝には強いらしく、パッと布団から降りるとベッドの側面を蹴って洗面所へと飛んでいく。そして、顔を洗い終えれば再び飛んで戻って来た。
と言ってもベッドに戻るわけではないようで、道中のテーブルを掴んで減速する。体を手繰り寄せて備え付けられた椅子の真上までスライドすると、片手でテーブル、もう片方の手で椅子の背もたれを掴んでその体を空中に固定。そして腰を沈め、椅子にポスんと座った。
小動物のような可愛らしい仕草である。
続いて彼女がテーブルに備え付けられている引き出しを開けると、そこには二冊の本が入っていた。
「今日は……辞書B!」
何やら独り言を呟きながら、彼女はその内の一冊を手に取る。文庫本ほどの厚みと大きさをしたその本には出版社の名前が書いていない。紙質や製本も整っておらず、出版社で作られた本ではなく個人制作の同人誌に近いものだと推測できる。
それをパラパラとめくると中は絵本のようになっていた。全ページが同じような構成になっており、大きめのイラストに文章が付随している。
彼女は『辞書』と呼んでいたが、絵本、または図鑑と呼ぶ方が適切だろう。
「『アイスクリーム』!アイスクリームは冷たくて甘いスイーツです。様々な味付けがあり、バニラやイチゴなど……」
———無機質な部屋の中で彼女が一人でに喋り始めたのは、手に持ったその本を音読し始めたためである。
そこには、彼女が読み上げている通り1ページ1ページに表題とその解説文が記されている。加えて、それを表すイラストや図が付随しているのである。
食べ物や物体の名称などその種類は多様であるが、主に『名詞』が載っていることが見て取れるだろう。また、専門用語等の特別な単語も載ってない。
2024年現在と比べるとどうしても宇宙工学寄りの知識が散見されるが、そこに載っているのは日常生活で当たり前に使う単語ばかりである。
「演算能力!演算能力は基礎計算力、そのプロセスまでを含んだ処理速度を表しています。演算能力と並列思考能力は切ることのできない関係があり、これを鍛えることで……」
———これは、かなり異常な光景だ。
この部屋の主人は、高校生、具体的には16歳前後と言った見た目をしている。たとえ見た目と実年齢に差があったとしても、こんな "幼稚園児の音読" みたいな取り組みをする歳ではない。
決して外国語の勉強をしている訳ではない。日常で当たり前に使うはずの単語の数々を、何の疑問も見せずに音読しているのである。
それは1時間ほど続き、最後のページまで読み終えると彼女は本を閉じた。その顔には怠惰や疲れの色は一切浮かんでおらず、『ドヤ顔』と呼ぶべき達成感に溢れた表情は自分の行いを誇っているようにも思える。
その異様な雰囲気、様相は、あたかも宗教信者が早朝にお祈りをキメているようであった。
「……よし、終わり!」
彼女は本を仕舞うと、引き出しを閉めてロックをかける。そしてふわりと腰を浮かし、椅子の側面を蹴って再び部屋の中を飛んだ。
今度の行き先はクローゼットだ。その扉を開けると、中には白い作業着———2020年と比べてはるかに軽量化された "宇宙服" が入っている。彼女はそれを取り出して着替えを始めた。
クローゼットに備え付けられた手すりを掴みながら、身につけていたパジャマを脱いでいく。体を振るって脱ぎかけのパジャマを振り払えば、それは無重力に従って宙を漂っていく。
「あっ……」
彼女は自分の体を手すりに引きつけた。跳躍して取りに行こうか迷ったようだが、やはり後でいいやと思ったのかクローゼットに向き直る。
パジャマの下はキャミブラと下着であり、彼女はその上から宇宙服を着込んでいく。
本来宇宙服の中には、嵩張りを抑える目的も含めて防護機能を擁したインナースーツ等を身につけた方が良い。そのため、それを気にしていないと言うことは宇宙空間で作業を行う訳ではないのだろう。
上は問題なく着ることができる。しかし手すりを離してズボンをズリ上げると、力みによって床から足が離れてくるくると回る。
「よっととと……」
回りながらも何とか履き切って空中で体勢を整える。そして流れるようにクローゼットを蹴り、テーブルへと戻った。
「次は並列思考能力テスト!よーし……」
……脱ぎ散らかしたパジャマのことなど忘れた様子で、彼女は宇宙服に備え付けられているヘルメットを被る。
するとフェイスシールドが不透明になり、彼女の頭の中には映像が表示された。
この宇宙服にはトランス・システムと接続することを目的とした、パイロットの思考を読み取る機能が搭載されている。今はそれを用いて彼女の頭の中に映像を映し出しているのである。
現在の技術で例えるならばその体感はVRに近しいと言えるだろう。プレイヤーの思考を読み取り、それをインタフェースとするVRである。
さて、そんな近未来のVR画面に何が映し出されているのか。
それは意外や意外。3Dですらなく、『演算力テスト』という表題の下に『スタート』と言うボタンがついているシンプルな2Dのページであった。HTMLを触っていれば1時間で作れそうな代物だ。
これはVRとトランス・システムの性質の違いを表しているだろう。
体の動きに合わせて画面を遷移する必要があるVRと異なり、脳内と直接情報をやり取りするトランス・システムでは現実を模倣する必要性が低い。情報入力のインターフェースが視覚に限られないため、複数の情報を一斉に脳内に流し込んでそれを並列処理・出力出来るのである。
そのためトランス・システムでは人間の『並行思考能力』が最大限発揮される。
3D等で現実を模倣して肉体に囚われれば、寧ろトランス・システムの効力は低くなるのである。
「3、2、1……」
———話を戻そう。彼女が対面しているのは、先ほど話題に挙げていた並列思考能力を測るテストである。
その白紙の画面は、カウントダウンの終わりと同時にパッと移り変わった。
「……」
並列思考能力をどのように測るのか。それを示すように画面に映し出されたのは無数の数式だった。
それは10桁の足し引きや5桁の掛け算だ。その全ての式が4算の組み合わせで出来ており、構造は単純だが計算量の多さが目立つ。そして何よりもその量が一番目に付くだろう。
5×10で総勢50個。画面を覆い尽くすように大量の数式が並んでいる。一つや二つなら簡単でも、これだけあると絶望感すら感じるほどだ。
……ここは文章の記述ではなく実際に目で見てもらおうか。
(1)9765754035+101727264 (2) 42773307+4993558356 (3) 6807284574+3507082843 (4) 30728*58356 (5)7765754035+6017272646
(6)54035*72646 (7) 265330728+883558356 (8) 84574*82843 (9) 97728*44356 (10)4065754035+3317272646
(11)9765754035+101727264 (12) 42773307+4993558356 (13) 30728*58356 (14) 6807284574+3507082843 (15)7765754035+6017272646
(16)54035*72646 (17) 265330728+883558356 (18) 84574*82843 (19) 97728*44356 (20)4065754035+3317272646
(21)54035*72646 (22) 265330728+883558356 (23) 84574*82843 (24) 97728*44356 (25)4065754035+1145272646
ブラウザのズーム率で若干レイアウトが崩れているかも知れないが、画面いっぱいに上のように数式が並んでいるのである。しかもこれで二分の一。誰が好き好んでこんなことするんだ。
一問解くだけでも凄まじく面倒臭い。(1)などは繰り上がりが少ないため楽ではあるが、それでも筆者の場合暗算で1分かかった。
しかし———これらを高速で解くのが並列思考能力である。
「……」
問題が表示された刹那、彼女の脳みそは50問を分割して同時に計算を行う。そして、脳波を用いたインタフェースによって腕も口も動かさずに計算結果を並列して返す。
「……」
それは本当に一瞬のこと。
なんと、時間にして0.5秒。その僅かな間に画面に表示されている問題は全て解かれ、彼女は次のページへと進んだのだった。
……そんなのあり得ないだろうと、一見は思うかもしれない。しかしそれを可能にするのが並列処理能力であり、並列処理的思考である。
まず、加減算は筆算の要領で全桁を並列して加減算することで求める。
例えば9765754035+101727264を一瞬で解くのは難しいが、7+1, 6+0, 5+1,……5+4と格桁の計算ならばそれこそ0.1秒で直感的に分かるだろう。10桁の足し算を1桁の足し算10回に直し、並行処理能力で一斉に解けば一瞬で計算結果を出すことが出来るのだ。
また、五桁の乗法は全桁を分解することで単純な計算に直す。
例えば54035*72646ならば、 (5*10^5+4*10^4+3*10+5)*(7*10^5+2*10^4+6*10^2+4*10+6)に直す。そして分配の法則を用いて全桁の計算を行えば良い。
指数が長ったらしいため省略すると5*7+4*7+3*7……4*6+3*6+5*6と言った具合の計算をすれば良いわけだ。加減算と同じく、一桁の掛け算ならば反射的に答えも返せるだろう。そしてそれを並列処理すれば一瞬で答えを導き出すことが出来る訳だ。
50問の式を並列して単純な形に分解し、分解によって出現した数千個の単純計算を並列して解く。これが並列処理の極地である。
「……」
彼女は一定のペースで問題を解いていく。このテストの制限時間は15分のため、50問0.5秒と考えれば自ずと結果は見えてくるだろう。
「……!」
タイムアップによって問題が締め切られ、答えの入力が不可能になる。彼女がページを遷移するとその結果が表示されるのだった。
「……!やったあ、ハイスコア!」
91134問、スコア157320。並行思考能力レベルSSS。
画面の下部に表示された『ハイスコア』の文字を見て彼女は心底嬉しそうな表情を浮かべた。
基準が分からないため比較はできないが、『SSS』と言うわかりやすい記号が付随している。彼女が並行思考能力の面で優れた資質を持っているのは明らかだと言えるだろう。
そして、ここで寝起きのルーティーンが終わったらしい。彼女は宇宙服を畳んでパジャマに着替えようとするが、ズボンを履き替えたところで上を脱ぎ捨てていたことに気が付く。
天井の隅に漂うパジャマを取るために跳躍し、空中で体を捻って天井に着地。そのまま着替え始めるが、そのタイミングで出入り口のドアがガチャリと開いた。
「アルファラおはよう———って、いないのか?」
そこから現れたのは一人の青年だった。適度に筋肉を備えたガタイやその声音は明らかに大人のものだが、顔つきや態度がどこか垢抜けていない。年齢は大学生くらいだろうか。
この部屋の主人である少女———"アルファラ"と呼ばれた彼女は、話の通り天井に居る。そこはドアから死角になっており、青年はその姿を捉えることができなかった。
「!」
そして、彼女はドアから飛んで来た声を聞いてパッと顔を輝かせた。この反応は間違いなく知り合いなのだろう。
彼女は無言で壁を蹴ってドアの真上までスライドし、青年が部屋に足を踏み入れたタイミングで天井を蹴って急速潜航。彼に飛びついた。
「———っと」
しかし、彼は上半身を仰け反らせてすんでの所でそれを交わす。突然目標が失せたため彼女は床に手をついて倒立する形になった。
2人は逆さの状態で目を合わせる。
「……むぅ、チャンスだと思ったのに」
アルファラは手のひらで床を蹴ってふわりと舞い上がると、空中で錐揉み状に回転して目の前の彼と同一平面上で相対した。
頬を膨らませた彼女を見て彼はおちょくるように肩をすくめて見せる。
「俺これでも軍人よ?あれぐらいの気配も読めずに戦えるかっての」
彼はアルファラのおでこをコツンと小突く。この二人の身長を単純に比較するとアルファラの方が少し大きいのだが、彼女は腰が引けているため相対的に堂々としている彼の方が大きく見える。
「ま、それよりもおはようだな!今日の———」
慣れ合いも落ち着いて彼は何かの話題を切り出そうとするが、その瞬間だった。
「うあ———っ!?」
ひょいっと、彼の顔が部屋の外へと消えた。まるで何者かに摘み出されたかのように。そして扉が勢いよく閉じられる。
「あわわ!お兄さん?」
どうやらアルファラと青年は兄妹の関係にあるらしい。
彼女が扉の外に呼びかけると、そこからは彼のものとは違う女の声が響いてきたのだった。
「あんたねえ、年頃の女の子が着替え途中だってのに堂々と話してるんじゃないわよ!」
だが、それはアルファラの呼びかけに応じた訳ではない。どうやら扉の外の青年に対して説教をしているらしい。
「いたたっ!あのねぇ、キャミソールは立派な服よ?あれくらいお前だってよく———」
「それは小さい頃の話でしょ!」
……いや、説教と言うよりは痴話喧嘩なのか?
アルファラは取り敢えず急いでパジャマを羽織ると、扉を開いて彼らの間に顔を出すのだった。
「あ、アイシャさん。私は大丈夫ですから!」
扉を開くとそこには喧嘩をする一組の男女がいた。
"アイシャ"と呼ばれた女性は先ほどアルファラが来ていたものと同じ宇宙服を着ており、ヘルメットだけが取り外されて脇に抱えられていた。
唯一露出しているその頭は金髪のショートカットと鋭い目つきが目立つ。口調からも分かる通り気が強そうだが、その反面身長は150cmほどと小さい。
アイシャと青年、さらにそれよりも大きいアルファラの間にはそれなりの身長差があるのだが、そこは体を若干浮かせることでそれなりに頭の位置を揃えているようである。
「あ、アルファラおはよう!」
青年に対してガンを飛ばしていたアイシャだったが、そこにアルファラが現れると一転してその表情を綻ばせる。
「もー!アルファラが良くても私が心配なのよ。こんなに大きくなったんだから」
壁の取手を利用してアルファラに近づくと、後ろからその肩を抱いて二人で彼の方を見遣る。仲間を増やしてやったと言いたげな表情だ。
「はいはーい。俺が悪かったですよぅ」
青年は諦めた様子で肩をすくめた。それを見てアイシャはニヤッと笑うと、その視線を抱きついているアルファラに向けるのだった。
「昔は私の方が背も高かったのにねぇ。変わらないのはこの可愛さ、それにほっぺたのプニプニさだけだよー」
「おいおい……。俺に注意しておきながらお前は何やってんのさ」
アイシャがアルファラの頬をツンツンし始めると、彼は彼女を自分の方に引き寄せて二人を引き離した。つつかれていたアルファラはキョトンとしており、何をされていたのかピンと来ていない様子である。
「ええー?いいじゃん別にぃ」
「……」
ここら辺で茶番をおさめればいいものを、アイシャは頑なにアルファラに迫る。その様子を見て彼は思うところがあった。
それは、アルファラに構うのが目的というよりは何かから目を逸らしたように見えると言うことだった。
「ったく……。宇宙服の上からどうやって体の柔らかさが分かるんだい?」
「!それは……」
先ほど描写した通りアイシャは宇宙服を着ており、それは指先もまた同じだ。突いたところで頬の柔らかさなど分かるはずが無いのだ。
そんな突っ込みを仕掛けた彼は、彼女が何から目を逸らしたいのかにも気がついている様子だった。
「緊張するのは分かるけど、ようやく最終フェーズまで来たんだから。あとちょっとだけ頑張りなさいな」
「……」
その言葉を受けてアイシャはわずかに目線を落とす。そして、ボソッとつぶやいた。
「心配なのは……。パイロットのあんただよ」
「?」
———意図せずに漏れ出した小さな声は誰の耳にも届かない。そして次にその顔を上げたときには、彼女は舌を出してあっかんべーをしていたのだった。
「ベー!あんたに言われなくても分かってるって!」
そう捨て台詞を吐き、彼女はぷいっと踵を返して突き当たりへと飛んでいく。
「じゃ、行ってくるね!アルファラー!」
「あ、行ってらっしゃーい」
そして曲がり角を曲がる直前で振り返ると、アルファラにだけ手を振ってその奥へと消えていくのだった。
「……ったく」
見事な当て付けを喰らって青年はやれやれと肩を竦める。しかし、その呆れの感情が向いている先はどうやら彼女だけではないらしい。
「……。避難してきた一般人に秘密兵器の手伝いをさせるような人員不足で、どれだけ戦うつもりなのやら」
彼女の去って行った方向を眺めながら彼は嘲笑するように零すが、すぐにその視線を隣のアルファラに移した。
「……さて!それよりもアルファラ、今日のルーティーンは終わった?」
「はい!辞書も並列思考能力テストもどちらも終わりました!」
アルファラは顔を上気させ、待っていましたと言わんばかりに言葉を続ける。
「157320、ハイスコアでした!」
「おっ、そりゃ凄いじゃないか!」
彼が頭を撫でると、彼女はえへへと口元を緩める。
「157320か……。ここまで来るともはや問題の運みたいなところがあるな」
彼は本当に感心した様子である。そしてポケットから小型のタブレット端末を取り出すと、何かを検索してさらに驚いた声を上げた。
「あらら、俺のハイスコアよりも上じゃない!」
「え、そうなんですか?」
彼は自分の端末に表示されている「ハイスコア:155000」の文字を見せながら、釣られて驚いたアルファラの頭を再び撫でた。
「流石は俺の妹!RAの使い方も悪くないし、今からでもエースパイロットに就任できるぜ」
「そ、そんな……。それこそ時の運ですよぉ!」
謙遜こそしていても、褒められた事は素直に嬉しいのだろう。彼女は彼の腕に合わせて体を寄せるのだった。