(4.5) 情報衡平社会の目的について
情報衡平社会は、どのような目的を持つのか、主人公たちは次のように考えています。
自由、衡平、友愛。これが情報衡平社会の目的です。
これらは、それぞれ、知恵と力と愛に深く関連する。
自由とは、知恵にもとずくべきです。
衡平とは、能力にもとずくべきです。
言い換えれば、衡平とは、応業負担であり、利益と危険の対応原則です。
(詳細は『衡平な社会の税制について』参照)
応業負担とは、税金を金持ちが貧乏人より多く負担する考え方、つまり、経済力にもとずく負担です。
利益と危険の対応原則とは、利益は危険と対応する必要があるという考え方です。
分かりやすく農業で説明するなら、農業は天候リスクと価格リスクを持ちます。だから天候リスクと価格リスクに対する原価外コストが発生する。元々の生産にかかった費用(原価)とは、別に原価外コスト農産物を販売後に手に入らないなら、農業は継続できません。
更に詳しく言えば、努力によって農産物の収穫量が増え、収入が増えるなら、それは努力と工夫の結果になります。
これらには、知恵にもとずく工夫も反映されうる。
友愛とは、愛にもとずく。
ただし、前提があります。お互いが共存する意志を持つことです。
ここが、博愛とは違います。相手が憎しみを持つならば、友愛の範囲から除外することが、友愛です。
つまり、お互いが仲間だという認識が友愛の前提です。
そもそも共存する意志がない人々と共存することは人にはできません。
ここで『できない。』という言葉は、一般人にできない。という意味です。博愛に満ちた聖人にはできるかもしれないが、このような例外は、宗教が扱う内容です。
聖人ができることでも、一般人にはできない。
ここでは読者について一般人を想定します。
そして、ここからお互いが共存する意志を持つ範囲で国家という集団が構成させるべきだという結果がでます。
ここでお互いが共存できる範囲とは、お互いの行動基準が共存できる範囲内である時に成り立ちます。
実は行動基準は、宗教と家族に依存してかなり違います。
行動基準のうち、豚を食べるか、食べてはいけないかは、宗教により規定されるのは、有名な事例です。
また、行動基準は家族からも影響を受けます。この家族の範囲がそもそも民族によって違います。
家族が核家族を中心とするか、大家族かがむしろ民族毎に違います。
これらから言えることは、むしろ行動基準毎に国家という集団は構成させるべきであり、その範囲で共存することが友愛です。
これらが情報衡平社会の実現するべき目的になります。




