【短編版】初夜の前に愛することはないって言われた? “前”なだけマシじゃない!
連載版を開始しました。短編版とは少し設定などが変わるかもしれません。
絵画の展示や売り方等は、あくまでこの世界における設定です。フィクションです。
政略による結婚。夫婦の最初の仕事である初夜。その初夜の場で、新妻に夫は告げる。
「お前を愛する事はない」
夫には妻以外に愛する女性がいた。しかしその女性は立場が弱く、彼女との結婚は難しい。けれど周りは彼に結婚する事を望む。故に夫は妻を娶ったが、妻を愛する事も尊重する事もなかった。
初夜を放置された妻は一人嘆き、そして奮起する。必ずや夫を見返してやると――。
■
国一番の人口を誇る王都には、娯楽も国一番で集まっている。人気の高い娯楽の一つに演劇があるが、ここ最近は国にあるどの劇場に通っても、似た筋書きの演劇ばかりが上演されている。細部や展開は違うが、皆大筋は同じだ。どうやら最近この手の話が人気らしく、どの劇場でもこればかりが上演されているらしいので本当に困ってしまった。
ひと昔前ならば、私も笑ってこの劇を見る事が出来ただろう。……しかし今では笑えもしない。
「……初夜の前に言ってきただけマシじゃない」
「アナベル、何か言った?」
「いいえ何も」
つい心の声が漏れてしまったが、笑顔で誤魔化すと友人メラニアはさほど気にしていないようだった。劇場の外に出て、人気のカフェでお茶をする。
「素晴らしい劇だったわね!」
「ええ本当。メラニア、誘ってくれてありがとう」
嘘嘘大嘘!
素晴らしい劇? まさか。そんな事思う筈がない。
けれどメラニアにそんな事言えるはずもなく、私はただその場しのぎの言葉を紡ぐ。一年ぶりに会った友人に、変な事を思われたくなかった。
「全然構わないわ。また観に来ましょうね」
「ええ勿論。また誘って頂戴な」
……その頃には、劇で流行っているのが今のような劇でないといいのだけれど。
メラニアと別れ、私は一人家に帰る馬車に乗る。
「…………はぁぁぁぁぁ」
一人になり、今日一日何度も口から零れそうだった溜息を吐く。
メラニアは、以前から親しくしていた友人だ。たまたまデビュタントが同日で同じ伯爵位の令嬢だったから親しくなった。
一年前、私と同時期に結婚し、今の彼女は貴族ではない。彼女は王都でも有名な服飾店を営んでいる商人に請われ、嫁いだのだ。
一方で私は自分より爵位も、歴史も、格も上である侯爵家の嫡男であった男に見初められて結婚した。
……結婚の時、そこまで明確ではなかったにせよ、メラニアに対して優越感を抱いていた。王都で名の知れた貴族たちの御用達の店とはいえ、平民は平民。一方で私は、貴族の中でもさらに高い地位に行く……。
それが、今はどうだろう。
久しぶりに会ったメラニアは幸せそうだった。袖を通す服は彼女が実家にいたころよりも立派なもの。装飾品等もそうだ。髪も顔も肌も指の先までも、丁寧に整えられていた。そんな彼女を見て、私は酷く劣等感を刺激された。
それだけだったならばよかったが、彼女に言われるがまま移動した先の演劇の内容は、さらに私の心をえぐった。
私もまた、結婚後、夫から愛するつもりはない事を告げられ、愛人の存在を匂わされていた。
けれど私と劇の主人公の一番の違いは、逃げる手段がない事だった。
あの手の劇において、夫が妻に「愛することはない」と告げるのは、初夜の前だ。初夜を過ごす前に男は女に、本当に愛している相手は別にいると告げて、二人は体を交わす事もなく夜が終わる。だからこそ主人公である妻は、【三年体の関係が無ければ白い結婚であると認める】というこの国の法律を利用して、最終的に夫とは縁を切るのだ。
私が夫に「愛していない」と告げられたのは、初夜に、熱烈な夜を過ごした後の事だった。
■
「君を愛することはない」
私の夫であるライダー侯爵家の次代当主ブライアンは、初夜を終えた後にそう言った。
王侯貴族の結婚では、初夜を無事に済ませられたかの確認がされる。特に、女性が初婚の場合は出血がしっかりとあり、処女だったかの確認は大事だ。恥ずかしさは多少あったものの、貴族にとってはそれが普通なので、私は処女を失った後大人しくその確認を受け入れた。そうして無事に、私は処女であり、夫婦の初夜は無事に終えられたと確認された。
その確認をした侍女が立ち去った直後、ブライアンはそういったのだ。
私は訳が分からず目を点にして、横の夫を見上げた。
「…………え?」
「はぁ……一度で理解してくれないか? 私には既に愛する女性がいる。君を愛することはない」
初めての経験で疲れてベッドに倒れている私に向かって、ブライアンはそういう。そして私を放置して、さっさと服を羽織ると振り返る事もなく寝室を出て行った。
初夜の疲労で私は幻覚幻聴でも聞いたのかもしれない。そう思って眠りについたけれど、彼の態度も言葉も嘘幻ではなかった。
……婚約者だった頃、彼は私に甘かった。一目ぼれをしたといい私を口説き落とし、お金のない実家に援助をした。いつでも私に優しく、これ以上ない素敵な婚約者だった。
それは全て演技だったのだ。
ブライアンには恋人がいた。しかしその恋人は数世代前に没落し爵位を返上してしまったという貴族の娘で……つまり遡った血筋が何であれ、今は間違いなく平民という女性。名門侯爵家であるライダー侯爵家の跡取りであるブライアンが、そんな女性との結婚を許されるはずがない。
だから彼はその恋人の隠れ蓑とする妻を求めたのだ。
己より爵位が低く、家に問題があり弱みを握れ、御しやすい性格の娘。何かあっても大声でブライアンたちを貶める勇気もないような娘……。
私は全ての条件に当てはまった。
歴史はあるが金のない伯爵家。それが私の生家、ブリンドル伯爵家だ。祖父は優秀だったが、父は優柔不断な優男で、優しすぎた結果瑕だらけになり、祖父が歴代の数倍にした遺産をたった数年で枯渇させた。母が金銭的な部分ではなく、父という人間を愛していなかったらとっくに離縁されていただろう。そんな家で長女として育った私は、我が儘を言わない良い子だった。
ブライアンからすれば、これ以上ない条件の揃った娘だっただろう……。
初夜を済ませた途端にブライアンは冷たい態度を取るようになった。しかし婚約期間に甘い夢を見せられていた私はすぐには受け入れられず、普通にブライアンの妻として振る舞おうとした。
そのたびにブライアンは私を見て顔を歪め、時にはさっさと消えろとばかりに手で追い払われた。
それでも私もあきらめ悪く、毎日ブライアンをお見送りして出迎えたり、彼の帰りを待って食堂にい続けたり。彼の好きな物を調べてそれを送ったりした。
そんな私はブライアンにとっては目障りでしかなかったのだろう。
「名目上の妻を演じようとしなくていい。不愉快だ」
夫が好きだと聞いて使用人たちに揃えてもらった花や料理をその場でひっくり返され、そういわれた瞬間、私の心はぶちっと破裂した。床に散らばり踏みつぶされた花。割れた皿と汚く散らばる料理。その姿が、私たち夫婦を表していたと思ったのだ。
それから私はブライアンに対して何もしなくなった。して、また、それを否定されるのが怖かった。結婚前の幸せな婚約期間に抱いた幸せな結婚生活の妄想が大きかったから、余計にこの落差に耐えれなかった。
ブライアンは大人しくなった私に満足したらしい。屋敷に帰る日は大分減るようになった。結婚から一年経った今では、月に数度、仕事の関係で王都の屋敷に帰ってくるぐらいだ。最後に彼の顔を見たのがいつかも思い出せない。
茶会等の開催はブライアンに禁じられ、屋敷にお客を呼ぶ事もない。女主人として必要な社交の筈だけれど、どうやらブライアンは外では私の事を溺愛しており、誰にも会わせたくないといって屋敷に留まらせている……という風に触れ回っているらしい。お陰で最初のころはあった茶会の誘いも、二か月もすると届かなくなった。領地にいる義理のご両親がどう考えているかは知らないが、実の親だ。きっとブライアンが良いように誤魔化しているのだろう。
最初のころは外出すら禁止されていた。しかし私が大人しくしていたからか、半年を過ぎた頃に久しぶりにブライアンから話しかけてきたかと思えば、こう宣った。
「外では我々が仲睦まじいフリをしろ。それが出来るのならば外出は許してやる」
その頃の私は一日中屋敷の中にいてノイローゼになりかけていた。ブライアンの言葉に何度も頷いて私はやっと外に出る権利を得たのだ。
最初にしたのは王都のお店に出かけての買い物だったが、一度結婚前からの知り合いに顔を合わせてから店舗での買い物は止めた。長い会話ではなかったが、根掘り葉掘り結婚生活を聞き出されそうになり、誤魔化しきれないと思ったのだ。元々、高位貴族は店に買いに行くよりも家に商人を呼びつけて買う事が多いから、そうしようと決めた。
そうして私が辿り着いたのは、芸術鑑賞という娯楽だった。美術館にしろ音楽ホールにしろ劇場にしろ、その芸術を鑑賞している間は喋らないのが基本的なマナーだ。私の顔を知っている人がいたとしても多少誤魔化しが利く。半年の間にそこのオーナー等とも顔見知りになるほど、私は王都内の美術館、音楽祭、劇場に通いまくったが、人と会話をする事は殆どなかった。
そんな中、突如メラニアから手紙が来たのだ。どうやら彼女も夫の仕事柄、芸術系のコミュニティに属しており、そこで私の噂を聞き、夫が許すのなら一緒に遊ばないかと誘ってきたのだ。一応ブライアンに手紙で出掛けても良いかお伺いを立てたが、彼は「秘密を守るのであれば好きにすればいい」とだけ返事を送ってよこした。
久しぶりに、仲の良かった友人と会える。それで高揚していた私だったが、前述のとおり、実際に会った結果感じたのは自分は人生の負け組になったのだという絶望と己への失望だけだった。
■
メラニアの事を勝手に見下し、勝手に彼女に負けた気分になった私の心など知らず、メラニアはそれから私をよく外出に誘った。彼女といくつかの美術館を見て回り、音楽祭に参加し、いくつかの劇を見た。
劇は相変わらず夫に白い結婚を押し付けられた貴族の女性の奮起物語ばかりだったけれど、その手の物語をあまりに見過ぎて最早「あー、今回はそういう風に切り取るのね」ぐらいにしか思わなくなってきた。
最初のころは自分を投影し過ぎていたけれど、だんだんと比較できるようになってきた。この話の主人公よりは私はマシだなとか、私の状況は彼女より酷いなとか。最初はいちいち落ち込んでいたけれど、だんだんそれを心の中で笑えるようになっていった。
例えば、私は夫から完全に放置されていて、夫はめったに帰ってこないけれど、毎日同じ家に帰ってくるよりはマシだなとか。未だに夫の本命である恋人と会った事もないから余計な軋轢がなくてマシだなとか。
私は結婚直後に体を交わしているから処女を証明する手立てもなく、白い結婚を理由に離婚できないからマシじゃないなとか。
自由に外出は認められているし妻に割り当てられているお金の中なら自由にお金を使っても怒られないからマシだなとか。
私には夫を出し抜くほどの才能も人脈も力もないからマシじゃないなとか。
生家への金銭的援助も続いているからマシだなとか。
最近、直接会う訳ではないけれど義理の両親からそろそろ子どもは出来ていないのかとか連絡が来てマシじゃないなとか。
そんな私にメラニアは気が付きもせず、私を連れて回る。気が付けば彼女のお陰で色々な人と顔見知りになった。親しくはなっていない。ボロが出かねないから。
メラニアは貴族夫人じゃないのに、貴族並に顔が広かった。それは彼女の夫が服飾店を営んでいる事も関係しているだろう。メラニアが結婚した当初より、店の規模は大きくなっている。幾人もの人気デザイナーを抱え、王侯貴族の服から劇場や音楽祭で女優や歌手が着る服まで、様々な服を作っている関係上、顔が広かったのだ。彼女に連れまわされている内、無駄に私も顔が広くなっていった。とはいえそれを利用して夫をやり込めようとか、私は考えない。私にはそんな器量はないし、だんだんこの生活が嫌じゃなくなってきたのだ。
とにかく私には時間と金があった。
時間は言わずもがな。貴族夫人の仕事である茶会や夜会に出かける事も一切ないうえ、屋敷を取り仕切る事も殆ど任されていない私には時間がありあまっている。
それに加えて、ブライアンは次期侯爵夫人として常識の範囲内で毎月小遣いを割り当ててくれていた。このお金は自由に使えたから、私は好きなだけ芸術に金を注げた。好きになった画家の絵を買ったり、気に入った役者にほんの少しの支援したり。勿論限りあるお金ではあるが、元貧乏伯爵令嬢だった私に言わせれば湯水のごとく金がある状況には違いない。そして最初の一年、与えられてもまともに使っていなかった事もあり、貯金がかなりの額があるから多少の散財で痛む懐はない。
それでも一人だったら、そのうち潰れていただろう。
ただ私にはメラニアという友人がいた。
最初の頃は何度も会いたくないと思った。だからこちらからアプローチはしないようにしていた時期だってあったのに、メラニアはそんな事関係ないと私に声をかけてきた。そしてそれを断る度胸と決断力は、私にはなかった。気が付けば未婚の頃よりもよく連絡をやり取りし顔を合わせているのではないか? という程にメラニアとは顔を合わせたり会話をしたりしている。
正直劣等感が完全に消えた訳ではない。今でもメラニアが幸せそうな姿を見るたびに、自分と比較して鬱々ともするけれど、だからといって彼女と会うのを止めようとかは思わない。
そうしてひと月が過ぎ、ふた月が過ぎ……半年が過ぎ…………一年が過ぎた。
■
王都で美術館と言えば? という問いに恐らくすぐ名が上がるだろうカンクーウッド美術館では、定期的に現役の芸術家たちの作品を集めた展示会を行っている。現在の流行から古い伝統に則ったものまで、様々な物が集められて眼福だ。
以前よりも外に出る事へのハードルが下がり、今ではそういう催しがあるとついつい誘われなかろうと赴いてしまうのだけれど、今回はメラニアと共にやってきた。
「今日の展示も素晴らしかったわね、アナベル」
「ええ。カンクーウッド美術館はいつも素晴らしい展示品がそろってるわ」
二人で恍惚の溜息をつきながら歩いていると、美術館の館長が大慌てで走ってきた。入館の時に他の貴族の相手をしていて挨拶が出来ていなかったから、私たちが帰る前に挨拶しようと急いでいたのだろう。
「アボット夫人、ライダー夫人! 本日は当館にお越しいただき、誠にありがとうございます!」
「ブロック館長。ご丁寧にどうも」
「今回の展示品も素晴らしいものばかりでしたわ!」
私が簡易的に礼を取るとメラニアもそれに合わせて軽く礼をして、それからいつもの通り明るい調子で話し出した。まだ美術館の中なのであまり大きな声を出さないよう、そっと手に持っていた扇でメラニアの背中をつつく。メラニアもそれに気が付いて、そこから声のトーンが数段落ち着いた。
「ありがとうございます。全てはお二人からのご支援あっての事でございます」
「ブロック館長はいつも腰が低いのね。今回の展示品は全て館長の目利きで選んだと聞き及んでおりますわ。館長がいる間は、カンクーウッドは安泰ですわ」
「滅相もないことでございます。……もし何かお気に召した物などございましたら、どうぞ我が館員にお声掛け下さいませ。お二人のご希望でしたら、優先してお渡しする所存でございます」
美術館における展示会というのは、その商品の売り出しも兼ねている事が多い。気に入った作品を美術館の人間に伝え、自分が買い取る希望額を伝えておく。展示期間が終了した後、作成者と美術館が話し合い、どの相手に渡す――売るかが決定する。その場で金額を提示して競り落とすオークションとは似ているがあそこまでの金額での殴り合いは起こらず、水面下でのやり取りとなる。
「まあ本当? ――と言いたいのだけれど。この前夫に叱られてしまいましたの。良い物を身近に置きたい気持ちは分かるが、飾るところが無いほど手に入れてどうするのだと。飾らないのでは芸術家に失礼だと。御免あそばせ」
「いいえいいえ! アボット夫人にわたった美術品は幸せでございます」
今回はメラニアは何も購入しないつもりのようだ。勿論必ず買わなくてはならない訳ではないが、買うつもりがないものを低額で名指しする事もよくあるので、言葉は婉曲とはいえ断ったという事は、本当に夫にそう言い含められてしまったのかもしれない。
ブロック館長の視線がこちらに向く。
本日美術館に展示されていた様々な芸術品――その中で、一等心に残った絵画を思い出す。
「ガーデナーの、小さなバラのような花が描かれた絵画がありましたでしょう? 花弁の色は白と紫でしたわ」
「展示No.45『リシアンサス』でございましょう」
私のあいまいな記憶から、館長はあっさりと作品を言い当てた。作者名は記憶していたとしても、ガーデナーは花や風景を中心に描く画家で、作品数が結構多かったのに、流石だ。
確認として、館長の後ろにいた館員の方が美術品一覧を見せてくれたが、間違いない。小さな花瓶にバラに似た紫と白の花が愛らしさと気品さを兼ね備えて咲いている。サイズも恐らく0号で、そう大きい物ではない。
「それを私の名で、そうね、15万デルで予約して頂戴。他に購入希望の方がいなければ頂きたいわ」
「いえいえ! 『リシアンサス』はライダー夫人にお渡しいたします」
「まあ、よろしいの?」
「勿論でございます。お屋敷に送るよう手配する形で宜しいでしょうか?」
「実は……今度妹がデビュタントをするので、そのお祝いに送りたいのです。ですので、展示期間が終わりましたらブリンドル伯爵家に送って下さる?」
「畏まりました」
館長と別れて美術館の外に出、馬車に乗り込むと、メラニアが懐かしそうな顔をした。
「もうそんな年齢になるのね」
「ええ、時が過ぎるのは早いものだわ」
私はブリンドル伯爵家の長女で、下には弟妹が三人いる。一つ年下の弟は私の嫁入り以降の援助で、無事に社交界デビューを済ませていた。残った二人の妹のうち、上の年の妹が今年デビュタントなのだ。宝石やドレスは伯爵家に相応しいものを実家が用意するだろう。私の時は母から譲られた古いものを仕立て直したが、妹たちは新品を購入できるはずだ。姉とはいえ他家に嫁入りした身、あまり出しゃばりたくない。
その気持ちとは別に、妹たちには年々何か資産になるものを贈りたいと思っていた。いつかあの子たちもどこかに嫁ぐ。もしかすれば普通に愛されて幸せになれる家に嫁げるかもしれないが、様々な理由で嫁ぎ先の家で居所が悪くなる事もあるだろう。そんな時に資産があると言うのは素晴らしい事だ。
一つ気にならないでもないのが、その資産を購入しているお金の出どころがあの夫という所か。私が稼いだものでもないし、正当な妻の仕事を私が果たしているとはいいがたい。
だが向こうの望みであるお飾りの妻という役目は果たしているのだ。夫人として使えるお金を好きに使って、何が悪い。
もし文句を言われたならそう言い返す所存である。まあ夫は最近、滅多な事では屋敷に帰らなくなっているので顔も合わせていないのだが。稀に使用人たちから「旦那様がお帰りになっております」とは聞くものの、「名目上の妻」すらしなくていいと言ったのは彼なので、顔を合わせる義理もない。
「アナベルはデビュタントの様子は見に行くの?」
「…………難しいわね。夫は、私が他の男性がいる所に行くのを嫌がるから」
建前だが、未だに「夫は妻を溺愛するが故に一切の社交をやらせない」となっているので、私は夜会にしろ茶会にしろ、参加も開催も出来ない。なので最近の社交界の噂とかは、メラニアの方がずっとずっと詳しいだろう。私が彼女より詳しい事と言えば、芸術関連が多少……という所。それも、メラニアが商人の妻として仕事をしている時間も芸術に金を投げ入れているから詳しくなったというだけなので、胸を張れる事でもない。
「そう、残念だわ。でも……前から思っていたのだけれど。アナベル、貴女の夫……言いたくはないけれど、少しちぐはぐよね。夜会にもいかない、茶会も参加させない。だけどこうして貴女が一人で外に出るのは許しているじゃない?」
それを言われると痛い。
私はさほど頭が良いほうでもないので、そこを突かれると……苦し紛れで誤魔化すしかなくなる。
「そうかしら? 夜会も茶会も、相手と交流しなくてはならないでしょう? 夫はそれが厭みたい。美術館も演劇も、会いに行っているのは昼間だし、誰かと話すとしてもそう長い時間ではないじゃない。だからだと思うわ」
「…………そう?」
「そうよ、きっとね」
メラニアが首を傾げたのに私は何度も何度も頷いた。お願いだからこれ以上食い下がらないでくれという私の願いが届いたのか、メラニアはそれ以上夫の話題を出すことを止め、私の妹のデビュタントの準備などを聞いてきた。
■
久しぶりに夫の事を話題に出されてハラハラした……と思いながら屋敷に着くと、執事のギブソンが私の帰宅にすっ飛んできた。
「若奥様、おかえりなさいませ。若旦那様がお待ちでございます」
「……誰を?」
「若奥様をでございます!」
ギブソンの言葉に私は首をかしげる。
夫が、私を待っている?
どうしてそんな状況が起こったのかさっぱり分からない。お互いにまともに顔もあわさず会話もせず、外でだけ一応夫婦として取り繕う。それだって別に、一緒にどこかに出かける事はない。そんな、テキトーな仮面夫婦が私たちだというのに。
しかしギブソンに急かされて、私は仕方なく外行きの恰好のまま夫が待つという部屋に向かう事にした。こんな形だけの妻相手にも、使用人たちはいつも礼節をもって対応してくれた。私が夫の要望を拒絶して、その怒りが形だけでも彼ら彼女らに向かうのは嫌だ。
久方ぶりにあった夫を見た時、最初に思った事は「…………この人が夫、だよね?」という疑問だった。
自分でも驚いてしまった。確かに滅多に顔を合わせない。会話も、したとしても命令されて私が「はい」と答えるぐらいだった。それでも夫だ。直接的な言い方だが性行為だってしている。なのに初めて顔を合わせたかと錯覚するほど、夫の顔に覚えがなかった。さらに。
(名前……なんだったっけ)
いざ名前で呼ぼうとしたら思い出せず、喉につっかかった。なんだっけ、名前。いやでもこれは私だけが悪い訳じゃない。使用人たちもみんな、夫の事を若旦那と呼ぶ。ちなみに普通の旦那様だと、領地にいらっしゃる義父を指す。私が若奥様で、奥様は領地にいらっしゃる義母だ。ともかく名前で呼ばれない。だから忘れてしまったんだ。
私は変な顔をした夫にぎこちない笑顔を浮かべて誤魔化し、席に着いた。
夫の横にいる美しい女性のことは一旦無視だ。
「彼女はエヴァ。私の愛する女性だ」
無視させて貰えなかった。
私は微笑だけ浮かべ、そっと会釈をする。エヴァ様は少し憂いや不安を乗せた表情で私を見つめたが、名乗る事も会釈もしないでそっと夫に寄り添った。せめて挨拶してほしかった。夫が紹介してきたとしても。
そんな少しのもやもやを抱える私に夫がこの呼び出しの本題を言う。
「彼女が私の子供を授かった。故にこの子が生まれたら、男児にせよ女児にせよ、正式なライダー侯爵家の子として育てる」
「お待ちください若旦那様!」
「黙れギブソン。これは決定事項だ。お前に口出しする権利などない。勿論だがアナベル、君にだってそんな権利はない」
「ようございます」
私がそう答えると、腕を組んで威圧感を出していた夫が目を丸くする。横にいたエヴァ様もだ。なんだその反応。私が怒り散らすとでも思ったのだろうか。
「無事、ライダー侯爵家の後を継ぐ正当な子供が出来たのは喜ばしいことでございましょう。それで、わざわざエヴァ様をこちらにお連れしましたのは、妊娠された彼女をこちらの屋敷で生活させるからでしょうか?」
「いいや。彼女と私には、屋敷が別にある。こちらに彼女を引っ越させる事などしない!」
「畏まりました」
「……私も妻と子を守るために、今まで以上に尽力する。こちらの屋敷には滅多な事では戻らない」
「そうでございますか」
「…………両親がなんと言おうとも、私はエヴァの子を私の跡取りとするつもりだ」
「はい」
「………………君を! これからも愛することはないし、君との間に子をこさえる事もしない! 君に妻としての仕事をさせるつもりもない!」
「つまり、これからも今と変わらないという事で間違いありませんか?」
やたらと念を押されるので、もしや私に毎月宛がわれているお小遣いが減らされるのか不安になって確認したが、何故か顔を赤くした夫に「そうだ!」と怒鳴られてしまった。彼の怒っている理由はさっぱり分からないが、私は今と同じ生活が続くのなら異論はない。
「今の生活が続くのでしたら問題ありません。ちなみに、不躾ではありますが、エヴァ様がお産みになったお子様を形式上は私たちの養子にする予定ですか?」
エヴァ様が自分のお腹を押さえて叫ぶ。
「なんてひどい事を!」
声まで美しいなんてすごいなあと思った私と、冷静にいや何が酷いの? と疑問に思う私がいた。
「母親から子供を取り上げようというのか!? なんて女だ!」
夫もエヴァ様を抱きしめて、私をすごい顔で睨みつけてくる。
いやでもそうする以外どうするというのか。外での振る舞いを考えるために確認したかっただけなのに……。
この国の法律上、いくら夫が愛人に産ませた子供を「自分の子供だ」といっても、遺産として譲れるものはない。親の死後その遺産を引き継ぐ正当な権利を持つのは正当な夫妻の間の嫡出子だけ。これは貴族という身分の枠組みの考え方にも通じている。なので愛人が産んだ非嫡出子を貴族の子として胸を張って育てたいのならば、正妻である夫人を説得して、当主夫妻の養子としなくてはならない。養子縁組された非嫡出子は特例として、嫡出子と同等の権利を得れる。
今の夫の説明の中では、私と離婚する話はなかった。けれどエヴァ様の産んだ子供を跡取りにする、つまり侯爵家の正当な子供として育てる。という事は実際のところはさておき、書類上は私と夫の養子にするという事でしょう?
「妙な勘ぐりをしないでください」
少し苛立って、とげのある声が出た。
「私はただ、万が一外で妙な探りを入れようとする人と会う事があった時に、どうお答えすればいいのかを確認したかっただけです。そもそも子供のいない私がエヴァ様の子供を引き取ってどうするのです?」
書類上夫というだけの男の子供になんて、愛着なんてある訳がない。ついでに恨みとかもない。むしろこちらの屋敷にいられたら邪魔だ。
「ともかく、お話は分かりました。エヴァ様が夫の子を産み、ライダー侯爵家を次代に繋げて下さる。ありがたい事です。私はこちらの屋敷で今まで通り、大人しくしておりますのでどうぞお気遣いなく」
夫の許可等得ていないが、これ以上男女の面倒ごとに巻き込まれたくない。なので私はさっさとその場から立ち去った。執事のギブソン曰く、少ししてから夫とエヴァ様は帰っていったという。
「若奥様……」
使用人たちの間にも話が一瞬で広まったらしく、痛々しいものを見る目で見られたが、外に家を作って暮らすなら別にどうぞお好きにという所。同じ屋敷で暮らされたら堪らないが、むしろ傍にいないほうが気楽だ、あんな面倒そうな男女。
「みんな、気にしなくていいのよ」
本当に。本当の本当に。
そんな思いを込めたが、あまり伝わってなさそうである。
■
夫からの子供が出来た報告の後も気にせず芸術巡りに勤しんでいた私だったが、突如として屋敷に帰ってきた現ライダー侯爵夫妻によって平穏は崩れ去った。脆い平穏だった。
「ギブソン! ブライアンはどこにいる!」
義理の両親の来訪を出迎えに行った私だったが、屋敷に入った瞬間に義父がそう怒鳴ったので萎縮してしまった。現在は一線を退いているものの、義父であるライダー侯爵は元軍人でかなり上の地位にいたそうだ。正直な所、夫の顔立ちは義父にはあまり似ていない。骨格からして違う。なので夫は、義母に似たのだと思う。
それにしても義父のお陰で夫の名前を思い出せた。そうそう、ブライアンだった。Bな気はしていたんだ、この前の時も。嘘じゃない、本当に。
「若旦那様は、愛人様と暮らすお屋敷におります。こちらには普段帰ってきません」
「あいつは……! 侯爵家を継ぐ者という自覚がないのか!?」
「普段はこちらのお屋敷は、若奥様がおひとりで取り仕切っております」
ギブソン何を仰っているのですか私は取り仕切っておりませんが。
最初少し手を出して夫に怒鳴られてから、使用人の中でそういう事が好きな方に一任している。私はしていない。せいぜい季節ごとに、花瓶に生ける花の希望を出したり、料理をたまに好物を頼むぐらいだ。誤解、甚だしい。
義父の後ろから現れた義母が涙ぐんで私の傍にやってきた。
「ああ、アナベル。貴女になんと謝れば良いのか……! ギブソン、あの子はこちらには帰っていないとお前は言いましたが、どの程度帰っていなかったのですか?」
「最初の数か月は多少帰っておりましたが、一年も経つと月に数度になり、二年目には半年に数回になり、今ではごくごく稀に帰ってくる程度でございます」
「ごめんなさい、アナベル! そんな状況と知らず、呑気に孫の話を貴女にしてしまった私を許して頂戴……!」
「い、いえお義母様。確かに子供の事は少し困っておりましたが、大丈夫ですわ。ブ、ブライアン様にはお子様が出来たという話ですから」
「あんな女の子など認めん!」
義父がかんかんに怒って言った。
「ギブソン、これまでの事を全て報告しろ、詳細にだ!」
「畏まりました」
「アナベル。貴女には今まで苦労をかけました。必ず貴女にいいようにしますからね」
「は、はぁ……」
怒る義父と泣く義母が、ギブソンや数人の使用人たちと共に移動していく。
……流石に今この状況で劇場には行けないか。ああ、観たかった。新作……。
■
その日の夕方、どうやら義父母が呼んだらしく、夫とエヴァ様がこの屋敷に来た。私はそっと玄関ホールに入ってきた二人を窺ったのだけれど、エヴァ様の顔色がとかく悪い。
「体調悪いのでなくて? 妊婦なのだから、あまり酷い事にならないと良いのだけれど」
「若奥様、優しすぎます」
いや普通だと思う。というか、エヴァ様に何かあって彼女が子をおろす事にでもなった大変だ。夫と私が子作り必須とかになったら、最悪じゃないか。子供が欲しい気持ちは無いでも無いが、夫との子はいらない。
私は呼びだされるどころか部屋にいるように義父に厳命されてしまったので(玄関ホールまでは、我慢できずに様子を見に行ってしまったが)ここからは又聞きだ。
義父と夫は壮絶な言い合いをしたらしい。
途中でエヴァ様が倒れ、流石に義母が妊婦には酷だといって別室に寝かせたらしいが、それによって完全に義父母対夫の二対一の戦いは激化し、それはもう、屋敷の外まで聞こえるのではないかという感じであった。同じ屋敷の中にいた私ですら、離れた部屋で言い争っているのが分かるぐらいだったのだから、同じ部屋になんていたくもない。
結局一日で決着はつかず、次の日の朝食は地獄の様相だった。義父、義母、私が隣り合い、その反対側に夫とエヴァ様が座っている。エヴァ様の顔は紙のように白かった。途中までは無言だったのだが、エヴァ様が一つマナーを間違えた瞬間に義母が「まあ」と顔を歪め、エヴァ様の顔が青ざめる。それに気が付いた夫が義母に文句を言った結果、義父も爆発してしまった。
朝からなんて場に巻き込まれているのだろう。この調子では今日も劇を見に行けない。新作なのに!
私は仕方なく、震えているエヴァ様を退出させた。夫はそういう細やかな所までは気を回せなかったらしいので、仕方ない。
「あ、あ、あり、がとうござい、ます……」
「貴女にはしっかりと、夫の子供を産んで頂かないと困りますので」
そう言うと、色は青ざめたまま、少し訝しむようにエヴァ様が私を見上げた。
「……どうして? 貴女からすれば、私は疎ましいはずでしょう。私が産む子だって、貴女の立場を脅かすじゃない!」
「落ち着いて欲しいのですけれど、年単位でまともに会話しない、かつ、自分以外の女性を一途に愛し続ける夫との間に子供欲しいと思いますか? 冷静に考えてみてほしいのですけれど」
どうやら私たちの間には大きな壁があるようだ。それも致し方ない。私は正妻で、彼女は愛人。けれど私は夫から全く愛されておらず、彼女は愛されている。相手の立場に立って気持ちを考える事など出来るはずもない。
「一番最初はそれは、傷つきました。苦しかったし辛かったです。でも今はどうでもいいです」
「どうでも、いい?」
「はい、どうでもいいです。むしろ今更お前を愛したいとか愛してるとか言われても鳥肌が立ちます。私、元々社交が好きでもありませんし、ハッキリ言って今の状態が一番幸せなんです。邪魔だと離縁されるのなら仕方ありませんが…………我が儘を言えば、今のまま夫と関わらず、妻として社交もせず、ただただ毎月お金をもらって、そのお金で美術館に行ったり演劇を見たり……そういう生活をこれからも続けたいのです」
あまりに怠惰な精神すぎるが、私の希望が全て通るならそうして欲しいのだ。
エヴァ様とは敵対する理由だってない。私には。
まあ、彼女が私を離縁させて正妻になりたい! というのなら敵として見られるのも仕方ないのだけれど。
「なんだそれは……」
呆然とした声が聞こえて振り返ると、夫、義母、義父がそろっていた。夫は目を見開いて口をはしたなく開けっぱなしにしていて。義父は難しい顔、義母は気まずそうな顔だ。しまった、今の聞かれてしまった。流石に自分の怠惰な欲望全開の言葉を聞かれてしまった事が恥ずかしくて、顔が赤くなる。
「い、今のはその……」
ああああうまく誤魔化す言葉が浮かばない!
「嘘! …………ではないのですけれど、いやその、…………申し訳ございません、侯爵閣下。侯爵夫人…………」
言葉が出てこず、私は頭を下げた。もう謝る事しか出来ない。
「今お聞きになった通り、私は侯爵夫人としては不十分すぎる女でして……」
「……ブライアンの事は、もう、好きでもないのね?」
義母の言葉に頭を下げたまま答える。
「好きでも嫌いでもないです……どうでもいいので……今更歴とした夫婦になれと言われても困るぐらいで……」
「こ、こまる」
夫が片言で復唱してきた。
「申し訳ありません。愛人に夫をあっさり明け渡し、その上夫人としての重要な仕事である社交も全くせず…………申し訳ありません…………」
本当に、消えてしまいたい。それぐらい恥ずかしかった。
「確かに社交はしていませんが、貴女は流行の先端にいるのですよ、アナベル。知らないのですか?」
「……へ?」
義母の言葉に、私は目を点にする。流行の先端? 何のことだ。全く身に覚えはない。
夫も意外だと言わんばかりに義母の方を見ている。エヴァ様もだ。そんな彼らに、義母は溜息をついて説明してくれた。
「クラックス。ネイザー。ガーデナー」
画家や彫刻家の名前だ。
「ドーラ・ゴスリング、グレンダ・サムウェル、エマニュエル・ソーンヒル」
今度は女優二人と、俳優一人。
どれもここ一年ほどでぐんと売れるようになった芸術家の名前だ。彼らがまだあまり売れていなかった頃から見ていたので、これほど著名になって、本当に嬉しいと共に、彼らの成長を見ていた事は私のひそかな自慢でもある。
でも彼らの名前がどうして出たのか? と思っていると、義母は駄目な子を見るような目で私を見つめていた。
「全て、アナベル、貴女が見出した芸術家たちでしょう?」
「え? い、いえ。そのようなことは。確かに彼らが今ほど売れる前から気に入っておりましたが……」
画家ならば作品を買い取り。
女優・俳優であれば、少しの気持ちを含ませて、出演する作品があったら花を贈ったり。それぐらいだ。
「貴女の認識がどうであれ、世間では彼らはライダー次期侯爵夫人が最初に見出し、支援し、彼らを育て上げたと見ています」
ご、誤解! 甚だしい!
「それから、アボット商会の夫人と親しいのよね?」
「はい。彼女とは、デビュタントがたまたま同じ会場だった縁もありまして、親しくしております」
メラニアの事だ。友人の名前が突然出てきて困惑してしまう。
「アボット商会は、今王都で一番勢いのある商会の一つです。特に、服飾関係ではアボット商会の勢いをしのぐ所はありません。最近では新たに王族御用達に名を連ねたとか」
そうだったのか。世間の噂や話は流れてこないし、普段あまり新聞もちゃんと読んでいない不勉強な女なので知らなかった。メラニアも教えてくれなかったし。
「アナベル。貴女が今着ている服も、全てアボット商会の物でしょう?」
「はい、そうです。というよりも、私の今持っている服は全てアボット商会から買った物です」
「えっ!?」
「え?」
エヴァ様がすごい大袈裟に反応してきたのでつい彼女を振り返った。彼女は興奮しているのか、先ほどまでの顔色の悪さが嘘のように私に顔を近づけてくる。
「アボット商会の服なんて、き、既製品でも買うのが大変なぐらい連日売り切れているのに……!」
「え、そうなのですか? 全てオーダーメイドなのですけれど」
「全てオーダーメイド?!」
私は既製品でもよかったのだけれど、メラニアが是非、私にピッタリな服を作らせてほしいというから、オーダーメイドでいつもお願いしていた。多少割高にはなるけれど、彼女は私の大切な友人だし、これぐらい彼女の家に貢献するのは普通だろうと思っていた……のだけれど…………。
エヴァ様はふらふらと後退したかと思えば、その場でしゃがみ込んでしまった。
「え、エヴァ様!? 大丈夫ですか?」
「ブライアンに、何度アボット商会の服が着たいと頼んでも、買えなかったのに……」
え、と思い夫の顔を見る。夫は呆然としたまま頷いた。
「品が入荷したら伝えてほしいと言っても、あまりに人気でしてと他の貴族の名前を匂わされて……そんな、アナベルがそこまで懇意にしているなら、私に売るのは当然だろう……!?」
「ブライアン。お前は馬鹿ですか」
ドストレートな罵倒に全員がギョッと義母を見る。義母は口元を手で隠しつつ、実の息子である夫に冷めた目を向けていた。
「やり手の商人の妻である女性が、何度もアナベルと会っている内に夫婦仲が良くない事に気が付かないとでも? アボット商会は何度か屋敷にも出入りしているようですし、そもそも、お前たちの夫婦仲があまり良くない事は王都では囁かれている話ですよ」
「え!」
私、夫、エヴァ様の声がそろった。
「アナベルが様々な美術館や演劇に熱心に通っている事は、有名でした。社交を一切していなかったアナベルはともかく、ブライアン、お前は自分の妻が社交界でどのように言われているかも知らないのですか」
「そ、それは、その……」
「はぁ……。夜会にもいかない茶会にも参加しない。自分で開くでもない。それでいて、連日外に出て美術を鑑賞したり、演劇を見たりと精力的な活動はしている。可笑しいと思わない方が可笑しい。アナベルが外に出るのが嫌いではないのだと分かった時点で、茶会等への誘いはいくつかの家から来ていたでしょう。私の友人から、聞いていますよ。アナベル本人からではなく、夫であるブライアンから参加を断る連絡が来たと」
え。私宛の茶会とかの誘いって、あったのか。全く知らなかった。
つい夫を見るも、彼は母親に詰られて顔をうつむかせている。
「いいですか。何度も言いますが、可笑しいと勘繰らない方が可笑しいのです。お前の周りの男性がどう言っていたかは知りませんが、お前たちの関係が上手くいっていないのだろうという事ぐらい、とうに噂になって私の耳にまで囀ってくる者がおりました。…………それでも私は、ブライアン、お前の事を母として信じていたし、アナベル、貴女へ送った手紙からも困っている感じがしなかったので噂は噂なのだと信じようと…………信じたいと思っていた。分かりますかブライアン。そんな時にギブソンから、お前が、是非妻にと望んだ女性を迎え入れる前から関係を持っていた女と未だに続いていて、しかもその女を孕ませてその子供を跡継ぎにしたいと言い出したと聞いた時の私の気持ちが!」
夫より二回りぐらい小さい義母であったが、その言葉の迫力は義父に負けない。エヴァ様はひいと悲鳴を上げて蹲ってしまって、夫はさらに縮こまった。私はもう、どうしたらいいか分からないで固まっていた。
夫を見ていた冷たい目から一転、私を見つめた義母はそっと近づいてきて私の両手を握った。
「アナベル。本当に御免なさい。もっと早くに、最初に私の耳に話が届いた時に動くべきだったわ。本当に……御免なさいね。これだけ蔑ろにした貴女に、次のブライアンとの子供を産んでくれ等と悍ましい事、頼めません」
かすれた声で夫が「おぞましい……」と復唱していた。衝撃を受けると復唱しか出来ないのかもしれない。
「貴女には迷惑をかけてしまったわ。これ以上貴女を苦しめる事はないように取り計らう。信じてくれるかしら?」
義母は私より背が低いので、上目遣いでそう問われる。そういう対象にはもう見れないが、美しい夫を産んだだけあり、義母は未だに美しい。う、と思いながら私は頷いた。
「じ、実行前に、その、確認させていただけましたら、さいわいですぅ……」
「ええ、勿論よ。息子と違って、こちらの都合だけで勝手に決断して命令するなんて事しないから安心して」
今までは特に思っていなかったが、義母は間違いなく侯爵夫人だ……と私は痛感したのであった。
■
本当に……あれから随分と忙しく、暫くの間は大好きな芸術鑑賞は控えるしかなかった。結局新作の劇を見る暇もなく終わってしまったと聞いた時は泣きそうになったが、あの数か月にわたる苦労のお陰で、今私はまた自由を得ている。本当に、信じられないほど私に都合が良くて、夢なのではと思う程の自由を。
「アナベル! 会いたかったわ」
「メラニア! 私も会いたかったわ」
久しぶりにカンクーウッド美術館に赴いた私は、今日を共に過ごそうと約束していたメラニアと抱き合った。
「アボット商会にも迷惑をかけてしまったと聞いたわ。ごめんなさい」
「気にしないで! 大した事のない噂話よ。ライダー侯爵夫人が消してくださったもの」
ここ最近の社交界の話題は、全てが次期ライダー侯爵夫妻――つまり、私とブライアンの話ばかりだったと聞いている。私とブライアン(とエヴァ様)についてはある事ない事囁かれまくったというが、その際に一部の人が私と関わりがあるという人々にまである事ない事囁くようになったという。幸い、その話が回ってきてすぐにお義母様が対処してくださったが。
ああ、もうお義母様ではないのだった。
「ふふ、それじゃあ、久しぶりに回りましょうかラングトン女子爵?」
「もうメラニア。私は爵位は預かっているけれど、そんな……立派な当主でもないのだから、やめて頂戴」
全てが義父母に露見してから、もう半年近くが経つ。
あの後義父母は、私とブライアンをこのまま夫婦として維持する方が、ライダー侯爵家の汚点になると考えた。エヴァを妻として迎え入れるにせよ愛人のままに留めるにせよ、私とブライアンの間に出来た本物の子供と偽るのは難しいだろうし、そもそもそんな事を無理して続ける利点がないと。
よって、ブライアンの有責により、私たちは離縁した。
不倫が原因で男性側有責で離縁する事は殆どないだろう。大概の場合では嫁の方が外から来ている事が多く、離縁するとしても夫側に有利な理由にされがちだ。ゼロではないが、不倫が原因での離縁の内、殆どが女性側に何かしら問題があったとして離縁されている。悔しいが、女性の地位はそこまで高くない。
なので明らかにブライアンが有責での離縁というのは、珍しい事だった。元義父母であるライダー侯爵と夫人は自分たちの子育てが間違っていた、息子が悪いとハッキリ社交界でも発言したのだという。その際、ブライアンが始まりから計画して私と結婚した事も広めたらしい。つまり、最初からお飾りの妻にするために自分より弱い立場の女性を口説き、しかも白い結婚を持ち出されないために初夜を済ませてから放置したという事も。
さらっと私の恥部も晒されている気がしないでもないが、侯爵夫人の言い方が上手いのか、或いは一時流行りまくっていた演劇の筋書きにそっくりなせいか、社交界の女性の殆どは私の味方についた。というか、ブライアンの事を完全に女の敵として見たのだ。特にあの時期デビュタントを済ませていた貴族令嬢は、もしかすれば自分がブライアンに見初められて仮初の妻にされていたかもしれないと震え上がったらしい。今回の一件で大きくイメージダウンしたものの、ライダー侯爵家は名門で力も強い。かの家に正面から歯向かえるような貴族の家は少ない。女性だけではなく、愛妻家の男性等を中心に、男性陣からもブライアンの行動は非難された。
さてブライアンから離縁された私は、処女ではないし、今から結婚相手を見つけられるほどの器量よしでもない。終わったと思ったのだけれど、なんとそんな私にライダー侯爵夫妻は、慰謝料として爵位を譲ってくれたのだ。
あまりに破格の対応に目が飛び出掛けた。
確かにライダー侯爵家は、侯爵位以外にもいくつかの爵位を持っている。それは知っている。名門と一応言われるにも関わらず、伯爵位しか持たないブリンドル伯爵家とは違う。しかしまさか、ブライアンとの間に子供がいる訳でもない私に爵位を……しかも領地までついており、現地に優秀な家令がいるために放っておいても毎月収入があるような爵位を渡してくるなんて、あまりに破格すぎる。
流石に受け取れないと拒否したのだけれど、気が付けば元義両親に丸め込まれて、私はアナベル・ライダー夫人改めアナベル・ラングストン女子爵となった。
あまりに身分不相応でたまに胃が痛くなる。
ライダー侯爵夫妻としては、私と不仲というイメージを植え付けたくなかったのかもしれない。実際、私が侯爵家の屋敷を出て、新たに購入されたラングストン子爵家の屋敷に引っ越した後も、義父母にお呼ばれして屋敷を訪れたりしているし、逆に私が夫妻をお誘いする事もある。世間ではブライアンはともかく、私とライダー侯爵たちの仲は良好だと思われているのだろう。
破格の対応はまだ続く。
女子爵となり引っ越した私だったが、今までまともに侯爵夫人としても振る舞っていない女が、突如貴族の家の当主になっても、働けるはずはない。だからと侯爵夫妻がそれぞれ伝手を使い、家令や新しい執事を用意してくれた。ちなみに新しい執事となったのはギブソンの息子の一人らしく、これまでは別の家で執事として働いていたらしい。
ほかにも侯爵家の屋敷で働いていた使用人の何割かが、そのままそっくり私が暮らす新居に付いてきてくれた。私が思っていたより使用人たちから良い主人と思われていたらしい事に驚いた。
お陰で私は引っ越した以外は、これまでの生活と殆ど変わらない生活を送っている。
とはいえ仮のような立場でも、領地を持つ貴族の当主になってしまった。なので領地にも挨拶に行ったりした。……侯爵夫妻と一緒に。
いや一人で行こうかと思っていたのだけれど、気が付いたら夫妻と同じ馬車で領地に向かっていたのだ。あれは本当に訳が分からなかった。
領地には普段は使われていないものの屋敷もしっかりあり、そこで領主代理として長年働いてくれている方とも無事に挨拶をした。侯爵夫妻が「くれぐれも」と頼んでくれていたので大丈夫と思いたいが、私も……これまでと完全に同じという訳には行かないだろう。当主になってしまったのだし。…………自由だけ与えられて責任から逃れるなんて事は無理だけど、それでも、意外と厭ではない。
そんな訳で私の新しい生活は無事整って、やっとメラニアとお出かけ出来る位には落ち着いた訳だが、元夫であるブライアンはというと、そこまで順風満帆とは言えない。
何せ社交界に指をさされる状態になってしまった。
そして義父母からの命令で、エヴァ様ともども領地に追いやられてしまった。王都にこのままおいて、これ以上ライダー侯爵家の名を汚すのは許さないと言っているのを聞いた。
エヴァ様とはまだ正式な結婚はしていないらしい。義父がどうしても許せないのだという。もしかすれば、子供を産み落としても、ずっとエヴァ様は愛人のままかもしれない。義父が早くに亡くなって正式に元夫が当主になれれば分からないが、何せ義父は矍鑠としている。侯爵家の世代交代は、まだ先だろう。
「アナベル、ブロック館長だわ」
「あら本当。最近はまともに訪れなかったから、謝らないと」
「まあ。アナベルが大変だったことを王都で知らない人はいないわよ? 大丈夫よ。……それにしても、ブロック館長の後ろにいらっしゃる方はどなたかしら」
メラニアの言葉につられ、館長の後ろを見る。こちらに近づいてくる館長の後ろに、精悍とした顔立ちの男性がいた。なんとなくだが、休日の軍人という感じがする。元義父に受けた印象に近い。
「ラングストン女子爵! 当館にお越しいただき、誠にありがとうございます」
「まあ館長。館長にそう呼ばれると、なんだか不思議な心地が致しますわ。暫くお顔を見に来れなくて御免なさいね」
今までずっとライダー夫人だったのだ。でもこれからはラングストン女子爵と呼ばれなくてはならない。夫人でもなく、子爵なのだ。早く慣れなくては。
「ねえブロック館長。後ろにいる方はどなた?」
メラニアがそう問いかけると、館長は口ひげを撫でながら紹介してくれた。
「たまたま作品を届けてくださっていたのですが、ラングストン女子爵が来ていると聞きまして、是非挨拶と、お礼を伝えたいと」
「お礼?」
私とメラニアの声が被る。挨拶は、ブロック館長の手前受けるのも仕方ないと思っていたが、初対面なのに何故お礼を言われるのか。そう思っていると、男性はそっと礼をした。貴族女性に対する、綺麗な礼だ。育ちの良さが一瞬で理解できた。
「お会いできて光栄です、ラングストン女子爵。私はウェルボーン子爵ジェレマイア・コーニッシュ。或いは……貴女には、『ガーデナー』という名前の方が伝わりやすいかもしれませんが」
「えっ!?」
私もメラニアも、ついそんな声を上げてしまった。
ジェレマイア・コーニッシュ。つまり、コーニッシュ公爵家の人……数代に一度王族が嫁ぐ事もある、名門中の名門だ! 実家のブリンドル伯爵家は勿論のこと、ライダー侯爵家から見ても格上の家名である。ウェルボーン子爵を名乗ったという事は、恐らく嫡男ではなく、家を継がない立場なので別の爵位を継いだのだとは思うけれど……。
それだけでも驚きなのに、彼はなんと『ガーデナー』……私がずっと気に入って追っていた画家だと名乗ったのだ。見た目からは全く想像がつかない。軍人だと思っていた位だ。驚かない方が無理がある!
「が、ガーデナー、本当に?」
「間違いありませんぞ」
ブロック館長がニコニコ笑いながら言った。
「貴女にずっとお礼を言いたくて、館長に無理を言ってしまいました」
ウェルボーン子爵はそう前置きして、簡単に、お礼の内容を告げた。
「私は幼い頃から絵を描いていたのですが、お家柄、趣味としてする分には構わないけれど仕事にするなどあり得ないと親から反対されていまして」
確かに、芸術の類は趣味として極める貴族は多いけれど、それを仕事とする人は殆どいない。コーニッシュ公爵家ほどの名家ともなれば周りの目を考えて許さないのも可笑しくはない。
「それでも私はずっと、画家として生きたかったのです。知り合いだったブロック館長に無理を言い、私が描いた絵を何度も展示会においてもらいました。しかし…………ハッキリ言って見向きもされない日々が続き、自分には才能がないのだと。親の言う通り、大人しく私も軍に入るなり、働くべきだったのかと何度も悩んだのです。…………筆を折ろうか真剣に考えていた時、貴女が私の絵を買ってくれた」
私が最初に買ったガーデナーの絵。覚えている。
「デイジーの絵だわ」
「覚えていてくださったのですか……?」
「勿論ですわ。今も私の部屋に飾ってありますから」
珍しくもない花の絵だ。けれど、一目見た時、花が語りかけてくれたような気がしたのだ。私を見てくれたような気がした。夫からあしらわれ、毎日を無意味に過ごしていた私を見てくれたと……そう感じて、気が付けば館長に話しかけて購入した。
思えばそれが私から館長に話しかけた初めての事だったようにも思う。
私の言葉にウェルボーン子爵は感激したように目を輝かせた。顔は男らしいのに、その目がまるで少年のようだと思った。とくんと、胸のあたりが温かくなる。
「おかげで私はギリギリで筆を折らず、絵を描き続けられた。その後も貴女は何度も私の絵を買ってくださった。そのうち、他の方にも手に取ってもらえるようになったのです。両親も、私の名が王都で売れるにつれ、仕方ないと画家になる事を許してくれました。ラングストン女子爵。全て貴女のお陰なのです。本当に……本当に、ありがとうございます」
ウェルボーン子爵はすっと私の手を取ったかと思えば、私の手の甲にキスをした。その上で片膝を床につけて、私の手をそっと握ったまま熱い目で私を見上げてくる。そんな事、元夫が猫を被っていた時ですらしてくれた事はない。顔が沸騰するかと思った。
「ぇっ、ぁ、ぁっ」
「うぇ、ウェルボーン子爵、立ってくださいませ。突然膝をつかれても、困ってしまいますわ」
人間の言葉が紡げないでいた私を見かねて、メラニアがそう言ってくれた。ウェルボーン子爵は「申し訳ありません」と言い、私の手を放して立ち上がる。
私は震える手でなんとか扇を取り出して、赤い顔を隠すので精一杯だ。
「ラングストン女子爵。貴女への感謝は、言葉だけでは到底足りません。どうか形として、行動としてもお礼をすることをお許しいただけませんか……?」
「へっ?」
「貴女が嫌でなければ貴女の絵を描かせてほしいのです。それから、貴女が芸術に通じているのは存じていますが、あまり料理店には行かれていないと聞きました。今度、コーニッシュ家行きつけのお店を貴女に紹介させてください」
「えっ、あっ、え??」
な、何を言われているのか分からず困惑する。が、私は慌てて首を振った。駄目よ駄目。私は女子爵になったのだから。冷静に、落ち着いて、まだ子爵位をもらったばかりて忙しいので、またいつかと婉曲にお断りを。
「よ、喜んで」
どうしてーーー!!!!
混乱したら焦って先に口が動くのはもう悪癖だわ、いの一番に直さなくてはならないわ!!!!
内心頭を抱える私に対して、ウェルボーン子爵は顔を輝かせた。あ~、今更口が滑ったなんて言えないわ! どちらにせよ公爵令息にそんな事言えないのだけれど!
「ありがとうございます。また後日、必ず、こちらから連絡いたします」
…………。
気が付いたら、ウェルボーン子爵はいなくなっていた。呆然とする私を横からメラニアがゆすっている。
「アナベル、アナベルしっかりなさい。帰ってきて頂戴!」
「はっ…………。…………夢? 嫌だわメラニア、私ったら、白昼夢なんて見てしまって……」
「夢じゃないわよ。ウェルボーン子爵にお会いして、彼はガーデナーで、貴女に絵描きデートと食事のデートの約束を取り付けて帰っていったわ!」
「デッ!?」
「んもう、アナベルったら隅にも置けないわ。再婚はそう遠くないわね!」
私は慌ててメラニアの口を扇で塞いで黙らせる。近くには未だに留まっているブロック館長と私たちしかいない。メラニアの言葉は聞かれていないだろう。
「メラニア、滅多な事言わないで。再婚なんて、話が飛躍し過ぎよ。ウェルボーン子爵に御迷惑だわ」
「まあどうして」
「だって、その、私は一度離縁されている身だもの」
「夫有責の離縁だわ。貴女は悪くないじゃない」
「そうだけど、清い体ではないし」
「そんな事知っていると思うわ。気にしない人にとっては些細な事よ」
「そ、それに、そうよ! ウェルボーン子爵はその、筆を持ち続けられたお礼が本当にしたいだけでしょうし!」
「お礼は絵で返すか、お金や物を贈って返せば済む話でしょう。貴女の絵は……まあ、画家として自信があってのお礼の形としては有り得るかもしれないけれど。でも料理を食べるのに誘うのが、お礼な訳ないでしょう。絶対貴女に気があるわよ」
「そ、そんなことないわよぉ…………だって私よぉ……???」
確かに血筋は、歴史だけ見れば悪くもない。
ただ一度結婚してうまくいっていない身だし、お陰で年齢だけ重ねた。正直、デビュタントした頃ならば若さの補正があっただろうが、今はそんな補正もないだろう。社交だって遠のいていて、もう自信がない。お義母様は流行の先端とか言っていたが、服装はメラニアのお陰だし、芸術にしろ演劇にしろ音楽にしろ、ただ私が気に入ったものに当時余っていたお金をつぎ込んでいただけの話だ。
ウェルボーン子爵の顔を思い出すと顔が赤くなってしまうが、あれだけ精悍な、紳士的な人だ。家柄もいいし、画家として働いているとはいっても、いい出会いはいくらでもあるだろう。
――そうやってぶつぶつ呟いていた私は。呆れた顔をしたメラニアが、ブロック館長に「強めに押した方が良いとお伝えくださいな」などと言っているとは知らず。
そしてその言葉の通りとばかりに、ウェルボーン子爵からガンガンにお誘いが入ってきて。
しかもいつの間にか実の親も、元義両親も味方に付けており。
完全に外堀を埋められ口説かれる羽目になるとは、思ってもいなかったのだった。
余談
■『リシアンサス』……別名トルコキキョウという花。花言葉は白色だと「思いやり」、紫色だと「希望」。なおアナベルは花言葉まで把握していた訳ではない。上の妹は嫁入り道具の一つとばかりに持っていった。
■『デイジー』……花言葉は「平和」。なおアナベルは花言葉まで把握していた訳ではない。
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