疼き①
つんとした消毒液の匂い。どこかで嗅いだことのある匂いだ。ここは病院だけれど、行院ではないどこか。どこだったのだろうと、沙織はしきりに考えていた。
「山本さん」
自分よりも一回りほど若い看護師に呼ばれて、ふと顔を上げる。いつの間にこんなに年を重ねてしまったのだろう。つい最近まで、病院で見る看護師はみんな年上だった。『大人になったら、あんなお姉さんになりたいな』なんて思っていたはずなのに。あの頃、あんなにも凛として美しく見えた看護師は、こんなにも幼く思える。任せて大丈夫なのかしら……と心配になるほどに。目線が合うと、にこやかな口元にはリップグロスが光っていた。
待合席の硬いソファから立ち上がって、その看護師の横をすり抜けようとした。そのとき、わずかな香水の香りがした。ディオールの甘ったるい香り。沙織の眉間にしわが寄る。誰に媚をうるつもりなのかしら……そんな風に感じてしまう自分と、その自分にがっかりする自分。年をとった証拠だ。自分より若い女の子の所作が気になるなんて。そこにはかつての自分の姿があるのだ。背伸びをしたかった“あの頃”の自分。自分が何かを得るために、失ってしまったもの。それを後悔してはいないけれど、今の価値観にはそぐわない。癇に障るのだ。これはどうしようもなかった。
大人になればなるほど、物分かりがよくなると思っていた。しかし、そんなことはないらしい。キャパシティは小さくなる一方だと思う。自分に自信があるからこそ、融通が利かない。面倒なプライドばかりが大きくなる。これも年をとった証拠だと思うと、ため息しか出ない。
そんな心中はひた隠しにして、沙織は診察室へ入った。簡素な机の前には、マスクで顔を半分隠された初老の女医がいた。髪の毛に白髪が交じっている。後ろでひっつめた髪はぱさぱさとしていた。
「山本さん、検査の結果お話してもかまいませんか?」
静かな声でカルテを繰りながら女医は言う。おかしな話だ。彼女はその“お話”をするために沙織を呼んだはずなのに、確認するなんて。不思議な間ができた。
「はい。私しか聞くべき人はいませんし、十分、理解できる年齢ですから」
沙織は非常に詳しく答えてみたが、女医の反応は薄かった。マスクのせいで表情が見えなかったこともあるが、曖昧に頷いただけだ。
「もう一度、検査をしてみないといけませんが、おそらく手術が必要になるでしょう」
「はい」
「あなたの命を守るために手術しなければならなくなると思います。できるだけ早い段階で。早ければ早いほうが良いのです」
「はい」
「つらいでしょうが、気持ちをしっかり持って頑張りましょう」
「あの、それで病名は?」
「あなたは乳がんだと思われます」
その後、あれこれと説明を受けたが、結局は自分の片方の乳房を失うのだという。沙織は愕然とした。あって当たり前のものがなくなるという事実が不思議でならなかった。ショックというより、受け入れられない事実だった。人生、何が起こるかわからないと他人事のように思っていた。
女医は無表情に説明を続けていたが、沙織にはどうすることもできなかった。選択肢がない以上、沙織にできることはただ一つ。
「お任せします」
と、頭を下げることだった。
そのとき、急に消毒液の匂いが思い出された。この匂い、保健室の匂いだ。自分の学生時代のことが思い出された。古びた校舎、教室、グラウンド、そして保健室。保健室は学校の中で、特殊な空間だった。授業や勉強と関係ない、別の時間が流れる場所。不思議なことに、小学校も中学校も高校も、何かしらの思い出がある場所だった。
ずっと忘れていたことが、鮮明に思い出される。走馬灯というのは、こういうものなのかな……と妙に納得できた。自分自身を振り返る時間がこんなにも早く訪れるとは思っていなかった。しかし、これはまぎれもない事実だった。




