バルテル・絡新婦・スピノーザ
※クリス視点
捕虜となり、行方不明との報告を受けていた調査隊員二名が帰還した。
帝国山岳部隊のベムラー・エーワ少尉。
そして我が魔法兵団のバルテル・スピノーザ准尉だ。
ベムラー・エーワ氏は辺境伯配下の帝国兵だが、バルテル・スピノーザはうちの団員だ。よって私が直接事情聴取を行う。
ペッコリの原野にあるここクアナ砦は、元来死の森の魔物共との衝突を想定して建設された、ナインチェットの最西端防衛拠点だ。だがここ数百年魔物の氾濫等は一切なく、基地は無駄に巨大な張子の虎と化している。
築年数は不明だが、言うまでもなく年季の入った建造物であり、著しい老朽化が目立つ。予算も下りず、よって修繕も儘ならず、その外観は半ば廃墟の体を晒していた。
灯りも乏しく、水漏れの激しい地下道を歩く。
厳しい任務から命辛辛帰還した部下を、こんな地下に幽閉しやがって………、と正直腹が立つ。腹を空かせているだろうと持参したバスケットを、思わず廊下にぶち撒けそうになる。辺境伯のやり方はいちいち癪に障る。いつか寝首を落としてくれよう………。
ここだな。錆びに錆びた鉄の扉を押すが開かない。蝶番が腐ってやがる。
「おい! スピノーザ導士! いるか? 返事をしろ!」
「おぉ………。その声は…、団長ですか?」
少し籠った声が聞こえる。寝てたのかな?
「そうだ。クリス・ベーンだ。ここを開けてくれ、手が塞がっている」
ややあって、耳障りな音を奏でて扉が開いた。
相変わらず媚び諂った三枚目の顔が現れる。よし、元気そうだ。
「無事で何よりだスピノーザ導士。腹が減っただろう。差し入れを持って来たぞ」
「ほわぁ…。わざわざありがとうございます! お腹空いてたんですよ!」
よっぽど空腹だったのか、手渡したバスケットを引っ手繰るように受け取ると、不衛生なテーブルに中身をばら撒き、どっ散らかしながら食べ始めた………。ん? スピノーザ君ってこんな行儀悪かったっけ?
「ま、まずは腹ごしらえだな…。うん、たくさん食べなさい…」
スピノーザ家は確かオキホンの農家の地主。貴族にあらずとも田舎の保守派で、地元では力のある名家だったはず……。そこの次男坊が、この飢えた花街の博徒の如き食べっぷり。ああ、柑橘をそのまま皮ごと……。そんなにパンを口の中に捻じ込んだら……。
ぐびぐびと葡萄水を呷ると白目を剥いて、ばたりとテーブルに突っ伏した。
えええ? 嘘でしょ?
こっ、これはちょっと異常だぞ! 口からは色んな汁が垂れ、肩がびくんびくんと断続的に痙攣している。今まで囚われの身で飢えていたとしても、これはあまりにも異常だ。
テーブルに着きかけていた腰を上げ、思わず椅子を引いて後退る。
「エスパイド・モレ・ヌワニ・ラコ(余は蜘蛛であり、女である)………」
魔法言語だ! 呪文か? 分からない! 言葉を紡いでいる!
「スンクォレオ・ナラン・ホタコ・エ(白い首を仰け反らせて、余が仰ぐ果ては)」
スピノーザ導士の声が、徐々に掠れて、震え、次第に女の声になってゆく。
何を喋っているんだ? 驚愕と畏れで理解が全く追いつかない。死の森の魔物は魔法言語を話すとの報告があったが…。エスパイド…、エスパイド…、蜘蛛か?
カクカクと人形のような覚束ない動きで、呪われた男がゆっくりと立ち上がる。
首は力なく傾斜し、白目を剥いたままの顔が恐ろしい………。
「青い空であり、天蓋である」
ナインチェの言葉、ハナヒル語だ。そして完全に女の声だ。
スピノーザ導士の背後、壁に夥しい血がびしゃりと飛び散る。グキグキと異様な音を立てて、彼の背中を突き破り、真っ黒な虫の足が次々と生えてゆく。
………………蜘蛛の多脚だ。
あまりの恐怖と、その得体の知れなさに、吐き気を催す。
「言語中枢を奪うのに時間を要した。人間の言葉はこれで合っておるか?」
怖い! 心底恐ろしい!
身体が震えて呂律がまわらない………。何とか気を奮い立たせて声を出す。
「き、きれいな、ハナヒル語だ…。ちゃんと喋れている…」
「魔法言語を使うと、威圧してしまう虞があった」
ハナヒル語でも威圧されるわっ! こいつは憑依されているのか? いや……、蜘蛛の足が生えたところを見ると、寄生か?
「………何者だ?」
「絡新婦。いや今は、バルテル・絡新婦・スピノーザとしようか。故あって、この者の身に潜ませてもらった。森を冒さんとする貴様らの企てを暴くためでもあり、この者の命を守るためでもある」
「死の森の魔物か………。ジョロウグモ。アラクネじゃないのか?」
「アラクネ………? コト様は余の主。余は忠実なるコト様の僕、絡新婦である」
「私から、何を聞きたい………?」
「何も。余が知りたい事は全て貴様の脳みそに詰まっておる。それを頂こうか」
最悪だ………。こいつは私を殺すつもりか………。化け物なら会話で何とかなると、一瞬でも考えた私が愚かだった。怯えていた心に火が点る。ああ、やるとも。やってやるよ。
「全力で抗え、クリス・ベーン。余にナインチェット魔法兵団の神髄を見せよ」
クソッタレがっ! ぶち殺してやるよっ!




