顔
ふんわりとした甘い香りと、柔らかな感触で目覚めた。
ふにふに。
瞼を開けなくても分かります。決して大きくはないが、これはおっぱいです。
「…ゃあん♡」
この「ゃあん」は誰の「ゃあん」だ………。俺の寝床に侵入しているやつは一体誰だ?
昨夜は温泉の後、料亭で一杯やってそのまま二階で寝た。この布団という存在にやたら感動したのを覚えている。間違いは……、なかった。俺ひとりだった。
目を開けるのが怖いな。うーん……、でも多分コトだろ。
そういえばコトが寝る体勢ってどうなんだ? ポーズ的にどうなってる? 蜘蛛の下半身までぺたっと横になるとは考えにくい。やっぱりこう、座ったまんま寝るのかな? 思えばあいつが寝ている姿を一度も見た事がない。今度こっそり確かめてみよう。
さり気なくもうひと揉みしてから、おそるおそる目を開ける。
「ふぅ………ん」
「スフォッ…」
今スフォッと言ったのは俺だ。スフォッっという言葉に意味はない。ただ驚いて変な声が出ただけだ。大声を上げなかっただけ褒めてくれ。
驚いた理由は二つある。
ひとつはおっぱいの持ち主がコトじゃなく、鬼の巫女ちゃんだった事だ。ここに初めて来た時、庭を案内してくれた可愛い女子だ。なぜ同じ布団で寝ているのかは分からない。だがそんな謎など軽く吹き飛ぶくらいの衝撃がある。
そのもうひとつとは、顔だ。
口が思いっきり開いている。この開き方は一朝一夕で得られるものではない。ぱかっと見事に開いた大口。横向きになっているため、やや重力に従った下あご。滴る涎。おそらく彼女は年季の入った口呼吸派だ。
そして白目………。
彼女は薄目を開けたまま寝るタイプだった。こんな残念な寝顔がこの世にあっていいのだろうか。元が可愛いだけに破壊力が凄まじい。
俺は全てをなかった事にして、反対側に寝返りを打ち、一分ほど寝たふりをした後に「顔」と一言だけ呟いて、静かに起き上がった。
窓を開けると気持ちの良い朝の空気が鼻をくすぐった。
やたらと軋む木の階段を下りると、一階が騒がしい。
何事かと覗けば、ハガタと女将さんが玄関先でせかせかと動き回っている。
「…どうしたの?」
「あ、あら、おはようございます。サンカ様」
「おはよう」
「サンカ様? でももう行かねば! サンカ様、女将さん、行ってきます!」
「しっかり頑張るのよ!」
何を頑張るのか知らないが、槍を担いでハガタが出て行った。忙しないやつだ。
女将さんが振り返り、朝っぱらからエロい目つきで訊いてくる。
「うふ♡ 昨夜はお愉しみになられましたか?」
また何を言っているんだこいつは。ああ…、あの残念な巫女の事かな。
「今頃涎を垂らして白目を剥いてるよ」
「すごい…。そっ、そんなに激しく………」
激しい顔だった事実は否定しない。記憶の映像を掻き消すようにおしぼりで顔を拭く。
女将さんが淹れてくれた茶を啜ると、どこか懐かしい原っぱの香りがした。
「美味いね。ありがとう。ところでハガタは何慌ててたの?」
「蛇の一行が到着した様子でして。用心にお迎えに行ったんです」
カウンターの向こうで魚を焼きながら何でもない風に言う女将さん。
こいつらのこの何気ない一言を侮ってはならんのよ。根が魔物だからな。物騒な事も平気で仕出かすし、周りもそれを気にしてないきらいがある。
「すぐ喧嘩するからなあ………。蛇族って危ないの?」
「はい。今の長がちょっと危険なお方なんです。ニンマという名持ちのラミアで、力で強引に一族を掌握してるみたいです」
「へえ。恐怖政治か。しかもネームドモンスター………」
「人間を大量に殺戮した時に名を付けられてそのまま。確か人間の言葉でニンマは『蛇女』の意味だったかと」
「そのまんまだな。いや人の事言えないわ。ハガタもそうだった」
焼き魚がそっと置かれる。うまそうだ。塩が欲しいな真剣に。後でベムラー君に相談してみよう。
「シノ様とは幼馴染だったらしく、昔は仲が良かったそうなんですが、長の後継者争いで揉めた様で」
「にゃるほろ。んまい」
「シノ様はお白様と呼ばれる先代の実子を立てたのですが、結局定まらず………」
「正確には揉めてる真っ最中で長は確定していない。けど実力行使で強引にニンマが長の立場にあるって事ね」
「その通りです」
唐突に胸がズキリと痛んだ。パスだ。
この感覚慣れないな………。恋煩いの胸の痛みに近くて嫌だわ。
ってこれはシノだな。
相当な負の感情の波を感じる。この後継者争い。一筋縄ではいかない何かがありそうだ。
「分かった。俺も行ってくるよ。ごちそうさま」
「あ、私もご一緒いたします。庭が壊されそうで気になってたんです」
そこかい。




