狒々
進化する気配がない。
見れば胸に血痕はあるが、傷は塞がっている。
胸は浅く上下し、呼吸は確認できるが………。
「シノ?」
「………………………」
寝てるのかな?
「白々しい。そら寝では?」
「嫉妬しすぎやで、蜘蛛。そのすぐ難癖つけたいのん辛抱した方がえんちゃう? そのうち嫌われるで。……大丈夫かなあオッパイ蛇」
君もかなりだよハーピー。
胸に耳を当てて心拍を聞く。
正常………とは言い難いな。やたらと早いし不規則だ。不整脈の気がある。
どうなってるんだろうか……。もしかしたら進化に耐えうる肉体ができてないのかもしれない。
とりあえず進化の件は一旦置いておいて。
こいつ………、意識あるな。パスで分かる。コトが言うように狸寝入りか?
もしかして、かまってちゃんなのか?
脇腹をちょっとくすぐってみる。
「………………………っ」
耐えてる耐えてる。もうちょいいってみよう。
「………っ! あはっ! やあん!」
「ほらね。チュー待ちしてたんですよ」
「オッパイ蛇……だいぶアカン女やな……」
シノの穢れは根深い。
元凶の呪詛こそ消え去ったものの、長年のダメージの蓄積による全身の不具合が多すぎた。
人間でも長く生きていれば、老化とは違った理由、生活習慣や仕事環境で色んな歪みが生じるものだ。肩凝り、腰痛、偏頭痛等に悩まされる人も多いだろう。
その点に於いては骨肉でできた魔物も例外ではない。歪みをあるべき形に正し、骨や肉が本来の位置で本来の働きを保持できれば、肉体はそれだけで驚くべき性能を発揮するというものだ。
だからこそシノも、変身前にこれらの歪みを正さなければならない。さあ、コリを揉みほぐしていきましょうか。
「アラー、凝ってますねーお客さん」
「あっ…あっ…あっ! およしなんし! もうソコはようおざりんすぅ!」
「アラー、肩甲骨が癒着しちゃってますねー。四百肩じゃないですかあー」
「その…、あっ主さま、妙ちくりんな物言いなんすなぁ…。あはは」
逆に、魔物の肉体が人間と異なる大きな特徴とは何か。それは魔力器官である。魔物の肉体は骨肉のみでは成り立たない。魔力器官の重要性と比較すれば、むしろ骨肉はオマケのようなものだ。
魔物は皆、魔力という摩訶不思議なエネルギーに大きく依存し、その魔力を常に吸収、蓄積、あるいは放出しながら生きている。
魔力器官とは則ち、魔力の結晶体である魔石を軸として、そのエネルギー代謝を行う細胞を含む経脈と絡脈の事である。
それらは全身くまなく広がる魔力経路を形成し、これに歪みや滞りがあっては、肉体にとっても無視できない負担となるだろう。
よってこれも正さねばならない。
神の経路とかけて神経と解く。はい、かみさまの魔力がちょっと通りますよ。
「やぁ~ん♡」
「め、めっちゃ楽しそうな遊びしてはる!………うっ…、羨ましい」
「あれは治療なので遊びではありません。あくまで治療なので。ええ。治療です」
ぶつぶつ言っているコトとハーピーの真後ろで、集まっていた野次馬たちが騒ぎ始める。
やがてざわざわと道が開くように群衆が割れ、そしてまた静かになった。
誰か大物が来たのかな? 軽い緊張感が漂う。中には膝を折って平伏している者さえいる。
そしてその分断された魔物たちの奥から、懐かしい面影を残した、見覚えのあるシルエットが姿を現す。
「着いたかっ! 犬神様はどこじゃ! あ、あれは………。あれは、犬神様か?」
「もう降りてくれ爺様! …はあっ! …はあっ! づ……づかれだっ!」
狒々だ! おんぶしているのは鬼か。ちゃんと謝ったみたいだね。良かった。
魔力でありありと狒々だと認識できるんだが、なんか老けちゃったなぁ………。そりゃじい様と呼ばれる訳だ。
狒々とは古い仲だ。邪神の記憶にも色濃く残っている。ダッタン最古参の魔物と呼んでいいだろう。今は昔、邪神の肩に乗ってウキウキ鳴いていた愛らしい子猿を思い出して、心に暖かい何かが溢れる………。
「ああ狒々! 懐かしいな! こっちにおいで!」
つい昔飼っていたペットのように話しかけてしまう。
「お! おおおお………おぉ………犬神様!」
「おいで狒々、肩に……はもう乗れないか」
疲れた様子で倒れ込む鬼を置き去りにして、おぼつかない足取りで近づいて来る大猿の魔物。オランウータンのような体躯に、枯葉色の長い体毛が垂れさがる。
直立してピンと立てば二メートルに届こうかというその巨体も、背中をきゅっと丸くして、できるだけ自分を小さく見せようとしている。
近くなるに連れ、さらに歩みが遅くなる。マンドリルを思わせるカラフルな顔は、干し柿みたいにしわくちゃだ。口先を尖らせ、乳を吸う形にしてくちゃくちゃしているのは、きっと無意識的に子供返りしちゃってるんだろう………。
「犬神様、お帰りなさい…、おかえり、あ、あんちゃ…」
「ただいま狒々」
狒々とそっと抱き合う。お互い力はまるで入っていない。優しい抱擁だった。
狒々の痩せた腕と、老いて乾燥した毛並みを撫でる。長く生きたな、狒々。俺が死んだ後五百年も生きたのなら、もう俺よりずっと年上だ………。
年老いた顔が再会の喜びを噛みしめて微笑む。琥珀色の丸い瞳のその奥に、幼き日の面影があった。
「鬼が盗んだお酒を飲んだよ。おいしかった。今はお酒を造ってるの?」
「竜舌酒かのう? あれは特別美味くできましてな! 酒は百年くらい前から趣味でコツコツこさえて………こさ……えて」
あえて元気良く喋っていた言葉が次第に詰まる。よしてくれ、俺まで泣きそうになるじゃないか………。
「………儂は、儂は泣かん! 儂は笑う! 今日はめでたき良き日じゃ!」
「じい様! 泣いたらカッコ悪いで! 威厳がなくなってまうで!」
「ほんに仲良しでありんすね………」
マッサージでぐったりしていたシノが、少し楽になったのか、起き上がって擦り寄ってくる。さらにそれをガードする形で、コトが隙間に無言で半身を捻じ込んでくる。狭い狭い。
「今じゃ偉い爺様になってるみたいだけど、昔はこんなに小さくてさ、悪さばかりするし、すぐにオシッコを漏らしてたんだよ」
「ほほっ。実は一周回って今も緩いんじゃ」
「我の背中が濡れておるのは………やはり、もはや飲むしかあるまい!」
鬼も混ざって、和やかな団欒となった。
俺たちは和気藹々とこれまでの事を話したり聞いたりしながら、豊かな森の恵みをたらふく頂いた。料理はどれも美味く、酒も驚くほどおいしかった。仲間と一緒なら尚更だね。
そして宴もたけなわとなった頃、聞き捨てならない知らせが耳に届く。
「サンカさま。東の森に人間が来たので」
蠅虎と戯れていたコトが振り返り、まるで当たり前の事を告げる何気なさでそう言った。
夜もう1話だけ追加でUPします。
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