シノ
ポケットからフォールディングナイフを取り出す。バックナイフだ。
昭和のナイフ好きなら、肥後守同様、誰もが一度は手にしたであろうアメリカのナイフメーカー、バック。
愛好家とまではいかないが、俺はこのバックナイフを何本か所有していた。最新のナイフと違って重く、必要以上に頑丈な造りがたまらない。今でもバックを崇拝する信者は一定数いると思われる。
『バック110 マウントフジ リミテッド』
一九八八年製のビンテージだ。刃に富士山の彫刻がある。観賞用だったが、何故かボストンバッグに紛れ込んでいたせいで、俺と一緒にこの世界にやって来た。
亀を殺したのもこのナイフだ。生産から三十五年近くの時を経て、ようやく使用されたかと思えば、魔物ばかりに突き刺さるという数奇な運命を持つナイフだ。
「っく! ………! っ!」
魔石を狙って蛇の胸にナイフを突き立て、刃先に魔力を通し、呪詛を焼く。
思いついた中で、これが傷を最小限にする唯一の方法だ。うまくすれば二センチ程度の切り傷しか残らない。
蛇が声を殺す。魔石を焼き切られる壮絶な痛みがあるはずだが、大した女だ。
「蛇。気をしっかり持て。少し掻き回す………」
「あぃ………、めちゃくちゃにしておくんなしな」
語弊のある言い方だ。こいつマゾなのか? いや、余計な事を考えるな。さっさと済ませよう。
蛇の喘ぎ声だけを残し、周囲は沈黙していた。何も分からないなりに、取り込み中なのを察してくれている。固唾を飲む群衆の中、コトがこの世の終わりのような顔でこちらを見ていた。………あいつ絶対何か勘違いしてるな。
粗方呪詛を焼き尽くしたタイミングで、突然心臓が跳ねた。蛇のではない、俺の心臓だ。
ハンマーで殴られたように一瞬意識が飛んだ。激しい動悸の中、少しづつ視界が正常化し、やがて泣き腫らした目でぼうっとこちらを見つめる蛇の顔に焦点が合う。
「主さま。わっちを許しておくんなんし……。この悪な蛇を許しておくんなんし」
「これは、パスか…」
「ほんに醜い蛇など裂いて捨てればええもんを…、なんのまあこないにしてお救いなんした、そん心遣いに嬉しゅうて、痴がましゅうも嬉しゅうて、わっちはいっそ哀しくなりんす」
いっそ哀しくなっているようだが、パスは繋がった。
そのパスを通じて、蛇は今あらゆる事象を猛スピードで学習している事だろう。
そんなつもりは1ミリもなかったが、とりあえずテイム完了だ。
しかしまあ、俺の眷属となったのならこれはこれで好都合だ。名を与えて進化を試みよう。コトの時を参考にすれば、残留した穢れを払える効果が期待できる。
ナイフを引き抜く。血と一緒にぐちゃくちゃとした黒い肉塊が零れる。
ネームドモンスターになれれば、この傷も綺麗に癒えるかもしれない。
「蛇。君に名を与えようと思う。それが幸せかどうかは約束できないが………」
「野暮なこと……。ただそうせえと言うておくんなまし」
俺が賛歌で、蜘蛛が琴。蛇かぁ…。顔も和風だし、もっかい和楽器いっとくか。マニアックだが篠笛とかカッコイイな。篠笛………、篠。しの。
「俺に仕えろ。君の名は篠。《シノ》だ」
※狒々視点
足腰が痛うていかん。
西の森から遠路遥々来たもんの、樹海の旅はほんに老骨に堪えるわい。しっかし犬神様が甦るとはの。この卑しい猿も永う生きた甲斐があったと云うもんじゃ。
「しんどいのう、腰が持たんわ」
「背負っておるのは我である!」
うるさい鬼じゃ。こやつの声量なんとかならんかの。
「ほっ。御神酒を盗んだ罰よの。大の鬼が情けない、ほれ、そこな二股の道があるじゃろ? 右の厳しい方を通れ。その方が近い」
「ぬっ、厳しい…!」
それは突然じゃった。落雷の如き魔力の閃光に肝を潰される。一拍の間もなく、ほれ参ったかと言わんばかりに、猛々しい黄金の魔力が熱風となって体毛を焼く。
「ぬうううっ! 厳しい!」
「待て鬼。………聞こえんか?」
『………同胞よ! 遍く眷愛隷属よ!』
「おお……」
ほほっ…。声音は少々違うが犬神様の魔力じゃ………。こら魂消たわ。
「鬼や、祠までどのくらいじゃ?」
「そうですな。あと直線で二里か三里………」
『無明の長夜は明けた! 俺はここに新たな命を以って甦った! 全てのダッタンの魔の者共よ! この燦々と輝く朝を祝え! ………………』
なんとここまで声を飛ばすか…。おしっこ漏れそうじゃわい。真、並々ならぬ御方よ。
『………肩を叩き酒を飲め! 腹いっぱい飯を食え! 泣くな! 笑え! 今日を森の祝祭日とする!』
「疾せい鬼! 宴が始まるぞ! 遅れをとってなるものか!」
「もう既に遅れておるのだ! 今更躍起になっても…、 ん…、背中が暖かいぞ」




