一二の三で消えました 4
「そんな……、嘘?」
男は少し考えこんでから言った。
「まあ、俺が夜逃げをすすめたんだから、半分俺がだましたと言えなくもないか」
素直は激しく床をたたいた。
「どうしてそんなことを!」
「そこでこの封筒が生きてくるわけだ」
男は黒い封筒をひらひらさせる。
「ほら、開けてみろ」
男は封筒を放り投げた。
素直はそれをひらりとかわす。
「あぁ?」
いらだちを隠せずに男は素直をにらんだ。
「私、見ないから」
「何だと?」
「私、絶対に見ないから」
男は舌打ちをした。
「ガキが……」
二人は無言のまま背中合わせになった。
素直はぐっと目をつぶる。
後ろでカチッ、という音がした。
しばらくして甘い煙草の香りが漂ってくる。
薄く目を開いた。
うちで煙草なんか吸わないでよ! 危うくそう言いかけた。
口をきいちゃだめ。口をきいちゃだめ。自分に言い聞かせる。一言でも話をしたら負けのような気がした。
時間が流れていく。ライターの乾いた音がもう一度鳴る。
目をつむっていると、だんだんと眠くなってくる。そういや、ほとんど寝ていなかったんだっけ。夢をみるでもなく、熟睡するでもなく、うつろな感情のまま座り続けていた。
体がふわふわとあたたかくなってくる。なんとなく懐かしい感覚。夢とうつつの狭間でゆっくりと目を開けた。
目の前に鏡がある。出かける前に髪を整えるための小さな鏡。そのなかにさっきの男が不機嫌な顔で映りこんでいる。素直は反射的に目をそらそうとした。
――あ、あれ。
鏡の中にもう一人、映りこんでいる人がいる。そのやわらかい笑顔がなつかしい。曖昧な意識のまま、その人に呼びかける。
「……おばあちゃん」
男は目を丸くした。
「今、何つった?」
「あなたの後ろに亡くなったおばあちゃんが見える」
いきなり男が笑い出した。
「そうか。そうか。やっぱり血は争えねえな」
男はもう一度封筒をほうった。
「これ、開けろよ。おまえにはその資格がある」
素直がしぶい顔になる。
「とりあえず開けてみろって」
素直はいやいやながら封筒を手に取り、はさみを入れる。
「読んでみろ」
「……遺言書」
予想外の単語に素直は口をつぐむ。
「続きを」
「遺言書。私、篠山美玲は左に記載する財産を篠山素直に譲りわたす」
素直は言葉を失った。
「篠山美玲って、おばあちゃん?」
「そうだ。世界的木工作家、篠山美玲。その土地、家屋、もろもろの財産の大部分は篠山素直に行くように指定してある」
「なんで……、私に?」
男は質問には答えず続けた。
「だが、それにはいくつか条件がある」
「条件?」
「まずおまえが一人で譲られた篠山邸に住むこと」
「私があんなだだっ広いところに? 一人で?」
「それはなんてことないだろ。莫大な財産が手に入るんだから。大学も行ける。住むところも食べるものにも困らない。母親も楽にしてやれる」
「……お母さん」
素直は唇を噛んだ。
「遺産を手に入れるための条件は他にもいろいろとあるが、今はまだいい。とりあえず明日が勝負だ」
「明日?」
「明日、篠山美玲の遺産相続に関する会議が本家でもよおされる」
素直はあぜんとした。
「もともとおまえやおまえの母親が不在の中行われるはずだった会議だ。そこに乗りこむ」
「昭夫おじさんのところに?」
男はうなずいた。
「なぜ、正当な遺産相続人であるおまえらに知らせがなかったのか。そこにはもちろん裏があるのさ」
素直は歯を食いしばった。
「だが、どんな罠があろうともおまえは行かなければならない。もうすぐこの家も差し押さえに入るだろう。住む場所まで失うか、莫大な財産を手に入れるか、オールオアナッシングだ」
「質問」
勢いよく素直が手を挙げた。
男はいらつきながら言う。
「何だ? このうえ泣き言ならごめんだぜ」
「名前」
「あ?」
「あなたの名前」
「黒木白夜。これでいいか?」
男は吐き捨てるように言った。
笑顔で素直は手を伸ばした。
白夜は少しひるんだ。
「握手」
「あ? 何でだよ」
「私、あなたが嫌い」
笑いながら素直は言った。
「こっちの台詞だ」
白夜はふてくされる。
「何企んでるのか分からないし。どこまで本当か分からないし。だまされてるのかもしれないし」
「無理して信用してくれなくたっていい。俺だってこんな面倒くさい仕事おりたいくらいだ」
素直は白夜の目を見つめた。
「でも、とりあえずあなたを信用するしかなさそうだから。だから、握手」
「意味が分かんねえ……」
「握手」
白夜は目をそむけながら手を伸ばした。
にっこりと素直が笑う。
二人の手が重なってつながった。
「じゃあ、明日」
「先にいろいろ準備してから行くからな。九時には身支度して待っとけよ」
素直は微笑みながらうなずいた。
「ちっ、調子が狂う。もう俺は今日帰るからな。寝坊するなよ」
「私、外まで送ってく」
「いいよ。いいよ。めんどうくさい」
「私たち明日協力しないといけないんでしょ?」
「それとこれは関係ないだろ」
「ほら、遠慮しないで」
素直は白夜の背中を押しながら玄関まで連れていく。
「遠慮なんてしてねえよ」
外はざわめくような星空で、月は少しもかけるところのないきれいな満月だった。
「じゃあ、明日」
「……ああ」
急に白夜の目つきが鋭くなる。
「何?」
白夜は暗闇に向かって何かを投げつけた。
「何? 何? どうしたの?」
「何でもない。ねずみがいただけだ」
そう言いながら足下の石を蹴りあげる。
「心配するな。明日は俺が全部なんとかする。とにかく寝ろ」
立ちつくす素直に白夜はぶっきらぼうな声をかけた。
「……おやすみなさい」
「また明日」
そう言うと、白夜は闇の中へ消えていった。
一歩、二歩、三歩、月影の中へ進んでいって、素直は大きく伸びをする。
緊張や不安や悲しみが少しずつ抜けていく。あともう一歩前に進んでみる。
「何これ」
暗がりに男物のガウンが落ちていた。親指と人差し指でそれをつまみ、拾い上げる。
指先にぬるっとした感触があった。
「ひゃっ」
慌ててそのガウンを放り出す。
電灯の下で自分の指を確認した。
「血……?」
真っ赤なぬめりのある液体が指先にこびりついていた。
素直は急いで家の中に飛びこみ、ドアチェーンをかけると一つ、二つ慎重に玄関の鍵をかけた。