一二の三で消えました 2
「最悪だったなー」
素直はリビングのフローリングに寝転がりながら、今日の思い出したくもない出来事を思い出していた。
お金をすられたこと、「アホ」という屈辱的な張り紙を背中につけられたこと、おろしたてのチノパンに真っ白にペンキがついてしまったこと。
ガタガタという強めの音が隣から聞こえてくる。昼間のチノパンが洗濯機の中で回ってる音だ。
一人っきりの部屋で寝転びながら目をつむり耳を押さえる。
「あー、聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない」
手を伸ばしてこたつの上のテレビのリモコンをとる。
「はっ!」
ハリウッド俳優ばりに一回転してテレビの電源をつける。
日曜スペシャル「マジシャン対人気芸能人」というテロップが目に飛びこんできた。
素直はさっきまで悩んでいたことも忘れてテレビの画面に釘付けになる。
「さて、石川さん、今からコインマジックを見破っていただくわけですが、意気込みをお願いします」
司会者が威勢よくマイク片手に言う。
「世界的マジシャンと名高い勅使河原さんですが、絶対に見破るつもりで頑張ります」
五十代くらいの渋めの俳優が大げさにガッツポーズをとった。
「さあ、ではいってみましょう。マジシャンに挑戦」
司会の言葉が終わるやいなや、マジシャンが五百円玉を手にとった。
赤いテーブルクロスのひかれた台を間に挟んで、俳優とマジシャンが対峙する。
俳優は目がはちきれんばかりにマジシャンの手元を見つめている。
右手を握ったり開いたりして、マジシャンは五百円玉がたしかにあることを何度も何度も確認させた。
マジシャンの左手が高くあがった。
スタジオがしんと静まる。マジシャンは右手をそっと開いた。
おおっ、とスタジオで歓声があがった。
その一部始終を素直は黙って見守っていた。自分でもマジックのトリックを予測しながら。
マジシャンの黒い胸ポケットに目がいく。
――絶対にあのポケットの中だ。素直はそう確信する。
「なるほどね。なるほどね」
テレビの中で俳優が大きくうなずいている。
「おっと石川さん、余裕の表情ですね」
司会者が驚いたように言う。
「分かりました。たぶんあそこです」
「それでは勅使河原さんがどこへ五百円玉を移動させたか、その場所を正確にお答えいただきます。石川さん、大丈夫ですか」
「問題ありません」
「自信満々の挑戦者。それではお答えをどうぞ!」
3・2・1ときれいな英語の発音でスタジオにナレーションが響く。
素直は固唾をのんで見守る。
画面上で俳優が深い息を吐く。
「勅使河原さんの右手の袖の中!」
テレビが一瞬無音になる。
素直の頭が混乱する。
「さて、それでは正解を勅使河原さんご自身から発表していただきましょう」
「正解は……」
マジシャンが真剣な表情であたりを見わたす。
ひな壇の芸能人も、客席もみな緊張している。
マジシャンは無言で右手を振った。
カラン、という乾いた音を立てて、五百円玉が真っ赤な演台の上に転がった。
スタジオが湧いた。
「石川さん、見事正解です!」
テレビの前で素直はがっくりと肩を落とした。
マジシャンは笑顔で拍手をしている。
「私が左手をあげておろしたあの一瞬ですね。そのときに右手の薬指で弾いて袖の中へ入れこんだんです。それにしても石川さん、よく見破られました。完敗です」
スタジオからも大きな拍手が巻き起こる。
「第一ラウンドは芸能人チームの勝利です。しかしこれはまだ序の口。だんだんと難しくなっていきますよ。それでは第二問……」
「だまされた……」
素直は歓声に湧く画面をよそ目に一人でうなだれた。
――私、今日もう一回くらいあんた引っかかると思うな。
明美の昼間の言葉がリフレインする。思い出してまた落ち込みかけたそのとき、ある考えがひらめいた。
「ノルマ達成じゃん!」
嘘のように素直の表情が明るくなる。
「だまされた! だまされた! だまされた」
すっきりとした気持ちでキッチンへ向かう。
ココアの粉を開けて、おおさじのスプーンで三杯。普通の量の一・五倍くらい。大きめのマグカップへ入れ、ポットから熱々のお湯を注ぐ。
「牛乳、牛乳」
冷蔵庫からキンキンに冷えた牛乳パックを取り出そうとした瞬間、インターホンが鳴った。
急いでインターホンのディスプレイを見る。
背が高い、紺のカッターシャツ、黒のスーツ、全身黒ずくめの若い男が玄関前に立っていた。
ゆっくりと作りかけのココアをテーブルに置く。
かりそめの天国から地獄へ。素直は不安な胸を押さえながら玄関に向かった。
× ×
インターホンはまだ規則的な音を奏でていた。
素直はおそるおそる玄関のドアノブに手をかけ、ゆっくりとひいた。
男は思ったよりも背が高い、さっき見たときよりもずっと痩せて見えた。
男の胸のところに素直の頭がきて、自然と見上げるような格好になる。
細めの鋭い瞳、薄い唇。シャープな顎のライン。
男は静かに微笑んだ。
「こんばんは」
――結構かっこいいじゃん。
そう思いかけて、心の中でぶんぶん首を振る。
――だめ、だめ。この人、顔は笑ってるけど、目が笑ってない。
「な、なんでしょうか」
「夜遅くにおたずねして申し訳ありません」
――優しい声だけど、気を抜いちゃだめ。また、だまされる。
素直はきっ、と相手をにらみつけた。
「あの……、怒っておられます?」
心配するような相手の口調にどっと肩の力が抜けた。
大きく横に首を振る。
「ぜんぜん。すみません。ちょっとびっくりしちゃって」
「いえ、大丈夫です」
男はもう一度微笑みなおした。
「篠山素直さんですね」
自分の名前を呼ばれて直立不動になる。
「は、はい!」
「あなたあてのお手紙です」
長い手が伸びてきて、真っ黒な長方形の封筒が手渡される。
「それでは」
閉まろうとするドアに足を挟んだ。
「え、ちょっ、これ、この手紙何ですか?」
「必ず今日中に読んでください」
相手の鳶色の瞳だけがドアの隙間からすっと現われ、すっと消えた。
素直のつま先が両手で優しく玄関の内側に両手で押し戻される。
玄関のドアがゆっくりと閉まった。
素直はそのまま呆然と立ちつくした。
× ×
リビングに戻った素直は男にもらった黒い封筒を前に固まっていた。
――開けるべきか。開けないべきか。
素直は封筒をじっと見つめた。
――必ず、今日中に読んでください。
そう言った男の言葉を思い出す。
素直は封筒に手を伸ばしかけた。
――言うでしょ? 三度あることは、四度あるって。
明美の顔が浮かんで手を引っこめた。
深いため息をつく。
――あの封筒何なんだろう? もしかしてラブレター?
さっきの男の姿を思い出す。
――結構イケメンだったしな。
封筒に手が伸びる。
――いやいや、今日何回だまされてんだよ、私!
手を引っこめる。
――でも、大事な手紙だったらどうしよう……
もう一度手が伸びかける。
――本当に重要な手紙なら、お母さんあてに来るはずでしょ?
素直は首を大きく横に振った。
「あー! もう分かんないよ!」
素直は髪をぐしゃぐしゃにする。
きゅぅ、とお腹が鳴った。時計は十九時半をさしている。
「ご飯食べよ」
素直はふらふらとキッチンへ歩いて行った。