一二の三で消えました 1
二月の寒空の下、鼻歌が聞こえる。
明るい鼻歌。暗めの鼻歌。ファンクな鼻歌。しっとりとしたバラード。住宅街の角を曲がるたびに選曲がころころ変わっていく。
高校三年間の思い出、四月からの大学生活のこと、昨日の晩ご飯、明日のテレビ番組、おとといブロック塀にぶらさがるように寝そべっていた猫のぶさいくな顔。
鼻歌と一緒に篠山素直の頭の中も変わる。彼女には考えることがいっぱいあって、今にもはちきれそうで、そんなわけで真正面から人が歩いてきていることにも気づかなかった。 車一台通っていない早朝の道路の真ん中で素直の肩と相手の腕が思いっきりぶつかる。
「すみません」
申し訳なさそうに弱々しい声で四十くらいのくたびれた感じの男が頭を下げた。
「こちらこそ、すみません。すみません。大丈夫ですか! おけがはありませんか?」
空想の世界から現実の世界に戻ってきた素直が三倍くらいの熱量で謝るから、相手もちょっとひく。
「だ、大丈夫です。それより、これ」
「え?」
「財布ですよね。落ちてましたよ」
黒ずんだ財布が男性の手の上にのっていた。素直が小学校三年生から使い続けているキティちゃんの財布だ。
「……どうも、すみません」
素直は少し頬を赤らめながらそれを受け取る。
「では、よい一日を」
男性が会釈して去っていく。
「ありがとうございました! 助かりました!」
素直は身体が折れ曲がるくらいに頭を下げながら男性を見送る。
あらためて受け取った財布を見ると、少しジッパーが開いていた。
変だな、さっききちんと閉めたはずなのに。左手にさげたアイスの入ったポリ袋を見ながら思う。
「あー!」
篠山素直、十八歳、住宅街の中心で今年一番の絶叫。どうせ叫ぶなら愛を叫びたかった。
財布の中には数枚の硬貨だけ。福沢諭吉はどこかに家出してしまったらしい。
「待て! この野郎!」
高校を卒業するまでにもう少しおしとやかになろうと誓ってから三日、その誓いはむなしく破られた。
これが午前七時半。
二月十六日、彼女にとって人生最悪の一日となったこの日はこうして幕を開けたのである。
× ×
二田原明美は腕を組みながら、篠山素直と向かい合っていた。
ファミリーレストランへ入店してから五分。メニューも開かず二人ともそのままの姿勢。
素直は小さな体をもっとちいさくして縮こまっている。
明美に隠れて小銭を数えた。五百円玉が二枚。百円玉が一枚。十円玉が二枚。五円玉が一枚。
ここで横目にメニューを確認。
明美は眉間にしわをよせ、机の下でこそこそやっている素直をにらむ。
「チキンナゲットにしようかな……」
素直は上目づかいで明美の様子をうかがう。
「チキンナゲット?」
「……ダイエットしてるから」
明美は首をかしげる。
「あんた、何があったの?」
「……、明美は何にする? ハンバーグ定食? ステーキ?」
二田原明美、そんなごまかしは通じない。
「ナオ! あんたと私は何? どういう関係?」
明美はじっと素直を見つめた。素直は昔からこれに弱い。
絞り出すように素直が答える。
「……親友」
「だよね。ウチとあんたは小学校からの親友。で、これから大学まで一緒に行こうとしている腐れ縁。そんな関係で隠しごとする必要ある?」
「……ありません」
「じゃあ、言いなさい。何があったの? さっきの電話のナオの声絶対におかしかったから。なんかあったってことはわかりきってるから。ごまかそうとしたって無駄だから。だってあんたは素直じゃん。篠山素直じゃん。やっぱり名は体を表すんだよ」
素直は何も言わずうつむいた。
穏やかな表情で明美が言う。
「ウチら、何年つき合ってきたと思ってんの? もう何があったって驚かない。何があったって怒ったりしないよ。さあ言って」
素直は何も言わず肩をふるわせる。
「大丈夫だよ。どうにかなるから。ナオには私がついてるから」
明美の声が今までで一番優しい。
素直は肩をふるわせながら口を開けた。
「すられた」
小声で言いながら、明美の目をこわごわ見る。
明美から答えは返ってこない。
「すられた」
もう一度言ってみる。
「……は」
吐息のようなつぶやきが明美から漏れる。
今のじゃ分からなかったか、そう思い、
「財布の中身、すられた」
「……マジ?」
今のは心配してくれている「マジ」かな? そう思うと、少しうれしくなる。お金をすられたあとでも、親友さえいてくれれば……。
「明美……」
「バーカ! バーカ! バーカ!」
明美は椅子から立ち上がると、大声でまくし立てた。
ファミレス中の客席がざわめいて、二人に見入った。
「明美、恥ずかしいから」
そうなだめて明美をどうにか座らせると、すねたような声で素直は言う。
「嘘つき。怒らないっていったじゃん」
「これが一回目ならね」
無感情な明美の一言が胸に突き刺さる。さらに追いうち。
「いや、限度があるっつーの。あんた、これで何回目よ。去年もお金とられてんじゃん」
ぐうの音も出ない。
「……三回目」
「バカですか? バカなのか? いや、バカなのだ!」
明美がまくし立てる。
「それ、何活用? てか、バカボン?」
そうちょっと反論してみるけれど、明美の刺すような視線に負ける。
「ちょっとトイレ」
「逃げる気?」
明美が意地悪く笑う。
「ナオ」
「何?」
明美をきっ、とにらみ返す。
「それ、自己紹介?」
明美が素直の背中をけだるく指さした。
「何のこと?」
パシッというかすれた感触があって、明美がA4大の紙を素直に見せつけた。
「読んでみな」
「ア……ホ?」
素直は太めのマジックで書かれたゆがんだ二文字を読んだ。
「どこでつけられたのよ、そんなの」
明美は頬杖をつきながらあきれる。
素直は首をかしげて考えこんだ。
× ×
一時間前、素直は公園の白いベンチに座りながらため息をついていた。
――ついてない。大学入学前にすっからかんになるなんて。最悪の日曜日だ。
抱えていた頭に固い物があたった。
「なんだよ。こんなときに……」
素直はあたった紙くずを拾いかけた。
「素直のババアだ」
紙くずを投げた主がにやにや笑っていた。
秀郎。小学二年生。素直の二軒隣に住んでいるクソガキである。
素直は勢いよく立ち上がった。
「今日という今日は許さん。ババア、ババアって、あんただってあと十年もすれば同じようになるんだからね。ジジイになるんだからね!」
「何をイライラしてんの? イヤなことでもあった?」
――あったけども、あったけども、
「うるさい!」
そう叫んで秀郎を追いかける。
はしゃぎながら逃げる秀郎。なかなかつかまらない。
「あ、足、速っ。チビのくせに……」
白い息を吐きながら負け惜しみを言う。
かがんだままの姿勢でいると素直の背中にバシーンという強い衝撃が襲った。
「しょんぼりすんな! 元気出せよ!」
秀郎の大きな声が背骨に響いた。
× ×
「あ、あのときだ」
素直が思い出したように言った。
「あのときって?」
そう言いながら、明美は何かに気づいたように頭を抱えた。
「ナオ、そこ」
明美は目を伏せながら素直のお尻を指さした。
「あーっ!」
ファミレス中の客席が再びざわつく。
黒いチノパンが白いペンキで汚れている
「高かったのに、これ。おろしたてだったのに、これ」
「ナオ、見て」
明美は先ほどの「アホ」と書いてあった紙をひっくり返した。
「ペンキぬりたて」ときれいな明朝体で印刷がしてあった。
「呪われているとしか思えないね。一日に三回も引っかかるなんて尋常じゃない。ナオは奇跡の人だよ」
「ぜんっぜんうれしくない」
明美が予言者のように言う。
「私、今日もう一回くらいあんた引っかかると思うな」
「何に?」
「分かんない。でも、絶対何かには引っかかる」
素直は明美をにらんだ。
「言うでしょ。三度あることは四度ある、って」
「ないし、そんなことわざ」
「ナオは普通の人じゃないから。一回ずつ足しとくくらいでちょうどいいんだよ」