章の途中でも大胆に視点を変えてみよう!
新幹線が最寄り駅に到着し、僕は急ぎ足で改札へと向かった。
あのメッセージを見たあと慌てて東京にいることを返信すると、このはさんは地元に戻っているのでそのまま新幹線で帰ってきて欲しいと言ってきた。
やはり予想通り、このはさんの地元は僕の住んでいる街だった。
一体何がどうなっているのだろうか。
改札を出ると夜遅くにも拘わらず迎えの人や旅行者でそれなりに混んでいた。でも僕は迷わずその中の一人の女性に目を留めた。
ライトグレーのアーガイル柄の薄手のセーターを着て、ふんわりとした生地のスカートを穿く髪の長い女性。
見たこともない初対面の女の子だ。だけどどこか見覚えのある顔立ち。
この人が間違いなく蒼山このはさんだ。
僕はそう確信していた。
僕が歩み寄っていくとその女性も僕の存在に気付き目を少し大きく開いた。向こうも僕が霧谷澪人だと気付いたようだ。
前に立つと彼女は少し驚いたように半歩ほど後退った。
「霧谷澪人です。蒼山このはさんですね?」
ようやく逢えた。
ずっとやり取りを続けてきた、どこかに存在しているはずの僕のファンの彼女に。
くっきりと意思の強そうな眉のわりに奥二重で控えめな瞳、小ぶりなユリを思わせるような美しい鼻筋、大人びた雰囲気なのに柔らかな輪郭のせいでちょっと幼く見える。
想像していたこのはさんと似ているとか違うとか、そういう印象はまるで持てなかった。ただ目の前に現れたこの女性が『碧山このは』さんなんだと実感した。
彼女は下腹部辺りで両手を重ね、申し訳なさそうに顔を歪めて頭を下げた。
「すいません。私は『蒼山このは』ではありません」
「……は?」
今日二回目の恥ずかしい勘違いだった。どうやら僕は名探偵には向いていないようだ。
人違いの彼女は顔を上げ、真っ直ぐに僕の目を見て、そして名乗った。
「私は英です。英若葉と申します」
────
──
「ハナフサ……英さんって!?」
私が正体を明かすと霧谷先生は溢れそうなくらい目を見開いて呆然と立ち尽くしていた。
「ライフステージ鷹羽で霧谷先生にお世話になった英菊枝の孫なんです。ごめんなさいっ!」
身体を二つ折りにするくらい深々と頭を下げる。こんなに驚かせてしまって、本当に申し訳ない気分で胸が苦しくなった。
駅の近くを歩きながら私はゆっくりとこれまでの経緯を先生に説明し始めた。先生は想像していたよりもずっと穏やかそうで、繊細さを感じさせる人だった。
「長い間騙すようなことをしてすいませんでした」
「いや。まあ、騙されたと言っても別に何か被害があったわけでもないし」
先生は戸惑ったように笑いながら頭を掻いていた。
突然のこと過ぎて何が何だか理解が追いついていないのだろう。
「先生とメッセージのやり取りをしていた『蒼山このは』は、祖母だったんです」
「じゃあ君は、もしかして」
先生はカメラを撮る仕草をしながら私を見る。
「ええ。私は写真を撮ってそれを祖母に送ってました。物語を創るための材料として」
メッセージのやり取りをしていたのはおばあちゃんであり、私は写真を撮って送る役でしかなかった。だからおばあちゃんと先生の間にどんなやり取りがあったのかは分からない。
「君は何にも知らずに写真だけを送っていたの?」
私は首を振ってそれを否定した。
「おばあちゃんが先生に写真を送り、それを元に先生が小説を書いてくださっていることは知ってました。もちろん『日付のない日記』も読ませて貰っています」
「そうなんだ。なんか改めて本人に読んでいたって言われると恥ずかしいね」
「とても素敵な作品でした。私のことを少しいい子に書きすぎてるなぁとは思いましたけど。でも私の悩みや苦しみにそっと寄り添ってくれる、そんな作品でいつも励まされてました」
春の夜の風は冷たくて、でもそれが熱くなった頭を冷やしてくれた。
先生は想像通り穏やかで知的な人で、怒らずに私の話を聞いてくれる。
「なんで『このは』さんはそんなことを始めたんだろう」
「それは簡単な理由です。祖母は先生の小説が好きだったんです。先生の文章は読みやすくて面白いって。でもファンタジーがよく分からなかったんです。
あんな上手な文章が書けるのだから、現代が舞台の小説もきっと上手に書けるに違いないって。それであんなことを思いついたんです。失礼な話ですいません」
「いえいえ。お陰で新しい小説にも活かせて助かってるよ」
「そう言ってもらえると祖母も喜ぶと思います」
川沿いの公園に辿り着き、どちらからともなく外灯下のベンチに座った。
「そっか。英さんが……思えば新作の『老人と竜』の着想も、それを今のような日常生活の話に変えたのも、全て英さんの影響を受けていたな。藤枝さんじゃなくて、すべては英さんに導かれていたんだ」
「フジエダさん?」
突然聞き覚えのない名前が飛び出したので訊ねると、先生は「なんでもない。こっちの話」と恥ずかしそうに手を振った。
「祖母は先生とメッセージのやり取りをしているとき、本当に愉しそうにしていました。私から見ても可愛いって思うくらいはしゃいでました。スマホなんか触ったこともなかったのに、フリック入力も覚えて」
おばあちゃんがスマホを手に悪戦苦闘している姿が目に浮かんだのか、先生も「ははっ」と小さく笑っていた。
「先生の作品が面白いって進めてくれたのも祖母です。私はファンタジー小説なんて読んだことないって断ったんだけどあまりに熱心に勧めるから読んでみたら面白くて。頭がよくて昔から色んなことを教えてくれた祖母なんです」
最後の方は涙で滲んだ声でほとんど言葉になっていなかった。そんな私の姿を見て、先生も気付いてしまったのだろう。痛みを覚えた目で私を見詰めていた。
まだ話さなきゃいけないことは沢山あるのに、嗚咽が激しくて呼吸もままならない。
私を落ち着かせようとしてくれた先生の手が肩に触れた。もう限界でそのまま先生の胸に顔を埋めてしまった。
「おばあちゃん死んじゃったっ……あんなに元気だったのにっ! まだまだ死なないよって、私の結婚式でお色直しの付き添いをするんだってっ……約束までしてたのに、突然死んじゃったんですっ!」
おばあちゃんの優しい笑顔を思い出し、私は無様に激しく泣いてしまった。
「英さんが……そうなんだ……」
先生はきっとおばあちゃんが亡くなったことを知らなかったのだろう。とても驚いた顔をして呆然としていた。
優しい先生は何も言わず私が落ち着くまで背中をぽんぽんと叩いてくれた。
その手つきがどこかおばあちゃんに似ていて、しばらく目を閉じてその心地よさに身を任せていた。
「……英さんは、とても優しくて、素敵な人だったね」
ようやく落ち着いてきた頃、先生は優しく涙で滲んだ声でそう呟いた。
「はい。お母さんに内緒でたい焼き買ってくれたり、お父さんに叱られたときも慰めてくれたり……好きな人が出来たって教えたらすごく喜んでくれたり」
ゆっくりと先生の胸から身体を離し、涙を袖で拭う。外灯に照らされて出来た私たちの影が夜の闇まで伸び、その境目をあやふやに溶けていた。
「突然だったんです。具合が悪いっていって入院したんですけど。大したことないって聞かされてて……でも突然容体が変化したんです。慌てて東京から帰ってくると、おばあちゃんはもう何もしゃべれない状況でした。でも私の顔を見たとき、ほんの少し微笑んでくれたんです……最期は……眠るように静かに逝きました」
「そっか」
夜空を見上げると、どこまでも深い青色が広がっていた。
「死んだ人は星になる。私が小さい頃、おばあちゃんがよくそう言ってました」
「英さんは星になっただけじゃないよ。僕の小説のヒロインとして、これからも生き続けるのだから」
先生の顔は静かな力強さに満ちていて、適当な慰めを言っているのではないと分かった。気弱そうな顔立ちだったのに、今は鋭ささえ感じる。
「ありがとうございます。じゃあ私もまた、おばあちゃんと会えますね」
川沿いには桜の木が植えられている。でも花はほとんど散ってしまい、今は緑が目立つ。
「英さん、桜見られたかな?」
「はい。きっと」
「一番好きな花は桜だって。メッセージでそう言っていた。来年の桜も見られるかなって」
「へぇ。おばあちゃん、そんなことも話してたんですね」
好きな花を教えるというのは、好きな食べ物や音楽を教えるより少しだけ親密度が高い気がした。
「若葉さんは僕たちのやり取りのメッセージは見てないの?」
「はい。私も最初の頃、使い方を教えるとき以外は先生とのやり取りは見せて貰ってません。お父さんやお母さんなんておばあちゃんが先生とやり取りをしていること自体知らなかったはずです」
「そうなんだ」
先生は少し照れ臭そうに笑った。私の知らないおばあちゃんを知っている霧谷先生にちょっとだけ嫉妬する。でもそのやり取りはあえて聞かない。それはおばあちゃんと先生だけの、大切な思い出だから。
「遺品整理しているとき、机の中からこれが見つかったんです」
私は鞄から封筒を取り出し、先生に差し出す。
「これはっ……」
みっしりと便箋のつまった封筒には『霧谷澪人先生へ』と宛名書きがされていた。