サインの練習はほどほどに。どうせそんなに求められません。
原稿を送ってまだ三日だけれど、僕は既に三百回は受信ボックスを覗いている。
編集者さんも忙しいということは分かっているが一刻千秋の思いでメールボックスの更新をクリックしていた。だが相変わらず新着メールは来ていない。
少し落ち着こう。
気分を整えてからGroupFruitsのサイトにアクセスすると、新着メッセージが届いていた。
差出人はこのはさんだった。タイトルは『ありがとうございました』。日付は五日前だった。
なぜだか変な胸騒ぎがして、慌てて内容を確認する。
『ありがとうございました
From:蒼山このは
突然すいません。ご連絡はこれで終わりにします。今までありがとうございました』
あまりに短く唐突な内容のメールを僕は何度も読み直し呆然とした。
まるで力尽きる直前に書かれたような、言葉足らずなことがよけい何かを物語るメッセージだった。
「えっ……どういうこと、だよ……」
ここ最近メッセージが少なかったものの、突然こんな風に一方的に関係を断ってくるような失礼な人ではなかったはずだ。
何かあったんだ。
すぐにそう思った。
先日送られてきた写真を開いて確認する。試験に合格し、東京へと新居を探しに行ったと思われる写真だ。
このはさんは志望校に合格し、片想いの彼と共に東京に行った。
きっと向こうで何かあったに違いない。
僕は写真をプリントアウトし、それを持って家を飛び出していた。
このはさんと会おう。
きっと彼女は今、孤独に震えてくじけそうになっている。
僕が行って何が出来るわけでもない。彼女が抱えている苦しみは、誰もが青春時代のどこかでぶつかる類のものかもしれない。
でも僕は彼女のお陰で打ちひしがれたどん底から這い上がることが出来た。
今度は僕が彼女を助ける番だ。
新幹線に乗り東京に向かう車中、手掛かりとなる写真を何度も見直す。
恐らく新宿に行き、私鉄で何駅か行ったところにこのはさんは暮らしている。
写真に写っている見知らぬ街は小さいながらも賑わっていた。当然ながら地名が分かりそうなものは映り込んでいない。これまでもそうだったように、どこなのかはわからないように細心の注意を払っているのだろう。
一つづつ駅を降りて確認するしかないのだろうか。
近郊に大学がある駅をピックアップし、ストリートビューで確認したが一致する街はなかなか見つからない。
(一体君はどこにいるんだ?)
気持ちばかり急いてしまう。
(突如ファンだと名乗り、写真を送りつけて小説まで書かせて。落ち込んだ時も静かに支えてくれ、僕をもう一度奮い立たせてくれた。いきなり一方的におしまいだなんて、そんなの納得できない。僕にも君を支えさせて欲しい)
新幹線は品川のホームへと滑り込んでいった。徒競走のような勢いで下車し、山手線に乗り換え、新宿で降りて私鉄の駅に向かった。
恐らく家賃の高い急行などの止まる駅には住んでいないだろうと予測して各駅停車に乗車する。
流れる景色を必死で確認しながら彼女の写真にあった景色がないかを捜していた。
少しでも怪しい駅があったら降りて駅前の商店街を見て回る。しかしそんなことをして簡単に見つかるはずもなかった。
似ている街並みは幾つかあったものの、どれも決め手に欠けている。
既に日も傾き、五つ目の駅を降りる。東京はどの駅で降りても活気のある雰囲気が漂っていた。
商店街を歩いていると、コロッケの揚がる芳ばしい香りが漂ってくる。それにつられて歩くと、インド料理店の隣にある精肉店に辿り着いた。
不意に自分がしていることが馬鹿馬鹿しくなり笑いがこみ上げてきた。
「なにやってんだ、僕は」
急に独り言を言いだした僕を見て、前を歩く女子高生がギョッとした顔をして足早に立ち去っていく。
こんなことをしてこのはさんに会えるわけがないのは分かっている。
いや、たとえとんでもない偶然が重なって出逢えたとしても、僕はこのはさんの顔も知らない。何も気付かずに擦れ違うだけだ。
不意に何か惹かれ合うものを感じて互いに振り返る。そんな都合のいい展開があるはずない。
もう諦めよう。そして認めてしまおう。
僕はため息をつき、踵を返す。
『このはさん』が誰なのか、僕は薄々気付いていた。
ただそれを認めるのが嫌で気付いてない振りをしていただけだ。
この世のどこかに僕のファンがいて、応援してくれている。僕のために写真を送り、それを元に現代小説を書くというトレーニングをしてくれた。そのおかげで新作を書くヒントが得られた。
それを偶然や運命と呼ぶには、あまりにも作為的だ。
全てを終わらせるため、僕は都心へと戻る上り電車に乗車した。
「突然お邪魔して申し訳ございません」
打ち合わせブースにやって来た藤代さんに頭を下げる。
「いえいえ。東京にいらっしゃってたんですね。私も原稿の件で早くご連絡しなくてはと思ってたんです」
打ち合わせのテーブルに着くと藤代さんは僕の送った『老人と竜』の原稿を封筒から取り出した。
原稿の感想も聞かせてもらいたかったが、今はそれよりも先に片付けたい問題があった。
静かに息を吸い込み、吐き出すように訊ねる。
「藤代さんが、『このはさん』だったんですよね?」
「はい?」
単刀直入に切り出すと藤代さんは不思議そうな顔をして首を傾げた。
「もちろん僕のためだと言うことは分かっています。そのことに関して騙されたとか、ましてや弄ばれたなんて恨みがましいことは思ってません。むしろ本当に感謝をしてます」
藤代さんは僕の目を見たまま、話の先を促すように黙っていた。
「プロとしての自信が揺らいでいた僕のファンだと名乗って勇気づけ、更には写真を送ってそれを元に現代を舞台にした小説を書かせる。そのことで僕は自分の中の新しい可能性を見出せました」
日付のない日記。
あれを書かなければ今回の『老人と竜』も凡庸なファンタジー小説になっていたかもしれない。
「女子高校生『蒼山このは』を演じ、写真を送り、時に僕を鼓舞しながらストーリーを綴らせる。そうしつつ編集者藤代さんという本当の姿でも『日付のない日記』を読んでいると伝えてくれましたね。自由に書く楽しさと、藤代さんに読んで貰っているという喜び。その二つともが僕に勇気をくれました」
藤代さんは何か言いたげに、でも何も語らず小さく頷いた。
「でも急に蒼山このはさんとしての関わりをやめるって酷いじゃないですか。夢を見るなら最後まで見させて下さいよ。『日付のない日記』はまだ完成してないんですから」
言いたいことを言い、僕はひと息ついた。強張っていた全身の力が抜け、安堵で心が軽くなっていた。
藤代さんはボールペンをこめかみでカチカチと数回ノックさせてから戸惑った顔をして僕に告げた。
「もしかすると霧谷先生はミステリーを書く才能もおありかもしれませんよ」
「は?」
「私はその『蒼山このは』さんじゃありません」
蝶を捕まえたと思って閉じていた手のひらを開いたら何もいなかった。そんな気分だった。
「そんな。今さら隠さないで下さい。藤代さんが仕組んだことじゃないんですか?」
恥ずかしさで顔が熱くなる。
「いいえ。私じゃありません。それと先生がファンのJKとやり取りをして写真を元に小説を書くなんて新手のナンパをしていることもはじめて知りました」
「ナ、ナンパじゃありません! このはさんには片想いの人がいましたし……」
間違いないと断定して強い言葉で言ってしまったことを今さら後悔する。
容疑者を一堂に集めて謎解きをした推理がまるで外れていた名探偵でもここまで恥ずかしくないのではないだろうか。
「でも会いたくて東京まで来ちゃったんじゃないですか?」
「そ、それはっ……」
「とにかく私はその謎の美少女ではないんです。残念ですけど」
藤代さんはニヤッと意地悪そうに笑ってから原稿を僕の前に置いた。
「先生のそのお話もとっても気になりますけど、それは打ち合わせの後にゆっくり聞かせてもらいます。頂きました原稿を拝見しました。とても面白く、掘り下げも出来ていると思います。ただ──」
僕一人気まずい空気での打ち合わせの後、夕食のお誘いを断り東京駅に戻ってきていた。
駅ナカのコンビニで弁当を買い、自由席の空席に腰を落ち着けてからぼんやりと窓の外を眺めた。
藤代さんがこのはさんじゃなかった。
だとすれば一体誰が『蒼山このは』さんだったのだろう。
GroupFruitsを開くとメッセージ受信の赤文字が躍っていた。
もはやこのはさんからメッセージはくることがない。一体誰からのメッセージなのだろう。
訝しみながら開く。
「えっ!?」
メッセージの差出人は『蒼山このは』さんだった。
『申し訳ございません
From:蒼山このは
色々お話ししたい事情があります。直接会ってお話しできませんでしょうか?突然で申し訳ありません』