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書き損じた原稿は見直すことなんてないだろうけど、いつまでも保管しておくこと

 企画会議で通した内容とはまるで違う原稿を、藤代さんはもう一度会議に上げてくれた。

 当然営業部からは反発されたらしいが、最後は編集長が「この企画は必ずヒットします」と言って通してくれたらしい。

 事前に藤代さんが編集長に説明をし、第一部だけ読んでくれた。その結果、これは再度会議を通してでも世に出すべき作品だと判断してくれたとのことだ。


「もう次は変えないで下さいよ」と笑いながら茶化してきた藤代さんの言葉を今でも鮮明に思い出せる。

 藤代さんや編集長の覚悟を受け、かかる重圧は強くなった。けれどそれは決して嫌な重さではない。

 既に原稿は書き上がっているが何度も何度も推敲し、精度を高めていった。


 原稿が忙しくなったので『ライフステージ鷹羽』での仕事は減らして貰っている。有り難いことに料理長や阿久津さんも全力でサポートしてくれていた。

 人に恵まれるということは本当に心強い。


 とはいえ入居者さんたちのことは気になってしまった。

 別に僕がいなくても施設は何の問題もなく回る。でもずっと携わってきた人たちの健康は心配だった。

 仕事だからと無感動で働いていたはずなのに、今ではすっかり僕もライフステージ鷹羽の一員だ。

 特に色々と僕の支えになってくれた英さんには感謝をしている。

 あの人がいなければ今回の作品は生まれなかった。



 今は三月の上旬。夏の刊行に向け、とにかく今は全力を尽くす時だ。


「三月かぁ」


 原稿に疲れ、大きく伸びをしながらカレンダーを見る。脳裏に浮かんだのはこのはさんのことだった。

 志望校に合格し、今頃は東京で一人暮らしの部屋を探している頃だろう。

 新しい生活というのは希望と不安に満ち溢れている。

 このはさんもいろんな思いで胸をいっぱいに膨らましているに違いない。


 僕も大学に合格してこの部屋を借りた。それから早五年。大学を卒業しても住み続けるとは思っても見なかった。

 どんなものなのかも知らない『キャンパスライフ』という言葉が持つ夢に胸を躍らせこの街にやって来たのがついこの前のように思える。


 立ち上がってカーテンを引き、窓の外の景色を眺める。

 日本国中の至る所にありそうな平凡な住宅地の風景。でもあの時はここから見えるすべてがまっさらで新しい、希望に満ちた景色に見えたものだ。

 通りの奥の方には桜の木も見える。今はまだ、その枝に花はついていない。


「今年はどんな花を咲かせるのかな」


 十八歳の僕は玉のようにこんもりと花をつけた枝を見上げ、まるで祝福されたかのような気持ちになったものだ。

 桜の花はもちろん毎年咲く。

 でもあれほど希望と夢と不安に満ちた桜を見ることは、もう今後二度とないことのように思えた。


「そういえばこのはさんは桜が好きだって言ってたっけ」


 窓を開けると春の風が幾重にも絡まった束のように部屋に吹き入ってくる。

 その勢いで書き損じて放置してあった原稿がバサバサと宙を舞った。


「うわっとっと!」


 もう二度と読み直すこともないであろう、ただの紙屑なのに慌ててそれを拾い集める。

 結果だけ見れば何の意味もなさなかったかもしれない原稿だが、そこには僕が費やした時間が染みついている気がした。


 拾い集めたそれらを束ねて片付けてからパソコンの前に座った。

 久し振りにGroupFruitsにアクセスすると珍しくこのはさんからメッセージが届いていた。

 メッセージには本文がなく、写真が添付されただけのものだった。

 新幹線のホームやら窓越しの富士山から始まり、東京に向かう旅日記のような構成になっている。

 東京駅、山手線、原宿、話題のスイーツドリンク、新宿駅、私鉄のホーム。

 ただの景色の写真なのに連続で見ていくとやけに華やいだ世界に見えてくる。

 十八歳の僕と同じ、希望と夢に胸を躍らせているのが伝わってきた。


「えっ!? これは」


 最後の一枚は商店街で撮影されたものだった。

 日は傾き、気の早い看板には明かりが灯されている。犬を散歩させる人や買い物をする主婦と共に、見慣れた背中が写っていた。

 それは間違いなくこのはさんが片想いをしている彼の後ろ姿だった。


「一緒に東京に行けたんだ」


 高校時代の彼女とはどうなったのか、今二人は付き合っているのか、それはこの写真からは分からない。

 高校卒業と共に別れるカップルも多いと聞くし、あり得なくはない展開だ。しかし何となくこの写真からは二人の親密さは伝わってこない。


 夕暮れの物悲しさのせいかもしれないし、少し離れた位置で撮影されているからかもしれない。

 でもそれを差し引いても、どこか二人には距離がある気がしてならなかった。

 いつもなら必ず写真の他に近況を伝えるメッセージが添えられているが、今回はそれもない。ただ写真だけが送られてきていた。

 きっとここに彼女が僕に伝えたい物語がある。

 どこか不穏なものを感じる無言のメッセージを見詰めていると、心拍数が上がっていった。



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