行き当たりばったりな内容は「ライブ感」という言葉で装飾すれば問題なし
「今はどんなお話を書いてらっしゃるの?」
「実は英さんからインスピレーションを頂いた作品なんです」
「私から? まあ、どんなお話なの? こんなおばあちゃんを使って面白い小説なんて書けるのかしら?」
英さんは目を丸くして、少しだけ身を乗り出した。
「もちろんです。とても面白くて、素敵なお話なんです」
それから僕は『老人と竜』のあらすじを説明した。ファンタジーなんて興味がないであろう英さんには荒唐無稽な物語だったろうけど、何度も頷いて愉快そうに話を聞いてくれた。
「すいません。勝手に小説に使ってしまって」
「いいえ。とんでもない。とても嬉しいわ」
英さんは付き添いのお嫁さんと目を見合わせて微笑み合っていた。
「先生の作品に登場できるなんていいなぁ、英さん」
阿久津さんは少し拗ねた調子で唇を尖らせる。
「そんな大層なものじゃないから。なんだったら阿久津さんも登場させようか?」
「えっ、いいの!?」
「悪役だけど」
「はぁ? なにそれ。お姫様とかじゃなくて?」
「そうですよ、先生。阿久津さんは可愛いんだからお姫様にしてあげて頂戴」
英さんは優しい顔で僕を窘める。援護をもらった阿久津さんは「そうだそうだ!」と勢いを増した。
「分かった。じゃあお姫様にするよ」
仕方なく約束するが、今のところこの物語にお姫様が登場する予定はなかった。なにせ介護がメインのお話なんだから。
「これで生きる楽しみが増えたわ。読めるまで長生きしないとね」
英さんは屈託ない笑顔で笑っていた。しかし肝心の原稿が進んでいない。
「すいません。実はまだ発売がいつになるか、見当もつかない状態でして」
「あら。それは大変ね。スランプというやつかしら?」
「どうなんでしょう。これをスランプと呼んでいいのか、僕にも分かりません」
そう。書けないわけじゃない。むしろ原稿は順調に進んでいる。
しかし問題はその書いたものがどうしても面白いと思えないことだった。
しっかりプロットに沿って物語を書いているのに、書き上がったものは面白くない。
プロットがよくないのかと読み直すが、そんなことはなかった。
骨子だけを見れば、それはやはり面白くて魅力的なストーリーだった。
それなのに書けば書くほど理想と遠のく。香りと味が一致しない料理を食べたときに似た違和感や物足りなさを感じる。
そんな旨の話を説明すると、英さんは穏やかにゆっくりと耳を傾けて真摯に聞いてくれた。
「そうねぇ……私は小説なんてとても書けないから難しいことは分からないけど」
英さんはそう断ってからゆっくりと語り出す。
「そのプロットっていうのかしら? 物語のあらすじ。それに拘りすぎてはいないかしら?」
「え? それはまあ、プロットっていうのは物語の設計図みたいなものですから。拘るというよりは、それを元に書いているといった具合ですね」
「なるほどね。でもそのプロットありきで、そこに無理矢理辻褄を合わせて寄せていこうとしても無理が生じるんじゃないかしら?」
英さんは頬に手を当て、思案顔になる。
「物語の起承転結を考えた。つまり答えは出ているのだから、あとはそこに向かって書いていけばいい。先生はなんとなくそれに囚われすぎてるような気がするの」
「確かに、それはあります。そもそもそのためのプロットですからね」
「でも書いているうちに登場人物の動きと当初の設計図に祖語が出て来たんじゃないかしら? それでも何とか元のプロット通りに話を進めようとするからおかしくなっている。なんて、そんなことはないかしら?」
その指摘は自分でも感じていたとこだった。僅かな齟齬や違和感を無視して纏めようとするから歪みが生じてしまう。
しかしこのプロットは鳳凰出版の会議を通った、謂わば正式なものだ。これに従わずに書くわけにはいかないという問題もあった。
「ごめんなさいね。何にも知らないおばあちゃんの戯れ言だと思って聞いてね」
「いえ。参考になります」
英さんは「そうねぇ」と言ってちょっと考える。
「たとえば一般的に年寄りは頭が固いって言うでしょ? あれって結局答えがはじめにあって、それに引っ張られるように意見を言うからだと思うの」
突然小説と離れた話になり、少し混乱した。
「でも年寄りも馬鹿じゃないから、一つだけの答えしか知らない訳じゃないの。むしろ若い人より沢山、色んな選択肢や答えを知ってる。その中から経験をもとに自分が最良だと思う意見を選んで主張してるの」
確かにお年寄りならいろんな経験をしているから色んな展開やその結果もわかるのだろう。僕は無言で頷き話の先を促した。
「自分が知ってる『何か』と『いま目の前で起きていること』は基本的に同じだと考えるんでしょうね。それが正しい時もあれば間違ってる時もあるでしょうけど」
それが経験則というものなのだろう。いいとか悪いとかではなく、そういうものなんだと英さんの瞳は語っていた。
「こうだと最初に答えを決め付けて考えると、きっと色んな齟齬が生じるものなのよ。もちろん小説というのは最初に答えを決めてから書くのが普通なのかもしれないけど。でもそれに振り回されてばかりではつまらないでしょ?」
嬉々として語る英さんの言葉を、付き添いのおばさんも阿久津さんもびっくりした顔で聞き入っていた。もちろん僕も、だ。
「つまらない……そうです。正に書きながら感じていたのはその感情なんです」
英さんは柔やかに頷く。
「いいんですよ。愉しみながら書けば。その結果、よりよいものになるならば、それが一番じゃないですか」
プロットに縛られない。それは考えてもみなかった解決法だった。
さすがは英さんさんだ。悩みで重かった心が不意に軽くなる。本当に魔法使いなんじゃないかと思うほどだ。
「ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことはなにもしてないわ。むしろ小説家さんの苦悩なんて普段は聞けない話を聞けて得した気分よ」
英さんは嫌味なく謙遜し、フォークでスフレチーズケーキを切って嬉しそうにゆっくりと食べていた。
喫茶店を出た後、近くの公園を散歩することとなった。
川沿いに細長く伸びる公園で、桜の季節はとても美しいところだ。
あいにく今は冬で、そういった華やかさはないけれど、冬の陽射しが公園に流れる小川に反射して枯れた美しさがあった。
「どうせなら先生に車椅子を押してもらいたいわ」
英さんがそんなお願いを口にした。
「お義母さん。迷惑ですよ」
「いえ。僕でよろしければ、喜んで」
車椅子を押すなんてはじめてのことだったけれど、見た目と違ってとても軽かった。
「ここは春になると桜が綺麗なのよ。先生は見たことある?」
「はい。とはいっても前を通り掛かったくらいですけど」
「今度の春は是非見に来るといいですよ。花びらが川面に落ちて桜色に染まって、それはもう素敵なの」
まるで落ちてくる桜を見るように、英さんはうっとりと目を細めて枯れ木のような寒々しい桜を見上げていた。
「じゃあ是非一緒に見に来ましょうね」
「まあ、嬉しいことを言ってくれるのね。でも駄目」
英さんは振り返り、内緒話をするように口許を手のひらで隠した。
僕が耳を近付けると「私みたいなおばあちゃんじゃなくて阿久津さんを誘って上げなさい」と囁いた。
「僕と彼女はただの同僚ですよ」
「それがどうしたの。どんな恋人も、夫婦も、初めは赤の他人なのよ。知らなかった?」
英さんは女学生のような、好奇とからかいの色が滲んだ目をしていた。
なんだか照れ臭くなって僕は冬なのに身体が熱くなった。
「阿久津さんに対してあんまりそういう意識はしたことがないので」
「あら。そんなこと彼女の前で絶対言っちゃ駄目よ」
「でも向こうだって多分そうですよ」
人との距離の取り方がやや近い彼女だから傍目から見ると勘違いされやすい。でも誰に対してもそうなので僕だけ特別と言うことはないだろう。
「たとえそうだとしても女性に対してそんなことを言ったら傷つけるの」
「勘違いだと思いますけど」
「あら? 恋って大抵勘違いから始まって気付いた頃には本当に好きになっているものじゃないの?」
涼しい顔でさらりと言った。
「何の話してるの?」
阿久津さんが僕の隣にやって来て訊ねてくる。
「な、なんでもないよ。また小説の話」
「ほんと? 怪しいな?」
相変わらずの鋭さで、阿久津さんはジトッと僕を睨んだ。
英さんは「んっんっ」と咳払いをして視線をチラチラと桜の木へと向ける。花見に誘えということなのだろう。そんなこといきなり振られても対応できない。
そんな僕らの様子を阿久津さんが不思議そうに眺めていた。
その顔が急に可愛く見えたのは、英さんに唆されたからなのか、自分の気持ちに正直になったからなのかは、分からない。
「あ、あのさ、春になったら。ここに桜を見に、来ない?」
つっかえながらそう伝えると、阿久津さんはぱぁっと表情を明るくして頷いた。
「いいね! じゃあ私お弁当作るね。英さんは何か食べられないものとかありますか?」
やっぱり彼女は僕なんかよりおばあちゃん第一主義だ。
拍子抜けした僕と呆れた顔した英さんが目配せして笑うのを、阿久津さんは不思議そうに首を傾げて見ていた。