食べ物を作る小説でも飯テロ描写は添え物程度あればよい
ロープウェイで山頂駅に降り立つと眼下に広がるハーブ園と街が一望できた。
秋の柔らかな陽射しを受けた穏やかな景色を見ると、同じことの繰り返しの生活で溜まった鬱屈が解けるようだった。
「いつ見てもきれいな景色! 来てよかったでしょ、先生」
阿久津さんはハーフパンツにTシャツを合わせ、萌黄色の薄手のカーディガンを羽織っていた。
仕事上がりのぺちゃんと潰れた髪を見慣れているが、今日はもちろん綺麗に整えている。空気を孕ませたようにふわりと纏まっている髪型がよく似合っていた。
おしゃれに疎い僕はその隣に立つだけで気後れしてしまう。
「ほんと、いい景色だね。誘ってくれてありがとう」
ハーフパンツから伸びたアーガイルチェックのタイツを穿いた脚に視線が向かないように、辺りに目を泳がせて答える。
ロープウェイの駅と直結しているカフェに行くとオープンテラス席でソフトクリームやコーヒーを楽しむ人たちで賑わっていた。平日ということもあってか、そのほとんどはアジアからの旅行客だ。
「ちょっとコーヒー買ってくるんで席を取っておいて」
「僕が買ってくるよ」
「いいからいいから。ちょっと待っててね」
駈けていってしまったので仕方なくテラス席に腰をかける。
少し先にある広場ではウインナーを炭火焼きにして販売しているらしく、脂が火に落ちて立ち上る芳ばしい香りが秋の涼しく爽やかな風に乗って漂ってきた。
「お待たせー!」
「昼間からビール?」
「そう見えるでしょ? これ、コーヒーなんだよ」
彼女が買ってきてくれたコーヒーには大量の泡が浮かんでおり、黒いコーヒーとのコントラストも見事で、見た目はまるで黒ビールみたいだった。
「これがコーヒー?」
「そう。泡プレッソだよ」
阿久津さんはそれを写真に収めたあと、「こうやって飲むの」と笑いながらグラスを煽った。
「どう?」
口の周りに泡がつき、まるで鬚のように見える。
「凄いね。泡プレッソよりむしろその顔を写真に撮ってアップした方が『いいね』を沢山貰えそうだよ」
スマホのレンズを向けると阿久津さんは寄り目をしてより滑稽さを演じてくれる。
そういう気取らないところが彼女のいいところだ。お洒落なのに全然気取らない。こうして付き合いを深めていくと彼女のそんな一面を知ることが出来た。
さっそく僕もコーヒーを飲んで髭を生やしてみる。
「うわっ!? 美味しいこれ!」
見た目の面白さだけでなく、コーヒーの豊かな香りとミルクの甘さが見事にマッチしていた。
「ちょっと、先生。驚いてないで変顔してよ」
「別に僕は何にもしなくても変顔だよ」
「そんなことないって。自虐的なんだから」
そう言いつつ阿久津さんは僕の写真を撮った。
別に変顔をしてなかったのだけどやはり変顔に見えたのだろうか、阿久津さんは撮った写真を確認しながら口許を緩めて笑っていた。
このハーブ園は全体的にドイツをイメージしているらしく、ビールやらウインナー、ドイツワインを推している。
案内看板にも赤と黄色を基調としたものが多く、描かれているイラストもカクカクしたタッチの騎兵隊が目立つ。
喫茶店やレストランも重厚ながら温もりのあるどっしりとした構えだ。行ったことがない人でも分かる『ドイツっぽさ』がそこかしこに溢れている。
「ここは順路に沿って歩くタイプなんだ」
阿久津さんは園内マップを広げて見どころを教えてくれる。
ここは山の斜面に造られた庭園だから、坂道を降りていきながら観賞することが出来るらしい。更には一番下にもロープウェイの駅があるので、また山頂駅まで上らずにそのまま帰れるのもありがたい。
泡プレッソを飲み終えた僕らは順路に従い、花壇に植えられた草花を見ながら歩き始めた。
セージやミントの花壇からは清々しい香りを感じ、コスモスをはじめとした花壇は色とりどりの鮮やかさで目を楽しませてくれた。
「こんな素敵なところならうちの施設でもレクリエーションで来たらいいのにね」
「先生もそう思うでしょ? でも駄目なんだって」
「なんで?」
「お年寄りは足腰が弱いからだって。ここは坂道だから転んだら危ないとか言っちゃってさ。ちょっと用心しすぎだと思わない? そんなに歩くのが大変な人とかいないのに。下手したら私たちより健脚なおばあちゃんだっているよ」
阿久津さんつまらなさそうに唇を尖らせる。
きっと介護スタッフに提案して却下されたのだろう。給料に惹かれて働いている僕と違い、彼女は本当にやり甲斐を感じて働いているのだと改めて思い知らされた。
それに華やかな見た目からは想像できないくらい献身的でひたむきだ。きっと育ててくれたおばあちゃんの影響なのだろう。
ハーブ園の下限まで来ると『風の丘』と名付けられた芝生の広場に出た。
「ここは本当に風が気持ちいいね」
そこは海からやって来た風が街を抜けて吹き上げてくるらしく、常に心地よい風を感じられる。
多くの人が座ったり寝転んだりして眼下に広がる町を見下ろして寛いでいた。
「いいところでしょ? 実はあたし、このハーブ園でここが一番好きなとこなんだ」
彼女は足を投げ出す恰好で芝生の上に座り、ショートブーツのつま先を左右にゆらゆらと動かしていた。
その隣に僕も座ると、短い芝がチクチクと擽ったかった。
「ここはよく来るの?」
「ううん。久し振り。昔おばあちゃんに何回か連れて来てもらったことがあるの」
「思い出の場所なんだね」
「うん。こないだ話したけど、うちは家庭環境が複雑でさ。おばあちゃんに引き取られて育ったけど、結構生活が苦しかったの」
風が阿久津さんの髪をふわりと撫でて揺らした。
「贅沢なんて出来なかったけど、それでもおばあちゃんがいつも優しくしてくれていたから辛くも寂しくもなかった。もちろん怒るとすっごく怖かったけど、でもそれ以上に優しかった」
少し彼女の声が湿り気を帯びたが、僕は気付いてない振りをして視線を遠くの港へと向けていた。
「ある日このハーブ園で働いている知り合いから無料入場券をもらったらしくてね。あたしを連れて来てくれたの。お出掛けなんてほとんどしてなかったから、嬉しくて。『おばあちゃんありがとう』って何度もお礼を言ったんだ」
無邪気にはしゃぐ少女の阿久津さんが目に浮かび、僕も胸が熱くなる。
「それからおばあちゃんは何回かタダ券をもらって二人でここに来た。その度に嬉しくて『ありがとう』『楽しいね』って伝えたの。でもあまり言い過ぎたんだろうね。おばあちゃんは急にあたしに謝り始めたんだ。目に涙を溜めて、あたしの頭を撫でながら、『ごめんね』って。いつもここばっかりでごめんって。本当はもっと遊園地とかにも行きたいよね。おばあちゃんとじゃなく、お父さんお母さんと出掛けたいよね。ごめんね。ごめんねって」
阿久津さんは涙で声を詰まらせながら空を見上げていた。
「あたしはどこだってよかったの。おばあちゃんとお出掛けできるなら、どこだって。でもそれを言うとおばあちゃんがもっと泣いちゃうんじゃないかって思って。だから黙って、ただおばあちゃんをギュッと抱き締めていた」
「優しくて、素敵なおばあちゃんだね」
「でもなんの恩返しもできないまま、おばあちゃんはあたしが中学三年生の時に……だからせめておばあちゃんの恩返しに福祉の仕事に就こうって」
阿久津さんは涙を拭い、真っ赤に充血した目で笑った。
「あたし、馬鹿だしがさつだから介護士じゃなくて調理にしたんだ。おばあちゃんも私の作る料理が美味しいっていつも褒めてくれてたし。もっともっと上達して、美味しいものを作っていきたい。自分のおばあちゃんには恩返しできなかったけど、誰かのおばあちゃんになら、恩返しが出来るから」
「そっか。えらいね」
不器用でマイペースな彼女は、きっとこれまでも色んな辛い経験をしてきたのだろう。
でも決して悲観せず、明るく前向きに生きている。尊敬に値する人間だ。
「えらくなんかないよ。馬鹿だもん。先生なんていい大学出て、小説まで出してるんだからよっぽどえらいし立派だよ」
「そんなことないって。デビュー作が売れなくて、それから二年も新刊が出せてないんだし。ちっともえらくない。正直毎日のように悩んでるよ。本当にこれでよかったのかなって」
これから先のことを思うと落ち着かなくなる。売れる保証もなければ社会保障もない。
「長い人生なのにこんなことしてて、絶対いつか後悔するんじゃないかって」
「長い人生だから今するんじゃないの?」
阿久津さんは僕の目を見て言った。
「どうせあと何十年も生きるんだよ? やりたいことがあるならやるべきだよ。そしてやるからにはそんな不安なんて忘れちゃえばいいって。先生の夢に向かって全力なとこ、あたしは好きだな。じゃなきゃ先生なんて呼ばないし」
彼女が僕を先生と呼ぶのに、そんな思いがあったなんて知らなかった。
「そっか。じゃあ先生って言ってもらって恥ずかしくないくらい、立派な作家になるよ、きっと」
「うん。期待してる」
気持ちを落ち着ける為に大きく息を吸うと、肺の奥の方まで清々しい空気で満たされる。
もう僕は自分を卑下しないし迷わない。それは僕を立派だといってくれた阿久津さんまで裏切ることになる。
なんて、そんなこと誓ったところで、僕のことだからきっと三日後には破ってしまうのだろうけど。