冒頭は痛々しく思わず目を背けたくなること
誰にでも出来ることが出来ない奴に限って、誰にも出来ないことをしたがる。
たった一作出版しただけで、大学を卒業して定職にも就かず、アルバイトで食いつなぎながらベストセラー作家を目指す僕がそのいい例だ。
スマホのアラームを手探りで止めて目覚める。朝というよりは夜明け前といった方がいい時間だ。売れない作家の朝は早い。バイトが忙しいから。
目覚めて真っ先にするのは作家の仕事のみで使用しているフリーメールのチェックだ。
「どうせ返事なんて来てないんだろうけど……」
果報は寝て待てと言うが、いくら寝ても僕の元にやって来る様子はない。睡眠の質が悪いから、というわけでもないだろう。
『新着メール 1件』
どくんっと心臓が震える。
『新作プロットにつきまして』というタイトルを見て、まだ起ききっていなかった頭が一瞬で活性化した。真っ暗な部屋ではスマホのライトだけが青白く光っている。
一度大きく呼吸をしてから画面をタップする。
『霧谷澪人先生
お世話になっております。
鳳凰出版の藤代です。
ご連絡が遅くなり、大変失礼致しました。体調を崩しておりまして、本日より出社致しました。
さて──』
そこまで読んで早くも失笑した。
藤代さんは本当に病弱な人だ。返信メールの三度に一度は書かれている『病気の為に連絡が遅れた』という説明が本当ならば、の話だが。
『さて頂きましたプロットですが──』
そこから先は読むに堪えないひどい内容だった。
ありきたり。
オチが読める。
展開がご都合主義過ぎる。
設定がややこしすぎる。
キャラがテンプレで没個性。
それらの指摘が気遣いで包んだ言葉で綴られていた。
三つも出したプロットが全て没だった。
すぐに返信をしようとしたが、言い訳と反論の言葉しか思い浮かばなかったのでやめておいた。
相手は友達ではなく、仕事相手だ。いや、僕の作家生命を繋ぐ唯一の細い糸と言って過言ではない。
気怠く起き上がり、もそもそと出勤の準備を整えて部屋を出る。まだ日が上る前の世界は、人類が死に絶えた未来のような類いの清々しさだった。
「あー、眠い」
あくびを噛み殺しながら駐輪場に停めてあるスクーターに跨がり職場へと向かう。
『ライフガーデン 鷹羽』という案内看板がぼんやりとライトで照らされて、未明の景色に浮かんでいる。
ここは簡単に言うと有料高級老人ホームで、医療や介護はもちろん、福祉などのサービスも充実した施設だ。
僕はそこの厨房で配膳などの仕事をしていた。
「おはよう、先生」
バックヤードに向かうと阿久津さんが厨房服を羽織りながら声を掛けてきた。
「おはよう。っていい加減先生はやめてよ」
「なんでよ? 小説を出してるんだから先生でしょ?」
それはもっとちゃんとした小説を書いている人に言うことであって、僕のようなライトノベルをわずか二冊出しただけの人間を指す言葉ではない。
そう反論しようとしたが、思い止まった。
最後に本を出したのが一年以上も前で、それも特に売れることもなく、更には先ほどプロットも没にされたばかりの僕は、むしろ小説家であると自分に言い聞かせた方がいいのかもしれない。
『僕は作家である』という気持ちがなければ、なんのために一般企業に就職するという安定を捨ててここで働いているのか分からなくなる。
ここでの僕の仕事は予め決まった配膳を整え、それをカウンターに出すだけの、慣れてしまえば簡単なものだ。
『ゲスト』と呼ばれる入居者さんの元に運ぶことさえしなくていい。それは介護スタッフとして働く人の仕事で、僕たちレストラン部の仕事ではない。
人によって喉に詰めないように食事を細かく刻んだり、とろみをつけたり、必ず漬け物をつけたりとか、その程度の個人差はある。
でもそういう特殊な指定がある入居者さんは数人だし、一ヶ月もあれば全て覚えられる程度だ。
ちなみにここで働き始めて三ヶ月だが、僕は未だに入居者さんの顔を一人も見たことがない。それは高級老人ホームという特殊な環境のためだ。
入居者さんの生活をサポートするのは介護スタッフで、調理スタッフや清掃スタッフは口を利くことさえ禁止されている。
顔も見たこともない金持ちの老人のために料理を作るというのは、なんだかデストピア的な不気味さを感じなくもない。
「お疲れー」
午後二時半。早番の仕事上がりに阿久津さんが缶コーヒーをくれた。
キャップを外した彼女の少しくせ毛のショートヘアは、汗で濡れたこともありぺちゃんこに潰れている。
「ありがとう」
きっと彼女も僕と同じ二十代前半なのだろう。あまり若者に人気の職種ではないので、ここで若いのは僕と阿久津さんの二人だけだ。
しかも彼女は僕みたいに垢抜けない感じではなく、なんなら美容室やセレクトショップで働いていそうなお洒落感がある。
正直ちょっと気後れしてしまうタイプなので、近寄りがたい存在だ。
「しっかし最近暑くなってきたねぇ」と言いつつTシャツの襟元を持ってパタパタと風を送る。なんとなく見てはいけないもののように感じて視線を逸らす。
阿久津さんは見かけによらず人懐っこいので、こうして気さくに話しかけてくれる。
僕だけでなくすべてのスタッフと親しいし、更には禁止されているのに隙を見ては入居者さんとも会話をしている。見つかる度に介護スタッフから怒られるのだが、どこ吹く風でしれっとしていた。
叱られるのにわざわざ利用者さんと話すなんて僕には理解できない。
僕としては、ここはただ生活のためのお金を稼ぐためだけの場所なので、人間付き合いなど希薄な方が助かる。
家に帰ると室内はサウナ状態だった。
すぐに冷房をかけ、パソコンの前に座る。
散らばっている書き損じた原稿を雑に束ねて片付けながら藤代さんにプロット没メールの返信の文面を考えたが、やはり恨みがましさが滲む文言しか浮かばないので諦めた。
代わりに『蒼山このは』とタイトルをつけたフォルダーを開く。
そこにはぽつんと二枚の写真があった。
一枚はひまわり畑の写真だ。
なだらかな丘の一面に黄色とオレンジの点がドット画のように広がっている。その先に広がる海の青とのコントラストも美しい。
もう一枚は砂浜の写真。
やけに白い砂浜と透き通った海水。多くのカラフルなパラソルが立ち並び、奥の方には大きなホテルも見える。
どこかのリゾート地だろうか。
これらの写真は僕のファンだという、どこの誰だかも分からない蒼山このはさんという女性から送られてきたものだ。
僕はこの写真を元に短編の小説を書く約束をしてしまった。
「つまらないことを安請け合いしちゃったな」
溜め息を漏らしながらカチカチっと尻尾のないマウスを操作して、意味もなく写真を拡大したり縮小したりする。
なぜ僕がそんなことをしなくてはいけなくなったのかを説明するためには、少し時を遡らなくてはいけない。
すべては一週間ほど前に来た、一通のファンレターメッセージから始まった。
『拝啓、霧谷澪人先生
From:蒼山このは
先生の書籍『黄昏の魔術師は現世を嗤う』を書店で購入し、拝読させて頂きました。とても素敵な物語で一気に引き込まれ、気付けば一日で読み終えてました。
素晴らしい作品をありがとうございます。これからも応援してます。
突然の不躾なメッセージ、失礼致しました』
『Group Fruits』、通称『グルフル』の小説投稿サイトに届いたそのメッセージを読んだ僕は、擽ったくも幸せな気分にさせられた。
ファンからもらう応援メッセージというのは、本当に勇気づけられるし心強い。
更に言えば、このはさんが品のよいお嬢様的な文章だったということも、ちょっと嬉しさをプラスさせてくれた。
気をよくした僕はすぐさまその返信をした。
『ありがとうございます
From:霧谷澪人
素敵な感想ありがとうございます。あの作品は僕にとっても大切な作品です。
このはさんの心に響いてくれたのなら、嬉しいです。これからも頑張って書いていくので、よろしくお願いします』
ちょっと堅苦しいし短かすぎるかなと思ったが、あまり余計なことを言ってしまうとイメージを壊してしまうかもしれない。
一応向こうは僕のファンだと言ってくれているのだし、変に馴れ馴れしくして幻滅されても困る。
会ったこともない、けれどこの世のどこかには必ずいる僕のファンの『蒼山このはさん』に向けて、メッセージを返信した。
まさかその一通のメッセージが僕のこれからの人生を大きく変えていくとは、この時は夢にも思っていなかった。