『黒木渚論・・・小説と歌詞における言葉の考察』
『黒木渚論・・・小説と歌詞における言葉の考察』
㈠
4冊の小説を出している黒木渚※であるが、言葉の使用方法が、どちらかと言うと、主体が隠れているのである。小説に本質はあるのに、主体が隠れるとはどういうことだろう。これは、多分に、本人も述べていたが、内容の裏を取っていることが影響していると思われる。また、本人と小説の内容が、これもまた同化しないのである。
しかしこれは、文章力があるということに尽きるだろうし、そもそもが、小説で自分のことを述べなければならない必要性はないし、小説の言葉を、独り歩きさせ、その独り歩きを、俯瞰で見て執筆を続けている、といった感じだろうか。
㈡
また、忘れてはならないのは、黒木渚は、もともと音楽家であって、その歌詞は、高く評価されている。その歌詞が、非常に今まで読んだことの無い様な、つまり、音楽の歌詞の歴史に突然現れたかのような、過去性のない歌詞なのである。
「あしかせを付けた私は逃げ出すこともできず この小さな空間で死んでくのかな」
「あしかせ」から
といった、民俗学にまで発展しそうな、この概念的歌詞は、死んでいくのかな、という絶望とともに、そのもがき苦しむ心象衝動を的確に表していて、聞き手に響いてくることは確かだ。また、足枷という漢字を使わず、ひらがなでタイトルを付けているところにも、何か独房の様な家に囲まれて、家の外に出れないような、檻の中の感覚を、まさにその叫びとして、漢字よりも印象付けている。
また、例えば、
「ユーモアの蕾ほころんで 世界が溶けていく 世界に溶けていく」
「ふざけんな世界、ふざけろよ」から
などは、世界が溶けていくという外界の現象から、世界に溶けていくという内界の自己現象にまで引き戻すことで、一種の溶ける感覚を、ユーモアを起因として、蕾に例えていることで、歌の終着をこれ以上ないほどに美的に結んでいる。こう言った、言葉の前後関係の倒置使用方法は、類い稀なものだと言えるだろう。
㈢
この様に、小説と歌詞における言葉の使用法は、上記した以外に、数え切れないほど使用されているので、まずは音楽と小説を味わってほしいし、自分としては、此処に感動を感じている。また、当の本人は、あまりこういった創作に対する努力態度を垣間見せない。
これは、黒木渚の一つの美学観からくるものだと推測しているが、とにかく、そのセンスに酔えることで、多くのファンを獲得しているのだから、生きる姿勢にまで、ファンは共感を抱いているのかもしれないと感じている。
上記してきたものは、あくまで自分の感想であって、黒木渚本人の意向とは異なっているかもしれないが、少なくとも、自分はこの様に小説と歌詞、音楽、に触れる時に、このように酔えることで、エネルギーを貰っていることだけは疑いないと言える。
※黒木渚という本名で活動されているので、黒木渚と表記していますが、決して渚さんを呼び捨てにしている訳ではないことを、ご了承願います。