学習日和
エブリスタ妄想コンテスト「〇〇日和」投稿作品です。
人は日々、学習する。
私のばっちゃんは、そのお父さんであるひぃじっちゃんが17になる時の子供だ。だからばっちゃんは79歳で、ひぃじっちゃんは96歳。戦争だって生き延びて、そんなひぃじっちゃんは90過ぎてるのに元気で元気で、つい先月ばっちゃんに置いて逝かれてしまったぐらいに元気だった。
「知って損する事は無い。今迄に何人も見送って来たのだって今日、お前のばっちゃんと笑顔でお別れする為の練習だったんだろう。」
畑仕事で歪んだ関節をした掌で、呆然と棺を眺めていた私の頭を撫でたひぃじっちゃん。見遣ればひぃじっちゃんは自分で言った通りに穏やかに笑っていて、それで漸く私は泣いた。
「まだユキには辛いかもしれん。中学生だものな。シュウの奴に至ってはもうすぐ保育園か、いつかばっちゃんの顔も忘れるのかもな。でもユキ、お前は忘れんといてやってくれ。」
私はしきりに頷いた。ひぃじっちゃんは頭をポンポンと撫でた。
それから49日が過ぎて、お父さんとお母さん、そしてじっちゃんから。ひぃじっちゃんの様子が可笑しいから施設に入れようと言われて耳を疑った。
私はシュウを連れて、別に遠くに住んでいる訳でもないひぃじっちゃんの家に毎日行く事にした。
予定なんて特に無い、茹だる様な夏休みだったから出来た事だった。
「今日も来たのか、暑いのにわざわざ。」
「うん、来たよ。アイス食べよ、ひぃじっちゃん。」
「アイス! ひぃじっちゃだけずるい、しゅうも、しゅうも!」
「シュウは私とダブルソーダね。ひぃじっちゃんは、こっちのバニラ。」
いつかにばっちゃんが付けていたテレビが、骨粗鬆症の防止策はごまんとあるかもしれないけれど、基本はカルシウムの摂取だと言っていた。そしてバニラのカップアイスは、一つ食べるだけで一日のカルシウム必要摂取量の3分の1は補えるとか、なんとか。
「こうも毎日氷菓子を食っていると腹を壊しそうだ。」
「ひぃじっちゃん、そこまでヤワじゃ無いでしょ?」
半分こに出来るダブルソーダをシュウと食べ終えたら、ひぃじっちゃんがアイスを食べ切るのを待つ。その間に私は他愛もない会話をひぃじっちゃんとするのだ。ひぃじっちゃんはいつも縁側の右側が定位置で、私達は左側で騒がしくする。
「アカネちゃんの隣の席の奴ね、やたらアカネちゃんに付き纏って来るらしいの。ウザったくて放っておいたらね、こないだこう言われたらしいの。嫌だと思ってるならハッキリ言って欲しい、って! そうじゃないんだって。好きでも嫌いでもないのに、それに告白された訳でもないのに、どうして振ったみたいな事しなきゃいけないの、って!」
「付き纏うだけ付き纏って、自分の感情が伝わっていると思うのは疎かだな。努力が足りん。」
「伝わってるとしても、気持ち悪いよねー!」
「……女心は複雑だな。俺には分からん。」
シュウはキャッキャと、ひぃじっちゃんの家に置いてあるミニカーで遊んでいた。ぶぅーんぶぅーん、だって。何の気無しに見ていたら、シュウが大黒柱に頭をぶつけた。
「「あ。」」
「……………………ぅ、」
何が起こったのか分からないという顔、けれど痛みは感じているらしい。涙を貯めて行くのを見ながら近寄り、よしよしと背中を摩ってやった。
「ほら、痛くない痛くない。シュウは偉い子、泣かない強い子!」
「ぅ、う゛、うぅ~~!!」
どうしても耐えきれなかったらしい涙がポロポロと落ちる。ひぃじっちゃんは台所の方に行ってしまった、多分だけど冷蔵庫の中にある冷えピタを取りに行ったんだ。鶯張りでもしてあるのかと思う木造建築がひぃじっちゃんの足音をギシギシと鳴らした。
「みぞれさん?」
「え?」
それは唐突だった。
シュウのおでこに冷えピタを貼ったひぃじっちゃんが、私の顔を見た途端にそう訊いて来たのだ。みぞれさん。みぞれさんって、誰だろう。少なくともひぃじっちゃんのお嫁さん、ひぃばっちゃんの名前はみぞれじゃない。
「お久しぶりですねぇみぞれさん、相変わらずお綺麗です。泣きボクロはお化粧で隠してるんですか? あんまり贅沢しない方が良いですよ? ぜいたくは敵だ!って都会は五月蝿いらしいですから!」
「え? え??」
「あ、気が利かなくてすみません。暑いですよね、ぼく麦茶淹れてきます!」
「え!?」
ひぃじっちゃんは確かにそう言うと、また台所に行ってしまった。ひぃじっちゃんは、自分の事を俺と言う人だ。なのに今、ぼく、と。そう言った。それにひぃじっちゃんは、アイスを食べる時には麦茶を用意しない。お腹が冷えるから、と暖かい粗茶なら出された事がある。
「ユキちゃ、どうしたの?」
「ううん、なんでもないよシュウ。」
あぁ、そっか。私は、お父さんとお母さんとじっちゃんが、何を言いたかったのかが分かってしまった。私はたどたどしくも私を心配してくれたシュウに笑い掛けた。
「…………ん? 俺、どうして麦茶を淹れた?」
「しっかりしてよひぃじっちゃん! 私がお願いしたんだよ!」
「ユキちゃおねがい、いつしたの?」
「さっきだよさっき。私達アイスちっちゃかったから、暑いねって話してたよ!」
「そう、だっけ?」
ひぃじっちゃんとシュウは、こてりと首を傾げた。シュウごめんね。シュウが不思議に思うのは何も間違ってないよ。
「さっき程度のサイズのアイスとなら、腹を壊さない……か?」
「そうそう。大丈夫だからちょーだい、麦茶! 早くしないとひぃじっちゃんのアイス、もっと溶けちゃうよ?」
「あ、すっかり忘れてたな。」
バニラアイスはカップの中でクリーム状になっていた。食べるには楽だとひぃじっちゃんは飲み干してから、梅干し食べたみたいな顰めっ面をしてみせた。アイスクリーム頭痛って言うんだよと教えたら、そんな名前の頭痛があるかとデコピンされる。
その日はほんの少しだけ、ひぃじっちゃんに優しくしてみた。
次の日から、真ん中にバニラアイスの詰まったみぞれアイスを買って行くようになった。カルシウムは減ったけど、何としてもみぞれさんが誰なのか聞き出さなければ問屋が下りない気がしていた。それにみぞれアイスなら、ソーダ味やいちご味、コーヒー味なんてのもあるからひぃじっちゃんも味に飽きなくて済むし。
けれどそれとなく話題を降ってみても、ひぃじっちゃんはみぞれさんについて何かを話す事は無かった。そんなにも、家族に話せない事なんだろうか。良くない考えが頭をよぎる。でも仕方ないと思う。
「みぞれさんみぞれさん、このかき氷美味しいですよ。みぞれさんも如何ですか!?」
「みぞれさんはやっぱり美人ですねぇ。村一番の美人と謳われるだけあります!」
「ぼく、みぞれさんのお気に障る様な事してしまいましたか……? ごめんなさい。」
だってひぃじっちゃんの姿をした男は、よくみぞれさんにデレデレな態度をしているからだ。男は子供が憧れを見るようなキラキラした眼で、ずっと話をしてくるのだ。
「いえ、大丈夫。」
私はみぞれさんがどんな人だったのか分からないから、素っ気ない返事をするしかなくて、でもひぃじっちゃんはそれでいいらしい。ひぃじっちゃんに夢を見せながら、でも私はみぞれさんについて沢山知りたいから、ひぃじっちゃんの見ている夢を利用する。
「…………俺、今飛んでたな。」
「おかえりひぃじっちゃん。」
「やっぱりか。飛んでたか……。」
以前と変わった事というか変化があったとすれば、ひぃじっちゃんは記憶が飛んでいる事を自覚した。私は昔の頃になっているとは伝えたけれど、みぞれさんについては話さなかった。でも記憶が飛んだ後のひぃじっちゃんは渋い顔をしているから、何となく察しているかもしれない。
その日は予報ハズレの豪雨が、私とシュウの帰り道を塞いだ。どうどうと唸る風が、庭先のノウゼンカズラとかいうらしい花を揺らしては落とす。ばっちゃんから教えて貰った名前だ。
「昼寝して、それでも駄目なら迎えに来て貰うか。」
ひぃじっちゃんの提案は最もで、夏の昼下がりで湿度は高かったけれども、風のお陰でひんやりとした過ごし易い空気だった。敷座布団にタオルケットを二人分用意してくれたひぃじっちゃんはそれを居間に敷いてくれた。私とシュウはそこに寝っ転がる。
「ユキちゃ、寝ないの?」
「私はほら。持ってきた宿題しながらゴロゴロするから。」
「そっか。ユキちゃはいいこいいこ。」
「シュウもいいこいいこ。おやすみ。」
(X+6)×(X+4)=X²+10X+24。
(2X+5)×(2X-5)=4X²-25。
(X+8Y)×(3X+Y)=3X²+8Y²+25XY。
雨音が止まない中、夏休みの宿題をずっとやっていた。どんな数字が付いていても公式展開というものは慣れてしまえるもので、最早単調な作業に近かった。
ざぁざぁ。ざぁざぁ。
ひぃじっちゃんもどうやら昼寝を始めたらしい家は、とても静かだった。カエルすら鳴かない豪雨だった。シュウが寝返りを打ってタオルケットが肌蹴るのを直しながら、作業を続ける。
ぎしり。
床が鳴った音がした。集中していた私はびっくりして、思わずシャーペンの芯を折ってしまった。それは虚ろな眼をしたひぃじっちゃんだった。
「…………ひぃじっちゃん?」
返事は無かった。誰なの。いつもの男じゃないの? でもあの人は、こんな死んだ目をした事ない。それにみぞれさんに、こんな怖い顔をするのだろうか。
「みぞれさん。」
「…………は、い。」
期待とも呼べる、今迄からの想定は裏切られた。目の前に居るのは男だった。随分と雰囲気が違うが、私をみぞれさんと呼ぶのだから今のひぃじっちゃんは、あの男なんだ。男は低く低く柔らかな、優しげで落ち着きそうな声で、弾劾を始めた。
「どうして、僕を大人にしたんです。」
「…………どういう、事?」
「あのあとぼくは、戦争に行きました。人が死にました。人が死にました。人が死にました。人を、殺しました。」
どうやらひぃじっちゃんの夢である男は、そこから更に夢を見ているらしい。あの男にとっても、無意識の領域なのだと思う。そうでもないと、あの憧れを対峙してキラキラする男が、その憧れの前でこんな事を言い出す筈がない。
「十七で来た赤紙を、早過ぎると嘆きましたね。どうしてそこで終わってくれなかったんですか。どうしてそのまま万歳でお別れしてくれなかったんですか。ぼくを、憐れんだのですか。」
ひぃじっちゃんが、戦争について詳しく話してくれた事は無い。戦争について訊いてきなさいという学校の授業の宿題は、ばっちゃんとじっちゃんが終戦の玉音放送が流れた時の話をしてくれた。他の家の宿題も似たり寄ったりで、それで問題無かった。
ひぃじっちゃんは、戦争を語ろうとしなかった。
「おぞましい事ばかりでした。人の焼ける臭いは獣を焼く臭いと同じでした。ピストルの音は雷管よりも五月蝿いと知りました。右耳が潰れました。」
けれど、男は違った。
「掠った弾の跡は焼け付いて足に残りました。今日みたいな雨の日はじくじくと疼きます。歩兵銃は重たくて、似た重さの物が嫌いです。」
つらつらと述べながら、男は私に歩み寄った。耐えず鳴る床は警告音の様だった。シュウは起きない。幸せそうに健やかに眠っている。
「なのに、貴女を知ったから、その程度にしか覚えていないのです。」
ついに私の顔に伸びた手が、髪を梳くって耳に掛けた。ぞわりとした感覚が背筋を伝い、冷や汗が全身の温度を冷ます。寒い。凍えそうだ。ガチガチと奥歯が鳴った。
「貴女は歩兵銃より重たいのに、綿菓子の様に軽かった。跡なんて残らなかった背中の方が、ぼくにはひりひりと痛むのです。甲高い貴女の声は、ピストルよりもぼくを苛みます。ひどい臭いは嗅ぐ度に、どうしてか貴女を思い出した。」
虚ろな目が私を映している。
「貴女のせいで、何も知らずに死ねたはずのぼくは、大人になったから。あの場所で、死ぬに死ねなくなってしまったじゃないですか。こんな所で死んで溜まるかと、思ってしまったじゃないですか。」
すくんで身体が動かない。怖い、怖い、気持ち悪い!!
「ユキちゃ……?」
「「!!」」
目を擦って起きたシュウはふわふわと寝惚けていた。目を擦って不思議そうにして、辺りをキョロキョロと見回して。
「あ、ユキちゃ、ひぃじっちゃ! にじ! にじ!!」
「っえ、あ、うん!」
身体が漸く、跳ねる様に動いた。シュウに言われて飛び出して、縁側の端まで来る。虹が、まだ止まない雨の中、日差しの下に現れていた。
「おぉ、こりゃまた見事だな。」
隣に居たのはひぃじっちゃんだった。私はひぃじっちゃんに、まだ雨が止みそうにないから迎えの車を頼んで欲しいとお願いした。
ひぃじっちゃんは右利きなのに、左で電話を取る事をこの時知った。
「ひぃじっちゃん、右の耳聞こえなかったんだね。」
電話を終えたひぃじっちゃんは、私の一言に狼狽えた。多分誰も、家族はこの事を知らない。ひぃじっちゃんが教えようとしなかったからだ。
だから私が何を言いたいのか、男が何を言ったのか。ひぃじっちゃんはそれだけで理解して、悲しげに目を伏せて言う。
「迷惑掛けたなぁ、ユキ。最後に、荷造りを手伝ってくれんか。いつでも施設に行けるように。」
ひぃじっちゃんは、ばっちゃんの葬式の時みたいに私の頭をポンポン撫でた。
私がひぃじっちゃんに会ったのはそれで最後だった。
見知らぬ男が介護服の人に連れられて、ワゴン車に乗る姿を見た。
「あぁ君は、みぞれさんに良く似ているねぇ。」
声を掛けられて、男が私を知人と見誤っていない事にほっとする。みぞれさんとは結局誰だったのか。
答えはじっちゃんが知っていた。
「みぞれさんってのはな、ユキのばっちゃんのお母さんの事だよ。」
「……でもひぃばっちゃんは確か、みぞれなんて名前じゃないよ? 会った事無いけど。」
「みぞれさんは、ひぃじっちゃんが戦争に行く時にばっちゃんを身篭った。そのつもりは無かったらしくて申し訳無いやらで堕胎薬やら飲んでたらしいが、それに負けずにばっちゃんは産まれて来ちまったんだ。いや、産まれてきちまった、なんて。この言い方は良くないか? でも凄い話だろ。」
「その後みぞれさんは、どうなったの?」
「産まれたばっちゃんを育てる為に、なんせ相手は戦争に行ってたからな。出稼ぎに行ってばっちゃんはこの田舎に預けたままで、それきりだ。」
「実はばっちゃんを棄てて逃げたとか、そういうんじゃないの?」
私はみぞれさんに良くない印象しか無かった。ひぃじっちゃんはみぞれさんに誑かされた、そう思っていたからだ。行方を突き止めてやりたかった。それなのに。
「…………みぞれさんは、長崎で溶けたんだ。」
私とひぃじっちゃんを散々振り回し蝕んだみぞれさんは、気の良いしっかり者のお姉さんでしか無かった。自分に何かあったら宜しく、そう言われて当時のばっちゃん、赤ん坊を預かったのが、家系図に残るひぃばっちゃんだったそうだ。
「ユキちゃ、ひぃじっちゃが、シュウにだれ?って。」
「シュウ。あそこにいるのは、ひぃじっちゃんじゃないよ。」
「ひぃじっちゃだよ?」
「ひぃじっちゃんに似てるだけで、違う人だよ。」
「みぞれさんと、おんなじ?」
息を呑んだ。
「ばっちゃとはこないだ、バイバイしたよ。なのにひぃじっちゃ、バイバイさせてくれないの? ひぃじっちゃ、どこにいるの?」
「……ひぃ、じっちゃんは、もう。何処にも居ないよ。」
「ひぃじっちゃ、みぞれさんにも、バイバイ言ってないよ?」
この子は何を言っているんだ。頭の中がぐわんぐわんとアスファルトからの反射熱を回している。
「ユキちゃ、かってにいなくならないでね。」
「うん。」
「ちゃんとバイバイ、させてね?」
「……うん。」
つぶらな瞳が私を見上げた。私は吐きそうだった。
ジリジリと日差しが私を苛んで、垂れた汗が首を伝った。
まだ8月だった。7月の始めから夏休みに入ったのだから当然で、しかも葬式が続いたので葬式貧乏。あの男は、施設に入ってから間も無くして死んだ。呆気なく死んだ。その顔は途方も無く穏やかで、悩みばっかりだった人生の欠片なんて微塵も感じさせなかった。
知って損する事は無いなんて、大嘘だ。何も知らないのが羨ましいから、全部忘れて死ぬ癖に。
扇風機の風と蚊取り線香に包まれた部屋、真昼間の部屋にサイレンが鳴った。終戦の黙祷の合図だった。
シュウはうるさーいと言って笑った。
何も意味を分かっていない顔だった。
ぎぶみーれすぽんす。