ハクジン様
さて、どうしたものか……。
身動き一つできない状況で私は途方に暮れた。ただ、自分の置かれている状況だけは良く分かっていた。複数の足音が去って行く前に、「ハクジン様。この者を捧げます」と叫ばれては、誰だって察するだろう。
私はどうやら生け贄に選ばれたようだ。
やはり罠だったか。色々想うところも合ったが、今思えばあんな掟があったにもかかわらず、素性のわからない私にあっさりと西宮という名前を明かしてしまうのも、充分怪しかった。
この手の閉鎖的な村にしては、伝承が手ぬるいとも……。まあ、迷い込んだ余所者は、いつだってこうなる運命だ。
どれくらいの時間が経っただろうか。獣の遠吠え一つない静寂は、いつしか氷のような冷たい空気を纏っていた。
明らかに周囲一帯を包む風が変わった。
暗闇の帳の向こうに何かが潜んでいる。それだけは解った。ガサガサと前方の木々が揺れ、枝が踏みしだかれる。音は、ゆっくりと、だが確実に大きくなっている。明らかに私に近づいてきているのだとわかった。
いつしか人でも獣でも無い、荒々しくも血生臭い息遣いが、壁一枚隔て、聞こえて来た。
外の者、おそらくハクジン様とやらだろう、が力を入れたのだろう。横に向かう重力を感じると同時に、私はバランスを崩した。倒れた衝撃で天井が外れ、景色が広がった。芋虫のようにもがきながら、背後をちらりと見る。
……成程、私はこの桶の中に詰められて、ここまで担がれたのか。道理で揺れるはずだ。
はっとして再び、正面を見据えた。
目の前にいたのはやはり人でも、ましてや獣でも無い存在。
髪の毛は無く、月の様に青白い頭部。その一本一本を数えられるほどに浮き出た肋骨。死人のように痩せこけた両の手には、錆びついた鎌のようなものが握られている。それでいて、紅をさしたかの様に不釣り合いな真っ赤な口。黒眼だけで構成された瞳。額には古びた呪札であろうか。年季が入っている。その隙間から覗くように、光り無い瞳で私を見つめる。
この世のものとは思えぬ風貌がそこにいた。この山の神、いや怪異の一種か……。
気が付くと、それは私の顔に息がかかるほどの距離にいた。それが呼吸をするたびに強烈な血の臭いが漂う。ああ、これは肉を食べているな……人間の肉を……。本能的にそう感じた。
ひゅうひゅうと喉に穴があいているかのような呼吸音に紛れ、憎悪の塊のような呻き声で、それは呟いた。
「……センパイ……ジャ……ナイデスカ……」