村の掟
それは非常に興味深い話であった。
『日が暮れから夜明けまでは名前を呼ばれても返事をしてはいけない』。
それがこの村に古くから伝わる掟。理由は森の精霊に魅入られるからだとも、闇の魔物に名を知られて入れ替わられるからだとも語られている。要するに詳しい事はわからないのだという。私にそう話してくれた老人も、そのまた祖父からただそうやって聞かされ続けて来たらしい。
ただ、何十年か前、悪戯半分で掟を破った幼い兄弟がいたという。日が山の向こうに隠れたのを見計らい、兄が幼い弟の名を呼び、弟がそれに答えた。その瞬間を確かに聞いたという者もいる。
その後、兄弟とその両親は、一夜のうちに行方が分からなくなった。私は、掟を破ったことによる村八分を恐れ逃亡したのでは、と問うがいいやと首を振る。
心配した村人がその家を見に行った時には、すでに家はもぬけの殻であったが、そこで奇妙な光景を目にした。机上には、家族全員分の食事が膳に据えられた状態で置かれていたという。つまり、住人だけが煙のように消えていた。
殆どの者は、掟を破った祟りだと恐れたが、当時の村長、つまり老人の父は掟に懐疑的な人物であった。すぐさま村の若い衆を集め、村中を捜索させた。もちろん森の中に至るまで。
その老人もその捜索隊の中にいたと言うが、なにせ掟が掟であるため、名を呼びかけながらおおっぴらに捜索することはできない。口々に「おい」とか「聞こえるか」と叫びながら探すその様子は、それは奇妙なものであったと語る。
果たして彼らは、その家族を発見した。森の中にある滝坪で。いや、正確にはその死体をであるが。ぷかりと浮いていた三人の死体にはどれも、腕や足首に手形のような痣が無数に浮かんでいたという。
そしてとうとう弟の遺体だけはどこからも揚がらなかった。
この一件により、掟はさらに神格性を増し、忌諱されるものとなったのだという。
少し弱いがまあまあと言ったところか……。
「そういう云われがあるでな、君が呼んでもわしは返事をせん。気を悪くしないでくれ。その代わりわしは君の名前も聞きはせん。まあ、年寄りの戯言だと一笑にふしてもかまわんが」
老人はそう言い終わると、ぱんぱんと手を叩いた。すっと襖が開く。外で待機していたのだろうか。
「さあ昔話はおしまいだ。あとは、この孫娘がお相手をさせていただきますので、どうぞごゆっくり」
思わずにやけてしまった。先程の黒髪美人が私の食事のお相手だとは。女性は私と目が合うと、遠慮がちに一礼をし、折敷とともに入ってきた。
会席の形式で運ばれてきたそれは、豪華と言わざるを得ないものだった。山の幸をふんだんに使ったものだろう。銀杏の茶碗蒸し、山菜の天ぷら、あちらで煮えているのは猪鍋であろうか。一体どこから集めて来たのかと言いたくなるほどの勢の粋が、瞬く間に目の前に並ぶ。
全ての料理が並び終えると、着物姿の女性が私のすぐ隣に控えた。ふわりと良い香りがした。食前酒でございます。そう言って渡された杯を鼻に持っていく。梅の良い香りが広がる。これは上等な梅酒だ。
御馳走を前にいい酒が呑める。ましてやこんなに上等な御馳走は何年、いや何十年振りかも知れない。高鳴る鼓動を抑え、私は景気良く一気に杯をあおった。
梅の豊潤な味わいは一瞬。ふいに視界が蕩けていくのを感じた。
不自然な痛みと体の揺れを感じ、目を覚ました。私が、いや私のいる空間が、右に左に大きく振れている。無理矢理丸められた体で慌てて立ちあがろうとするが、それも叶わない。どうやら狭い場所に押し込められた上で、ご丁寧にも縄のようなもので手首や足首を縛られているようだ。
少しでも状況を探ろうと、耳を澄ます。すぐ近くで聞こえるのは十人ほどの人間の息遣い、そしてぱきぱきと木の枝を踏みしだく音、だけだ。
ああ、話がうますぎると思った。やはりあの西宮とか言う奴、いや村全体が怪しい事をしていたな……。
そこで再び私の意識は途切れた。