夢の続き
夢の続き
観音 空
あれは高校1年生の夏休みのことでした。
高校生になって初めての長い休みに入り、いろんなことに興味を持っていた私は、仲の良かった友達とふたりでアルバイトをすることにしました。
「ねえ、どんなしごとがいいかなぁ?」
「うーん、初めてだから、楽しくって簡単そうなのがいいよね」
学校からの帰り道、よく立ち寄っていたファーストフード店で、無料でおいてある求人情報誌をふたりで眺めながら相談していました。確かにまだふたりとも社会のことなんて何にも知らなかったし、難しそうな仕事や大変そうな仕事を選ばないようにと持っていた赤ペンでチェックを入れていました。
「やっぱり、楽そうなのって、ここみたいなファーストフードみたいなのかなぁ?咲」
氷の溶けかかったアイスコーヒーを飲みながら洋子が聞いてきました。
「そうだね。制服とかもかわいいとこが多いし、みんな働いている人達も若いひとが多そうだから、友達とかもできそうだよね」
こんな話の後、私達は駅の近くにあるハンバーガー屋さんに応募することにしました。
そのお店もやっぱり20歳前後の人が多く、面接の結果、私たちのアルバイト生活が始まることになりました。まだ高校1年生で、部活もしていなかった私たちにとって長い暇な夏休みはアルバイトの初体験で、いきなりドキドキ・キラキラしたものに変わりました。
たくさんあるファーストフード店の中から、この店を選んだ理由がいくつかありました。時給は大体相場が決まっているらしく、殆どどこも変わりはなかったのですが、高校生可というところばかりではありませんでした。また、私たちの両親との約束で、門限が8時となっていたので、それまでにアルバイトを終えなくてはいけなかったのです。この条件全てを満たしていたのは、この1件だけだったのです。
「明日から、アルバイトだね。何着て行く?」
アルバイト開始を前に、私と洋子は浮かれていました。まだ子供だった私達にとって、アルバイトとはいえ、立派な仕事なのだという自覚など全くありませんでした。目新しい体験をしながら、遊びの延長でお金がもらえるような感覚でした。学校から駅までの帰りの道で、ふたりで笑いながら明日からのアルバイト生活を想像していました。まさか、そこで私のこれからを変えるような出来事に遭遇するとは夢にも思っていませんでした。
翌日のアルバイトの始まりは、私ひとりでした。洋子は家の用事があって、一日私の方が早かったのです。店長から、初日までに覚えてくるように言われた商品の名前、価格などを確認し、身支度を整え、初めて出勤しているスタッフとの顔合わせとなりました。
「今日から働いてもらう、長野咲さん。まだ高校生だから、みんないろいろ教えてやってくれよ」
店長は制服姿がまだ頼りない私を、まず店の奥にいた人たちに紹介しました。社員の人と、アルバイトの人がいましたが、頑張って覚えてきた商品の名前とかを覚えているのが精一杯で、すぐには顔と名前が一致しませんでした。続いてお客様の少ない時を待って、店内で接客していた人たちに紹介してくれました。
「大丈夫よ。そんなに難しくないから。客が来たら、『いらっしゃいませ』って言ってくれたら、後は私たちが接客するから、今日は様子をまず見ていてね」
そう言って、不安に固まったままでいた私に笑いかけてくれました。
初日は本当に何が何だか分からず、あっという間の3時間でした。終わる時に、初めに声を掛けてくれた人と一緒に終わることになり、着替えのときに改めて自己紹介となりました。
「えーっと、長野さん、だっけ? 仕事はどう、慣れた? 簡単だから、あと1日もあれば大丈夫よ」
「確か・・・村瀬さん、ですよね。ありがとうございました、色々教えてもらって」
タイトな制服を脱ぎ、昨日から何を着ていこうか悩んだTシャツと短めのスカートをはき、やっと一息つくことができました。村瀬さんは、仕事には随分慣れた感じで、姉御肌風の人でした。さっと着替え、私より早く更衣室から出て行ってしまいました。交替するアルバイトの人や社員の人でごった返している店の裏側は、今まで客として外から見ていた雰囲気とは全く違う世界でした。商品の材料や資材などがたくさん積まれている廊下で、村瀬さんはアルバイトの男の人と仲良さそうに話をしていました。
「長野さん、この人ね、高橋くんって言うんだよ。もう紹介してもらった?」
見かけたような気はしても、正直みんな同じにしか見えなかったので、よく分かっていませんでした。
「えーっと・・・すみません」
なぜだか2人はニヤニヤして、私を見ていました。
「ね、高橋くん、覚えてないって。あたしの言った通りでしょ」
どうやら2人私のことを話していたらしく、私の今日の様子を見て、緊張していたのだと感じていたようです。
「おい、さっちゃんでいいな、決定。 それにしてもすごい格好だよな。みんなびっくりして裏で話していたんだぞ」
まさかそんなことを言われるとは思っていなかったので、驚きました。
「そんなに変ですか? 少しは大人びて見えるようにしたつもりなんですけど」
村瀬さんと高橋さんは、真顔で答えた私を見て、店の中にまで聞こえそうなくらい大きな声で笑い出しました。
「やだ、さっちゃん。ちょっとスカートが短すぎだよ。男の子には刺激が強すぎだよ」
プリーツの膝上10センチの明るい水色のスカートでした。普段から短めのスカートが好きだった私にとって、そんなに短いとは思っていなくて、まさかアルバイト初日にこんな風に笑われてしまうとは思ってもいませんでした。確かに、3年たった今なら流行の当たり前の長さなのかも知れません。初日の緊張は、この出来事ですっかり吹っ飛んでしまいました。そして、この時高橋さんが名づけた私のあだ名は、この後ずっと高橋さんと村瀬さんだけに呼ばれ続けることになりました。
翌日からは、洋子もアルバイトが始まり、少しずつ仕事にも、周りの環境にも慣れていきまいた。「さっちゃん」という高橋さんがつけたあだ名は、結局村瀬さんと高橋さんの2人だけが呼び、他の人はごく普通に「長野さん」と名字で呼んでいました。また、アルバイトの人をあだ名で呼んだりすることはほとんどありませんでした。そんな中で、多分私も洋子も、アルバイトは遊びではないと感じるようになっていったのだと思います。
アルバイトを毎日していると、夏休みはあっという間に過ぎていきました。学校が始まってからは、私と洋子のアルバイトは、週末だけになりました。とは言うものの、平日は学校生活、週末はアルバイトという毎日はとても忙しい日々でした。2学期の中間テストで洋子の成績が突然下がったことで、洋子は両親からアルバイトを禁止されるようになり、2人で始めたアルバイトは私一人になってしまいました。私も辞めようかとも思いましたが、アルバイトが面白くなっていたのと、店長に2人いっぺんに辞めないで欲しいと言われたこともあり、私だけそのまま続けることになりました。
「洋子、なんだか私一人続けていくようになって、ごめんね」
「どうして謝るの?咲。 私はやめたのは自分のせいなんだから、気にしないでよ」
アルバイト先の店長との話し合いの後、私は洋子とお店の客としてコーヒーとフライドポテトを前にしていました。学校の制服姿でアルバイト先にいるのも、何となく変でしたが、学校帰りだったのと、何となくわざわざ他の店に行って話すことでもなかったので、そのまま話していました。秋になって、日の暮れるのが早くなり、お店の外は赤く染まった駅ビルが見えていました。
「そろそろ帰ろうか。明日また学校でね、咲」
「うん。今度は私がバイトしている時に遊びに来てね。サービスこっそりしてあげるから」
そう言って、私たちはそれぞれ別々の方向にある家に帰るため、駅の駐輪場で別れました。土曜日からは私一人でアルバイトなのだと思うと少し心細い気もしていましたが、優しくて楽しい仲間たちがいたので、アルバイトが嫌だという感じはしていませんでいた。
週末になり、今までと同じようにアルバイトをしていると、休憩時間に高橋さんが私に声を掛けてきました。
「さっちゃんひとりだって? なんだか静かだと思ったよ。いつも2人でキャーキャー言ってたからな。さっちゃんは急に辞めるなよ」
高橋さんはシフト表を見つめ、たばこを吸いながら言いました。私は仕事の都合のことを言ったのだろうと思っていました。それでも、まさか高橋さんにこんなことを言ってもらうとは思ってもいなかったので、ちょっとびっくりしていました。
「あー、高橋くん、さっちゃんにちょっかい掛けている。気を付けなさいよ。高橋くんは手が早いから」
私には何の事だか分かっていませんでした。ただ仕事の話をしていただけで、突然村瀬さんに言われたことによって、私は高橋さんのことを少しだけ意識してしまいました。
「何の事ですか? シフトのことを話していただけですよ。そう言えば村瀬さん、今日はいつもと違って入りが遅かったんですね」
私は慌てて無意識に話を逸らそうとしていました。いつもは朝9時から仕事に入っている村瀬さんが、今日はお昼からだったのです。確かに他の仲間でも学校の都合などで時間がずれたり、休んだりということもあるので、それが特別だったというわけではないのですが・・・
「うん、ちょっと用事があってね。さっちゃんはこのあと6時まで? 頑張ってね」
そこで私の休憩も終わり、村瀬さんと一緒にお店の中に入っていくことになりました。バックヤードを通りながら、改めて村瀬さんは私に言ったのです。
「さっきのことだけど、本当に高橋くんだけは止めておきなよ。苦労するから」
村瀬さんはそれだけ言うと、さっと仕事の取り掛かってしまい、結局それ以上理由は聞くことはできませんでした。そして、このことで、私は高橋さんのことを今まで目で追っていたことに気付いたのです。おそらく村瀬さんだけでなく、仲間の多くは私が高橋さんを見ていたことを分かっていたのだと思います。高橋さんのことで村瀬さんと同じように忠告をする仲間が、このあと何人も出てくることになったのです。でも、私にはなぜ高橋さんが駄目だと周りが言うのかは全く分かりませんでした。高橋さん自身は自分がこんなことを仲間から言われていることを、知らないでいたのでしょうか? 私にはその方が気になっていました。
アルバイト先の仲間と親しくなってくると、仕事以外でも付き合うことがあるようになりました。仕事の後に食事に出掛けたり、休みが合えば遊びに出掛けたりもしました。私は平日は学校があり、週末などにアルバイトをしていたので、なかなか遊びに出掛けることまではできませんでしたが、冬休みになったある日、仕事が終わった私に休憩中だった高橋さんが声を掛けてきました。
「さっちゃん、年明けの3日の日って、仕事休みだろ? 何か用事ある? 家族と初詣とか、行く?」
「いいえ、何も予定はないですよ。どうかしたんですか?」
コーラを片手にシフト表を見ながら高橋さんが言いました。
「村瀬と今、遊園地に出掛けようって話をしていてさ、それで、さっちゃんもどうかなと思って」
多分、その時の私の顔には嬉しさが表れていたと思います。できる限り普通に話そうと思って緊張していたのを今でも覚えています。
「ありがとうございます。声掛けてもらって。本当に私でいいんですか?」
「面白いからな、さっちゃんは。村瀬とよく話をしているんだぜ、さっちゃんのことをさ」
「なんだか、ろくなこと言われてない気がしますけどね!」
私は、まだ着ていなかった上着に袖を通しながら、やっと気持ちを落ち着かせることができました。いつも高橋さんは、私をからかうようなことを言ったりしたりしていて、最近ではよくじゃれあっているような関係になっていました。それでもそれ以上の関係ではないことが周囲にも分かってくると、私に対して、周囲で忠告を言って来る人はいなくなっていきました。私もできるだけ気をつけてはいましたが、村瀬さんに忠告されて以来、高橋さんの事が気になっていたことは確かでした。
「ほかに俺の友達と4人で出掛ける予定だから。詳しいことはまた村瀬と話して決めておくよ。お疲れさま、さっちゃん」
そう言うと、高橋さんは空になったコップを片付けて、仕事に戻っていきました。店の前に置いている自転車に乗って、暗くなった街の中を走りながら、私は嬉しくて遊園地でのことを想像していました。クリスマスも終わった街の中は、年の瀬の慌しさで人通りも多く、歩道を自転車で走っていると、気を付けないと誰かにぶつかってしまいそうでした。それでも頭の中は、さっき高橋さんと話したことでいっぱいになっていました。
年が明け、仕事始めとなったお正月の2日に、高橋さんは翌日の予定を教えてくれました。初めに9時に私の家に迎えに来た後、村瀬さんを乗せ、遊園地まで行くというものでした。屋外のスケートリンクのある遊園地へ行くということでしたから、上着も厚いものにして、手袋も用意しようと思いました。そんな話を休憩時間にしていたので、上の空になってしまい、忙しい年明けのハンバーガーショップでの仕事が手につかなくなってしまいました。正月明けは、当時は空いているお店がまだ少なく、待ち合わせやおせちに飽きた人で店内は混み合っていました。高橋さんも村瀬さんもいつもと変わらずテキパキと仕事をこなしていました。私もアルバイトを始めてもうすぐ半年になろうとしていましたから、そろそろ仕事に対しての自覚も出始めていました。何とかその日の仕事を終え、私は高橋さん、村瀬さんより先に帰る時間になりました。
「じゃあ、お先に失礼します。明日よろしくお願いします」
帰り際に私が挨拶をすると
「お疲れ。寝坊するなよ、さっちゃん」
少し疲れた顔をした高橋さんが、笑いながら答えてくれました。
「明日楽しみにしているからな」
それだけ言うと、高橋さんは仕事に戻っていきました。
私達の住む街からは、目的地の遊園地まで高速を使っても2時間はかかりました。私はこんなに遠いところに友達同士で遊びに来たのは初めての経験でした。その緊張と高橋さんと一緒というドキドキ感で、自動車の中では独り固まっていました。そんな様子を見て、高橋さんと村瀬さんはいつものように私をからかっていました。いつでも私たち3人はこんな調子で、それが当たり前のようになっていました。
遊園地に着くと、まずスケートをしました。屋外でのスケートは初体験だったので、氷の感触が屋内と全く違うことに驚き、ふらふらとしていました。手袋がなかったら、転んだときに氷に直接触れなくてはならず、本当に冷たかったと思います。
「さっちゃん、いいもの持っているよな。貸してくれよ」
高橋さんは素手でした。私は伸縮のある手袋で、指先のあるものとないものを重ねて使っていたので、指先のないほうを分けて貸してあげました。
「サンキュ、さっちゃん。助かったよ。あー冷たかった」
4人とも時々しりもちをつきながら、それでもしばらくスケートを楽しみました。そのあと、乗り物のある方に行きました。
「ねえ、何に乗ろうか?あのジェットコースターはどお?」
村瀬さんはそう言って、ジェットコースターの方を指し、どんどんと向かって行きました。私と高橋さんは苦手だったので、村瀬さんと高橋さんのお友達の清水さんとで乗ることになり、私達は乗り場のすぐ横で待っていることにしました。
「寒いな、じっとしているだけだと」
そう言って、高橋さんは私の後ろに回ると、私の上着のポケットに手を入れてきました。
「暖ったかー。ひとのポケットって、どうしてこんなに暖ったかいんだろうな?」
私は急なことに驚きました。私よりもちろん大きい高橋さんの胸が、私の背中にくっついて、確かに寒いと思っていた私も暖かくなりました。村瀬さんたちが見ていない間、私たちは2人でくっついていました。ポケットの中で握り合っていた両手は汗をかくほど暖かかったです。きっと、初めてのことに緊張していたのも手伝っていたと思います。
村瀬さん達が戻ってくる頃には、私達は暖かい缶コーヒーを用意していました。
「俺達寒かったから、今度は暖まる乗り物に乗ろうぜ」
そう言って、高橋さんは一足先に観覧車の方に向って歩き出しました。私は一番後ろから、4本の缶を抱えてついて行ったのです。
この日の出来事から、私は高橋さんをより身近に感じるようになりました。当時の私はまだ子供でしたから、高橋さんに親しみを感じていることが、そのまま自分の態度に出てしまっていたと思います。そんな私は仕事の上でも高橋さんに甘えてしまうことがあり、高橋さんはそんな私に注意することもありました。その時は少し驚きました。しかし、高橋さんは仕事仲間からは仕事はきちんとこなす人として認識されていましたから、私が高橋さんから注意されたことは、ごく当たり前のことでした。そんな高橋さんでしたから、私を注意した後もその出来事の前と後で私に対する態度に変化はありませんでしたし、相変わらず私は高橋さんにからかわれていました。
他の仲間と比べて、私は高橋さんと親しかったと思います。私はその高橋さんの態度を私に対する好意と受け取っていました。そして、私も高橋さんをますます意識していきました。ただ、それを『恋』であるとはあの頃は認識できていませんでした。
そんなある日、他の仲間から改めて高橋さんの噂を聞きました。高橋さんには彼女がいる、と。そして、その相手は同じアルバイト先の仲間である、と。高橋さんに彼女がいても不思議はないと思っていましたが、それがアルバイトの仲間だというのは驚きました。普段の二人の様子は、ごく普通の仕事仲間としか見えなかったからです。かえって、村瀬さんが彼女だと聞いた方が信じられたかもしれません。私はこの話を聞いて、高橋さんが私にとっていた態度は、異性としての好意というよりは、妹に対しての態度だということに気付きました。これからは、私も高橋さんに対してただの仲のいい仕事仲間として見るようにしようと思いました。この時初めて気付いた私のほのかな恋心はこのまま終わるのだと思いました。
その後、2年生になった私は相変わらずアルバイトをしていたのですが、先生にとうとうアルバイトをしていることがバレてしまいました。私の通っていた高校は進学校でしたから、当然のようにアルバイトは禁止されていました。洋子とアルバイトを始めた時から、学校には内緒でしていたのです。堂々と街の中でアルバイトをしていて、よくここまで長く見つからずに過ぎたものだと思いました。
「まだ今なら、先生の胸のうちに留めて置いてあげるから、すぐにアルバイトを辞めなさい。そうでないと、学校としても処分をしなくてはいけなくなるから」
ちょうど私を見つけた先生とは、親しくしていて、信頼関係もあったので、先生は内密にしてくれました。店長にもそのことを伝え、私はアルバイトを辞めることになりました。こうして突然、私と高橋さんを結ぶ糸は切れることとなったのです。
この出来事と同じころ、私は高橋さんへの気持ちを切り替えるためもあり、友達が紹介してくれた他の高校の人と付き合ってみることにしました。その彼はとても優しい人でした。私はこれでごく普通の高校生活に戻っていくのだろうと思っていました。アルバイトも辞め、新しく彼もできたのですが、何となく私は物足りない日々を過ごしていました。高校では色々な活動もしてそれなりに忙しくしていたのですが、アルバイトをしていた日々と比べると刺激が少なかったのかも知れません。
高校生の恋愛感情でしたから、日々に流されていく中で、高橋さんへの気持ちは落ち着いてきました。心の奥深くにしまわれていくことで、私は再びごく普通の女子高生に戻っていきました。そうして、アルバイトをしていた頃が、夢の中の出来事のように感じられるようになっていったのです。
高3になり、私は本格的に大学受験に突入しました。進学校でしたから、同じ学校の友人たちも同様で、毎日学校と家とを往復するだけの日々となりました。そんな中で、私は2年生の時から付き合っていた彼と徐々に疎遠になっていきました。彼は進学校ではなかったので、受験勉強をする私を理解できなかったようです。自然消滅のような形で、私の初めての『お付き合い』は終わりになっていきました。
ただ、私は対してショックを受けていませんでした。高橋さんへの気持ちを整理するために付き合い始めた彼だったからなのでしょうか? 彼と別れたのは、受験のせいだけでは無かったと言えるでしょう。もちろん、その事は彼には言えませんでしたが。
3年生になったばかりの頃でした。いつものように、学校が終わり、友達と電車に乗って学校から帰る途中のことでした。改札を出て、駅のそばの自転車置き場まで歩いている途中で、私は偶然高橋さんと再会したのです。
「さっちゃん、久しぶり。元気だった?」
「あれ? 高橋さん。どうしてこんなところにいるんですか?」
私はとにかく驚いてしまいました。心臓がドキドキ言う音が体中に響き渡っているようでした。
「俺はこれから大学だよ。2部だから、今から行くと授業がはじまるんだよ」
「え? 高橋さんって、ちゃんと大学行っていたんですか? いつも仕事していたから、学校なんてサボっているのかと思っていましたけど」
私は、そう話しながら高橋さんにこの鼓動が伝わっているんじゃないかと思うほど緊張していました。また、高橋さんに気付かれないようにしようと一生懸命に普通を装っていました。改札の周りは、これから夕方になり、人通りが多くなる時間でした。周囲の雑音が、私にはありがたく感じられました。
「たまにはちゃんと行くんだよ、俺でもな。さっちゃんは今年受験だろう? 大学生になったら、俺みたいになるなよ」
そう言うと、右手を挙げて、高橋さんは改札を抜けて行きました。私は今まで、高橋さんと駅ですれ違うことなど考えてもみませんでした。ちょうど私が学校から帰る電車の時間と、高橋さんが大学に行く電車の時間が重なり、私たちは今までにも気付かずにすれ違っていたのかもしれません。私はこの時高橋さんと、何かの運命を共有しているかもしれないと感じてしまったのです。
高橋さんは、定時制の大学に通っていました。昼間はアルバイトをして、夕方から大学に電車に乗って通っていました。なぜ定時制の学校に行っていたのかは分かりませんが、何か理由がありそうでした。でも、それを高橋さんに尋ねることはありませんでした。
高橋さんと再会したことは、私の心の中で、とても大きな出来事でした。これが、彼との別れを加速させたかもしれません。それ以来、私は高橋さんとすれ違った日と同じ時間の電車を狙って下校するようになりました。また会いたかったのです。確かに会えましたが、ほとんどあいさつ程度で、それ以上のことは何もありませんでいた。そんな日々を過ごす間に、いつの間にか時は過ぎ、私は高校を卒業し、大学生になりました。あの電車に乗らなくなって、再び高橋さんとの接点は消えることとなりました。夢は再び夢のまま、終わりを迎えるのだと、そう思っていました。
私は無事に大学生となりました。いつの間にか、アルバイトを辞めてから3年という時間が過ぎていました。大学に行くようになり、それと同時に高橋さんは大学を卒業しました。お互いの生活が変わって言った中で、私たちの接点は全くなくなったのです。私はごく普通の女子大生として、学校とアルバイト、友達や新しくできた恋人と遊ぶという日々を過ごしていました。そうしているうちに、高橋さんのことは少しずつ記憶の奥の方へと押しやられていったのです。
ある日、久しぶりに高橋さんと出会ったあのハンバーガーショップに行きました。すると、そこで思わぬ人と再会したのです。
「さっちゃんだよね? 大人っぽくなったね。元気?」
「あれ? 村瀬さんですよね。お久しぶりです」
あの頃一緒に働いていた仲間との再会でした。彼女、村瀬さんは私より3つ年上です。当時は専門学校に通っていましたが、今は近くのデパートの店員さんになっているとのことでした。以前よりもきれいさに磨きがかかったようで、羨ましく思いました。
「ねえ、今度みんなと飲みにでも行こうよ!」
「いいですね。私ももう大人になったから、大丈夫ですよ」
当時は私がひとり高校生だったこともあり、夜に出掛けるような誘われ方をしていませんでした。ここではじめてお互いの連絡先を交換し、その時は別れました。ただ、それでも社交辞令程度のことだと思っていたのです。あの連絡が来るまでは…
村瀬さんと再会してから、3週間ほど過ぎていたでしょうか。アルバイトを終えた帰り道、携帯が鳴りました。村瀬さんからでした。
「さっちゃん? ごめんね遅くに。村瀬だけど」
「大丈夫です。今バイトの帰りですから」
そう話しながら、通りかかったバス停のベンチに腰を下しました。
「元気? あれから時間経っちゃったけど、覚えている? この前言っていた事だけど。」
もちろん覚えています。でも信じてはいませんでした。
「飲み会の件ですよね。もうだめかと思ってました」
私は笑いながらそう言うと、
「みんなと連絡とっていたら、つい話が長くなって… 結局調整つけるのに時間がかかって」
いつも明るい調子で話す村瀬さんは高橋さんと2人、当時も仲間の中心的な存在でした。
「すみません。仕事をしていて忙しい村瀬さんに全部お任せして」
「いいんだって。言いだしっぺは私だから。それで、今度の金曜日なんだけど、大丈夫? デートとか入ってない? 夜7時に駅に集合だけど」
本当に集まることになるなんて…驚きでした。そして、高橋さんが来るかどうか、ドキドキしていましたが、聞くことはできませんでした。
「えーっと… はい、大丈夫です。7時ですね。行きます」
そう言って電話を切り、そのまましばらくバス停のベンチに座ったまま動けませんでした。
『高橋さんに会えるのかな?』
私はそのことで、金曜日まで何も考えられなくなってしまいそうでした。
今日、高橋さんとどんな顔をして会えばいいのか? 朝からずっとそれだけを考え続けていました。特別に高橋さんと親しかったわけではなく、単なる昔のアルバイト仲間なのですから、普通の顔をすべきだとは分かっているのですが…
大学から家に一度戻りました。高橋さんのことがやはり気になってしまい、自分の身支度をもう一度やり直したくなってしまったのです。まだ約束の時間までには十分間に合うだけの余裕がありました。
当時のアルバイト仲間は既に就職している人ばかりでした。私は約束の15分前に駅に着きました。やはり誰も来てはいませんでした。それからしばらくして、村瀬さんがやって来ました。
「早いね、さっちゃん。待った?」
「そんなことないですよ。ヒマ人だから早かっただけですから」
村瀬さんは仕事を早目に終えて来てくれたようでした。
「私がいないと、きっとさっちゃんがずいぶん大人になっているから、みんな分からないと思ってさ!」
そう言いながら、幹事役をこなしていたのだと思いました。
「ねえ、さっちゃん、高橋くんのことだけど…」
そう村瀬さんが話し始めた時でした。向こうから、小走りで高橋さんがやって来たのです。私は村瀬さんが何を言おうとしていたのか分かりませんでした。そして、やって来た高橋さんの姿を見てドキドキしていました。
「用、俺そんなに遅くないよな」
いつも時間には正確だった高橋さんらしい言葉でした。
「うん。よく7時で仕事が終わったね。忙しいんでしょ、遅くなるって連絡があるかと思っていたよ」
村瀬さんと高橋さんは今までも会っていたりするのか…そんなことを考えていました。確かにあの頃からずっと二人は仲が良く、冗談を言い合っている姿は、まるで付き合っているのではないかと思うほどでした。
「えーと…さっちゃんだよね。久しぶり、元気だった?」
「お久しぶりです、高橋さん。元気にしていましたよ」
私は頑張って普通の笑顔をしてみました。
「なあ村瀬、さっちゃんさあ、大人っぽくなったよな」
「そう思うでしょ?私もこの前会った時びっくりしたもん」
「2人にそう言ってもらえるなんて、嬉しいです。一応女子大生になりましたからね」
歩いて居酒屋まで移動しながら、村瀬さんを真ん中にして3人で色々話していました。しかし、緊張していた私には、半分くらいしか頭に入っていなかったかもしれません。
「さっちゃん、お酒飲めるんだよね、もちろん」
ぼーっとしていたのか、村瀬さんは私を覗き込むようにして聞きました。
「何とか、ですけど。まだ初心者ですから」
居酒屋に着き、後から合流する仲間を待ちながら先に宴会は始まりました。しばらくして、村瀬さんの携帯が鳴りました。
「ちょっと外で話してくる。うるさいから」
そう言って、村瀬さんは席を立ち、私と高橋さんは2人きりになってしまいました。私はどうしていいか分からず、ジョッキを見つめていました。
「さっちゃん、久しぶりだよね。元気だった?」
高橋さんは、そんな私の様子を見て笑顔で言いました。
「高橋さんはおじさんになりましたね」
少し緊張のほぐれた私は、高橋さんをじっと見てから笑顔で答えました。
「おじさんは失礼だよなあ。もう28だから、仕方ないけどな」
当たり障りのない会話をしながら、少しずつ自分の感覚が当時と同じように戻ってきているのが分かりました。
「女子大生ってさ、モテるだろ。彼氏できたか?」
高橋さんはジョッキをテーブルの上にドンと置きながら私を見て言いました。私はその言葉にドキッとしました。後ろめたい気持ちと、その感情を悟られたくない気持ちとが混ざっていました。
「それなりですよ。想像にお任せします」
村瀬さんが戻ってくるまでのほんの2、3分の時間が、間が持てなくてとてつもなく長く感じたり、このまま2人きりの時間が続いて欲しいと思ったり・・・どうしたらいいか分かりませんでした。
村瀬さんが電話を終えて、戻ってきました。
「ごめんね、もうじき祐二が来るって。高橋君、さっちゃんに変なことしてないでしょうね。今日は私がさっちゃんの保護者役なんだから。手を出さないでよね」
やっぱり私は村瀬さんがいることに安心感を抱いていました。村瀬さんは真剣な顔つきで高橋さんをまるで威嚇しているようでした。
「何にもしていないよ。ただ話をしていただけだよ」
高橋さんは、両手を軽く上げ、お手上げと言った感じのしぐさをしました。
「本当です。大丈夫でしたよ」
私も笑顔で高橋さんの言葉に続けて言いました。村瀬さんは私たちの顔を順番に見て少し安心したようでした。
「じゃあいいけど。さっちゃん、何かされたらすぐ私に言ってね」
高橋さんの信用がないのか?私がまだ子供で心配してくれているのか? 村瀬さんは帰るまでこの調子でした。3人がなじんだ頃、村瀬さんの言ったとおり、15分ほどして祐二さんが遅れて店に入ってきました。
「折角だからさ、アドレスとか交換しようぜ」
みんながだいぶ盛り上がってきた頃、祐二さんの提案でアドレスの交換会となりました。私はそれぞれ登録しながら、『後でみんなにお礼のメール打たなきゃ』そう思っていました。その時には、それ以上は考えていませんでした。
楽しい時間は過ぎるのが早く、あっという間に別れの時間となりました。
「さっちゃんはまだ学生だから、ここまでね。私が送っていくから。あの狼達には任せられないからね」
そう言って、村瀬さんはタクシーを拾い、私と乗り込みました。
家に戻り自分の部屋へと入ったところで、自分が酔っているのだと気付きました。初めの緊張と楽しい集まりだったせいで、普段よりも飲んでいたのだろうと思います。
『お礼のメールをみんなに打たなきゃ』
そう思い出し、鞄から携帯を取り出そうとしていた時、ちょうど携帯が鳴りました。
「もしもし、高橋だけど。さっちゃん大丈夫だった? ちょっと酔っていたみたいだったから」
「すいません。何だか飲みすぎちゃったみたいで」
高橋さんからの電話で、より後悔が深くなっていきました。
「心配になってさ。俺が送って行けば良かったかなって・・・。そんなこと言うと村瀬に怒られそうだったからなぁ。俺あいつに信用無いから」
「昔、何かやらかしたんですか? 村瀬さんに」
私は酔っていた勢いでずっと気になっていたことを聞いてしまいました。
「聞きたい? 昔の事」
高橋さんは私をからかうように問い返してきました。
「聞きたかったら、明日俺とどっか行こうか?」
突然のことに、思わず「はいっ!」と言ってしまったのです。そして、このことがこの後の私の人生を大きく左右することになってしまったのです。まだ、私はそのことに気付いていませんでした。
いつもの土曜日なら、大学があるわけでもないのでこんなに早く起きることはないのですが、今日は特別早く目覚めてしまいました。と、言うより、昨夜高橋さんと電話で約束した後から、目が冴えてしまって、あんまり眠れなかったのかも知れません。電話の後、自分がどうやって眠りに就いたのかさえ、よく覚えていませんでした。ただひたすら、『どうしよう?』ということしか思い浮かびませんでした。村瀬さんに相談しようかとも思いましたが、当然のように村瀬さんに話をすれば高橋さんと会うことを反対されると分かっていました。その時の私は、高橋さんにただ会いたかったのです。
11時少し前、約束の場所まで行くと、高橋さんの車はもうそこにありました。
「お待たせしました。遅くなって済みません」
「大丈夫だよ。俺がいつも早いだけだから」
確かに高橋さんが時間に遅れる姿を今まで見たことがありませんでした。
「じゃあ、乗って。ドライブでも行こう。海とか?」
高橋さんは助手席のドアを内側から開てくれました。四駆の座席は乗り込むのに少し高く、スカートの裾を踏まないように気をつけながら座りました。
「はい。お任せします」
車はすぐに動き出しました。私はこの後、高橋さんの話すことがどういうことか、何が起こるのか分かっていませんでした。
海のそばの公園の駐車場に車を停め、途中コンビニで買った缶コーヒーを飲みながら高橋さんは話を始めました。
「俺と村瀬のことだけど・・・」
どんなことを聞かされるのか、私は緊張のあまり、紅茶の缶を強く握りしめていました。そして、ありったけの勇気を振り絞り、高橋さんにずっと疑問に思っていたことを聞いてみました。
「付き合っているんですか?」
高橋さんの目は、少しだけ優しく、一瞬微笑んだように見えました。同時に軽く息を吐き出していたようです。
「違うよ。昔からみんなそう思っていたみたいだけど、村瀬とは付き合っていないよ、昔も今も」
「私もそう思っていました。2人の親しさがあまりにも自然だったので」
高橋さんからはっきりと聞いたことで、私はほっとしていました。
「俺が付き合っていたのは、村瀬の姉さんだよ」
思ってもいない言葉が耳を通り抜けていきました。
「お姉さん・・・村瀬さんの。長く付き合っているんですか?」
「そうだなぁ・・・5年くらいかな、病気で死ぬまでだったから」
私の身近なところで、人の生死にまつわるような話が出てきたのはこれが初めてのことでした。
「ちょうど付き合っていた頃、さっちゃんがバイトに来ていた頃だったのかな。でも、もう入院していて、大変な頃だったんだよ」
「じゃあ、村瀬さんも・・・」
「そうだな。あいつも仕事ではそんな顔していなかったから、すごいと思っていたよ」
高橋さんは昔を思い出すようにフロントガラス越しの空を見ていました。
「それでも、俺はさっちゃんの存在にすごく救われていたんだよ。気が休まるっていうか・・・」
前を向いたまま高橋さんは続けて言いました。同じように前を向いていた私はその言葉に驚き、高橋さんの方に向きを変えました。
「ああ。でも、村瀬はそんな俺の気持ちに気付いていたんだよな、きっと。だから、さっちゃんを俺に近づけないようにしていたんだと思うよ」
「それって、高橋さんが、私のこと・・・」
「・・・そうだな」
高橋さんは、車の天井の方に視線を移しました。その時、高橋さんの携帯が鳴りました。高橋さんは携帯を手にし、発信者を確かめ、そのまま電話をポケットにしまってしまいました。『誰だったのだろう?』私がいては困る相手。仕事の仲間、恋人とか・・・沈黙の中で、そんなことを考えていた時、私の方の携帯が今度は鳴り始めました。
「はい」
つい、相手を気にすることなく私は出てしまい、驚きました。そして、きっと高橋さんに電話を掛けたのは、この人だったのだと、そう思いました。
「もしもし、村瀬です。昨日はお疲れさま。あの後大丈夫だった?」
村瀬さんはいつも通り、明るい調子で私を気遣ってくれていました。
「はい。ご心配おかけしました。やっぱり少し酔っていたみたいで、昨夜はそのまま寝ちゃったみたいです」
「さっちゃんはまだ若いんだからいいのよ。だんだん飲み会の回数を重ねていけば、要領も分かるようになるんだから」
何気ない会話をしていても、さっき高橋さんから聞いたことが私の頭から離れませんでした。高橋さんは会話の内容で、誰からの電話か分かっていたようです。息を殺すように、私の隣でじっとしていました。
「ねえ、あの後、高橋君から連絡とか来てない? あいつのことだから、心配なんだよね、さっちゃんに手を出すんじゃないかって。さっちゃん綺麗になったし」
鋭い、と思いました。こうやって村瀬さんは、ずっと高橋さんのことを見続けていたのでしょうか。それでも、私もあの頃よりは成長したと自分で思いました。
「いいえ、来てないですよ、特に」
「・・・そう。じゃあ、私の気の回し過ぎね。良かった」
ほっとしたのも束の間でした。
「さっき、高橋君に掛けたら、連絡つかなかったから。居留守を使われたと思ってさ」
「そうなんですか。じゃあ、彼女とデートでもしていたとか?」
何とか私は村瀬さんの疑いを他へ向けたい一心でした。
「まあね。女友達からの電話じゃ、出られない時もあるからね。そうそう、さっちゃんに電話をしたのは、また近いうちにゆっくり2人で話したいなって思ってさ」
「わかりました。じゃあ、村瀬さんの都合のいい時に連絡ください」
そう言って、電話を切りました。
「今日は、帰ろうか」
ほっとした様子の私を見て、高橋さんはそう言うと、車を動かし始めました。家に着くまでの間、高橋さんは難しい顔をしていました。私はこれからどうしたらいいのか、どうなっていくのか、見当もつきませんでした。
「さっちゃん、また連絡するよ。今日のところはごめんね。何か変なことになって・・・」
そして、高橋さんは帰って行きました。
それからしばらくの間は、何事もなく過ぎていきました。私には同じ大学に通う3歳上の彼がいました。彼は、春には卒業し、実家のある地方に戻って就職することが決まっていました。遠距離恋愛になるということで、彼と私の間がどうなってしまうのか・・・。私には目の前にはもうひとつ大きな問題があったのです。彼のことを嫌いになったわけではなかったのですが、高橋さんと再会するという機会を得たことで、私の意識は少し高橋さんに傾いていたのは確かです。その振り子がただの女子大生という日常へ戻った途端に彼と離れるという大きな現実に直面して、また彼へと戻って行ったのです。
「休みには合いに来るし、咲もあっちに顔を見せてくれよ」
「もちろん。一生懸命バイトして、お金貯めておくね」
本当に久し振りに訪れた穏やかな日々でした。その彼との約束通り、今までよりもアルバイトの量を増やし、忙しい毎日を送っていました。そんなある日、突然村瀬さんが私のアルバイト先にやって来たのです。
「もうそろそろバイト終わるよね。晩ご飯ご馳走するから、一緒にたべよ」
また、振り子が動き始める音が聞こえました。あの時以来、私は高橋さんと村瀬さんに関わらない方がいいと思っていました。そう思っていたので、私からは、2人には連絡をしていませんでした。
突然やって来た村瀬さんは私のアルバイトの終わるのを待って、そのままファミレスに私を連れて行きました。
「この前電話したっきり、突然でごめんね。この後用事とかあったらどうしようかと思ったけど、どうしても話しておきたくて」
「大丈夫ですよ。いつも仕事の後は真っ直ぐ家に帰るだけですから」
花氏というのは、多分この前高橋さんに聞いた事だと思っていました。
「で、話って、なんですか?」
私たちはオーダーを済ませ、村瀬さんは、運ばれてきていた水を一口飲んでから話し始めました。
「ホントはね、さっちゃんにこうして今日会うより前に、高橋君にに会って来たの。まず、高橋君の方から話を聞きたくて」
まさか、村瀬さんがここまでするとは思っていませんでした。なぜ、そんなに私と高橋さんのことを気にしているのか。高橋さんから聞いた話だけが理由ではないような気がしました。
「ここまで来て、回りくどい聞き方はしないよ。さっちゃんは高橋くんのこと、どう思っているの? 好き?」
「え・・・わたし、付き合っている人いますよ。確かに高橋さんのこと嫌いじゃないけど、そういう目では見ていませんよ」
事実と嘘が入り混じっていました。でも、村瀬さんに気付かれたくなかったのです。笑顔で村瀬さんにそう言ったものの、この後の村瀬さんの言葉で怖くなりました。
「そっかぁ。私の思い過ごしだったのかな。何だかこの前の2人の雰囲気で胸騒ぎがしたから」
「そうですか? そんなつもりは無かったですよ」
鋭いと思いました。私は動揺を隠すように運ばれてきたアイスコーヒーをストローでぐるぐるかき混ぜていました。
「高橋君に聞いても、さっちゃんに特別な気はないって言うし。ま、あいつのことは、あんまり信用していないけど」
あのとき、高橋さんは私に気があるようなことを言っていたと私は思ったのですが、自分の勘違いだったのか・・・そう思って、少し残念な気持ちがしていました。そんなことを考えながら、今まで気になっていた高橋さんと村瀬さんの関係を、村瀬さんの口から聞いてみたいと思いました。
「どうしてそんなに高橋さんを信用していないんですか?」
村瀬さんは、考え込むように目を閉じました。そして、しばらくの間がありました。
「高橋君と、私の姉が付き合っていたの。そして・・・姉は高橋君のせいで死んだのよ」
死んだのは病気ではなかったのか・・・。そう思いながら言えない言葉を飲み込みました。
「そんなことがあったんですか。それで村瀬さんは・・・」
「あいつは女に対して、誠意がないやつだから、姉のようにさっちゃんになって欲しくなくてね」
そう言った村瀬さんの瞳は、潤んでいるように見えました。
高橋さんと村瀬さんの関係が少しずつ分かってくると、私は自分の気持ちをどうしたらいいか分からなくなっていきました。高橋さんの最後の言葉と村瀬さんの涙が、頭の中でぐるぐる廻っていました。
大学に行っている間は、今まで通りの何もない日常に戻ります。そこでも彼との遠恋というこれからの問題がありました。誰かに相談したくても、高橋さんや村瀬さんのような大人の人を私は2人のほかに知りませんでした。結局自分で考えるよりほかに無かったのです。まるで砂の中から、小さな欠片を探しているような感じでした。私が大学からの帰り道、そんなことを考えながら電車にひとりで乗っていた時、携帯が鳴りました。
「もしもし、さっちゃん? 今、大丈夫?」
電話は、高橋さんからでした。
「今、学校の帰りなんです。電車の中」
車内で話すのは、何となく気がひけます。
「あ、じゃあ切るよ。ごめんね。・・・電車降りたら、かけ直してもらってもいいかな?」
「はい、分かりました」
そう言って、電話は終わりました。駅に着くまでの間、私は高橋さんに電話を折り返そうか迷っていました。悩みながら改札を通り抜けた所で、私の足は止まってしまいました。目の前に、高橋さんが立っていたのです。
「何となく、さっちゃんが電話くれないような気がして・・・突然だったけど、ごめんね」
この瞬間に、私の気持ちは決まっていたのかも知れません。
「いえ。確かに高橋さんに電話かけるのやめようかと思っていました」
正直、今、高橋さんに会ったら、これから私達はどうなるのか、それが不安だったのです。
「きちんとさっちゃんと話をしたくてね。時間が大丈夫なら、付き合って」
そう言うと、高橋さんはロータリーに止めてあった車に半ば強引に私を乗せ、走りはじめました。
「高橋さん、・・・仕事は?」
「さっきの電話の後、早退して来たよ。さっちゃんのことが気になって」
海岸の側の駐車場に車を停めると、少し窓を開けてからエンジンを切り、高橋さんは煙草を吸い始めました。
「しばらく吸ってなかったんだけどな。気分が落ち着かない時は駄目だな。今度はちゃんと捨てておかないと」
高橋さんはダッシュボードに入ったままになっていた古いパッケージの煙草をひねりながら、笑っていました。そろそろ夕陽が眩しい時間になっていましたが、笑った後の高橋さんの顔がすぐに真顔に戻ってしまったのは、太陽のせいだけではなさそうでした。
「さっちゃん、俺の事どう思っている?」
ついにこの時が来てしまいました。今の自分の気持ちを正直に高橋さんに伝えようかどうしようか、私は迷っていました。伝えた後の高橋さんの反応が、まだ私にはよく分からなかったのです。
「よく分かりません。嫌いではないことは確かですけど」
いちばんずるい答え方だったでしょう。
「・・・高橋さんは?」
高橋さんと知り合ってから、ずっと私の中で引っ掛かっていた思いを今になってやっと聞くことができました。それでも答えを聞くのが怖い気持ちもまだありました。
「俺は・・・前にも言ったけど、さっちゃんの事は好きだよ。ずっと前から」
そう言った高橋さんの顔は、少し寂しそうでした。それがいったいどういう意味だったのか、まだ私には分かっていませんでした。
「本当に? ずっと前って、アルバイトしていた頃ですか?」
「・・・ああ。あの頃のさっちゃん、かわいかったからなぁ」
「それって、まるで今がかわいくないみたいな言い方ですよね」
高橋さんは、私がちょっとふくれているのを見て、微笑んでいました。
「今は、大人っぽくなったって言いたかったんだよ、かわいいじゃなくて。でもこれじゃあ、今も変わんないのかもな、あの頃と」
なんだか私はからかわれているような気分になりました。当時も私はよく高橋さんにからかわれていたのを思い出し、私も思わず笑ってしまいました。
「俺は正直に言ったんだから、さっちゃんもはっきりと教えてくれないかな、俺への気持ち。俺は、さっちゃんも俺の事好きなんだと信じているんだけど」
今更のように、隠すことはできないと思いました。
「確かに、あの頃からずっと気になっていました。でも、あの頃、周りの人たちに高橋さんは止めた方がいいって言われ続けていましたから」
「それが正解だよ。さっちゃん」
高橋さんはさっきまでの笑った眼から、真剣な表情に変わって私を見つめていました。まさか、こんな言葉を高橋さんから聞くとは想像していなかった私は、自分でも意識しないうちに泣き出してしまいました。
「・・・ごめん、さっちゃん。気持ちを聞かせてもらって嬉しかったけど、俺への気持ちはここで捨てていってもらえないかな。俺もそうするつもりだから」
初めて、今日高橋さんが私に会いたかった理由が分かりました。
「・・・その理由は聞かせてもらえませんか?」
眩暈がしそうな私には、そう言うのが精一杯でした。高橋さんは私の言葉にしばらく考え込んでいました。私は自分から尋ねたことなのに、待っているその間が怖くて、車のドアを開け、逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。
「さっちゃん、ちょっと外を歩こうか」
そんな気持ちを読み取ったのでしょうか。高橋さんの表情は優しいものでした。でも、その態度からは、高橋さんが私に何を言おうとしているかは読み取ることができませんでした。
「言いにくいことですか?」
正直、私は高橋さんが困った顔をするのだと思っていました。そして、そうであってくれれば、私は高橋さんを責めることができると思っていました。
「正直に話してしまっていいか、考えていたんだよ」
高橋さんの顔は、迷いのない穏やかなものでした。私はそれを見て、自分の思っているより、覚悟の必要な宣告なのだと感じました。
「前に俺が付き合っていた彼女の事話したの、覚えているよね」
「村瀬さんの・・・」
「彼女が死んだのは、俺の子供を産む代償だったんだよ」
村瀬さんが高橋さんと私を引き離そうとした理由はこれだと思いました。
「今は、村瀬の両親がその子の面倒を見てくれているんだ。ただ、俺も認知しているし、時々会いに行っているんだけど」
高橋さんは、再び煙草を吸い始めました。
「・・・だから、俺には恋愛の自由はもう無いんだよ」
想像していた以上の告白に、子供の私は立ち尽くしてしまいました。近いはずの波の音は、私の耳には届いてきません。そして、この事実を聞いて、私には高橋さんを責めることはできませんでした。高橋さんは、私に正直に告白することで、私との決別を決めていたのだと思います。そして、私もその気持ちを受け止めなくてはいけないのだと悟りました。
それから後、私たちは連絡を取り合うことはしませんでした。だからと言って、私の気持ちの中から高橋さんが消えてしまうことはありませんでした。遠距離恋愛になる彼とは、中途半端なまま月日が過ぎ、少しずつ疎遠になって行きました。彼も私の心変わりが分かったのだと思います。夏休みの間に、私の周りは少しずつ変わっていきましたが、日常はこれまでと何も変わらず過ぎていきます。私はそんな日々の中で、高橋さんをいつか忘れることができると信じるしかないと思っていました。
しばらく経ち、夏の終わりを告げる頃、アルバイト先に村瀬さんが訪ねて来たのです。
「さっちゃん、元気だった? 久しぶり。このあと時間あるかな?」
「お久しぶりです。大丈夫ですよ」
なぜ、今になって村瀬さんは私のところに来たのか、まるで分かりませんでした。アルバイトの終わるころを見計らってやってきた村瀬さんは、私を喫茶店へと連れて行きました。
「高橋君から大体のことは聞いたよ。やっぱりさっちゃんと高橋君は両想いだったんだね。思っていた通り…」
「でも、今はもう何も連絡はないですよ」
村瀬さんはコーヒーカップを持ちながら、少し離れた所を見ていました。
「私ね、姉が生きている頃から、高橋君が好きだった・・・」
思いつめたように小さな声で、私に打ち明けてくれました。カフェオレに砂糖を入れ、スプーンでかき混ぜていた私は、まるで心の中までかき混ぜてしまった様でした。
「村瀬さん、私に打ち明けることで、どうしたいんですか? 私は少し時間が経ったことで、やっと気持ちが落ち着いて来ていたんです。それをどうして今になって・・・」
私たちの終着点のない想いをいつまでも引きずるような村瀬さんの言葉に、つい私も苛立ちを感じていました。聞いてしまったものは、もう村瀬さんを責めてもどうにもならないと分かってはいたのですが・・・
「私も、姉の死後、自分の気持ちを押し殺さなくちゃって、そう思っていたの、さっちゃんと再会するまで。だから、姉が死んでから、両親には悪かったけど、家を出たの。高橋君の来るあの家に居たくなくて。」
私も、村瀬さんもそれぞれに高橋さんへの想いを消そうとしていたのだと分かりました。そして、それが難しいことだと、お互いの存在で気付かされたのです。
「でも、やっぱりさっちゃんと高橋君の2人の姿を見たら、どうしようもなくなって・・・」
村瀬さんは、しばらく視線を逸らして、黙ってしまいました。
「さっちゃん、私、高橋君に告白するつもりでいるの。もちろん、子供のことも含めて。それをさっちゃんにも知っておいてもらおうと思ってね」
村瀬さんは、私を正面からじっと見つめて言いました。
「多分、高橋君は私の気持ちを知ってると思うけど」
「村瀬さんは、覚悟を決めたんですね」
私も、自分自身の気持ちに決着をつけて、前に進まなくてはいけないのかも知れないと感じました。でも、私にはその覚悟はまだ出来ていませんでした。村瀬さんと別れ、家へ戻る道、これから私はどうしたらいいか、悩んでいました。村瀬さんの言ったことが気になってはいても、私には高橋さんの全てを受け止める自信はありませんでした。私から見れば村瀬さんも高橋さんも大人です。子供、それも他人の子供のことを受け入れるには、私自身がまだ子供過ぎると自分でも分かっています。高橋さんはそんな私を気遣って、あの時気持ちを整理するように私に言ったのでしょう。
今は、何もしないことが一番だと、そう言い聞かせました。ありのままの高橋さんや村瀬さんのようには私はまだなれません。どうしたらいいのかも自信がないのです。子供の私に分かっていたのは、今の自分には何もできない、ということだけでした。
そして、アルバイトをしていた当時から、感じていたのですが、2人はお似合いだと思います。多分、2人ならうまくいくでしょう。それが最もいい結末なんだと思えました。そう信じることが、私なりの覚悟の決め方だったのかも知れないと思いながら・・・
数日経って、村瀬さんから連絡がありました。
「今度の曜日、時間空けてくれないかな」
きっと、結婚の報告になるのでしょう。これで、私の気持ちも落ち着くはずです。そう言い聞かせながら、私は涙が止まりませんでした。
村瀬さんと約束した日が来ました。連絡をして来てまで、私に話したいと言うことですから、覚悟をきめて2人を祝福しなくてはいけないと、自分に言い聞かせ、またそうできるだけの時間を自分に与えました。泣き腫らしたと悟られないために、金曜日には泣くのをやめ、明るい色の服をわざと選んでいました。
「ごめんね。何度も呼び出したりして、忙しいのに」
村瀬さんは笑顔で私にいました。
「大丈夫ですよ」
それでも、私には、なかなか次の言葉が言えませんでした。
「高橋くんがもうじきここに来るから・・・黙ってて悪いとは思ってるけど、呼んだの、彼も」
「・・・そうですか」
やっぱり。それが正直な感想でした。そして、やっと私はこの恋を卒業する日が来たのだと思いました。
「あれ? さっちゃん。おい、村瀬、さっちゃん呼んだなんて言っていなかっただろう?」
「もういいでしょう? 高橋君。きちんとみんなで話そうよ」
高橋さんは、私を見て驚いていました。私には、どうして高橋さんが驚くのか分かりませんでした。
「さっちゃん、私ね、高橋君にプロポーズしたの」
宣言した通りに高橋さんに言ったのだと、村瀬さんらしいと思いました。
「・・・でも、やっぱり駄目だって。高橋君はさっちゃんが好きなんだって」
「言わない約束じゃなかったか? 俺はもうさっちゃんには会わないって、さっちゃんと約束したんだから」
高橋さんは、慌てて村瀬さんの言葉を止めようとしていました。うろたえているように見える高橋さんを見たのは、この時が初めてだったかもしれません。
「高橋君、正直になればいいよ。さっちゃんもあれ以来、ずっと苦しんでいたんじゃない? 忘れようと、昔の私みたいに」
同じ想いを持つ村瀬さんには見透かされていました。自分の高橋さんへの想いは、ぐるぐる廻り続けていて、消すことができなかったのです。
「はい。正直、今日2人の結婚の報告だと思って、お祝いを言って、それで気持ちを整理するつもりでいました」
「さっちゃん・・・」
高橋さんが、つらそうな声で私を呼びました。
「俺も、子供のことがあるから、抑えなくちゃと思っていても、さっちゃんのことが忘れられなかった。村瀬は俺と子供を含めて、一緒にやって行ってくれるって言ってくれたけど、それがいいのは分かっているけど、どうしても受け入れることができなかった・・・」
「高橋君はこれからどうしたいの? さっちゃんと生きていきたいって、思っているの?」
村瀬さんは、高橋さんに問い詰めました。
「・・・さっちゃんが受け入れてくれるなら、そうしたいと思う。でも、俺には強くそれを言う資格がないから」
村瀬さんは、私と高橋さんとの間を取り持つ為に、今日のこの場を作ってくれていました。でも、村瀬さんの高橋さんへの気持ちは嘘ではないと、そんなに簡単なものではないと、今の私にははっきり分かっていました。
「村瀬さんは、それでいいんですか?」
私は、恐る恐る尋ねてみました。村瀬さんは、穏やかな笑みを浮かべていました。
「・・・両想いじゃ、仕方ないもの、諦めるより。子供の事は家で、私が両親と育てるから、安心して」
高橋さんは、村瀬さんの方を見て、真剣な目つきで言いました。
「それはできないよ。今までお父さんたちに看ていただいていた事だって、申し訳なかったんだから。きちんとお礼を言って、これからは俺が育てるよ」
「・・・うちの両親から、これ以上愛する者を取り上げないで」
村瀬さんは、さっきまでと変わって、うっすらと涙を浮かべていました。高橋さんも、その村瀬さんを見て、それ以上の事は言いませんでした。
「あの子が今、うちでは姉の代わりなんだから…」
「ごめんなさい、村瀬さん。私のせいで」
私にはそれ以上何を言ったらいいのか、言葉が見つかりませんでした。
「そうじゃないよ、さっちゃん。さっちゃんがいなくても、高橋君は私を選ばなかったから。今までそうだったように」
村瀬さんは私達をおいて、先に店を出て行きました。今始まったばかりですが、長い夢の中にいるようです。いろいろな人の想いにあふれているだけに、この恋を大事にしていきたいと、私は思いました。きっと、高橋さんもそう思っていたに違いありません。