03
「―― 一樹くん、大丈夫?」
ふと、彼女のことを思い出した。
忘れようがない、地獄まっしぐらの少年時代。
大魔王の暴虐に屈するしかなかったあの頃の、唯一の救い。
大間芳乃さん。
俺にとって天使だった年上の少女。そして大魔王の三つ年上の姉だ。
大魔王の理不尽な暴力に涙していたあの頃、ふらりと姿を見せては、怪我の治療をし、涙を拭いて、「ごめんね」と、妹のかわりに謝ってくれた。
当時、長髪を後ろで乱雑にまとめていたヤツとは違い、丁寧に梳かれた黒髪が奇麗で、大魔王の血縁とは思えないほどにやさしげな面差しは、俺の癒しだった。
俺の天使であり、慈母神であり、そして初恋の相手だった。
その彼女に、極めて類似した姿で。
「―― 一樹くん、大丈夫? ぼーっとしちゃって」
大魔王はそう言って俺を覗き込んで来た。
この悪魔、顔だけでなく、芳乃さんとの思い出の台詞まで乗っ取るとは何のいやがらせか。
思い出の領海侵犯も甚だしい。強い遺憾の意を示したいところだが、あいにく大魔王の万年属国な俺、小堺一樹はそれすら許される立場にない。甚だ遺憾である。
「なんでもありませんよ、桜さん」
心中で抗議しながら、俺はつくり笑顔でそう返した。
あれから、ほどなくして彼女の俺に対する呼称は「一樹くん」となった。
それに伴い、俺も彼女に対して「桜さん」などと下の名で呼ぶことを強制されている。
おかげで俺は「転校してきた美女とさっそく仲良くなった羨ましい男」などというレッテルを貼られてしまった。
みんな騙されるな。
こいつは大魔王だ。凶暴で凶悪極まりない暴君だ。
邪悪の化身なるものが存在するなら、それはこいつ、大間桜に他ならない。
などと言えれば、どれだけ気楽だろう。
しかし彼女にとって、その過去は黒歴史。
わずかでも口にしようものなら、俺の命は怒れる大魔王の前に儚く霧散するだろう。
恐怖と戦いながら、大魔王に対して親しい女友達であるかのように接する苦悶の日々は、今日も続く。
誰か一人でもこいつの正体に気がつけば。
そう思わないでもないが、あいにくと大魔王の擬態は完璧だ。
知らない人間が見れば、どこからどう見ても美しい女子校生だ。
擬態が完璧であればある程、彼女が大魔王だった過去を消したいという思いの強さが感じられて、俺の胃にダメージとして跳ね返ってくる。
この悪循環、どうにかしてほしい。
「あ、そういえば一樹くん」
「なんです、桜さん」
「その、わたし、お弁当……作ってきたんだけど……食べてくれないか、な?」
恥ずかしそうに言ってくる、一見美少女。
クラスの男連中の、妬みの視線が降りかかる。
彼女が大魔王でなければ、飛びあがらんばかりに喜んだであろう、一大イベント。
――消化できるものだったら、なんでもいいや。
物理的に食べられないものを強制的に食わされた、小学生の時のトラウマがフラッシュバックする中、摩耗した俺はそんな感想しか抱けなかった。
◆
昼、校庭の端。
芝生の上に腰をかけ、俺と大魔王は二人並んでお弁当。
「――どうぞお腹にお入りください」
そう言われてもまったく違和感を覚えない。
だがまあ、そんなはずはなく、至極まっとうな、むしろ見るからに上出来の弁当が出てきた。
「どうぞ」とすすめられて食べたのだが。
味が分かるけど味がしない。
そんな食事をしたのは、初めての経験だった。
口にすれば、これはこんな味だな、と判断がつくのだが、味自体は一切感じられない。
料理の出来を褒め称えるのに不足はないのだが、一体俺の体にどんな不具合が起きているのだろうか。
「それなりに食べられると思うけど、どうかな?」
「うん。これは、とてもおいしいですよ。このだし巻き卵なんか、俺の好みです」
見たところすべて手作りで、冷凍物の類は見られないが、漬物、煮物の類は、親の手という可能性もある。
だし巻き卵なら間違いなく彼女の手料理だろうし、味や出来じゃなく、好みで褒めて逃げ道も作っている。
「本当? 嬉しいな」
彼女の表情が晴れるのを見て、俺は胸を撫で下ろした
「桜さんも、見てないで一緒に食べましょう。一緒に食事を楽しむ。これ以上の調味料はありません」
「そ、そうだね」
ほほを朱に染めながら、誤魔化すように彼女は自分の弁当を広げる。
ほほにあぶら汗が伝うのを感じながら、俺は笑顔で彼女が自分のだし巻き卵を箸でつまみ、笑顔でうなずくの様子を見守る。
「……でも」
うなずき合いながら一緒に弁当を食べていると、彼女が口を開いた。
「もっといい調味料、ある、かも」
「へえ。それは何です?」
「あ、愛情……とか」
消え入りそうな声で、ほほを真っ赤に染めながら、彼女は言う。
戦慄に目まいを覚えながら、俺の体は意思とは無関係に目を細めて笑顔を向ける。
「どおりで、桜さんの手料理は格別においしいと思いました」
「あ……そ、そうかな……ふふふ」
ふふふ笑いはやめてくれ。
昔を思い出して心臓に悪いから。
◆
「そういやさ」
ある日、友人の一人にふと聞かれた。
「――お前、あんな美人と、どうやってつき合えたんだ」
その時。
俺の中の時間が制止した。
「……つき合ってる?」
「つき合ってるだろ、なんで怪訝な顔してんだよ。彼女、お前にベタボレだろうが。下の名前で呼び合ってて、登下校も弁当も一緒で、しかも弁当は彼女の手作りだろ? これでつき合ってないってわけがわからない」
三回ほど首をひねる。
客観的に見た俺と大魔王の関係を思い。
事実に気づいて、俺は愕然と膝を落とした。
「おいおい、どうしたんだよ」
友人の声など、もはや耳に入らない。
どこで間違えたんだ。
どこで道を踏み外した。
どんな超越した法則が働いて大魔王とつき合うなんて状況に陥ってるんだ。
自分に問いかけてみるが、答えは出てこない。
強いて言うなら大魔王相手にハイとイエスしか返せない訓練されきった俺の習性が悪いのだろう。
しかし大魔王に殺されないため、俺の中の恐怖の象徴である彼女とつき合うなどというのは、まったくもって本末転倒だ。
というか、バレた時が余計に怖くなっていると思うのだがどうなのか。万一そうなった時、はたして俺は地上に痕跡を残せるのだろうか。
「ま、あんまり見せつけんなよ。孤独な俺には目の毒だぜ」
恰好をつけた友人が実は完全に的外れで、すなわち彼はまったくの道化だったのだが、ひどい衝撃を受けた俺はそれどころではなかった。
◆
朝、大魔王が迎えに来て、一緒に登校する。
教室の席は隣で、ほとんどの授業で大魔王とつかず離れず。
放課後は放課後で、用事が無ければ彼女と帰る。
友人と遊びに行く、と言えば、人間に擬態している現大魔王なら遠慮するかもしれない。
だが彼女に引っ付かれてからというもの、友人たちは気を利かせて遊びの誘いを控えてくれている。
まさに余計なお世話だが、下手すれば大魔王もついて来かねない。時間単位で大魔王と一緒にいるなんて事態はマジ勘弁なので、俺はほんの10分ほどの時間を大魔王と一緒に帰る方を選択している。
「あの、さ、一樹くん」
「なんです?」
まったく慣れない大魔王ボイスに脳を揺らされながら、つくり笑顔を向ける。
「今度の日曜って、ヒマ、だったりするかな」
なにが目的だ。
俺の予定を聞いてどうする気だ。
まさか一緒に出かけようなどと言って俺の唯一の癒し時間である日曜日まで侵略する気じゃないだろうなお断りだ。
「もしよかったら、だけど、その、一緒にどこかへ出かけたりしない、かな」
「喜んで。桜さんが誘ってくれるのなら、俺はいつでも暇ですとも。そうですね、映画は、今よさそうなものはやってませんし、動物園などいかがですか?」
俺の馬鹿野郎。
一時の恐怖を避けるためだけに、なんてことを……
◆
日曜日になった。
大魔王と動物園に行く日だ。
なんの罰ゲームだ。帰りたい。
「楽しみだねっ」
ゲートをくぐり、各所に動物たちが見える。
完璧なる女子高生の擬態を行っている大魔王大間桜は、満面の笑みで笑いかけてきた。
実に見惚れるような可愛さなのだが、俺の場合そのリアクションとして動悸めまいが湧き起こる。
「じゃ、いこっか」
そう言って、大魔王は俺の手を取った。
――いやぁあああああっ!
俺は心の中で悲鳴を上げた。
ただの女子高生の腕ではない。
体重60キロの俺の体を軽々と宙に浮かせる悪魔の腕だ。
それがためらいもなく振るわれるであろうことは、過去のあらゆる経験から学習済み。
言ってみればそこの左、檻越しにこっち見ながらウロウロしてる虎の口に手を突っ込んでいるようなものだ。
「可愛いね」
猛獣に対してその形容はどうかと思うのだが、しかし大魔王から見れば猛獣だって“可愛い”で済ませられる程度の存在なのかもしれない。
この動物園で一番の危険動物が野放しにされているとはどんな怠慢だ責任者出てこい。
「へへ、若いってのはいいねー。ほほえましいねー」
昼間から缶ビール煽ってるおっさん。
心臓止まるようなこと言うな。とっとと子供と嫁さん探してどこか行けよ死にたいのか。
「……いこっか、一樹くん」
うん。
最近、ごく稀にだけど、この女がすでに大魔王の本性を失くしてしまっているんじゃないかと気迷うことがあったんだけど。
大魔王、間違いなく健在だわ。だって、ちょっと不機嫌になっただけで、虎がしっぽを巻いて檻の奥に引っ込んじゃうんだから。
◆
「カズキってさー。マジで大間さん大事にしてるんだねー」
あるとき、女友達にそんな話を振られた。
「……なんで」
「だって大間さんと話す時だけめちゃ紳士じゃん。うらやましいなー」
いやいや。
全力で自分偽ってますから。
隷属モードなだけですから。
常に日本刀の上を綱渡りしてる気分ですから。
「だったら貴女にも、お姫様に対するように接しましょうか?」
「あはは、まじそんなの! まじそんなの! マジはまっててカッコいいよ!」
本当にカッコよかったら指差して笑ったりしないと思うが。
まあ、軽口叩けるのは気楽でいい。大魔王相手だと一瞬の隙が命取りだし。
「でさあ――」
その後もしばらく談笑していたのだが、ふと気づいた。
大魔王様がみてる。ドアの間から。
心臓止まるかと思った。居るなら声をかけてくれマジで。
そんな青ざめたような不安なような眼で見られると、俺の動悸が激しくなるじゃないか。
◆
「あの、さ」
その日の下校の時、ふと彼女は口を開いた。
「一樹くん、戸前さんと仲いいの?」
戸前とは、さきほど談笑していた女友達の名だ。
大魔王の前の席の主でもあり、転校して一月も経っていない彼女とは、最も親しい女生徒だと言っていいだろう。
「そうですね。中学でも一緒でしたし、そこそこには」
「そうなの……ひょっとして、好きだったりする?」
「まさか。俺は彼女と二人きりでどこかへ出かけたことも、二人きりの家に入れたこともありませんよ」
「そう」
どこかほっとした様子だ。
可愛いヤキモチだろう、と俺は思った。
大魔王なら執着とか嫉妬とかいった言葉のほうがふさわしい気がするが、外面だけ見ればそんなものだ。
しかし、彼女はもう一段、表情に深刻の度合いを増して、俺に目を向けてきた。
「じゃあ、一樹くん、他に好きな人とか居たことある?」
冷や汗が止まらない。
レーザーのごとき視線は、まっすぐに俺を射抜いている。
「気になりますか?」
「うん。すごく」
その表情は至極真剣で、だから俺も下手に「居ない」とは言えないと思った。
といっても、灰色の学生生活を送っていた俺にとって、恋と呼べるものを探せば、初恋のころにまで遡らねばならない。
「そうですね……昔、本当に昔に、同級生のお姉さんに憧れてた時はあります。その程度ですかね」
「そう……やっぱり、そうなんだ」
彼女はそれ以上、なにも言わなかった。
光の消えた目で、彼女はどこか遠くを見つめている。
言い知れぬ迫力を感じた俺は、彼女をなだめるように、握っていた手をそっと撫でた。
その程度のことは、出来ると。その程度には、今の彼女に慣れたと。愚かにも俺は、そう思っていた。
次の日、彼女は学校を休んだ。