02
夕飯の下ごしらえをしていると、チャイムが鳴った。
はいはいと玄関まで行って、扉を開ける。心臓が止まった。
扉の向こうに居たのは、人間界では大間桜と名乗っている大魔王だった。
「小堺くん、これ、引っ越しそば代わり。ご近所さんにはもう配っちゃったんだけど、小堺くんとこ、留守だったから、あらためて」
そう言って大魔王が差し出してきたのはタオルセットだった。
そのタオルで雁字搦めにされる幻想を垣間見ながら、俺は如才なく礼を言う。
が、大魔王は帰ろうとしない。家の奥の方と俺を交互に見ながら、何か言いたげな様子。
わかってる。
家に上げて欲しいんだろう。
転校したてで友達も知り合いも居ないし不安なんだね。
だから帰り道で(一方的に)打ち解けた相手と、仲良くなりたいって気を起こしても変じゃないよね。
――ってそんなわけあるかーっ!
大魔王の思考形態じゃないだろそれ。
目的は何だ言ってみろ聞いてからきっぱり断ってやるから。
「よかったら、ちょっと上がっていきませんか?」
あれ、俺の口さん?
勝手になに言っちゃってんの?
大魔王には本能レベルで逆らえないの?
◆
大魔王を客間に通すと、俺は業務スーパーで買いだめしていたオレンジジュースをコップに入れて、お菓子を添えて持って行った。
客間に入ると、彼女はおとなしくソファに座っていた。
震える手を意思の力でぴたりと止めて、カタリとも言わさずジュースとお菓子を差し出す。
「あ、ありがとう」
すこし緊張した様子の彼女は、笑顔を崩して礼を言ってきた。
真っ当な、むしろかわいいと言っていい表情だったが、俺は目まいを覚えた。
客間は父の書斎と兼用だ。
部屋の二面に巨大な本棚が張り付いていて、端には古い木製の椅子と机が置かれている。
真ん中に少し高めのテーブル。それを挟むようにソファが配置されており、俺と大魔王は向かい合わせに座った。
それからすこし、学校についてのことを話した。
下校中の会話の続きだ。部活動や学外活動、勉強の進み具合など、新生活に早く適応するための、情報を彼女は積極的に求めてきた。
かわりにこちらは彼女の姉が隣県で一人暮らしをしているという情報を得て、俺の過去が家族伝いに大魔王にばれる心配がないと知って一片の心の平穏を得ることができた。
面と向かって見て、あらためて思うが、彼女はかわいい。
それが恋愛感情とか胸のときめきでなく、不安や恐怖に直結している辺り、なにやら呪いめいたものを感じる。
特に、ぱっちりとよく開いた眼は幼き日俺がレーザーと呼び恐れていた恐ろしい視線を連想させ、直視をはばかられたが、隙を見せては殺られるという強迫観念を盾に、必死で視線を外さずにいた。
「そう言えば」
彼女はふと、言った。
「小堺くん、付き合ってる人とか、居るの?」
なんだろう。
こいつは何が言いたいのか。
灰色の天国生活を送る俺の恋愛事情など、お前の知ったことではあるまい。
「いませんよ。居たら親が留守なのに、大間さんを家に上げたりはしません」
俺がそう言うと、なぜか大魔王のほほに朱が差した。
あれ?
あれあれ?
俺何か変なこと言った?
◆
「あの……それって」
顔赤らめんな。断じて違う。貴様は勘違いしている。
そのようなリアクションが引き起こされるような言動を俺がした覚えは一切ない。
「ちょっと性急じゃないかな、とか」
そしてまんざらでもない表情すんな。
しかし引き所を与えられたのは幸いだ。「失礼しました」とでも言って話題をすっと引けば、なにも問題ない。
「失礼しましたってほああああああっ!?」
しかし俺の口から発せられたのは、とんでもない奇声だった。
「きゃ、なに? なに!?」
「いえいえ何でもありません。落ち着いて。落ち着いてください」
どうどう、と両手を上げる。
極力落ちついた声を作って大魔王をなだめながら、必死の思いで心を平静に保つ。
奇声を上げた理由。
それはこの客間、大魔王の真後ろにある本棚の一角に、とんでもない代物を発見したためだった。
それは。
小学校の卒業アルバム。
背表紙には校名もバッチリ入っている。
目に入れば一瞬にして、俺が大魔王の本性を知っているとバレてしまうであろうブツだ。
よく待ってる間に見つけられなかったよ。
なんてモノをなんて位置に置いてるんだマイダディ。
「いや、ほんとにどうしたの? ……ひょっとして何か虫が――」
「なんでもないっ!」
振り返ろうとする大魔王の両肩を持って、全力で叫ぶ。
「なんでもありませんからっ! よそ見なんかしないでっ! 俺の方だけ見てくださいっ!」
「っええええっ!?」
泥沼に潜っていく予感をひしひしと感じながら、俺は彼女が振り返らないよう、全力で両肩を掴み続ける。
「え、あ、う、あ」
恐怖に耐えながら、文字通り必死で視線を注ぐ俺に、大魔王は視線レーザーを多方面に放射させながら、うろたえを隠さない。
と。
「ご、ごめんなさいっ!」
視界がズレた。
そう思った瞬間には、俺の体を衝撃が貫いた。
次の瞬間、俺は背後にあった本棚にぶち当たっていた。
彼女に両手で胸を押された結果だ。なんという怪力。ぞっとする。大魔王健在だ。
「だ、大丈夫?」
「平気ですよ」
あわてて手を差し伸べてきた彼女を制して、俺はすっと立ち上がった。
常人ならノックアウトされているであろう一撃だったが、幼少より大魔王に鍛えられた俺にとっては、大したダメージではない。
「こちらこそ、不躾にすみませんでした」
「いや、その、わたしはいいの。でもちょっと気が早いというか……」
意味不明なことを口走っている大魔王に対し、静かに会釈して、つくり笑いを浮かべる。
「わ、わたし、もう帰るねっ! 今日はありがとうっ!」
「こちらこそ。楽しかったですよ。また機会があれば、今度は俺の部屋に招待しますよ」
俺の部屋ならば、幼き日のトラウマである大魔王に繋がるものは何一つない。
出来ればそんな機会は二度と作りたくはないが、現在味わっている薄氷を踏む思いはなおさら御免だ。
そう考えながら、また視線をさまよわせ始めた大魔王に完璧な礼をして、俺はつくり笑顔で彼女を見送った。
その日の夕食は、命の味がした。
◆
そして次の日の朝。
早朝に父を見送って、登校の準備をしていると、チャイムが鳴った。
嫌な予感がする。
耳慣れた、無機質な音さえ剣呑な響きを帯びて聞こえる。
「おはようっ」
扉を開けると、大魔王がいた。
すがすがしい笑顔だ。朝からいやな汗が止まらない。
「おはよう。いい朝ですね」
しかし体は意思から切り離され、最高にさわやかな笑顔をつくって一礼してしまう。
そのしぐさに、彼女は少し照れた様子で笑顔を返してきた。寒気がした。
「その、学校、一緒に行かないかな、と思って……誘いに来たの」
「ありがとうございます。是非ご一緒させてください」
ああ、なぜ俺は心にもないことを口にしてしまうのか。
足は、気を抜けば小鹿のように震えだしそうだというのに。
支度をすると、俺は心の中で嘆きながら、大魔王と一緒に玄関を出る。
「あ、それから……ね」
ふと、彼女は立ち止まって、モジモジしはじめた。
「その……わたし、いやじゃ……ないからね」
それだけ言うと、彼女は、照れ隠しだろう。真っ赤な顔を伏せながら、小走りに先を急ぎだした。
その歩調に、自然と速度を合わせながら、俺の心は絶望に支配されていた。
いったいどこで間違ったんだ。
どんな理不尽が起こって大魔王とのフラグが立ってしまったのだ。
衝撃に思考を半分消し飛ばされながら、俺は大魔王とともに、ふらふらと学校への道を歩み始めた。