01
大魔王、という言葉を聞いて、みな何を思い浮かべるだろうか。
俺こと小堺一樹は、その単語から何かを連想する前に、胃の痙攣が止まらなくなる。
俺にとって大魔王とは、幼少時のトラウマとして、今なお精神を深く抉り刻んでいる存在なのだ。
昔、県南一帯に悪名を轟かせていた悪魔のような女が居た。
俺と同い年だというのに大人並にデカく、規格はずれな腕力で呼吸をするように暴力を振るう暴君のような女だった。
家が近所だったのが災いして、大魔王に下僕のように扱われ続け、地獄のような少年時代を過ごしていたのだが、幸いなことに父の転勤で北の県境へ引っ越すことになり、中学一年の年、俺は見事地獄から脱出を果たすことができた。
それからは天国のような日々だった。
それなりに友人もできた。平凡で平穏な毎日を過ごした。
花も女っ気もないモノトーンな青春だが、あの地獄に比べれば、なんだって天国だ。
暴力がない。理不尽がない。なにより大魔王が居ない。そんな俺の学生生活も四年が過ぎた、高校二年生の春。
「転校生の大間桜さんです。みんな仲良くするように」
灰色の天国に、再び暗雲が立ち込めるのを、俺はひしひしと感じていた。
◆
転校してきた少女の姿を見たとき、不覚にも胸が高鳴った。
文句なしの美少女だ。
整った顔立ち。長いまつげにぱっちりと開かれた瞳。
長い黒髪をまっすぐに切り揃えた、いわゆる姫カットは、古風だが難癖の付けようのないくらい彼女に似合っていた。
だが、高鳴る胸の鼓動は、彼女が黒板に氏名を書き進めるに従って、次第に不規則に鳴っていき、終いには息も切れ始めた。
――大間桜。
大間桜。音読みでダイマオウ。
俺の幼少時の地獄の象徴であった大魔王のあだ名の由来である。
そんなはずはない。
あの悪鬼羅刹のような大魔王が、わずか四年でこんな可憐な美少女になっているはずがない。
だがよく見てみれば、あの長いまつげは俺が悪魔のしっぽと形容していたそれと酷似しているし、似ても似つかないと思える顔立ちも、当時天使のようだと感じていた彼女の姉と比べれば、その類似性を否定できない。
そして何より。
「大間桜です。よろしくお願いします」
芯のはっきりと通った、耳に残る女声低音。
彼女の声は、俺の脳と胃を直接揺さぶるほどに、あの(・・)大魔王そのものだった。
◆
不幸は畳みかけてくる。
大間桜の席は、教師の一方的な指名により、教室最後尾窓から二番目つまりこの俺の隣に決められた。
「よろしくね」
「……こちらこそ」
大魔王の片鱗すらない、邪気のない笑顔を向けてくる美少女に、俺は脂汗を流しながらかろうじて平静を装い、返した。
オーケー。理解した。
現実逃避などしようがない。
いま隣にいる美少女は、完全無欠の暴君、大魔王に間違いない。
彼女はまぎれもなく大魔王で、しかし四年経った大魔王はどうやらただの女子高生にジョブチェンジしてしまったらしい。
だったら。
俺は、動悸に胸を押さえながら心の中でつぶやく。
大魔王だった頃の彼女は、間違いなくこの女にとって消したい過去。
俺が彼女の黒歴史を知っているという事実が万一、漏れれば。
――待っているのは、間違いなく……死!
「わたし戸前。よろしくねー」
「こちらこそ、よろしくね」
大魔王は前の席の女子に如才なく挨拶している。
そんな彼女の姿を目におさめながら、冗談でも比喩でもなく、俺は確信した。
◆
「ごめんなさい。教科書、まだ無いの。見せてくれないかな?」
神よ。俺に何か恨みがあるのですか。
気の利いたウエイターのように。彼女の気をわずかでも損ねぬよう、音を立てずに机をくっつけ、教科書の配置に気を配りながら、俺は天を呪った。
近い。
大魔王との距離は、肩を並べているといっていい距離だ。
彼女の髪からはいい香りがふわりと香るのだが、ごく自然な反応として嘔吐がこみ上げてくる。
クラスの友人たちからは、「いいなー」とか「羨ましいぜ」とか「ちくしょう上手くやりやがって」といった視線が飛んでくるのが理不尽感をいや増す。
代われるものなら代わってくれ。
むしろ金を出すから代わってくださいお願いします。
などと逃避気味に思考をさまよわせている間に、授業は終わった。
もちろん内容など頭に欠片も入っていない。
中間テストの成績が気にかかるが、もっと気にかかるのは俺自身の命だ。
「ありがとう」
と言う大魔王のほほ笑みは本当にかわいくて、しかし湧きあがる感情は恐怖だけだった。
◆
休み時間になると、大魔王の周りは多くの生徒でにぎわい、俺はこれ幸いと避難することでひとまず心の平穏を得た。
馬鹿な友人が「マジいいよなあの娘」とか言いだしたが、勘弁してくれ。休み時間くらいは彼女と関わらずに過ごしたい。
少なくとも今日一日は大魔王と机をくっつけなくちゃならない俺の気持ちを、友人ならば言葉にせずとも、ほんのわずかでもいい、察して欲しいと切に思う。
「食べ物とか、なに好き?」
「クレープかなあ」
「じゃあ趣味とか」
「料理とか……あと……」
しかし、先程から耳に入る大魔王の受け答えが真っ当すぎて吐き気がする。
なにがクレープだ。女子校生ぶってるんじゃねえ。貴様はもっと血生臭い生き物のはずだろうが。
それからそこの同級生。
「カズキのやつキョドってる。大間さんに気があるんじゃない?」とか言うんじゃありません。
そして大魔王もまんざらでもない顔すんな貴様そんなキャラじゃねーだろうがやめてくださいしんでしまいます。
◆
誰ひとり理解者の居ない、まったく理不尽な地獄の時間の末、ようやくにして放課後になった。
忘れたい。早く帰ってベッドにもぐりこんで何もかも忘れてグースカ眠りこけたい。
そんなことを考えながら家路へつく。
俺の家は学校から徒歩10分となかなかに近い。
そのせいで友人たちのたまり場にされることも多く、何かとめんどくさいこともあるのだが、いまはこの近さがありがたい。
とりあえず家に帰って飯の準備だけして、あとは親父が帰ってくるまで布団にもぐっていよう、と算段を立てながら歩いていると。
おぞましい。
凶的な何かが。
俺の背を貫いた。
とっさにステップし、身を半回転させて振り返る。
そこにいたのは。
「あ、あの」
身を縮ませながら、戸惑い気味にこちらを見ている、大魔王だった。
さっきのはこいつの視線か。とんでもねえ。
戦慄しながら、俺は彼女に対し、とっさに笑顔をつくる。
「はい。何でしょうか」
「わたしも家、こっちなんです。一緒に帰りませんか?」
とんでもない発言にも体は淀みなく反応。
俺はいささかの疎漏も見せず、つくり笑顔で大魔王に了承の意を伝える。
俺、接客業に向いてるのかもな、と自画自賛したくなる完璧な演技だった。
だが、擬態しているのは相手も同じだ。
あの大魔王がたった四年でこんなに大人しくなっているはずがない。
おそらく仮面の下に、大魔王じみた凶暴な悪の本性を隠しているに違いない。
恐ろしい。
万一俺が大魔王の本性を知っていると知られれば、抑圧された本性はためらいなく表に出てくるだろう。
――すなわち、俺は死ぬのだ。
「名前、あらためて教えてくれますか?」
大魔王の発言に心臓が跳ね上がる。
大丈夫だ。俺は自分を落ちつかせる。
彼女にとって、俺は数ある下僕の一人にすぎなかった。
フルネームなぞ覚えてるはずがないし、当時の友人連中にも彼女にも、呼ばれていたのは「コサック」なる本名とはほとんど関係ないあだ名だけだ。
ちなみに俺はこのあだ名のため、学校へコサックダンスでの登校を強いられたことがある。
「小堺、一樹です」
針山でできた踏み絵を踏む心地で、笑顔をつくり、名乗る。
「小堺、一樹」
彼女はどこかほっとしたように俺の名を反芻し。
「いい名前ですね」
そう、笑顔で返した。
一切裏のない、きれいな笑み。
しかし俺の心臓は締め付けられ、呼吸不全に陥りかけた。
◆
あとすこしだ。
この言葉を何度心の中で唱え続けていただろう。
一見日常会話、しかし内実は就職の面接に等しいプレッシャーの中で言葉をひねりだす作業は、確実に俺を蝕んでいた。
限界。
それが訪れる、まさに直前。救いが見えた。
家だ。素晴らしきマイハウス。
庭付き一戸建て。男やもめの父と二人で住むには広すぎて掃除が面倒くさい我が家だが、今の俺の目には、黄金色の安らぎの光で満ちているように映った。
もうすぐだ。
あそこまで行けば、大魔王から開放される。
そう、あとすこし。もうすこしだけ歩けば「俺の家、ここだから。じゃあバイバイ」と言って大魔王から離れることができるのだ。
「俺――」
「あ、わたしの家、ここなの。実は今朝、小堺くんが家を出るとこ、見てたんだ。えへ、お隣さんだね。これからよろしく」
そう言って。
大魔王は俺の家の隣家に「ただいま」と言って入っていった。
。
。
。
家。
俺の家。
素晴らしきマイハウス。
……黄金色の安らぎの光が……消え、て……