ダメ王子が影武者にすべて押し付けた結果、王太子の座ごと奪われた
ノーマンは、宰相の声を聞き流しながら欠伸を噛み殺した。
王太子執務室の窓から差し込む昼の光はやけに明るく、机に積まれた書類の白さばかりが目につく。税の滞り、流通の停滞、都市外縁部の治安悪化。どれもこれも、紙の上で眺めるには退屈な話だった。
「殿下、こちらは先月から繰り越しとなっております案件でして」
「前にも聞いた」
「ですので、本日こそご決裁を」
「適当にやっておけ」
宰相の口がわずかに閉じる。
責めるでもなく、諫めるでもなく、ただ飲み込まれる沈黙。
それが気に障った。
ノーマンは椅子の背に体を預けた。
「何だ、その顔は」
「恐れながら、そのようなつもりは」
「そう見えるな」
「失礼いたしました」
またそれだ。
丁寧で、従順で、だがどこか距離を置くような目。こちらを見ているのに、正面から敬ってはいない。王太子に物を申すのではなく、王太子という器を値踏みしているような目だ。
くだらない。
どうせ王になるのは自分だ。
この国に次の王太子候補などいない。
多少政務を後回しにしようが、多少叱られようが、
最後に玉座へ座るのは変わらないというのに。
周囲はまるで、自分が何かを取りこぼすとでも思っているかのように、
飽きもせず同じことを繰り返す。
「……少し外へ出る」
「殿下」
「息が詰まる」
言い捨てて立ち上がる。
宰相は一瞬だけ何か言いかけ、しかし止めた。最近は、何度諫めてもノーマンが聞かないと学んだのだろう。護衛へ視線で合図だけを送る。
それでいい。結局、誰にも止められない。
ノーマンは満足し、外套を羽織ると王城を後にした。
誰も止めないのは、認めたからではない。どうせまた戻ってくる、どうせまた何も変わらないと知っているからだ。その諦めまで含めて、ノーマンには都合がよかった。
足は自然と花街の方へ向いていた。
政務の最中に抜け出して行く先としては褒められたものではないが、表通りまでならまだ「市井の視察」で言い訳が立つ。王太子が民の空気を知ることは大切だ、とでも言えば、周囲は勝手に納得する。
実際には、華やかな通りを歩く女たちや、昼から開く酒場の気配が面白いだけだった。書類よりはよほどましだ。
「殿下、この先は」
「構わん」
護衛が制止しかけるのを、片手で払う。
表通りから一本裏へ入れば、石畳は急に荒れ、建物の塗りも剥げてくる。花街の灯りを支える裏側だ。路地は狭く、湿っていて、匂いは鼻につくものに変わる。
だが、そういう場所ほど、思わぬものが転がっている。
ノーマンはそれを知っていた。知っていて、だから好んで入り込む。危うい場所に自分から近づいても、最後に困るのは護衛たちの方で、自分ではないのだから。
角を曲がった瞬間、人影がぶつかった。
――っ
肩が揺れ、相手も一歩よろめく。
「無礼者!」
後ろから護衛が声を荒げる。
だが、その男は逃げなかった。
むしろ、ぶつかったまま静かに顔を上げた。
ノーマンは言葉を失った。
そこにいたのは、自分だった。
鏡かと思うほど、よく似ていた。輪郭も、鼻筋も、瞳の形も、髪の色までも。違うのは身につけているものの粗末さと、立っている時の無駄のなさだけだった。
その無駄のなさが、かえって異様だった。
ただの路地裏の男なら、もっと怯えるか、媚びるか、逃げるはずだ。だが目の前の男は違った。護衛に囲まれても、王太子の前にいても、ひどく静かだった。
ノーマンはその静けさを不快に思うより先に、面白さを覚えた。
「……使えるな」
思わず口に出る。
護衛の一人が顔を上げたが、ノーマンは構わなかった。
「お前、名は」
「ありません」
「家族は」
「存じません」
好都合だった。
後ろ盾がなく、名もなく、顔だけは自分そのもの。拾い上げるにはこれ以上ない。
ノーマンは笑った。
「今日から俺の側にいろ」
「……理由を伺っても」
「似ているからだ」
はっきり言ってやると、男は一瞬だけ沈黙した。それから深く頭を垂れる。
「承知しました」
その返答に迷いがなかったことに、ノーマンは気づかなかった。
その日、彼は便利な道具を拾ったつもりだった。
男には覆面をつけさせ、常に側に置いた。
ぶつかった日に顔を見た護衛たちは、その場で口止めをした。後日、全員を地方へ回し、十分な金も与えた。
これで余計なことを言う者はいなくなる。
そう考えると、ひどく気分がよかった。ひとつ、自分だけの秘密を手に入れたような気がしたのだ。
男は口数が少なく、余計なことも言わない。影のように従う従者として連れて歩けば、周囲はすぐに慣れた。王太子が顔を隠した護衛を一人そばに置くことなど、さして奇妙でもない。
最初の入れ替わりは、軽い冗談のようなものだった。
「今日はお前が前に立て」
男は問い返しもしなかった。
覆面を外す。現れた顔はノーマンと寸分違わぬものだ。
ノーマンはその覆面を受け取り、自分の顔に巻いた。目元まで覆えば、ただの付き従う影になる。
あらかじめ用意させていた王太子用の上着を羽織らせ、髪も整えさせる。そこまでしてしまえば、遠目にはもちろん、近くで見ても見分けはつかなかった。
「言っておくが、余計なことはするなよ」
「ご命令のままに」
そうして政務の席に出た結果、驚くほど何の問題も起こらなかった。
むしろ。
「殿下、本日のご判断、誠に見事にございました」
会議の後、文官が深く頭を下げた。
ノーマンは覆面の下で眉をひそめる。何の話かわからない。
だが同時に、妙な納得があった。
――自分がやれば、本来こうなるはずなのだ。
そう思えば、違和感は消える。
自室へ戻ったあと、ノーマンは笑った。
「なるほどな。便利じゃないか」
面倒な説明を聞かなくていい。考えなくていい。なのに評価だけは上がる。
それから、回数は増えた。
宰相との会議。各部署からの報告。騎士団への視察。市場の確認。婚約者アデルとの茶会。
ことあるごとに、前へ出るのは男の方になった。
最初のうちは後ろで控えて見ていた。だが、それで何も起こらないとわかると、次は隣室で待つようになり、そのうち最初から姿を見せなくなった。
面倒な場はあの男に任せておけばいい。
礼を言われる場だけ、自分が出ればいい。
ノーマンは、そう考えるようになっていた。
「殿下、この前は本当にありがとうございました」
南門近くの見回りの帰り、町役人が深々と頭を下げた。
「……何の話だ」
「夜歩きの取り締まりの件でございます。あの一角、近頃は柄の悪い連中が増えておりましたでしょう。殿下が隊の巡回を増やしてくださってから、女や子どもでも通れるようになりまして」
知らない。
そんな命令を出した覚えはない。
だが、知っていようといまいと、礼を言われることに変わりはない。
「当然だ」
短く言うと、町役人は感激したように目を潤ませた。
「さすが殿下だと皆で申しておりました」
悪くない。
しかも、相手の感謝は本物だった。取り繕った社交辞令ではない。困りごとが解決した者の、素直な安堵だ。
それを自分へ向けて差し出されるたび、ノーマンは妙に満たされた。
護衛たちがそのやり取りを聞いていることにも、ノーマンは満足した。自分が何をしたかは覚えていなくとも、自分が感謝されているという事実さえあれば十分だった。
騎士団では、さらに露骨だった。
「殿下、本日はご指導ありがとうございました」
「振り込みの癖を一目で見抜かれるとは……」
「隊の者たちも皆、感服しております」
知らない。剣の指導などした覚えはない。
だが、表に立つ“自分”がやったことは、当然自分のものだ。
ノーマンは頷き、何でもない顔をした。
「まあ、お前たちが鈍いだけだ」
少々横柄なくらいの方が、王太子らしい。
さらに、最近では顔を合わせる相手ごとに細かな礼まで述べられるようになった。
橋の通行を再開させてくれた。
商会同士の揉め事を収めてくれた。
港の荷揚げ順を改めてくれた。
どれも、ノーマンには覚えがない。
だが、そのたびに彼は思う。
やはり自分は、やろうと思えばできるのだと。
今まで周囲がうるさく言いすぎていただけで、本来、自分はこうして礼を受ける側に立つ人間なのだと。
そして、最近のアデルも、明らかに態度が違っていた。
幼い頃のアデルは、もっと素直で可愛げがあった。編み物を習い始めたばかり頃、色糸を編んで細い紐を作り、小さな飾りを作ったことがある。房の先は少し不揃いで、結びも甘い。けれど、本人は得意げだった。
「殿下の分です」
「こんなもの、何に使う」
「腰に結ぶものです。護符の代わりに」
「護符?」
「お揃いです」
差し出されたそれを指先でつまむ。
「……下手だな」
「そんなことありません!」
むっとした顔に、ノーマンは鼻で笑った。
「まあいい。ほどけたら捨てるぞ」
「ほどけません!」
アデルは唇を尖らせた。
その顔が可笑しくて、ノーマンは結局、その場で腰紐に結びつけた。
だが、成長したアデルは変わった。会えば必ず何か苦言を呈してきた。政務に顔を出してください、騎士団への礼を忘れないでください、良民の声に耳を傾けてください。婚約者でありながら、説教好きの家庭教師のようで、正直うんざりしていた。
それがある日、アデルは茶会のあと、帰り際の廊下でノーマンを呼び止めた。
「殿下」
呼びかける声が柔らかい。
ノーマンは思わず足を止めた。
「……何だ」
アデルは一歩近づいた。
さらに、もう一歩。
気づけば、これまでよりずっと近い場所にいる。
「この前は、ありがとうございました」
静かに言って、アデルはノーマンの手を取った。
自然な動作だった。
まるで、それが当然であるかのように。
「父の上申を退けず、あの子たちのいる孤児院を含む保護院への食糧配給制度の改定を通してくださったと伺いました。あの子たち、もう食べるものに困らないと――」
ああ、とノーマンは思う。
たぶん、それもあの男がやったことだ。
だが、それで何だというのか。
礼を受けるのは自分だ。
「当然のことだ」
そう答えると、アデルは微かに笑った。
「ええ。ですが、殿下はそうしてくださる方だと……改めて思いました」
その視線はまっすぐで、疑いがない。
信じている者の目だった。
胸の奥が、わずかにざわつく。
だがすぐに、その感覚を押し込める。
――自分だ。
あれは、自分が受けているものだ。
そう思えば、それで済む話だった。
その時だけは、少しだけ引っかかった。
今までのアデルなら、礼より先に苦言を口にしたはずだ。
なのに今は、まるで最初からこういう男だったと信じているように自分を見ている。
その変化がどこから始まったのか、考えかけて、やめた。
考えなくても、気分がいいことに変わりはなかったからだ。
それに、彼女が誰に向けて心を動かしていようと、最後に隣へ立つのは自分だ。どこの馬の骨とも知れぬ影が何をしていようと、婚約者は婚約者だ。その立場は変わらない。そう決まっている。
だからこそ、ノーマンは安心していた。
自分の代わりに誰が何をしても、最後にすべてを受け取るのは自分だと。
やがて、前に立つのは完全に男になった。
ノーマンは、必要な場でだけ最後に顔を出せばよいと考えるようになり、気づけば王太子としての役目のほとんどを他人に任せていた。
だが不思議と焦りはなかった。
あの男は所詮、素性も知れぬ拾い物に過ぎない。
名も家も持たぬ影だ。
最後に玉座へ座るのは自分だ。
名前も、血も、立場も、すべて自分のものなのだから。
そう思っていた。
その日、王城では定例の政務報告会が開かれていた。
宰相も、騎士団長も、婚約者であるアデルも列席する、ノーマンにとってはひどく面倒な場だった。
本来なら昼寝でもしていたいところだが、自分の評判がどう語られるかだけは気になった。
ノーマンは、いつものように覆面を顔に巻いた。
今日は暑い。覆面の中も蒸れる。
いつもより、布がわずかに湿っている。
汗がにじんだのか、少しだけしみるような不快さがあった。
そのまま歩を進めた。
大広間は静かだった。
男が前へ出る。
ノーマンは、その後ろに立つ。
それが、いつも通り。
男は王へ一礼し、静かに声を出した。
「陛下」
「申し上げたいことがございます」
ざわめき。
ノーマンは眉をひそめる。
「何だ」
「先頃より、私が側近くに置いていた者が、素性を偽り近づいていた不審者であるとの報告が上がっております。信を置いていた分、看過できません」
その言葉に、胸の奥がひやりとした。
自分のことではないはずなのに、妙に耳に残った。
「本日、その正体を明らかにいたします」
男がゆっくりと振り返る。
その視線が、まっすぐこちらを捉えた。
「この者を捕らえよ」
指されたのは、自分だった。
「……は?」
理解が遅れる。
騎士が動く。
囲まれる。
自分が。
「無礼だぞ。何をしている」
誰も止まらない。
誰も見ない。
視線が、合わない。
「名を名乗れ」
王の声。
「……ノーマンです」
喉が乾く。
「ノーマンです。あなたの息子です。この国の王太子です」
沈黙。
肯定されない。
否定すらされない。
ただ、場の空気が自分を異物として扱い始める。
「……その名を騙る気か」
男の声はひどく静かだった。
――顔を、
顔を見せれば、分かるはずだ。
ノーマンは覆面に手をかけた。
その瞬間、顔の熱に気づく。
――そういえば、先ほどから。
内側から、じわじわと。
痒い。異様なほどに。
布が皮膚に張りついていた。
引くと、わずかに引き攣れる。
嫌な感触だった。
それでも、ノーマンは半ば引き剥がすように覆面を外した。
息を呑む気配。
ざわめきが広がる。
「顔が……!」
「なんだ、あの男は……」
「ひどい……」
何を言われているのか、一瞬わからなかった。
ざわめきの中で、ふと磨き上げられた大理石の床が目に入る。
ぼやけて映った顔は、もはや見慣れた自分のものではなかった。
違う。
腫れ上がり、赤くただれ、原形を留めていない。
「なんだ……これ」
「顔が……!」
はっと、アデルと目が合った。
彼女の顔には、あからさまな怯えが浮かんでいた。
「アデル!」
「俺だ! ノーマンだ!」
彼女が小さく息を呑む。
アデルは怯えた顔で、さっと視線を逸らした。
行き場を失った視線が、その隣の宰相と合う。
「宰相……! 俺だ!」
この顔では分からない。
何か、俺だと分かることを――
「お前は知っているはずだ! 俺は最近、公務をサボって花街に入り浸って――」
言いかけて、詰まる。
違う。
そんな、誰でも知っていることじゃない。
――もっとだ。
もっと、こいつしか知らないことがある。
はっと息を呑む。
「――そうだ、あれだ……!」
声が荒れる。
「隣国への贈答品を勝手に漁っていた時だって――贈答酒に手をつけるたび、帳簿を書き換えて、倉庫への出入りの記録ごと消したのはお前だろう……! あんなこと、俺とお前しか知らないはずだ……! だったら、俺がノーマンだと分かるはずだろう……!」
息が詰まる。
だが止まらない。
「……父上に夜間外出を禁じられていたのに、何度も勝手に城を抜け出していたことも……お前なら知っているはずだろう……! そのたびに門の記録を差し替えて、俺が部屋にいたことにしたのも、お前だ……! なあ、分かるだろう……! 俺はノーマンだ……!」
自分で言ってから、その情けなさに息が詰まる。
だが証明しなければならない。
こんな卑小な記憶でしか、自分を証明できない。
「お言葉ですが」
遮られる。
淡々とした声。
「殿下は幼少より節度を重んじられ、そのような軽挙をなさった記録はございません」
記録。
その言葉に、思考が止まる。
違う。
それは違う。
――なら。
ノーマンは弾かれたように視線を横へ向けた。
「騎士団長……!」
次の拠り所に縋る。
「公務を抜けて裏通りでごろつきと揉めた時も――あの場をなかったことにしたのは、お前だろう……! 巡回記録を書き換えて、あそこにいた奴らにも口止めして……俺を城へ戻しただろう……! なあ、分かるだろう……! あいつじゃない、俺が本物だ……!」
息が荒くなる。
「何度もあっただろう……! 俺が問題を起こすたびに……お前が全部、なかったことにしてきた……!」
騎士団長は、一瞬だけ目を伏せた。
それから、何事もなかったかのように顔を上げる。
「殿下は常に誰よりも早く訓練場に立ち、最後まで剣を振るってこられたお方です」
「昔から」
「今に至るまで」
静かに、確定される。
違う。
それも違う。
――分かっているはずだ。
宰相も。
騎士団長も。
ノーマンは、幼い頃から自分を知るアデルに、縋るように視線を向けた。
「アデル!」
その名を呼ぶ声だけが、わずかに崩れる。
何を言えばいい。
どう言えば、信じる。
視線が揺れる。
だが、次の瞬間、はっとしたように腰元へ手をやる。
――そうだ。
あれがある。
幼い頃、アデルに押しつけられたまま、捨てるに捨てられず残っていたあの飾り紐。
あれを見せれば分かるはずだ。
震える指で腰元を探り、引きちぎるようにして外したのは、古びた飾り紐だった。
「これだ……! 覚えているだろう!」
拙く編まれた細い紐。歪な結び目。少しほどけかけた端。
こんなものを作ったのは、あの頃のお前しかいない。
ノーマンはそれを突きつけるように掲げる。
「お前が俺に寄越したものだ……! 覚えているはずだろう!」
アデルの視線がそれに落ちる。
ほんの一瞬。
本当に、一瞬だけ。
理解した顔になる。
よかった、とノーマンは思う。
まだ終わっていない。
だが。
「……存じ上げません」
切られた。
迷いなく。
「そのようなものを差し上げた記憶など、私には一切ございません」
その声には温度がなかった。
完全に、他人へ向ける声音だった。
「アデル、待て……!」
ノーマンは、すがるような目で王を見た。
「……父上……」
絞り出すような声だった。
王は一顧だにしなかった。
「不審者が軽々しく王家を騙るな」
その一言で、誰も自分を認める気がないのだと思い知らされた。
誰も、自分に味方する気配を見せない。
記録も、評価も、記憶も。
ひとつずつ。
ひとつずつ。
自分の過去が塗り替えられていく。
いや。
――違う。
塗り替えられているのではない。
選ばれているのだ。
あの男の方が。
示し合わせた様子はない。
だが。
宰相も。
騎士団も。
アデルも。
そして――王までもが。
同じ方を見ている。
ただ、それだけで。
自分がいらないことだけが、はっきりする。
そこで、ようやく気づく。
自分の声が、誰にも届いていないことに。
ただの、不審者の喚きとして処理されていることに。
「その者を引き立てよ」
王の声が落ちる。
静かだった。
その一言で、すべてが終わった。
騎士たちの手が伸びる。
腕を取られる。
振り払おうとしても、力が入らない。
何か言わなければと思うのに、言葉が出ない。
何を言っても、もう意味がないと分かってしまったからだ。
視線が、前へ向く。
王の前に立つ男――
自分と同じ顔をしたそれは、ただ静かにこちらを見ていた。
そこが、最初から自分の場所であったかのように。
何も言わない。
勝ち誇るでもなく、哀れむでもなく。
ただ、そこにいる。
それだけで。
すべてが決まっている。
ノーマンは、わずかに息を呑み――
そして、目を逸らした。
騎士に引かれ、足が前へ出る。
抵抗は、もうしなかった。
その日のうちに、彼は城の外へ連れ出された。
どこへ連れて行かれたのかを知る者はいない。
牢に入れられたという記録も残らなかった。
ただ一人の不審者が、静かに処理された。
それだけのことだった。
そして翌朝。
王都には、ひとつの噂だけが残った。
――王太子殿下が、不審者を自ら見抜かれた、と。
すべてが終わった後、王は執務室で地図を広げていた。
「……それにしても」
ふと手を止める。
「よく効いたな」
控える男――今や王太子として立つ者――が答えた。
「漆を精製した薬――すぐに効きが出るものだそうです」
「そうか」
王は興味なさそうに言う。
「顔が判別できぬほどになるとは、都合がよい」
沈黙が落ちた。
男が低く問う。
「……本当に、これでよろしかったのですか」
「ああ」
王は迷わない。
「あやつは、とうの昔に見限っている」
「だから、止めなかった」
男は何も言わない。
王はようやく顔を上げた。
「宰相も、騎士団長も、あの娘までも」
「迷わずお前を選んだ」
「それが答えだ」
「お前は知っているな」
「はい」
「双子は不吉だ」
「はい」
「だから一人は隠した」
男の目は揺れない。
双子が生まれ落ちた日、王妃はほどなく息を引き取った。王はその場で片方を表へ、片方を闇へ分けた。兄は王太子として育ち、弟は秘され、別の名と立場の下で育てられた。
剣も、学も、礼も、政も。
情を挟まず、王に必要なものを一つ残らず叩き込まれた。
判断は速く、感情に流されず、聞くべき声を聞き、切るべきものを切る。
王として不出来な箇所がないように。
すべては一つ。
王家の血を絶やさず、王冠を途切れさせぬための備えだ。
兄が使いものにならぬなら、お前が立て。
王家の血を継ぐ予備として。
そのためだけに。
「どちらも我が子だ」
「血は同じだ」
王の声は淡々としている。
「だから、どちらでもよかった」
静かな一言だった。
「使える方を残す。それだけだ」
男はゆっくりと頭を垂れる。
「兄上が立てぬのであれば」
「私が立つだけです」
そこに恨みも、悦びもなかった。
ただ、与えられた役割を受け入れた者の声だけがあった。
王は机上の地図へ手を伸ばし、国境の向こう側を指先でなぞった。
「さらに盤石にしろ」
それが命令だった。
男は膝を折り、静かに答える。
「御意に」
王は視線を地図に戻した。
最初から、分かっていた。
いつものように公務をさぼり、
いつものように城を抜け出し、
あの日、路地裏での仕組まれた出会いを、偶然と思い込むことも。
自分に似た男を見て、使えると考えることも。
あやつは、そういう男だった。
自分と同じ顔の男を見つけ、都合のいい影武者を拾ったつもりでいた王太子は、最後まで知らなかった。
あの日、路地裏で男とぶつかった瞬間には、もう何もかもが遅かったことを。
彼は影武者を作ったのではない。
自分が影になる場所を、自分で選んだだけだった。




