7 澄んだ瞳の奥
逃れる者は、誰よりも人を疑うといいます。
澄んだ瞳の奥にあるのは、冷たさではなく、傷つくことを恐れる心だったのかもしれません。
「継信の弓を貸してくれ」
義経は継信という兄弟武者の兄らしい方へ手を出した。
「はあ……」
継信は、言葉をにごしためらった。
「何をしている。早く……」
義経の催促に、継信は忠信と呼ばれている弟の方に目をやりながら、自分の弓を差し出した。継信と忠信の心配そうな目の前で、義経は的に向かった。
しかし、弓は引けなかった。
唇をかみしめ、白い頬を紅潮させ、満身の力を込めているのは分かるのに、矢は一向に放たれる様子はなかった。
「ふう」
ため息とともに義経は弓を下ろした。
「やはり、だめか……情けないな……」
そして、苦笑いを浮かべて、弓を兄弟に返そうとした。
「御大将、しかし……」
言いかけて、継信は口をつぐんでしまった。かける言葉が見つからなかったのだろう。
「継信、おまえがやれ」
差し出された弓を受け取り、継信が矢をつがえた。
たくましい腕に、たちまち弓はふりしぼられ、矢は的の真ん中を射ぬいた。
「つぎは忠信」
うながされて、忠信も自分の弓を引いた。その矢も、的のほぼ中央にささっていた。
「やはり、弓はお前たちに任せておいたほうがよさそうだな」
義経は、二人に向かって微笑んでいた。
自分ができなかった悔しさは、美野が見る限りでは、そこにはなかった。
「一命にかえましても」
継信が言うと、忠信もすかさず、
「御大将を御守りいたします」
と言った。
「いくら弓が引けないと言っても、自分の身を守ることくらいできる。戦のときに、その力を生かしてくれればよいのだ」
義経は、また晴れやかに笑った。その顔を見て、継信、忠信もほっとしたように、顔を見合わせた。
その時、継信が不意に中門の方にふり返った。
三人の様子を見ることに夢中だった美野は、自分の姿が中門から見えてしまっていることに気づいていなかった。
継信は、美野のほうにつかつかと近づいて来ると、大声で尋ねた。
「何者だ。そこでなにをしている」
思いの外大きかった声と、険しい表情に、美野はとっさに返事ができなかった。その様子を見て、継信が美野のほうに手を伸ばす。暴力の予感に美野が身をすくませたとき、
「よせ、継信」
義経の声がそれを止めた。
「美野殿……ですね」
とても静かな声だったにもかかわらず、その声には暖かみが微塵も感じられなかった。
美野が頷くと、
「ではこの方が……」
継信忠信兄弟は、ぶしつけな視線で美野を見下した。
「おひとりで庭を歩かれているのですか」
それを尋ねた義経の口元には笑みが浮かんでいたが、目は笑っていなかった。なにか疑われているのだろうか、と不審に思い、ああ、と思いつく。
確かに、館の中庭とはいえ、北の方が供の侍女も連れずに歩き回るのは不自然だろう。
なにかよからぬことを企んでいる、と思われても不思議ではない。
だが、実情は、違う。今の美野は、梅枝の指示なしに他の侍女に用を言いつけることもできない。中庭を歩くから供をと言えば、間違いなく梅枝自身がついてくるだろう。そして、梅枝と一緒に歩くなどまっぴらだ……などと、義経に言えるはずもない。
「部屋の中にいるのに、飽きてしまいました」
訊かれたことと違う答えだったが、義経は深く追求はしなかった。そして、今度は声を上げて笑った。
「こんなにいいお天気の日に、部屋にとじこもっている方が、どうかしていますよ」
美野は、義経の顔を見つめた。義経はその視線を受け止めた。澄んだ瞳だった。その澄んだ瞳は、心の内を隠そうとはしていなかった。
――私は、おまえを信用していない……と。
「少し、歩きませんか」
義経は言い、後ろにひかえていた継信、忠信兄弟をふり返る。二人は、一瞬戸惑いを見せたが、義経の表情を見ると、黙って去って行った。
夫婦が二人きりで歩くのは当然のことだ。だが、義経が美野を妻と思っていないことは今のわずかなやりとりでも明白だった。それなのに何故という美野の戸惑いをよそに、義経は、それが当然のようにどんどん歩いて行ってしまう。美野がついてくることを確信している動きだった。
池に架かった橋を渡り、義経が美野を連れて行ったのは釣殿だった。
なにか話すのかと待っていたが、義経は言葉を発せず、ただ、水面をながめている。
と思ったら、ふと空を見上げる。その瞳が、ひどく淋しそうなことに気づいた美野は、思わず声をかけていた。
「先ほどのおふたりは、ご兄弟ですか」
唐突の問いに、義経は一瞬目を見張ったが、すぐに微苦笑を浮かべた。
「佐藤三郎継信と、四郎忠信の兄弟です。平泉から、私についてきてくれているのです」
「平泉……。では、藤原秀衡さまの御郎等ですか」
「私が、奥州の平泉にいたことはご存じなのですね」
苦笑さえも消した無表情で、義経が言った。
美野は黙ってうなずいた。
義経の父である義朝が戦にやぶれ死んだのち、母の常盤御前は、三人の幼い子を連れて雪の中を逃げた。しかし、常盤の母が人質としてとらえられたため、常盤は三人の子を連れて、平清盛のもとへ出頭する。
その美しさにひかれた清盛は、三人の子の命とひきかえに、常盤を自分の愛人にする。年長の二人はすぐ寺にあずけられたが、末の牛若(義経)だけはまだ乳のみ子であったため、常盤の手もとで育てられた。
やがて清盛は常盤に飽き、常盤は藤原長成のもとに嫁ぐ。牛若はそのまま藤原家で成長するが、七才のとき、鞍馬山に入る。
成長し、鞍馬山を抜け出した義経――当時は遮那王と呼ばれていた――は、奥州平泉に向かう。平泉は、藤原氏が、中央とは別の国家といってもよいくらいの王国を作っていた。当主は三代目の藤原秀衡だった。
兄・頼朝の挙兵を聞いて駆けつけるまで、義経はそこで暮らしていた。
こういったことは、すべて、実父から聞いた。
「私が信頼できる郎等と言えるのは、あの兄弟と、あとほんの少ししかいないのです」
そう言う義経の瞳には、挑むような色が見えた。美野は、背筋に戦慄を感じた。
九郎さまは、わたくしを鎌倉殿の間者だと知っている……このとき、美野はそう確信した。
けれど……と、美野は思う。
ひどく難しいことだし、時間もかかるだろうけれど、いつか、自分を妻と認めてもらいたい。信頼してほしい。自分は義経の味方なのだと、気づいてもらいたい。
「宇治川の戦も、一ノ谷の戦も、すばらしい御采配だったと伺っています」
義経が怪訝な表情を浮かべる。
「父と兄に聞きました」
「ああ……。河越重頼殿、重房殿のご活躍も素晴らしいものでした」
予想通りの儀礼的な返事だったが、美野はもう少し歩み寄りたいと思った。そして、自分がどういう人間なのか、知ってほしいとも思った。そのためには……と、自分らしい質問をしてみることにした。
「軍略は、どちらで学ばれたのですか。鞍馬山はお寺ですから、兵法を学ぶ機会があったとは思えませんし。やはり、平泉で学ばれたのですか」
義経は、虚を突かれたように一瞬黙り、そして、不意に、にやっと笑った。
「鞍馬山です。私は、カラス天狗に剣術を習ったのです」
不意打ちの答えに、美野は言葉を返せなかった。天狗など見たことはない。話には聞くが、この世のものはと思えなかった。だが、義経の戦上手は天才的だ。天狗と言われても、信じてしまえるほどに……。そんな考えをめぐらしていると、義経は高らかに笑った。
「という、もっぱらの評判らしいですが」
「違うのですか」
「剣術を教えてくれたのは、源氏の残党です。私を見つけだし、義朝の子だということを教えてくれたのも、彼らでした。それまで私は、自分の父は藤原長成だと思っていたのです。もっとも、何か変だとは感じていましたが……」
義経はふと淋しそうな表情を見せた。
『この人は、淋しい少年時代を過ごしたのだ』
と美野は思った。
義父の藤原長成はあまりよい父親ではなかったのだろう。妻の連れ子でしかも敗者の子ならば、当然なのかもしれないが……。
「十六になったとき、鞍馬山を飛び出しました。出家させられそうになったので……」
義経の表情は、少しだけ変化していた。挑むような色が薄れている。
少しだけ明るい表情で、義経は自分の生い立ちを語ってくれた。
秀衡は義経を快く迎え、わが子のように育てた。秀衡には國衡・泰衡・忠衡といった子どもたちがいたが、義経は兄弟のように暮らしていたらしい。
幸せには恵まれなかった義経の少年時代で一番楽しく安定した頃だったのだろう。義経はそこで、武術の稽古に励み、兵書などを読み、戦にそなえていたのだ。
そんなとき、兄の挙兵を聞く。駆けつけたいと言う義経に、秀衡は最初、反対した。しかし、彼の決心が固いとわかると、あきらめて佐藤兄弟をつけてくれた。ふたりは、佐藤庄司元治の息子たちで、武術にも優れているし、平泉時代から義経とは友人としてつきあっていたらしい。
私が信頼できる郎等と言えるのは、佐藤兄弟とあとほんの少ししかいない、と義経は言った。
つまり、頼朝の御家人は信用出来ないという意味だ。
義経は、今、頼朝のことをどう思っているのだろう。
「喜瀬川で、ご対面なさったのですよね、兄上さまに」
実父が感じていた危うさは隠して、さりげなく問う。
「そうです。はじめてお目にかかったとき、兄上はとても喜んでくれました」
だが今は……という、義経の心の声が、美野には聞こえたような気がした。
美野には、義経の人となりが少しだけわかる気がした。きっと、肉親の愛情に飢えている。その飢えに、頼朝はつけ込もうとしているのかもしれない。
「あなたは、どんな風に育ったのですか」
美野の物思いを、義経の言葉が破った。
「わたくし……ですか」
義経はうなずいた。その顔には「次はあなたの番ですよ」と書いてある。
確かに、人の生い立ちを聞いておいて、自分は話さないというのは卑怯だ。
だが、「わたくしは、上総介広常の娘です」とは言えない。
「武士の家の娘として、普通に育ちました。父にも、母……にも、かわいがられましたし……兄とも仲よく過ごしていました」
嘘はつきたくなかった。だから、真実を言った。ただ、美野の言う父は、上総介広常であり、兄は能常だが、義経は、河越重頼と重房だと思う。これは、充分卑怯かもしれない。
だから、さらに本当のことを言った。
「父や兄に、政事や戦の話を聞くのが好きでした。美野は変わり者だと言われましたが、父も兄も、わたくしに、いろいろ話を聞かせてくれました」
「それは……確かに変わり者かもしれませんね」
義経は、くくっと笑った。
「思っていた人と違ったな」
義経はひとり言のようにつぶやいた。
「え?」
何を言われたのかわからず、美野は顔をあげた。すると、義経は苦笑した。
「義姉から、河越重頼殿の娘御を正妻に――との話があったとき、正直、私はうれしくなかったのです」
美野は黙ってうなずいたが、内心ほっとしていた。ようやく、本当の気持ちを示してくれた、と思ったからだ。
だが、そんな美野の表情をどう受け取ったのか、義経は言い足した。
「心のどこかで、自分の妻は自分で選びたい……と思っていたのでしょう。父が、私の母を選んだように」
「常盤御前さま……ですね」
「私の母は、九条院に仕える雑士女で、決して身分は高くない。けれど、母は父に望まれて……父に見染められて、妻になったのです」
美野の脳裏に、美しい女性が、小さな子を連れて雪の中をさまよっている図が浮かび上がった。もちろん、実際に見たわけではない。以前、実父から聞いた話が、絵のように記憶に残っていたのだ。
「雪の中を逃げられたのですね。常盤さまは……小さな子を三人も連れて……」
義経は驚いたようだった。
「よく、知っていますね。あなたの生まれる前のことなのに……」
「父から話を聞きました」
「父に――源義朝自身に望まれたことを、母は誇りに思っていました。もちろん私も、父と母の結びつきが、純粋なものであることが心の支えだった。だからこそ、自分の相手は自分で……と考えていたのです」
義経の言葉は、美野には意外だった。
義経のように、源氏の嫡流と言われる武士ならば、正妻は政治的な力関係で選ばれることが多い。そうして、立場を安定させておいて、好みの相手は側室にすればいいのだから。
義朝が常盤を愛していたことは事実だろう。そうでなければ、三人もの子どもをもうけられるはずがない。それでも常盤は側室なのだ。正室は頼朝の母、藤原季範の娘・由良御前だ。
だが、義経は、父が常盤を選んだような形で、自分の正妻を選ぼうとしている。単なる世間知らずではないだろう。有力者の娘を正妻にして自分の立場を確かなものにするという手段を知っていながら、自分の意思で放棄しようとしたのだろう。
母・常盤への義経なりの思いやりか、それとも、義経自身の望みか……。おそらく、両方なのだろう、と、美野は考えた。
「あなたはどうだったのですか」
問われた意味がわからず、目で問い返す。
「九郎義経の嫁げと言われて、嫌ではなかったのですか」
言葉通りの問いではないだろう。おそらく、義経はこう訊いている。
――鎌倉の間者をすることは嫌ではなかったのか、と。
嫁ぐことは嫌ではなかったが、間者をするつもりはない……そう答えられれば簡単なのだが……。
「どこにいても、どんな立場でも、わたくしらしく生きることはできると考えました」
これが、考え抜いた末に美野が口にした言葉だった。
その言葉を頭の中で反芻する沈黙のあと、義経は言った。
「あなたがどんな人か、もっと知りたくなりました」
その言葉に嘘はない……と、美野は感じていた。
義経は、人を試しているのではなく、試されることに怯えているだけなのかもしれません。
美野が見た澄んだ瞳は、信じたいと願う心と、信じられない現実のあいだで揺れていました。
この距離が、やがて縮まるのか、それとも――取り返しのつかないものになるのか。
次話から、少しずつ嵐の気配が濃くなっていきます。




