表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

6 白き若武者

美野は、初めて義経の姿を目にします。

それは、想像していた武士とは、少し違う姿でした。


「それは……」


 美野は、政子の鋭い視線を受け止め、見上げた。


「美野殿の父上は、頼朝さまの御家人。母上は、万寿丸の乳母……おわかりですね」


「……はい」


 つまり、父と母……いや、河越氏そのものが人質というわけだ。

 それならば、逆らえない……。いや、ここで逆らうのは得策ではない。


「わかりました」


 美野は、政子から視線を外し、深々と頭を下げた。


「分かっていただけて、よかったこと……」


 頭を上げると、政子はふっと笑顔を見せた。それを見て、美野は背筋に戦慄が走るのを感じた。政子の笑いに、美野に対するさげすみの心が表れていた。


 つまり――。


 美野は、九郎義経の正室として嫁ぐが、それは形だけのこと。実質は、政子の……いや、鎌倉殿の手先――間者といった方がふさわしいかもしれない――として、京に向かうのだ。

 そんなことはしたくないのに……。美野は、政子の視線を避けながら、唇をかんだ。


 その時、突然、美野の胸に、ある思い出がよみがえった。

 それは、数少ない実母との思い出で、ほかならぬ政子にまつわることだった。

 母の言葉を思い出す。


「北条政子さまは、親の決めた相手ではなく、自分が好きになった方の妻となられたのですよ」


 母は、それをまるでおとぎ話のように語ってくれた。

 政子は、流人だった頼朝と恋仲になってしまう。父、北条時政は、ふたりの関係を許さず、政子を平氏一族の山木兼隆に嫁がせようとする。輿入れの夜、政子は屋敷を抜け出し、雨の中、山をひとつ越えてまで頼朝のもとに走ったという。


 幼い美野は、その話を聞いてときめいた。自分にも、いつかそういう恋が訪れることを期待して、胸を高鳴らせたものだった。

 幼い美野に恋への憧れを植え付けておきながら、偽りの結婚を強いる。

 それが、北条政子という人間なのだ。そして、その女性を妻とし、実の弟に妻という名の間者を送りつけようとしているのが鎌倉殿……。


 守らなければ……美野は、心の中で叫んでいた。

 この人たちから、九郎義経を。わたくしの夫となる人を。


 総御前は、このまま、鎌倉から美野を嫁がせようとした。美野とともに鎌倉に戻る――総御前にとって、鎌倉はすでに『戻る』場所だった――時から、河越から嫁がせるつもりはなかったのだろう。

 だが、美野は頑としてそれを拒み、河越に戻った。


 そうして、いよいよ義経の妻となるために京に出発の前日、美野は重頼の部屋を訪れた。

 総御前と違い、重頼は、美野を実の娘のように思ってくれている。なにより、上総の父のように、美野が尋ねることは、どんなことでもくわしく教えてくれたことが嬉しかった。

 一言、礼を言いたかったし……言っておきたいこと、いや、言わねばならないこともあった。


「父上さま……」


「どうした。眠れないのか?」


 もう、夜もかなり更けていたので、重頼はそう言った。


「お話がしたいのです」


「そうだな。明日は、ゆっくり話すこともできないだろうからな」


 美野の顔に浮かぶ不安な思いを見て取ったのか、重頼が表情を曇らせた。


「心細いのか」


 美野は、首を横に振った。

 輿入れには、兄の重房がついていてくれる。美野にとって重房は、実の兄と同様の存在になっていた。


「九郎殿のお人柄なら、心配はないと思う。名将軍というだけではない。部下への心遣い一つ見ても、心の広いお方だと言うことが分かる。そして何より、純粋なお方だ。きっとお前のことも、大切にしてくださるだろう」


 うなずきながら、重頼と実父の九郎義経に対する評価の違いに気づいた。

 重頼は、九郎義経自身の姿を見て、「名将軍だ、純粋なお方だ」という。だが、実父はそうではなかった。九郎義経の純粋さを理解した上で、鎌倉殿との関係を「危うい」と案じていた。

 その危うさは、政子との会見で、確かなものになっている。


「父上さま、実は、鎌倉で政子さまに、このようなことを言われたのです」


 美野は、政子の言葉をそのまま、重頼に伝えた。聞いたとたん、重頼の目の奥に、怒りの炎が宿った。隠そうとはしていたが、美野には見えてしまった。


「総も、その場にいたのだろう。総は何と言っていた」


「特にはなにも……。うろたえているご様子でしたが」


「『わかりました』と言ったのだな」


「はい。あの場では、ほかにどうしようもありませんでした」


「忘れてしまえばいい」


 重頼にしてはめずらしい、強い口調だった。美野が少し驚くと、重頼はおだやかに言い直した。


「忘れるのが一番いい。お前は九郎殿の妻として、精一杯、つくせばいいのだ」


 もちろん、美野自身はそうするつもりだった。だが……。もう、美野ひとりの問題ではないはずだ。その表情を見て、重頼はかすかに笑った。


「このような言い方で、介八郎殿の娘御が納得するはずはないな」


「わたくしに間者をさせて、鎌倉殿はなにを知ろうとしているのでしょうか」


「以前にも話したと思うが、九郎殿は活躍しすぎた。宇治川も一ノ谷も、戦に勝ったのは、すべて義経殿の力と言っても過言ではない。その間、鎌倉殿は、決して鎌倉を離れようとはしなかった。つまり、後白河法皇さまや、京の公家たちにとって、鎌倉殿は、御しがたい存在。反して、九郎殿は……」


「御しやすい……と思われているのですね」


「そうだ。九郎殿が、法皇さまを味方につけ、頼朝殿に反旗を翻すこと。頼朝殿が恐れているのは、それであろう」


 なるほど……と、美野は思った。

 重頼も、実父の同じような危うさは感じていたのだ。ただ、それを美野に知らせるかどうか迷っていただけで……。


「九郎さまに、そのお心はあるのでしょうか」


「わからない。だが……。義経殿が実際にどう思っているかは、問題ではない。鎌倉殿が、そう思っているということなのだ」


「間者など……したくありません」


 美野の口から、本音が漏れた。

 重頼は、ふっと笑った。


「だから、忘れなさい……と言っている。九郎殿はりっぱなお方だ。何があろうと、お前はあの方の妻として生きていればよいのだ」


 つまり、まんがいち九郎義経が鎌倉に反旗を翻したとしたら、重頼は九郎義経側につく、ということなのだろうか。

 重頼と重房はそのつもりかもしれない。だが、総御前は……。


「わたくしがそのお役目をしなかったら、総御前さまにご迷惑がかかるのではありませんか」


「総は、おまえの母ではなかろう。義理立てするいわれもない」


 確かに、総御前に対してはなんの恩義も感じてはいない。だが、総御前は、重頼の正室であり、重房の母なのだ。

 言葉にしなくても、美野の思いは重頼に通じていた。重頼は、目を閉じて静かに言った。


「今の総に見えているのは、万寿丸さまと政子さまだけだ。儂や重房のことなど、もう総の目には入っていない」


 つまり、河越氏は、その時が来れば、九郎義経につくということだ。それは、美野が嫁ぐから……というより、重頼自身が九郎義経に心酔しているからかもしれない。


「先日、重房も言っていたのだが。今では、美野が実の娘、妹のように思えるのだ。総や郷より、よほど身近に感じられる。美野が九郎殿の妻として幸せでいてくれれば、儂も重房も、心おきなく戦える」


 だから、安心して嫁ぐがいい……と重頼は言った。

 その言葉は、美野にとって、何よりも心強い後ろ盾に感じられた。


 輿入れの朝が来た。

 美野は、政子から贈られたものではなく、梅枝が準備したものでもなく、重頼が用意してくれた衣装に身をつつんだ。

 翡翠を思わせる、萌葱と緑青、それに朱を合わせたかさねの色目は、不安に揺れる美野の心を、優しく包んでくれた。

 挨拶のために訪れた重頼の部屋には、初老の武士が同席していた。何度か館の内では顔を合わせたことのある武士だった。白髪まじりで、背が高く、やせぎすではあったが、姿勢のよい、まさに「古武士」という印象の者だった。


「美野、夕べはよく眠れたか」


 重頼が心配そうに声をかけた。やはり、気が高ぶっていたせいか、眠れてはいない。


「わたくしは、大丈夫です」


 と、答えると、重頼は苦笑した。


「美野、この者は増尾(ますお)という」


「増尾十郎兼房(かねふさ)にございます」


 「古武士」は頭を下げた。その声は思いのほか柔和で、優しげだった。


「増尾にも、京へ行ってもらうことにした。なにか困ったことがおきたら、重房か増尾に相談するとよい」


「はい……」


 それは、この増尾という武士はなにもかも承知ということなのだろうか。

 美野の当惑を感じとり、重頼が言った。


「増尾にはすべて、話してあるから」


 その言葉に驚いた美野が思わず見つめると、増尾は黙って微笑んだ。その表情に、実父と共通したものを感じ、美野の心に安堵感が広がっていった。


 美野が九郎義経のもとに嫁いだのは、元暦元年九月のことだった。

 義経は、京の堀川に館をかまえていた。


 美野が堀川館に入ったとき、胸に抱いていたものは、決意だけではなかった。十七歳の美野には、恋に憧れる気持ちも人並みにあった。

 実父や重頼が「危うい」と評してはいても、九郎義経はやはり源氏の御曹司だ。一ノ谷の戦等の武功によって、名将軍としての評判は高まっていた。幼いころ鞍馬山で過ごした義経は、京慣れしていて、容姿も美しい……という噂も聞いていた。


 義経に対する「守ってさしあげたい」という強い決意は、美野の中で堅い核となっていたが、輿入れの旅の間、それは、甘くふわふわとした乙女の恋心に包まれていた。自分を「変わり者」と自負している美野に、その自覚はほとんどなかったが……。


 堀川での初めての夜、美野は白い着物を身に着け、寝所に通された。塗籠(ぬりごめ)の内、わずかな灯りが、そこに二組の床が用意されていることを示していた。

 美野は、義経を待った。

 だが、義経はなかなか姿を現さない。

 旅の疲れに、美野はうとうととし始めた時だった。


「お方さま……」


 背後から、低い男の声がした。驚いて振り返ろうとすると、


「どうぞ、そのままで」


 と、押しとどめられる。こんなところに誰が……と、不安から身動きが取れない。まるで金縛りに遭ったような美野をなだめるように、その低い声は囁いた。


「御大将は、今宵、こちらにはうかがえないご様子。どうぞ、先にお休みくださいと、言付かってまいりました」


 言葉の意味を深く理解するより先に、まるで操られたように、こくこくと頷いていた。

 次の瞬間、声の主の気配は消えていた。

 美野は、金縛りが解けた心持ちになり、ようやく、告げられた言葉の意味を理解した。

 今宵、義経はここには来ない。なにか事情があるのか、あるいは、美野を妻として認めたくないのか……どちらかはわからない。だが、それを考えるには美野は疲れすぎていた。


「先に休めと言われたのだもの」


 半ば自棄のように、美野は床の片方に横になり、そのまますぐに、深い眠りについてしまった。


 目が覚めたとき、美野はあわててとなりの床を見た。やはり、そこには義経の姿はなく、寝た様子も見られなかった。

 明かり取りから、朝の光が差し込んでいた。

 美野は起き上がって、そっと戸を開けた。

 そのとたんに、明かり取りのわずかな光とは比べものにならない圧倒的にまぶしい光が美野に降り注いだ。美野が一瞬目をつぶったとき、


「北の方さま、お目覚めですか?」


 という声がした。

 梅枝だった。梅枝は一晩中そこにいたかのように座っていた。


「あまりに遅いので、お起こししようかと思っていたところです」


 全く情のこもらない、冷たい言い方だった。口にこそ出さないが、義経が来なかったことを責めているようだった。あるいは、嘲笑していたのかもしれないが。

 昨夜、義経が来ないことを自分に伝えてくれたのは誰だったのか、梅枝に尋ねようかと思い……やはり、やめようと思い直す。おそらく、梅枝は彼が来たことに気づいていないし、そのことは知られないほうがよいと、美野の直感が告げていた。


 美野がそんな考えを巡らせているうちに、梅枝はさっさと事をはこんでいた。寝所の片付けを他の侍女に命じ、自分は美野の身支度を手伝った。美野は、新しい着物を着せられ、また別の部屋に通された。

 そこは、風通しもよく明るい部屋だった。だが、その部屋に取り残されたまま、あとは誰も来ない。梅枝さえ姿を現さなかった。

 この館では、美野の側にいるよりは、ひとりで歩き回る方が、よほど情報が集められるのだろう。

 退屈に耐えかね、美野は庭へ出てみた。


継信(つぐのぶ)、見ていろ」


 その声が聞こえたのは、北の対を抜け出し、裏庭を回って中門を過ぎたあたりだった。

 庭では、三人の若武者が、弓の稽古をしていた。

 美野は中門の陰に身を隠した。そこから、声の主を目で追う。

 三人のうちの、二人は顔も姿かたちもよく似ていた。一人が、もう一人を「兄上」と、呼んでいることから、おそらく兄弟だろうと思われた。残る一人を、兄弟は「御大将」と呼んでいる。


「それではあれが……」


 九郎さま……と、美野は心の中でつぶやいた。

 九郎義経は、美野が知っている関東武士とは、ずいぶん様子が違っていた。

 上総や河越の武士たちは、身体も大きく、いかつい肩をしていた。手は戦の修練や、あるいは、畑仕事のために節くれだっている。

 兄弟のほうは、関東武士と雰囲気が似ている。


 だが、九郎義経は、そうではなかった。

 小柄できしゃな身体つきをし、肌の色はぬけるように白い。細面の顔に凛とした眉、涼しげな目もと。動作も荒々しい所は微塵もない。

 鎌倉殿には会ったことはないが、源氏の御曹司は、皆、あのようになのだろうか。優美……といえるのだろうが、あまり武士らしくない。


 そんな美野の物思いを、明るい笑い声が破った。九郎義経が笑っていた。

 ――くったくのない笑顔だった。

 よりそう兄弟武者も、ともに笑っているのだが、比較にならない不思議な明るさがあった。


『澄んだ目をした若者であった。兄を慕う純粋な心を隠そうともしなかった。傷つかなければよいが……』


 美野の耳に、上総の父の言葉が蘇る。そして、父の感じていた危うさを美野は目の当たりにした気分だった。


美野はまだ知りません。

義経のそばには、もう一人の「義経」がいることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ