4 翡翠の水面
義経という存在は、まだ美野の前に現れてはいません。
でも、その存在は、すでに彼女の心を動かしているのでしょう。
重頼は美野に、今回のことを話してくれた。
一ノ谷の戦で戦功のあった者は、朝廷――つまり、後白河法皇――から、褒賞がもらえる。頼朝は、東国の武士については、頼朝の推挙にしたがって褒賞を与えてほしいと申し入れしてあった。
そして、関東の武士たちは、頼朝に断りなく任官してはいけないと、強く言い渡されていた。
一ノ谷の戦の後。六月五日に除目が行われた。
武士たちは頼朝の推挙にしたがって、位をもらい受けていた。範頼が三河守になるなど、武功のあった者の名前が数多く挙がった。
しかし、義経だけは推挙されなかった。偶然忘れることなどあり得ないから、そこには頼朝の意図があったのだろうが、それがなんなのか分からない。
重房の言っていた「片手落ち」は、戦に加わった武士たちの全員が感じたことだろう。
もちろん、一番不満に思ったのは、義経自身のはずだ。一ノ谷の勲功第一との自負が、義経にはあっただろうから。
凡将と噂された範頼が三河守となっているのに、義経が無官というのはどう考えても不公平だ。
「九郎さまのお働きは、目を見張るものがあったと伺っていますが」
「そのとおりだ。九郎殿は、大変な名将……武士の中の武士だ」
嬉しげにそう言ったのは重房で、彼が義経に心酔していることは明らかだった。
「よろしければ、戦の様子など教えてはいただけませんか。昨年暮れに父が亡くなってから、世の中のことを教えてくれる人があまりいなくて」
「いくらでも語ってやろう」
除目について美野に教えてくれたのは重頼だったが、戦について語ったのは重房だった。実に楽しげに、まるで物語でも語るように、重房は話し始めた。
一月末に、義経と範頼の率いる源氏軍は、京を出発した。
範頼軍は、生田ノ森方面を直進し、義経軍は、一ノ谷の背後にまわり、西から攻撃する体勢をととのえた。
「まずは、三草山の戦いだ」
重房は興奮して、頬を赤く染めて言う。
二月五日夜半、義経軍は、三草山の平氏軍を急襲した。不意をつかれた平氏軍はたちまち大混乱におちいり、屋島に逃げてしまった。
義経軍は敗走する平氏軍を追いながら、一ノ谷へ向かった。そして六日の夜には、一ノ谷の背後へ到着していた。
一ノ谷の戦いが始まったのは、七日の朝だった。範頼は生田ノ森から平氏を攻めた。しかし、平氏も、それなりの大軍。力は互角、勝敗は一進一退。
「その状況を一転して、源氏を勝利に導いたのが義経殿だ」
重房は続ける。
鵯越というのは、絶壁に近い段崖で、平氏も、よもやそこから敵が攻めてくるとは思ってもいなかった。そこを義経は、選りすぐった精鋭七十騎をひきつれて駆け下り、一ノ谷の本陣を攻めたのだった。
「あの時の義経殿の姿……声……今でも目にうかぶようだ」
重房は遠い目をして言った。
義経は、鵯越の断崖で、まず数頭の馬を落としてみた。ころんで落ちてしまう馬もいたが、上手に駆け降りる馬もいた。それを見て、義経はこう言ったのだ。
「足場を選び、乗り手が上手にあやつれば、この断崖とても、降りられぬ道理はない。勇気のあるものは、この義経に続け!」
澄んだ美しい声だった。しかも自信にあふれていた。そして、義経は、部下の返事も待たず、崖を下っていったのだった。
七十騎、誰一人遅れるものなく、崖を下っていった。「御大将に続け!」誰の胸にも、この言葉がこだましていたことだろう。
ふたたび不意をつかれた平氏軍は、大混乱となった。結局、正午頃までには、平氏の敗北は決定的になった。多くの武将が戦死し、生き残ったものたちは、海上へと逃げ去っていった。
重房の長い話は終わった。
重房が語り、時折重頼がそれを補足する。それは、まるでかつての父と兄の関係と同じようで……。
胸に熱いものがこみ上げ、それはそのまま涙となった。
涙に戸惑うふたりに、美野は涙の残った目でほほえみかける。
「昔に帰ったような気がいたしました。父や兄のいた、昔に……」
「……兄上も……」
亡くなっていたのだな……と、重房がつぶやく。
「兄もいろいろな話をしてくれました」
「これからは、俺を兄だと思ってくれていいぞ」
重房が、なぜか頬を染めてそう言った。
そんな重房を重頼が茶化す。
「上総介能常殿は、立派な武将でいらっしゃった。おまえでは、器量不足かもしれん」
「父上。俺だって、一ノ谷では、平経正を討取ったのです。平知盛が逃がした名馬をとらえて、院に献上もいたしました。院はその馬に、河越黒と名付けてくださったのです」
「すばらしいご活躍をなさったのですね。経正といえば、清盛入道の甥。知盛は、実質の平氏の総大将といえる人ではありませんか」
「実質のとは」
重頼にたずねられ、美野は、実父に教わったことを答える。
「清盛入道亡き後、平氏の総帥は三男宗盛ですが、ひどく凡庸だと聞いています。実質、平氏を動かしているのは、知将と呼ばれている四男知盛だと、父に聞きました」
「なるほど……」
重頼がうなずき、重房の口調が、ひどく興奮したものになる。
「母上や郷のわがままで、無理を強いることになったが、かえって、よかったかもしれない。九郎殿の力量はたいしたものだ。まだ二十五歳。しかも、ほぼ緒戦といえる戦いでも、憶することがなかった。大勢の荒くれ武者どもを前にしても、びくともしない。いつも堂々としている。決して大きい人ではないのに……むしろ小柄と言ってもいいくらいなのに、軍の前に立つと大きく見える。それに、あの凛とした声。郷では、九郎殿の妻としては、それこそ器量不足。美野殿こそ、九郎殿の妻にふさわしいひとだ」
重房は、美野のことも、義経のことも褒めちぎる。
義経はともかく、自分のことは買いかぶりではないか、と美野は思う。それでも、褒められれば、悪い気はしない。いや……嬉しかった。かつて、自分のことを認めてくれた、父や兄――。ふたりのことを思い出すとき、霞がかかった、遠い昔のことのように感じられてならなかった。
それが、かつての父や兄と同じように、自分を褒めてくれる重頼たちの言葉を聞くと、父や兄の思い出に、鮮やかな色が取り戻せたような、そんな心持ちになれた。
「九郎さまは、今、どのようにお過ごしなのでしょうか」
「九郎殿は、今は京の警備の責任者としての仕事をなさっている。範頼殿は鎌倉に帰っているが。義経殿の輩下のものは、みんな京に残っている」
「そなたは、京に嫁ぐことになろう」
「京……」
行ったことのない土地だ。少し不安はあるが、それ以上の期待があった。
京……名前を聞いただけで、華やかな気持ちになる。
京で、名将といわれる人の妻になる……。期待で胸が高鳴る。それは、父が亡くなってから、はじめて感じる、「嬉しい」という気持ちだった。
その時――。
「なにをなさっているのですか」
厳しい声だった。
几帳の向こうからかけられたのに、几帳を越えて、美野の心に突き刺さるような声だった。
顔を見なくても分かる。梅枝だ。
びくっとなった美野をかばうようにして、重房が几帳を揚げた。
「なんだ。騒々しい」
「……美野さまのお姿が見えなかったので」
梅枝は、重房の身体を避けるようにして美野の腕をつかんだ。
「お部屋にお戻りください」
とっさに、美野は重房と重頼に助けを求めた。
また、あの、鬱々とした生活には戻りたくない。
「まだ、話の途中だ」
重房が梅枝の腕を払った。
「いえ。お部屋に戻っていただかなくては困ります。御舎弟さまに嫁がれるまで、美野さまのお世話をするのが、わたくしの役目でございます。さあ」
美野を掴もうとする腕を、重房が再び払った。
「話が済んだら、俺が部屋に送り届ける。それでいいだろう」
「お話など、する必要はございません」
「なにを……」
大声を上げそうになった重房をさえぎったのは、重頼の落ち着いた声だった。
「娘が父や兄と話をするのに、なんの障りがあるというのだ」
梅枝が言葉を失う。
「美野は、この河越重頼の娘。重房の妹だ。違うのか」
「……いえ」
「話が済めば、重房が部屋まで送り届ける。おまえは、それまで、部屋で待っていればよい」
梅枝は、なにか言おうとした。だが、重頼と重房に見つめられ、くやしそうに唇をかんだ。そして、美野を一睨みすると、くやしそうな表情のまま立ち去った。
「無礼者が……」
重房が吐き捨てるように言った。
美野はほーっとため息をついたが、次に不安になった。
部屋に戻ったら、なにか手ひどい仕返しが待っているのではないか……と。
その心を読んだように、重頼が言った。
「あの者がおまえを粗略に扱うことのないよう言い聞かせておくが、まんがいち、同じようなことがあったら、必ず、この父に言うのだぞ」
「ありがとうございます」
礼を言いながら、美野は、不安な気持ちが、暖かい日に照らされた雪のように消えていくのを感じていた。
その日から、美野の河越での生活は一変し、心楽しいものになった。
梅枝が口うるさいのは相変わらずだったが、少なくとも、館の中では自由に歩けるようになった。
重頼か重房に声をかければ、館の外に出ることもできる。
なにより嬉しかったのは、ふたりに今起きている出来事について話が聞けることだった。
上総の父や兄が生きていたころと同じ……とは言えないが、近い暮らしができて、美野はようやく心から笑えるようになった。
梅枝を牽制する意味で、美野は重頼たちのことを「父上」「兄上」と呼んでいたが、ふたりはそれを快く許してくれた。いや、むしろ、それを喜んでいるような様子であったし、美野も、そう呼べることが嬉しかった。
河越での夏の日々は、そうやって過ぎていった。
そんなある日――。
美野は川原にいた。
川面に映えた強い陽射しはまぶしく、しばらく見ていると目が痛くなるほどだった。
何人かの子どもたちが、歓声をあげながら、水浴びをしていた。
美野は、このごろ、川へよく来ていた。
初めのうちは、大刀洗川を思い出してつらいばかりだったのだが、透き通った水を見ていると、そのつらさも洗い流されていった。むしろ、水を見ていると、心が静まる。
水は、美野の姿を映していた。
大刀洗川に映したときよりは、ずいぶん顔色がよくなったと自分でも思う。
濁りのない美野の瞳は、たいそう美しく輝いている……そう兄は言ってくれた。それなら、この瞳を濁らすようなことだけはすまい、と美野は心に誓う。
袿の色は紅梅。帯は蘇芳。どちらも梅枝が選んだもので、美野の好みではないが、文句を言える立場ではない。
着ているものが何色かなどと、父を亡くしてからは考えることもなかった。それが不満であっても、考えが及ぶようになったのは、多少なりとも気持ちにゆとりが出てきた証かもしれない。そんなことも含めて、とりとめもなく思考をめぐらす。
川風の涼しさもあって、美野は、川原で長い時間、水を見つめて過ごすことが多くなった。
小さな鳥が、水面をかすめて一直線に飛んだ。
「きれいな鳥……」
瑠璃のような鮮やかな羽色に見とれていたら、
「あれは、翡翠という」
と、教えてくれる声がした。
ふりかえると、重房の姿があった。
「兄上さま」
「美しい鳥だろう。この川ではよく見られるが……。ほら、あそこにも」
重房が指したところには、木の枝に止まり、静かに水面を見下ろす翡翠の姿があった。
「おなかは、橙色なのですね。ほんとうにきれい」
と、チィーチィーという耳慣れた音が聞こえた。
「あれは……翡翠の鳴き声だったのですね」
「ああ、館でも、時々聞こえるな」
ふっと笑いがこみ上げてくる。館で聞いたときは、耳障りでしかなかった鳴き声が、美しい姿を目にした今では、愛らしい声だと思える。
音も風景も、それを美しいと思うか、厭わしいと思うかは、自分の心持ち次第なのだと、美野は気づいた。
「美野は、川が好きなのか。ずいぶん長い時間、川原で過ごしているようだが」
重房は美野の横に座った。「これからは、俺を兄だと思ってくれていいぞ」との言葉どおり、重房は、美野を妹としてあつかい、いろいろと気遣ってくれている。
「水が好きなのかもしれません」
「水がか。何故」
「水は、なにもかもを流してくれる気がするのです。鎌倉の……父と住んでいた館の近くに川が流れておりました。梶原景時は、父を殺めた刀をその川で洗ったそうです」
重房が眉をひそめた。梶原の卑怯なやり方を思い出したのだろう。
「その時、川の水は、父の血で赤く染まったはずです。ですが、わたくしが見たときは、もう水は澄んでいた」
「だから、梶原のしたことも水に流すというのか。それは、あまりにも……」
「いいえ……」
美野はふっと微笑んだ。
「わたくしは、それほど心が広くありません。梶原への恨みは、一生消えないでしょう」
強い目で、重房を見つめる。
美野の目は、それ自体は大きいというわけではない。だが、何故か顔立ちの中で目が一番印象に残る。黒目がちな美しい瞳、それを縁取る長く濃いまつげ……そんなもののせいなのだろうが、なによりその輝きと、口よりも雄弁に語る目の表情に人は惹きつけられる――後に重房は、そう美野に語った。
重房は、一瞬美野をまぶしそうに見つめ、すぐに視線を川に移した。
「当然だ。あのような卑怯なやり方で、父上を殺されたのだから」
「恨みは消えなくても、水を見ていると心が落ち着くのです。たぶん……水は、どこにあってもその姿が変わらないからだと思います」
「姿が、変わらない……」
重房は、意味をはかりかねていた。
当然だと思う。言っている美野自身にも、うまく言えない考えだった。
それでも、思ったことを口にすると、少し考えが整理出来た。
「人の姿は歳とともに変わります。動物も、花も、木も……。いつかは死に、枯れ果てます。ですが、水だけは……どこにあっても水のまま」
「分かるような気もするが……美野はおもしろいことを言う」
重房は、急に立ち上がった。
「おっと、こうしてはいられない。美野、館へ戻るんだ」
「館へ?」
「母上がお帰りだ。いよいよ輿入れだ」
輿入れ……その言葉に、美野の胸は、深いところでひとつ脈打った。
この回は、嵐の前の静けさです。
次話より、物語は大きく動き始めます。




