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3 鼓星の下で

父を失い、故郷を離れ、美野は武蔵国・河越館に身を寄せることになります。

空だけが自由。

夜ごと、彼女は星を見上げながら、まだ顔も知らぬ「九郎義経」という名を思うのです。


 総御前との対面のあと、美野は、千葉邸に帰ることは出来なかった。そのまま、半ば拉致されるように、武蔵国の河越館に連れて行かれたからだ。

 美野が心から懐かしいと思うのは、父とともに暮らした十二所の館であり、上総国であるから、千葉邸に戻れないこと自体に異存はなかった。


 だが、河越館での暮らしは、美野にとっては苦痛でしかなかった。

 なにしろ、自由というものがない。

 総御前が「身の回りの世話を」とつけた梅枝(うめがえ)という侍女が、片時も側を離れない。それこそ、厠にまでついて来る。美野にとっては「世話をされている」というより、「見張られている」という感覚に近かった。

 いや、たぶん、そちらが正しいのだろう。梅枝が総御前に命じられたことは――。

 館の外どころか、自室を出ることさえ出来ない。

 武蔵国がどんなところか美野は知りたくてたまらなかったが、見ることが出来るのは、空だけだった。

 そして、美野の心の支えは、夜空の星だけだった。

 

 ――鼓星(つつみぼし)


 夜空に、並ぶ三つの星。それを囲むのは一際輝く四つの星――。


「鼓の形に見えるだろう?」


 だから、「鼓星」と呼ぶのだと教えてくれたのは、実父だった。

 夜空の星は、上総と変わらなかった。鼓星を見上げ、実父に恥じない生き方をしたい……そう思うことで、美野は河越館での暮らしに耐えていた。


 その頃、当主である河越重頼も、その嫡子・重房も、九郎義経とともに京にいて、河越館を留守にしていた。

 ふたりが河越館に戻ってきたのは、季節が夏に変わったころだった。


「お目にかかりたいのです」


 美野は梅枝にそう言ってみた。


「何故ですか。その必要はないと存じますが」


 梅枝は、いつもの……完璧なまでに抑揚のない口調で答えた。


「お目にかかっておいたほうがよいでしょう。わたくしは、河越重頼さまの娘として嫁ぐのですから」


「そうですか。では、鎌倉にご指示をいただくまでお待ちください」


「総御前さまに伺うというのですか。それこそ、必要ないでしょう」


「……お待ちください」


 そんな感じで、のらりくらりと言い抜けられ、美野は対面出来る気配すらない日々を重ねていった。

 毎日が退屈でたまらなかった。

 せめて、重頼や重房に会うことが出来れば、九郎義経の人となりを聞くことも出来るし、なにより、一ノ谷をはじめとした数々の戦の模様も聞くことが出来るかもしれない。


 美野は、それが知りたくてたまらなかった。

 戦の模様や政事(まつりごと)について、美野は、父や兄からしょっちゅう話を聞いていた。

 そんなことに興味を持つ女子はいないぞ……と、苦笑しながらも、父や兄は美野になんでも話してくれた。


 だが、ここでは、なにひとつ分からない。

 今、世の中がどうなっているのか。

 一ノ谷の戦によって、福原を追われた平氏がどうなっているのか。

 頼朝の代官として京にいる九郎義経は、今どうしているのか。

 美野には、知りたいことがたくさんあった。


 河越の夏は、鬱陶しい。上総の夏は、いつも潮の香りがした。ここにあるのは、内陸の風。そこには爽やかさなどひとかけらもない。

 時折聞こえる、チィーチィーという音も、どうやら鳥の鳴き声らしいが、姿が見えないので不快にしか感じない。

 ……なにもかもが、鬱陶しかった。それは、土地や風のせいではなく、片時の自由も美野に与えてくれない梅枝ゆえのことだったのだが、美野にそれを分析するだけのゆとりはなかった。


 そんなある日――。

 機会は、不意にやってきた。

 まるで梅枝に監視されているようで、おいしいとも思わない朝餉がすんだあとのことだった。

 梅枝は、膳を下げさせようと侍女を呼んだが、何故か誰も来なかった。


「……まったく……」


 梅枝は、不満そうにそうつぶやくと、膳を持って立ち上がった。


「すぐに戻ります」


 梅枝の後ろ姿を見送った美野に、ためらいはなかった。

 今をのがせば、梅枝から離れる機会はない。

 廊下に出て、とりあえず、梅枝の向かった反対の方向に歩きだす。

 誰かに……梅枝以外の誰かに出会えれば、なんとかなる気がした。

 できれば、重頼か重房を見つけたい。そして、話が聞きたい。いや、聞かなければならない。


 廊下を歩いていると、話し声が聞こえてきた。男ふたりの声だった。

 そちらの方向に向かう。どうやら、几帳の中でふたりの男が話しているらしい。

 美野は、そのまま、立ち聞きを決め込んだ。


「どうにも、納得が出来ません。何故、九郎殿はこのたびの任官から外されてしまったのでしょうか」


「鎌倉殿のお考えだと思うが……身内には厳しくと思われたのか」


「同じ弟御の、蒲殿は三河守に推挙されています。広綱殿は駿河守、平賀殿は武蔵守。何故、一番戦功のあった九郎殿が外されるのか。父上は、片手落ちだとお思いにならないのですか」


「思う。思うが……」


「九郎殿がお気の毒でならない。鎌倉殿は理不尽だ」


 激しい語気だった。怒っているのは、まだ若い男。相手を、「父上」と呼んでいたから、このふたりは、間違いなく河越重頼と重房の親子だろう。

 話の内容が、除目についてだということは、美野にも分かった。そして、それを「片手落ち」だと、重房は思っている。


「蒲殿というのは、たしか……」


 源範頼のことだ。遠江国蒲御厨で育ったから「蒲冠者」とか「蒲殿」とか呼ばれているはず……。広綱殿というのは、たしか、源広綱……そんなことを考えていて、美野は、几帳の中の話し声が不意にやんだことに気づかなかった。


 いきなり几帳がはねあげられた。驚いて見上げる美野の目に、怒りに燃えた若い男の顔がとびこんできた。

 美野に声を出す暇も与えず、彼は美野の腕をつかみ几帳の中にひきずりこんだ。そして、年配の男の前に美野を座らせた。


「おまえは何者だ。どうやって、母上に取り入った。お前の目的はなんだ」


 激しい怒りの形相に、美野は身がすくんでしまい、声が出なかった。

 ただ、年配の男が河越重頼、若い男は嫡子の重房だということだけは見て取った。

 重房は美野の髪をつかんで顔を上げさせた。痛さに悲鳴があがる。


「重房、乱暴はやめなさい」


 重頼の声は落ち着いていた。表情にも怒りはない。ただ、ほんとうに怒りがないのか、それを表に出さない術を身につけているのかは、判断出来なかった。


「しかし……」


「女に手荒くするものではない」


 重頼にきびしく言われ、重房はしぶしぶ美野から手をはなした。

 重頼は美野の方に向き直り、穏やかに言った。


「事情を聞かせてもらいたい」


「事情と言われましても……」


 美野は言葉に詰まった。

 さっき、重房は「どうやって、母上に取り入った」「お前の目的はなんだ」とたずねたが……。取り入ったもなにも、美野を呼び出したのは総御前のほうだ。目的も、美野にはない。総御前に言われるままに、この河越にやってきただけだ。そもそも、美野に選択肢はなかった。


「では、まず名前を」


「美野といいます」


「歳は」


「十七歳でございます」


「郷のひとつ上か」


「そのように、総御前さまから伺っています」


「いったい、お前はどこの誰だ」


 まだ怒りの残る声で重房がたずねた。

 無礼な物言いだとは思うが、ここで黙っていても始まらない。

 美野は、まず重房の目をとらえ、それから重頼に視線を移し、まっすぐに見つめたまま答えた。


「わたくしは、上総介広常の娘、美野にございます」


 重頼の目が、驚きに見開いた。重房も、言葉を失っている。


「介八郎殿の御息女か」


 最初に言葉を取りもどしたのは重頼だった。


「父をご存じでしたか」


「関東の武士で、介八郎殿を知らぬ者はない。そういえば、郷と年の近い娘御がいると聞いたことがあった」


 父が、自分のことを他の武士に話しているとは知らなかった。だが、父らしい……とも思った。

 ふと、重頼が居住まいを正した。そして、


「父上のこと、心より、お悔やみ申し上げる。さぞ、無念であっただろう」


 と、丁寧に頭を下げた。

 見れば、重房もあわてて父に倣っている。


「双六に興じているところをだまし討ちなど……梶原は、どこまで卑怯な男なのか……」


 重房の怒りの矛先は、美野から、梶原へと移ったようだ。

 そして、それは、父が亡くなってからはじめて聞いた心からの悔やみの言葉でもあった。


「そのように言っていただいて、父も、少しは気が晴れましょう」


「それで、あなたが、郷の代わりに九郎殿に嫁ぐという話は、どこから出てきたのですか」


「それは……」


 美野は、ことの次第をふたりに説明した。

 それを聞くと、また、重房は怒った。


「母上は、なにを考えているのだ。九郎殿のどこに不足がある。だいたい、日頃から、郷を甘やかしすぎなのだ」


 それには、美野も同感だったが、重頼は、それについてはなにも言わなかった。


「あなたに不満はないのですか」


 やさしく問われ、美野は、つい本音をもらしてしまう。


「言える立場ではありません」


「あなたが、どうしても嫌だというのなら、総にそのように伝えるが……」


「そうです。郷が嫁げばよいのです」


 重房の言葉をもっともだと思いながら、美野は、何故かそれは嫌だ、と感じていた。

 そして、思い出した。総御前から縁談話を聞いたとき、「守ってさしあげたい」と思った自分の気持ちを。

 姑息な手段を執る河越氏から。そして、なにより、卑怯な手を使う梶原景時から、九郎義経を、守ってさしあげたいと思ったことを。


 美野の想像と違って、河越重頼も重房も、実直な人間だった。姑息な手段を使おうとしているのは総御前ひとりだったのだろう。もっとも、それを止められない夫というのも、頼りない気はするが、総御前は、重頼自身よりも頼朝に近い人間だから、仕方のないことかもしれない。


 重頼自身が実直な人間であっても、九郎義経が危うい立場に立たされていることは変わりがない。そして、「守ってさしあげたい」という美野の気持ちも、変わらない。


『まだ、顔も見たことがないひとなのに……』


 美野は、そんな自分の気持ちがおかしくて、くすっと笑ってしまった。


「どうした」


 自分が笑われたと思ったのか、重房が不機嫌そうに問うた。


「このお話、受けさせていただきたく存じます。わたくしは、九郎義経さまに嫁ぎたいと思います」


「何故、そのように思う。九郎殿とは面識もなかろう」


「ございません。ですが、梶原の讒言によってむずかしいお立場に立たされていると伺っております。梶原景時は父の敵ですから」


「敵の敵は味方……というわけか」


「はい」


 即座に答えた美野を、重房は、今度はめずらしい生き物を見るような目で見た。


「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」


 重頼がうなずく。


「先ほどの任官の話です。九郎さまが任官から外されたというのは、ほんとうですか」


「ほんとうのことだ。鎌倉殿は、何故か九郎殿だけ推挙なされなかった」


「一ノ谷の一番の功労者を推挙しないのは、妙ですね」


「ああ、みなそう思っている」


「……出来の良すぎる弟は目障りなのでしょうか」


 以前、自分が考えたことを口に出していた。

 すると、重頼と重房がひどく驚いて、顔を見合わせた。


「すみません。言い過ぎでした」


 あわてて頭を下げると、ふっと重頼が笑った。


「思い出した。介八郎殿が仰っていた。わが娘は、女にしておくには惜しい。政事(まつりごと)に興味があり、世の中の動きを見る力もある。儂が思いもよらぬことを言い、そしてそれが的中することが何度もあった……とな。それは、あなたのことだったのですな」


 そう言われて、美野は頬に血が上るのを感じた。

 父に対して同情的だった重頼に、つい、父と同じように接してしまった。たいていの女性は美野のようではないと、何度も父に言われていたにもかかわらず……だ。


「驚きました。あなたは、妹の郷とはぜんぜん違う。郷は、なにしろ母の言いなりで、自分でものを考えようとしない。あなたは、自分の目で見、自分の頭で考える人なのですね」


 重房の美野を見る目が、珍獣を見るそれから、賞賛に変わっていた。


「申し訳ありません。つい、父と話しているような心持ちになってしまいました」


 詫びた美野に、重頼は優しく語りかけた。


「介八郎殿の代わりなどとうてい務められないだろうが、知っていることは話してあげよう」


美野はまだ、京を知らず、九郎義経の顔も、声も、知りません。

けれど、理不尽に憤り、誰かを守りたいと願ったその瞬間から、彼女はすでに、義経の運命に足を踏み入れているのかもしれません。

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