1 澄みわたる川のほとりで
父を失い、房総を離れた少女・美野。
その聡さと気丈さは、やがて鎌倉の政に巻き込まれていく。
これは、義経の正妻と呼ばれることになる娘が、まだその名を背負う前の物語。
川の水は、どこまでも透き通っていた。
早春の光を受け、木々の緑を映し出す水面――。
耳に届く川音までが、透き通っている。
「何故……」
美野のつぶやきは、高春の耳にとまったらしい。
問いかける視線に応ようと開きかけた口を、そのまま閉じた。今、頭に思い浮かんだことを口にすれば、嗤われるか、呆れられるか……。いや、気がふれたかとあわてられるかもしれない。
それでも、美野は思ってしまったのだ。
何故……と。
何故、この川の水はこんなにも澄んでいるのか。
父の血で、一度は朱に染まったはずの水……。
父の無念の思いは、今もまだ、この地にとどまっている。それが、娘である美野にはわかる。
それなのに何故、この川の水はここまで澄んでいるのか。
何故、梶原景時が太刀を洗ったときのままに、朱に染まっていないのか。
「急ぎましょう。総御前をお待たせしてはいけない」
川の水を見つめたままいつまでも動こうとしない美野を、高春が急かす。
焦れた気持ちは、低く押し殺した口調でも、抑えきれていなかった。
それでも声を荒げないのは、美野の機嫌を損ねてはならないからだ。美野の心ひとつで、高春の処遇は決まるらしい。
高春にとってはかなり切羽詰まった事態なのだと察せられたが、同情する気にはなれなかった。
高春――原太夫高春――が、美野が身を寄せる千葉常胤の館を訪れたのは、数日前のことだった。
「鎌倉に出向き、総御前と対面してくれ。総御前というお方は……」
説明しかけた高春を、美野はさえぎった。
「河越太郎重頼殿の室でいらっしゃる総御前ですね」
美野の言葉に、高春は目を見開いた。
父の外甥に当たる人物とはいえ、美野とはこのとき初対面。美野が関東の御家人について、くわしい知識があることを意外に思ったのだろう。
「比企尼さまのご息女で、今は、万寿丸さまの乳母をなさっていらっしゃる」
高春は、一瞬、惚けたような顔をした。
「そのとおりだ。よく知っているな」
「父に教えてもらいました」
答えた声が湿っているのに気づき、美野はあわてて唇をかみしめた。自分に対面している高春の目的が分かるまで、涙は見せたくなかった。
自分をまっすぐに見つめる美野の視線にたじろぎながらも、高春は言葉を続けた。
「総御前が、そなたに会いたいと言っている。頼みたいことがあるというのだ」
「どのような御用件でしょうか」
「分からぬ。そなたに直に話したいそうだ」
美野が黙っていると、高春は焦りの色も隠さずに言葉を重ねた。
「対面してくれるか。儂が、鎌倉まで付き添うゆえ」
「そうすれば、高春さまの所領は安堵されるのですね」
再び、高春の目が驚きに見開かれた。数段階の思考を飛び越えた美野の言動は、高春の身近にいる女子のそれとは、全くの別物だった。
武蔵国河越の荘官である河越重頼は、源頼朝の御家人である。その正室・総御前は、頼朝と北条政子の間に生まれた万寿丸の乳母となっている。
つまり、総御前の言葉なら、頼朝や政子は耳を傾ける。
総御前は美野と対面したがっている。おそらく、あまり公にはできない理由で。そこで、美野の従兄弟に当たる高春に目をつけた。あの事件で没収された所領を返してやるという餌で釣って。
「頼む。美野」
高春は、ついに両手を床につき、頭を下げた。
従兄弟でしかない……しかも女子の美野に平伏するとは……。そこまで、高春は追い詰められているのだろう。
その姿があまりに哀れで、美野はまた唇をかんだ。この情けない従兄弟に、自分の涙は見せたくない。
あの事件のあった日から、美野は夜ごと、枕を涙で濡らしている。だが、日の高いうちは――誰かの目があるときは、決して泣かなかった。それが、父の娘である美野の矜持だった。
そこまでして所領を取り戻したがる高春は見苦しいとも思うし、自分がそこまで力を貸してやるいわれもないと思う。
だが、床に額をこすりつけてまで希う姿に、美野はついに、絆されてしまった。
「分かりました。お目にかかりましょう」
美野がそう答えたのは、高春を哀れだと思ったからだけではなかった。なにも変わらない今の生活が、総御前に会うことによって、動くかもしれない。そんな、ささやかな期待もあった。
美野が総御前と対面したのは、万寿丸の乳母父である比企能員の館だった。
「其方はいくつになる」
美野が挨拶するより早く、総御前が訊いてきた。
「この春で、十七歳になりました」
「郷のひとつ上か。まあ、そのぐらいなら」
よく分からないことをつぶやいて、総御前は続けた。
「名はなんという」
下げたままの頭に、重ねて問いかけられる。
不意に、美野の心の中に反抗的な気持ちがわき上がってきた。
こんなにへりくだる必要があるのだろうか。
総御前はたしかに源氏の頭領である頼朝の嫡子万寿丸の乳母だ。
だが、夫の河越重頼は、美野の父・上総介広常と同じ桓武平氏の流れをくむ板東平氏。武蔵国を拠点とする秩父氏の傍流になる。
一方、広常は、房総平氏の総領を継いでいる。その点を見れば、美野と総御前の立場は同等……いや、美野の方が上かもしれない。
美野は、顔を上げた。視線で総御前の目をとらえたまま、名を告げる。
「美野と申します」
総御前が、一瞬たじろいだ。だが、それを隠すように、かすかに頭を振り、つぶやくように言った。
「姿形も……まあ、悪くはあるまい」
「お褒めいただき、ありがとうございます」
その返事は、考える間もなく口から飛び出していた。
総御前は一瞬呆けた顔をし、それから、挑むような強い視線で見返してきた。
美野は視線をそらさなかった。
特に容姿に自信があるわけでも、それを自慢する気持ちも美野にはなかった。けれど、「悪くない」という言葉を聞いた瞬間、兄の言葉を思い出したのだ。
「美野は美しい。少し気が強いが、心根も良い。頭も良い。だから、くだらない男に嫁ぐな。兄が、美野にふさわしい婿を探してきてやる」
身内の欲目かもしれないが、自分は美しいのだ。それを「悪くない」などという言葉で表されると、兄の言葉を汚されたような気がする。
卑屈にはなるまい。わたくしは美しいのだ。美野は、その言葉を自分の視線に込めて、総御前を見返した。
総御前も視線をそらさなかったから、ふたりは、睨み合いのようになった。
そばに控える侍女が、おろおろとうろたえるのが感じられたが、美野は負けなかった。怖いとも思わず、むしろ、興味を持って総御前の容姿を観察した。
三十代半ばだろうか。美野の母と言ってもおかしくない年齢に見える。
美しいと言える人ではないが、醜くもない。つり上がった一重の目に、通った鼻筋。薄い唇は引き結ばれ、強ばった顎は四角張っている。
そんな観察をしていたら、不意に視線が外された。
睨み合いは、美野の勝利だったが、べつに嬉しくも感じなかった。
「其方には、わたくしの娘になってもらう」
すぐに返事ができなかった。言葉は耳に入ってきたが、意味が頭に入ってこない。
「なんと仰いましたか」
「わたくしの娘になってもらう」
くり返された言葉に、ひどい違和感を感じた。「何故」という疑問より先に、それが決定事項であるということに。
総御前は「なってもらう」と言った。「なってもらいたい」でもなく「なってくれないか」でもない。
ならば、「お断りいたします」とは言えないのだろう。
「何故……とお尋ねしてもよろしいでしょうか」
美野の言葉に、総御前の表情が動いた。
ふっと笑ったのだ。
「聡い娘でよかった」
つぶやくと、今度ははっきりと、美野にほほえみかけた。
美野の記憶にある、亡き母の優しい笑顔とは似ても似つかない、底の知れない笑顔だった。昏い微笑み……とでも言えば、この表情は表せるのかもしれない、と、美野は思った。
「わたくしには娘がひとりおる。名は郷といい、十六歳になる」
それで「ひとつ上」と言ったのか……と、美野は得心する。
「郷に縁談が持ち上がった。だが、わたくしは、嫁がせたくない。相手が気に入らない」
「それならば、お断りになればよろしいのではありませんか」
「断れない。鎌倉殿からのお話なのでな」
鎌倉殿――つまり、頼朝からの縁談ならば、たしかに断ることはできないだろう。
「わたくしが、河越重頼さまの養女になればよろしいのでしょうか」
そんな甘い話ではないと分かっていながら、美野は一縷の望みをかけて訊いた。だが、甘い望みは、即座に打ち消された。
「虚けたことを言うでない。謀反人の息女を嫁がせられるわけはない」
父の謀反の疑いは晴れました……と、心の中でだけ反論する。
「それでは、わたくしは今より『郷』と呼ばれるのでしょうか」
違う名前で呼ばれる自分もあまりいい気分ではないが、そうなってしまったら、郷という人も困るのではないだろうか。美野が「郷」になってしまえば、自分の居場所を失ってしまう。
「名は『美野』のままでよい。鎌倉殿は、河越重頼の娘の名前などご存じではない。さらに言うなら、上総介広常に息女があったことも、ご存じではなかろう」
たしかに、そうだろう。御家人の子息は気にしても、子女のことなど、いちいち気にする頭領はいない。
総御前が――あるいは、河越重頼が――美野を連れて、「息女の美野にございます」と言えば、それで、美野は河越重頼の娘と認められるというわけだ。
そして……この話は、もちろん、断れない。
「わたくしは、どなたに嫁ぐのでしょうか」
総御前が、さらに笑みを深くした。美野には断わるすべがないと分かっていても、やはり、承諾の返事がもらえるまでは不安だったのかもしれない。
つまり……。それほどまでに、縁談の相手が気に入らないということだ。
「お相手は、源九郎義経さま。鎌倉殿の御舎弟です」
総御前は、ひどく平たい声で告げた。
川の水は澄んでいました。
けれど、人の世は、決して澄んではいません。
美野が鎌倉へ向かう理由は、次話で明かされます。




