9話 未定義空間
走った。走り続けた。
感覚で言えば一キロくらいは走った気がする。
それでも身体は殆ど疲れていなかった。琴を抱えている事実も考えれば、異常なことだ。
「も、もうよい、晴彦。下ろすのじゃ。……酔った」
脇で琴の弱々しい声を聞き、ようやく身体が減速をかけ始める。
晴彦は琴を下ろす。そのまま自分も、大きくため息をついて胡坐をかいて座った。
四つん這いになっている巫女を見て、自然と口から謝罪が漏れた。
「すまなかった」
「……ん? なにがじゃ。酔ったのは、お主のせいではないぞ?」
少々青い顔をして首をかしげる琴に、晴彦は首を振る。
「何にも……できなかった」
にじむ思いを言葉に含めて、絞り出すように呻く。
琴はきょとんとした後、盛大に笑った。
「当ったり前じゃろ! なにを沈んどる。お主がいきなりあんなのと闘えたら、ワラワがびっくりじゃ。正直、運がなかったのう!」
笑いに身を震わせてから、はぁー、と琴は長い長い息を吐いて、ピンと指を立てた。
「いや、むしろ、運が良いとも言えるかもしれんな」
「……?」
目の前の、自分よりも年下に見える相手を見つめる。
「京都じゃぞ、京都。あんな色々と豊富な所にいきなり当たったのは運が悪い。じゃが、その戦いを見られたのは運が良い。お主も、自分がどのくらいのものと闘わんといけないか、よく分かったじゃろ?」
それは、十分に分かった。分かったからこそだった。
「……正直、あんなのに、俺が戦えるのか?」
「どうじゃろうな。……じゃが、戦える芽は、あると思う」
希望を含んだ言葉に晴彦は、勢いよく首を上げた。
「くく。気になるであろう?」
琴は立ち上がり、どこか小憎たらしい笑みを浮かべた。
「勉強も訓練もこれからじゃ。お主は、まだヒヨコみたいなものじゃからな」
その言葉に、晴彦は苦笑した。
痛感。
正直、人間同士の戦いなら、なんとかなるかも、と甘い考えを持っていた。だが、この世界は本当に、そういうレベルの話ではなかったのだ。
俺は、周回遅れで今、やっと走り出そうとしている。
「……そうだな。やれるかどうかは分からないけど、立ち止まっている場合じゃない」
ぐ、と拳を握り込む。指の間から熱がにじみ出るようだった。
その晴彦の決意を感じたのか、琴は嬉しそうに頷いて、晴彦の後ろを指さした。
「晴彦。あっちの方にしばらく歩けば小屋がある。そこで、色々とワラワが教えてやろう」
指さす先には平野が続くばかり。小屋があるようには見えなかった。だが、琴が言うのならあるのだろう。
座り込んでいた晴彦に、琴が手を差し伸べてくる。その小さな手が、なぜかキラキラと輝いているように見えて、無意識に視線が逸れた。
「……どうして、そこまでしてくれるんだ?」
「なんのことじゃ?」
「俺なんかを鍛える必要なんて、あるのか? これはサバイバル戦なんだろ。ライバルを育ててどうするんだ?」
疑念に、琴はふふ、といつもと違い柔らかに微笑んだ。
「これはサバイバル戦じゃが、同時に特訓でもある」
「特訓?」
そうじゃ、と琴は手を引っ込め、ピンと指を立てた。
「ワラワたちは元から敵ではない。序列を決めはするが、それ以上に重要なことがある。じゃから、ここで脱落して現実世界に戻ったとしても、そこですることは結局、特訓じゃ」
晴彦は、首をかしげる。
「現実で、どうやって特訓するんだ?」
「行く前に会ったじゃろ? 修二さんや彩音さん」
「……ああ、あの」
晴彦の脳裏に、少し年上の二人の顔が浮かぶ。
「うむ。あの人たちは、現役の龍宿者じゃ。現実に戻れば解説付きで指導してくれる」
へえ、と晴彦は小さく息を漏らす。
だが、そうだとするのなら、なおのことだ。
「でも、だったらお前は――」
「お前ではない。琴、じゃ」
「すまない。……琴は、本当は、逃げる必要ないくらいに、強いんだろ?」
まっすぐ琴を見ると、彼女は幼い顔に不敵な笑みを浮かべた。
「強いぞ? 色んな意味でな」
「だったら、俺と一緒にいる必要なんて――」
「ああもう、うだうだとうるさい奴じゃ。……お主はそういう奴ではなかろう。短い付き合いじゃが、そのくらいは分かるぞ」
言葉を遮って、琴は、ははん、と何かに気づいたように晴彦に顔を寄せた。
「……さては、あまりの衝撃に怖気ついておるな?」
意地悪そうな笑みに口がへの字に曲がる。それを見て琴は破顔すると、ぽんと晴彦の頭を撫でた。
「言ったじゃろ? 決めた、と」
「決めた?」
「ワラワは、晴彦と一緒に行く、とな」
その言葉を聞いて、現実世界での出来事を思い出す。
夏の青空の日差し。ハーゲンダッツを共に食べたあの光景。口元がうっすらと笑みになる。
「アイスをおごっただけなのに――律儀な奴だな」
◆◆
琴の言った通り、しばらく歩くと唐突に小屋が現れた。本当に唐突に、いきなり現れた。
驚きを含めて問うと、琴はしたり顔で先を指す。
「あの景色の先、空の色と同じになっておろう? あれは地平線ではない。あの先は、まだ何もないのじゃ」
見える範囲は大体、五百メートル先までかのう、と琴は続ける。
「この龍脈の世界は、ワラワたちの想像で形作られる。ワラワが言った、ちょっと歩けば『小屋』がある、という言葉を聞いて、お主が想像した『小屋』が、これという訳じゃな」
にやりと笑って、琴は目の前まで来た小屋の外壁を、ぽんと片手で叩いた。
それはログハウスだった。丸太を水平に積み上げた外壁。赤い屋根。扉の前には二段の階段があり、その脇に窓が二つ。その小屋の右手周りには、緑の深い木々が生い茂り、森のようになっていた。
いつぞやに行った山の匂いがする。そしてこれまでこの世界で匂いが殆ど無かったことに気が付いた。
「立派なものを想像したのう。家族か何かで、泊まったのか?」
琴の言葉にはっとする。そうだ、この小屋。既視感があると思ったら。
「これ、あの時の……。じゃあ、本当は小屋なんてなかったのか?」
「そういうことじゃな。……どれどれ中身はどんな感じかの?」
琴が階段を上がり、扉を重たそうに開けた。そして呆れた声を上げた。
「なんじゃ、中は想像しておらんのか」
確かに小屋の中は想像していなかったな、と晴彦も後ろから覗き込む。
そこに広がっていたのは、ひたすらに真っ黒な空間だった。ただ、下を見れば、これまで歩いてきた荒野と同じ土の地面が、その色も鮮やかに見えた。
「なんだこれ?」
「未定義空間じゃな。想像の届かなかった空間は、こうして黒いもやもやとしたものになるのじゃ」
ひょいひょいと黒い空間に琴が手を入れる。部屋の中は真っ黒なのだが、琴の手はそこに浮いているように見えた。
現実では起こりえない現象。
いうなれば、漫画の黒背景のコマだ。人物がはっきり見えるのに周囲は黒い。
「なんか、気持ち悪いな」
「まあ、龍脈が変化を受け付けたが、定義づけがされておらんから、準備状態になっておる、と、そういう解釈じゃな」
「えっと、どういう――?」
いきなりの説明が理解できずに眉をしかめると、琴は、ふーむ、と唸った。
「つまり、じゃ。『何か』になれ、という命令が龍脈に来たのじゃが、その『何か』が指定されていないから、とりあえず何にでもなれる状態で待機している、というところかの」
「はぁ……?」
「まあ、要点を言えば、この黒い空間は、簡単に作り変えられるということじゃ」
そう言って琴が、パチン、と指を鳴らす。
すると黒い空間が立ち退くように消えていく。見えていた土の地面の上に、木の床ができていく。
そして瞬きする間の一瞬で、部屋の内装が作り上げられた。
そこは、古めかしい寺や神社の堂のような場所だった。
「ワラワが修行した所じゃ。まあ、クオリティはこんなもんでよかろう」
丸太組構法と矛盾する板張りの壁。三メートルほどの高さの天井も梁組みで平坦。ログハウスの内装ではない。外から見えていた窓は封殺され、完全に意味をなくしていた。
色の褪せた木の床。木質は古く、かびの臭いが微かにして、昔、田舎の祖父母の畑にぽつんと放置されていた木造の物置に入った時を思い出す。
だだっ広い床と同じ色合いの壁には、錆び付いた釘が並び、緑や白色の勾玉が飾られていた。奥の床の間には、そこだけ丁寧に磨かれた台座。その上に、一振りの刀が鎮座している。
「ほれ、入るがいい。外履きは消せばよいぞ」
スタスタと中に入る琴の足には、いつの間にか雪駄がなかった。
部屋の中央まで歩くと彼女は、ぽん、と両手に座布団を生み出す。
それを床に無造作に置くと、とすん、と腰を下ろした。
「こっちに座れ」
空いた座布団を示す。
「あ、ああ……」
あまりに自然とおこなわれた魔法めいたことに言葉をなくしながら、晴彦は靴を脱いで上がる。ぎしぎしと床を鳴らし、琴の正面に腰を下ろした。
座布団は思いのほか、柔らかい。
それを見て、琴は手をかざして湯飲みを召喚すると、にやりと笑った。
「さて、勉強の時間じゃな」




