7話 陰陽術
琴が男に視線を送る。
男も浮かんでいた笑みを消し、琴をじっと見据えた。
互いの呼吸を探るような静かな沈黙。
しばらく、様子を見合っていた二人だったが、ふと男が諦めたように首を振った。
「見ていても、変わらん、か。ほんまにそうどすな」
男が扇子をひゅっと差す。合図か。
瞬間、隣にいた鵺が一気に跳躍して琴に襲い掛かった。
「ふむ」
一息。その合間に近づかれる。
だが琴は焦る素振りも見せず、右足をわずかに上げた。
そして今度は前に蹴り込むように地を踏んだ。
鵺の爪が琴の頭に届く、その瞬間を狙ったように、巨大な足が鵺の後方からせり出した。
足底が、肉を踏む鈍い音と共に、獣を、その重心を含めて丸ごと蹴り飛ばす。
後方から無理矢理加えられたその勢いを止めることもできず、鵺は大砲の発射のごとく、琴の頭の上を風切り音と共に飛んでいく。
都合百メートルは吹き飛び――やがて、ある地点を越えたところで、鵺の身体は桃色に輝く光の粒子へと崩れ、空中に溶けるように消えていった。
消えた。あの巨体が、いきなり。
「た、倒したのか?」
「倒したというより、限界距離まで吹っ飛ばした――というのが正解じゃな」
琴が平然と答える。
「鵺は軽いのか? よく飛ぶのう」
くく、といつもと変わらない笑い方。それを聞いて、男が苦笑する。
「……お嬢はん。何者どす?」
「琴じゃ」
「こと?」
「名じゃ」
「――出身を聞きたいんどすが?」
「それは自身で類推すべきことじゃろ。まあ、こういう倒され方もある、というのは覚えておくがよい」
「言ってくれはりますなぁ。これでも、ちょっとは自信があったんどすえ?」
それは残念じゃったな、と琴は皮肉めいて言うと、晴彦をちらりと振り向いた。
「晴彦、あやつの出身、分かったか?」
「出身?」
「ボーっと見てるでない。戦いの最中に相手を分析する。それが第一にすべきことじゃ」
そう言われて、晴彦は頭を巡らせた。
鵺。平安の大妖怪。扇子。それになにより、あの特徴的なしゃべり方。
断片が重なり、さすがに、見当がついてくる。
「……京都?」
「正解どす」
晴彦のやや自信のない声に、扇子をパン、と開いて男が返事をした。
「名を教えてもらいましたから、こちらも自己紹介しましょか。ウチは四方清雅。ご推察の通り、生粋の京人どす」
京都府。霊験あらかたと言えば、と思えるほどの圧倒的な格式を持つ都市。
その歴史の重みを誇るように、不敵な笑みを浮かべて、清雅は軽く一礼をした。
「わざとらしい京言葉まで使いおって。出身を隠すまでもない、ということかの?」
琴が肩をすくめる。
「そりゃ、そうでっしゃろ。京は歴史の都どす。そこらの県には負けたりしまへん」
ジャリ、と音を立てて扇子を閉じる。
「――コソコソと正体を隠して戦うのは、いかにも美しゅうないと思いまへんか?」
「目的によるじゃろ。ワラワは正々堂々、隠すぞ?」
琴はにやりと唇をゆがめる。
「京都と言えば、鬼や妖怪伝説の宝庫じゃな。あるいは陰陽道の中心地として有名かの。……さて、次は何をするのじゃ?」
清雅は笑みを引いて、扇子を高く掲げた。
「お嬢はん。あんまり余裕を見せない方が、ええどすよ?」
その腕が大きく円を描くたびに、紙片がひとつ、またひとつと宙に浮かんでいく。
五枚の護符。それが頂点を結び、宙に、黄色に輝く五芒星が浮き上がる。
「――召喚」
その声は、舞台を楽しむ役者のような響きだった。
護符が淡い黄色に輝き、星形の中央から、無数の紙人形があふれ出してくる。それぞれが薄く光を帯び、意思を宿したように空に舞う。
百、二百――いや千枚はあるだろうか。
あれだ、ジブリ映画で見たことある。
晴彦が場面を思い出そうとしている間に、清雅は扇子で琴を差した。
その瞬間、紙人形たちは一つの白い川を空中に作って、琴へと群来した。
「式神か」
琴がパン、と祈るように両手を合わせる。
轟く低音と共に、彼女の足元から水の柱が噴き出した。
その勢い、彼女を数メートルは浮かすほど。
頂点まで登った水は、地に向かって激しい波となり、式神を飲み込んだ。
波が地を叩き広がっていく。
そのまま一面を侵食し、一気に晴彦の腰あたりにまで押し寄せてきた。
「うわ、なんだっ?」
飲み込まれそうになりながら、晴彦は必死に足を踏ん張る。
その先で、琴はまるで水に選ばれたかのように、平然とその荒れ狂う奔流の上に立っていた。
「海を召喚したんどすかっ?」
清雅が思わず声を上げる。
式神を宿した紙人形たちが次々と濁流に呑まれ、紙片を散らしながら消えていく。
「でも――」
迫る怒涛の水の勢い。
それを前に清雅は琴と同じようにパンと両手を合わせる。そして飛び跳ね、くるりと一回転して、襲い掛かる水の上に立った。
「京も、海の加護はもっとります」
「知っとる」
荒れ狂う水面に、二人の人間。
晴彦は少し後ろで、水に流されぬように腰を屈めていた。
次から次へと起こる出来事に、ただ茫然と見つめるだけしかできない。
琴がその白く細い指で輪を作った。
「布石じゃ。これは」
パチン――と指を鳴らす。
すると琴の手前の渦巻く水から、飛沫をあげて三つの影が飛び出した。
翠の体表。白い頭頂。背には硬い甲羅。
人のようでいて、どこか愛嬌を感じさせる顔――しかし、その眼は冷たい。
「河童……!」
清雅の口から息が漏れる。
水の精たる三体の河童が水中に入り、その中を滑るように泳ぐ。
清雅への間合いを詰め、左右正面三方から、水飛沫を上げて同時に飛び掛かった。
その勢い、まるで魚雷のよう。
「でも、あきまへん」
清雅は水の上で後方に飛び跳ね、三枚の護符を風に乗せて放った。
紙片は飛び掛かった河童の胸元に吸い込まれ、次の瞬間、轟音と共に発火する。
水蒸気と黒煙が弾け、河童たちは黒い灰となり、桃色の光の粒子となって消えていった。
「陰陽道は――妖怪退治が本領どす」
片足で優雅に着地しながら、清雅は告げた。




