6話 上から来るぞ
晴彦が、己の心根に、もう一度決意を顕わにしていた時、耳の奥に微かな物音が触れた。
左手、林の中。何かが地面を叩きつけたような、鈍く重たい衝撃音――と同時に、少し離れた木々が揺れたように見えた。それらはほぼ同時に、一瞬の間に起こった。
なんだ、と自分の頭の中の疑問が言葉となった時には、身体は既に動きだしていた。
目の前の琴の身体を抱えて晴彦は鋭く前に跳ぶ。
瞬間、薄い影が差す。
寸刻前まで琴がいた地面に、黒い塊が叩きつけられ、轟音と共に土が弾け飛ぶ。
右足を軸に減速、回転しながら振り向く。抱えた琴の体温が一瞬遅れて腕に伝わる。
「なんだっ? 何が起きたっ!」
応えるように、濛々と舞う土埃の中で、何かが蠢いた。
ずるり、と音を立てて巨体が身を起こす。
四足。しかし獣ではない。見上げるほどの巨体。
じろりとこちらを見た顔は猿のよう。
虎のごとく柔らかで強靭な筋肉に覆われた身体。
尾は蛇。その蛇頭が意思を持つように晴彦を見て、顎を開き細い舌を伸ばした。
その存在感に、空気が歪んだ気がした。
化け物。妖怪。物の怪。怪物。
どんな表現でもいい。
ただ、一つ言えることは、こんな生物は現実にはいない。
なのに、この圧倒的な重みが、肉感が、現実を侵食して、この異様な生物が間違いなく目の前に存在していることを、晴彦に高らかに語っていた。
「……鵺か。これはちと、まずいかも知れんぞ?」
脇に抱えられながら、琴が淡々とつぶやく。
言われるまでもない。
ゆうに人の倍はある巨体。それでいて、俊敏であろうことが見て取れる身体。
だが、何より恐ろしいのは、その眼だった。猿の顔に宿る、人間めいた知性。こちらの様子を細部まで漏らさず見て、その反応を愉しんでいるかのような、冷ややかな光。
鵺。
琴の言った名前には聞き憶えがある。
妖怪。古い伝承――だったような。
「おろせ、晴彦」
静かな声に思わず従う。
琴は地に足をつけると首を軽く回しながら、言った。
「しかし、お主、反応が良かったのう」
にやりと笑みを浮かべて、晴彦を見る。
「身体的な能力であれば、十分に戦える素地はありそうじゃな」
妙な余裕を見せる琴を、鵺がじっと見据えていた。
機を伺っているのか、何かを警戒しているのか。
牙を剥き出した口の脇から荒い呼気が漏れている。
軽い足音を立てながら、琴が鵺の正面に立つ。
間合いとしては十メートルあるかどうか。象のような巨体からしたら一瞬で届く。
だが、鵺は威嚇するように低い姿勢を取っていた。
その様子を見て、琴は呆れるように肩をすくめる。
「見ていても変わらん。はよう来い」
琴の挑発が通じたのか、鵺が地に爪を立て跳躍の姿勢に入った。
その瞬間、琴はわずかに右足を上げる。そして鵺が跳ぶ寸前に――地を強く踏んだ。
轟音。
鵺の足元から巨大な足が生える。
土を突き破り鵺の腹を蹴り上げ、そのまま巨体を上空へと吹き飛ばす。
「なっ――」
一瞬。巨人の脚はすぐに消え、残ったのは一メートルくらいのバカでかい足跡だけ。
晴彦は空の高みに飛んでいく鵺を目で追う。どのくらいの高度なのか、巨体が豆のように小さく見えた。
「ワラワの攻撃じゃ。思ったより、よく飛んだのう」
「……や、やったのか?」
「ふむ。あの程度では倒せんじゃろ。平安の大妖怪じゃ。空より不気味な声を響かせ、現れると言われておる。……ぁあ。何も考えずに上に飛ばしたけど、意味なかったかも」
晴彦は自身の理解を超えた現象の応酬に反応もできなかった。
「それよりも、気をつけるが良い」
琴が声を低くする。
「あやつは、出身を隠す気もないようじゃぞ」
「……あやつ?」
琴が人差し指を紅葉の林の奥へ向けた。その瞬間、林の影から男の声がした。
「は~……。よう気づかれましたなぁ」
木の陰から、すっと扇子が差し出される。そして、パン、と軽い音を立てて開かれた。
「いやぁ、あきまへんあきまへん。……お嬢はん、ただもんやないでしょ?」
扇子をひらひらと煽りながら、男が姿を現す。
優男、と言えば聞こえはいいか。
痩せぎすの体躯。黒縁の眼鏡。細めた目は、閉じているのか開いているのか判然とせず、唇には張り付いたような笑み。服装はシックに落ち着いた装いだったが、全体的にどこか胡散臭い男だった。
晴彦は無意識に喉を鳴らした。
その顔に張り付いた柔和な笑みと違い、男の目は笑っていなかった。
先ほどの鵺以上の威圧感――何か見えない圧力に押し潰されるように、胸が締め付けられる。
その感覚を追うように、上空から何もない空中を足場として、猫が段差を降りるかのように影が降りてきた。
鵺だ。
巨体とは思えないほど静かな着地をし、怒りと殺気を纏いながら男の隣に身を伏せる。
男は、その化け物の首筋を、まるで愛犬を撫でるかのように優しく撫でた。
「お嬢はんは合格。――そっちの子は……まだまだこれからってとこどすなぁ」
扇子の男は笑みを崩さず晴彦を見て、緩やかに扇子を閉じる。
「堪忍やけど――倒させてもらいましょか」
来るのか。晴彦は身をすくめる。
背筋に走る寒気。全身が震えそうだ。
圧倒的な力の差。どう考えても勝ち目などない。
だが思いのほか恐怖はなかった。
死んでも死なない、と聞いたからか。それとも隣にいる琴の態度があまりにもこれまでと変わらないからか。もしくは、自分がこれからどうなるのか、想像もつかないからか。
だが、晴彦の選択はいつも一つだ。
――やるだけ、やる。
心の一部を奮い立たせ、拳を握り、構えを取る。
「何をしとる、晴彦?」
隣で琴が胡乱げに声を出した。
「……何をって?」
「はよう離れるのじゃ。あやつはワラワを狙っとる」
「え? 俺じゃないの?」
「……お主は不合格と言われたじゃろ。戦う資格なし、とな」
「そっちの意味かよっ!」
思わず肩を落としながら、しかし、晴彦はすぐに言われた通り、拳をほどいて後退した。
戦う資格なし。そう判断されたことに苦笑が浮かぶ。――納得だ。
鵺。
あんな化け物とどう戦えばいいのか。想像すらできない。
だが、琴には戦う術があるらしい。ならば、それを知れば俺にもできることがあるはず。
目を逸らしてはいけない。今は、まだ見ているだけだが、それは絶対に無駄にはならない。
――勉強すること。
それが今の晴彦にとって、唯一、正しい戦い方だった。




