15話 沸騰する
「……っ!」
言葉が出なかった。
琴の胸から、薄い緑色の光が漏れ出ていた。
琴も予想していなかったのか、初めて見る驚きの表情で左胸を見つめていた。
だが、驚いている時間はなかった。晴彦の耳に、何かが風を切るような音が聞こえた気がした。
「琴!」
動きを止めていた巫女の身体を、ぐっと抱き寄せて、晴彦は森の方に駆ける。
右手方向から、複数の風切り音。
瞬刻前の位置に、リズムよく矢が突き立てられていく。
それでも晴彦の足の方が速い。
逃げる。
遠距離からの狙撃。森の奥ならば、狙うことは難しいはず。
一歩ごと、まるで跳躍するように駆けていき、森に入り込む。
木々が深くなり、その隙間を縫って走り抜ける。
十秒。
入り組んだ木陰の奥に入れば、さすがに矢はもうこなかった。
安全かは分からないが、晴彦は琴を地面に寝かせる。
「琴! 大丈夫か!? 無事なのか?」
「……油断したのう」
くく、と弱々しく琴が笑う。
左胸の矢が痛々しい。
血の代わりに漏れ出る薄緑の光の粒子が、こんな時でも幻想的に見えた。
「正確に心臓を撃ち抜かれておる。……これは一旦、お別れかもしれんな」
「そんな、おい! お前、強いんだろ? 何諦めてるんだよっ!」
「琴、じゃ。――お前では、ない」
小さな声で琴が訂正する。
今そんな時じゃ――と言いかけた晴彦を、彼女は手で制した。
「なに、またすぐ会える。ここでやられても、現実に戻されるだけじゃからな」
そして、真剣な顔で晴彦を見る。
「晴彦、全力で戦うのじゃ。……そして負けそうになったら、ちゃんと逃げるのじゃぞ? それは決して恥ずべきことではないからの。良いな?」
「そんなこと言われてもっ! お前が! なんで、お前の方がっ!」
何が言いたいのか、自分でも分からない。混乱が言葉になる。
「落ち着け、晴彦。慌てても状況は変わらん。気づいとるか? 敵は複数じゃ。ワラワを狙ってきたのじゃろう」
琴は、そう言って自身の左胸を貫いている矢に触れる。
「矢の威力は低いが、問題は、正確性と完璧な不意打ちを成したことじゃな。……そんなことができるのは――」
ふむ、と琴はこんな時だというのに、いつも浮かべるにやりとした笑みを浮かべる。
「晴彦。この一矢は栃木じゃ。栃木の、与一の伝承。……じゃが、敵はそこではない。この図を描いたものがおる。そやつは、確実な一手を詰めてくるぞ」
「どういう……?」
そう問い直すと同時に、背後で轟音が響いた。
「なんだっ?」
バリバリと土埃と葉をまき散らしながら、森の木々が一気になぎ倒されていく。
「来たぞ、晴彦。接近戦を主とする奴じゃ!」
そう言って、琴はそっと晴彦の身体に手を当てる。
薄緑の光が見えたと思った瞬間、激しい衝撃を受けて晴彦は吹っ飛び、木々の合間を縫って地面を転がった。
「良いか! 相手の攻撃から、推察するのじゃ、こやつの逸話が何なのかをな!」
地に手を付け跳ねるように受け身を取る。何とか体勢を立て直して顔を上げる。
まっすぐと晴彦を見ている琴。
その背後。巨大な斧が振り下ろされる所だった。
「琴っ!」
世界が遅くなる。全てがゆっくりと晴彦の視線の先で見えた。
悲鳴も断末魔もない。
肩口から、股下まで。身体を縦に引き裂かれて――。
天を見上げた姿勢のまま、彼女はゆっくりと地に倒れる。
そして大地に溶けるように消えていった。
大斧が地面に到達する。
瞬間、時が戻る。
一挙に響いた猛烈な爆砕音。大地が割れ土埃が広がり、木々の間を吹き抜けていく。
「…………ぁ」
口を開けたまま、呼気とも取れない何かが喉から漏れた。
時が止まったようだった。
ただ、目の前の光景だけが時間を取り戻したように、動き始めた。
土煙を切り裂いて、斧が振り上げられる。
重そうな大斧。もし現実にあるとするなら、三十キログラムはありそうな巨大な代物だ。
それをひょいと片手で肩に担いだそいつは――少年だった。
晴彦とあまり変わらない年頃に見える。
眉が太く濃く、スポーツ刈りの似合う四角い輪郭の男。
服装は、さわやかな印象を与える紺色のポロシャツとベージュのパンツ。その上に灰色のジャケットを着ていた。ポロシャツの右胸にある白く小さなタツノオトシゴの刺繍が妙に印象に残る。唯一特徴的なのは、武骨なロングブーツを履いていることくらいか。
彼は少し気まずそうな表情のまま、ポケットからスマートフォンを取り出すと耳に当てた。
「目標、やったぜ。……本当に、あの子でよかったのか?」
その言葉を聞いて、やっと晴彦の思考が再開し始めた。
琴が殺された。
いや、死んではいないのか。
だが、この世界からあの子は退場した。
目の前では、ごく一般的な同年代が電話をしている姿。
違和感があるとすれば肩に担いだ斧だけ。
その光景が、ひどくうすら寒く見えた。
「ああ。……ああ。いや、抵抗はなかった。……ああ、そうだな。いい気分じゃない。当たり前だろ?」
聞こえてくる声も普通だった。
まるで明日のテスト範囲はどこだったかを聞いているくらいの、声音。
日常会話の延長。そこに多少の感情はあれど、重みはない。
特別なことは何一つ、起こっていないのだと言わんばかりの、光景。
ぐつぐつ、と、何かが煮え立つ音。
なんだろう。
どこから聞こえているのか。
左腰に付けた刀に触れる。
琴の残してくれた、俺に与えられた力。
「で、こっちはどうする? 剣士に見えるが、戦うのか?」
男はちらりと目を動かし、晴彦を、見た。
瞬間、訳の分からない激情が、晴彦を襲った。
全身が、目覚めたように。
視界がぶれる。
あるはずのない血流が、全身を駆け巡る感覚。
鞘を握った左手が、きつく結ばれる。
――許さん。
言葉が、一つだけ、浮かんだ。
何を? 何故?
どうしてそこまで?
自分でも分からない。
そんな思考は、存在しなかった。
それ以外の全ては、ただぐちゃぐちゃで真っ赤な、声にもならない何かで埋まっていた。




