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私は旅をしている。

作者: 森山龍


《「旅先の夜はいつも空気がしんと澄んで、心が冴える」

             ――――よしもとばなな『キッチン』より》




「JR西日本をご利用いただきありがとうございます。次は京都、京都。―――」


 長い旅はもう終わろうとしていた。0時半に八条口から出る新宿行きの夜行バスに乗れば、オンボロアパート六畳一間の生活に戻らなければならない。午後7時、まもなく京都駅。日本にはまだこんなにたくさんの種類の路線があったのかと思い知るほどの鈍行列車を乗り継いで、本州の西の端っこからのろのろと5日もかけてここまでやってきた。元々凝り固まってた腰はとうに悲鳴を上げていて、挙句大阪京都間の新快速とやらはやたら混雑していて座ることなどできず、せっかくの車窓に目をやろうとしても頭と頭の合間からしか拝むことができない。けれど、東京の通勤電車に乗っている時とは全く違う心持なのは、きっとシートも広告も案内音声も何もかもが未知で、どこかずっと高揚しているからだ。


 北国の地方都市で生まれ育った私には、ここまてまの5日間で通り抜けたすべての地名、景色が新鮮でならなかった。平野というものがどれだけ希少なものかを思い知ったし(そして段々畑を作る意味を理解した)、車で信号に引っかかったら前照灯を消すという習慣があるということも本当に初めて知った。私と同い年くらいの女の子がテレビの中のお笑い芸人が話すのと同じ方言をしていたし(語気は強いのにかわいらしかった)、馴染みの親潮が注ぐ濁った太平洋とは違って、瀬戸内海は本当に穏やかで綺麗だった。その全ての体験を記憶したくてたまらなくて、私の脳みそは5日間にわたる新鮮な知見のシャワーでもうぐらぐらと煮えたぎってしまっていた。


 聞きなれないチャイム音と同時にドアが開き、ホームに降り立つ。そう、京都だけは、前にも訪れたことがあった。当時の恋人とだ。とはいっても一度だけ、一泊だけ。おぼろげな既視感だけがまとわりつく分、これまで訪れてきたような初めての土地よりも、少しどこか居心地が悪いような気がした。


 あまりにも疲れていたので、ベンチに腰掛ける。旅の連れのメグミくん(かわいらしい名前だが男性だ)は、一目散にトイレに向かったみたいだ。


 ホームの屋根の隙間から差しこんでくる夜のにおいが、どこか私を安心させた。旅先の夜は、どうしたって静かだから、心が冴えるのだ。


 そう、大学進学を機に上京して1年と半年、その間の私の視界はいつもぼやけていた。よくわからなくなってしまうほどに大きくて艶やかな街と、目の前に現れては消えるたくさんの、ほんとうにたくさんのひとたち。彼ら彼女らは私まで宙に浮いてしまいそうになるような言葉に似た「空気」を私に浴びせてはいなくなっていった。消えたのが私なのか彼らなのかは正直わからない。けれどそんな空気をひっきりなしにずっと浴びていたら、私にはそれぞれみんなの空気の「色」が見えるようになっていた。


 大学という場所は、たくさんの学生たちが、たくさんの色を帯びた空気を震わせている。その色たちは混じりあったり、ぶつかったりして色を刻々と変えてゆく。とっても刺激的で、とってもおもしろい場所だ。ひとりひとりが色を主張したり、補い合ったり、はたまたみんなで一斉に同じ色に染まったりして、卒業までになんとかして生き抜こうとする。最後のモラトリアムで勝ち組になるために、みんなみんな自分の色をポケモンみたいに育てて、戦わせて、しのぎを削っている。そう、実はとても魅力的でサバイバルな世界なのだ。私も、入学したての頃はもうぞくぞくしてたまらなかった。


 でも、疲れてしまった。そして私だけじゃない、実はみんなみんな結構ヘトヘトなのだと思う。多くの人たちは、きれいな澄んだ色にあこがれて、水で薄めたり、違う絵の具に手を出してみたりする。けれど結局自分の思った通りの色なんかにはならなくて、スマホで、SNSで、原色のシュミレーションばかりを繰り返して、必死に存在を証明して何とか生き延びている。


 じゃあ私の色は、なんて聞かれてもまだ自分では見えないのだけれど、大好きな色はもう苦しいくらいにわかる。青い朝焼けだ。川面にもやが立つような、しんとするような静かな色。本当にそうありたいと願って生きている。きっとそれはもう祈りに近いものだ。けれどその色を大切に守り抜くには、私が身を置いているこの東京の街はいささか鮮やかすぎると感じる。東京という大都市の、刺激的でビビッドな色合いは、絶え間なくて残酷な、ひどい争いの中でしか生まれない色なんだろうと思う。それがとても憎くて、けれどそこで戦える人々が実は心底羨ましい。とてもじゃないけれど、そんなビビットな世界において、私の願う静かで消えそうな色なんて、そんな軟派なモノは生き残れないのだ。


 そう。


 だから、だから試しに逃げてみた。私の好きな色を湛えた、かけがえのない人を道連れにして旅に出てみた。


 それは本当に幸せだった。


 行程を一切決めずに本州の端に降り立ち、成り行きで瀬戸内海と山に挟まれたわけのわからないような村の古民家に泊まって、もうたくさんだというほどに星を見上げ、ふと遠くに聞こえる小波に耳を澄ませようとしたら虫に邪魔をされて腹を立てたり、本当に知らない土地なのにやっぱり既視感しかないイオンのフードコートで、知らないチェーンのラーメンを食べて、レシートの裏で10年ぶりに本気の絵しりとりをしたり、知らない交通系ICカードのキャラクターの美醜についてふたりで考え込んでしまったり。


 もう本当に描き切れないほどのささやかな非日常を、静かな色の空気のなかで過ごした。私は知らなかった。旅人というものは、静かな、弱い色のままでも許されるのだ。それに気づいて、泣きそうなほどに嬉しかった。


 人がたくさんいるようなところに根を張って、ちゃんと生きていこうとしたら、強くて、しっかりした色を持っていないと、まともな葉を付け花を咲かせることはできない。けれど、吹けば飛ぶような旅人には、そんな色味が邪魔ですらあるのかもしれない。それは、とてもとても安心する事実だ。もう怖くなんてない。もし困ったら、どこかへ行ってしまえばいいのだから。


 けたたましい汽笛が鳴りだした。電車は一体何本通り過ぎたのだろう。


 大きな時計を見やると、ものの数分しか経っていなかった。


 遠くに、手をブンブンと振って乾かそうとするメグミくんの影が見えた。彼、ハンカチをもうこの旅行で2回も買っているのにまた失くしたのだろう。


 帰りの夜行バスの時間までは例のごとく別行動だ。基本はお互いの感性で赴くままに、けれどごはんと宿だけは一緒に、という彼の提案した今回の旅の方針は本当にわたしたちに合っていたと思う。散歩はひとりが一番楽しいし、ごはんはふたりが一番おいしい。そういうところが本当に似た色をしているなあ、と感じさせる。


 そして、あと5時間で東京に帰らなければならないという事実が、私の心をますます静かに、そして冴えわたらせてゆく。


「ーーー」


 また、汽笛が鳴った。

 そうだ、駅を出たら、鴨川沿いをひたすらに北上してみよう。


 私は旅をしている。

 ただ、ひたすらに、澄んだ心を慈しんで。

 かけがえのないひとときをあたためて。


 私は旅をしている。

 旅情の儚さをかきいだいて。


 私は旅をしている。

 静かな色を、湛えながら。

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