53日目:擬似草原と古竜
“幻想”という言葉ほど信用ならぬものもないが、それでも、転送直後のこの草原には一瞬だけ、心を緩ませる力があった。
果てしなく広がる緑。
そよぐ風と揺れる草花。
太陽がきちんと存在しているように感じられる光源と適度な湿度。
しかし、そうした居心地の良さは、たいてい罠である。
そして案の定、現れたのは──竜。
いや、竜種などという生易しい呼び名では片付けられない。
花の魔女の口から「古竜種」と聞いた瞬間、わたしは即座に剣に手をかけていた。
それは、ただ強いというだけでなく、時代を生き延びたもの特有の、“理”そのもののような気配を纏っていたからだ。
「見るのは初めてだ」と口に出した瞬間、古竜は咆哮し、その一声で草原は業火に包まれた。
目の前で燃え広がる草原を見ながら、わたしは思う。
──これは、閃きでどうにかなる類ではない。
この層で試されるのは、直感ではなく実力だ。
脊髄反射ではなく、身体と経験に刻み込まれた技と覚悟。
花の魔女はすぐに後方に下がり、結界と補助魔法に集中する。
兵士の男と獣人の男は、古竜の注意を引くべく、文字通り命を削るような動きを見せた。
わたしの役目はというと足元にあった。
人間の弱点が腱であるならば、巨大生物とて例外ではない。
脚の付け根、体重を支える最も強くそして意外と脆い部分。
わたしはそこを目がけ、刃を何度も何度も振るった。
古竜の鱗は硬い。血の匂いもほとんどしない。
だが、手応えはあった。
まるで木こりが大木に斧を入れるような、そんな実直な作業。
刃が腱を断ったその瞬間、巨大な身体がよろめき、崩れ落ちる。
土煙の中、わたしは飛び退き、
すれ違うように少年が竜の身体を駆け上がった。
「額よ!」と魔女が叫ぶ。
少年はその言葉に、小さく頷いただけで応えた。
彼の背中には、恐れよりも使命感のようなものが宿っていた。
そして次の瞬間、青白い剣が竜の額に突き立てられる。
竜は咆哮し、身をよじり、抵抗する。
だが少年は離れない。振り落とされることもなく、ただしがみついていた。
わたしはその様子を黙って見ていた。
誰も助けには入らなかった。
助けるという言葉が失礼になるような気がしたのだ。
あれは、少年自身が戦うべきものだった。
そして、ついに竜は動かなくなった。
その身を灰のように崩しながら、静かに、完全に、死を迎えた。
我々の勝利だ。
だがその実感を噛みしめる間もなく、光が我々を包む。
戻ってきたのは、あのキャンプ地点。
変わらない光景に、わずかな安心と静かな疲労。
食料の備蓄に問題はない。
魔力の回復も、まだ余裕がある。
けれど精神の余白は、日に日に削られている。
この塔の最上階に、女神がいるのだという。
しかし、仮にいたとして──あれ以上の敵と、あと何度戦えば辿り着けるのか。
今日はここまでを記録として残す。
願わくば、誰かがこの記録を手にしたとき、
我々が歩んだ道が、ただの“消耗”ではなかったと証明されていることを願う。




